渋谷の女(ひと)
あの人とは確かに居酒屋で共に酒を飲んだ。
どんな関係だったか思い出せない。
その程度だから深い関係があった筈もない。
しかし思い出す度に甘酸っぱい心地がする。
決して不快な記憶ではないが、振られたのではないか?
口説いたとも思えないのに振られたような記憶がある。
タイプだなと思った訳でも無さそうだった。私は彼女の身体から醸し出される女体の色香に少しばかり血迷ったと思う。
私は妻帯者となって10年ばかり過ぎた頃で、彼女は職場に中途採用で入社した女だった。
美人の範疇から僅かに外れた三十路の女だった。
中肉中背の容姿は決して特別に目立ってはいなかった。
しかし女性特有の、肩から腹部へのラインから一機に豊満となる臀部の拡がりが如何にも妊娠を期待させ、男への誘惑を誇示していた。
雄は種を残す本能からその臀部に引き寄せられるのだろう。
彼女が入社して三ヶ月過ぎた頃で、なんとなく気にはなっていた。お尻のラインに色香を感じる中年男のいやらしさがそうさせたのだろう。
退社時刻がもうすぐの午後4時ごろコピー機の前で蜂合わせした。
お互いに「どうぞお先に」と譲り合った。デスクが別の島なので日頃言葉を交わすことは無く、朝夕の挨拶を交わす程度だが目をしっかりと見つめる彼女の凛とした態度に好感を感じていた。
だから譲った言葉に続いて「今夜ご予定がなければ軽く食事でも如何ですか?」
柄にも無く誘ってしまった。
無意識に言ったのか、同僚の男性社員に言うように自然な雰囲気なので嫌味が無かったのかも知れない。
だから彼女は男の多くが持つ下心を感じずに気軽に返事したのだろう。
「あら、そう、奢って頂けるの?勿論ご一緒しますわ。」
はっきり言って、私は後悔した。自分の意思で言った筈だが、それまで彼女を口説こうと思ったことなど微塵も無かったのだ。
自分でも気付かなかった性の欲望が言わせたのか、戸惑った。
それ程までに彼女の"身体"は"清楚"な色香を発散させていた。
約束はあまりにあっさりと決まり、私はその場で小さく咳払いをした。
平静を装ったが、胸の奥では妙なざわめきが起こっていた。退社後、駅前の雑踏へと並んで歩く。
晩秋の渋谷は、黄昏とネオンとが入り混じり、どこか現実感の薄い光を放っていた。
彼女は仕事中と変わらぬ落ち着いた様子で、時折、柔らかな笑みを浮かべながら世間話をした。
中途採用で入ったばかりの職場の印象や、前職での苦労話。特別に踏み込んだ話題はなかった。
私は適度に相槌を打ち、酒の力を借りながら距離を測っていた。
居酒屋は雑居ビルの二階、暖簾をくぐると焼き物の匂いが鼻をくすぐる。
向かい合って座った彼女は、グラス越しにこちらを見た。あの目だ。朝夕の挨拶で交わす、あのまっすぐな視線。逃げ場を与えぬようでいて、決して責めない瞳。 酒が進むにつれ、私は己の内側に潜む浅ましさを自覚し始めた。話題は仕事、家族、休日の過ごし方へと移り、彼女は淡々と語った。
独身であること、都内で一人暮らしをしていること。恋人の有無は聞かなかった。
聞くべきでないと、どこかで分かっていた。
「奥様は、どんな方ですか?」 唐突な問いに、私は言葉を詰まらせた。
彼女は悪戯に聞いたのではない。ただ純粋な興味のように見えた。
私は無難な答えを返した。穏やかな人だ、と。
家庭は平穏だ、と。十年という歳月が醸す、ぬるま湯のような安定を。
彼女は小さく頷き、箸を置いた。
「それなら安心ですね。」
その一言が、妙に胸に刺さった。
何が安心なのか。私が家庭を壊さないことか。
それとも、彼女自身が踏み込む必要のない位置にいることか。 店を出る頃には夜風が冷たく、酔いも幾分か醒めていた。駅前の人波の中、彼女はふと立ち止まり、私に向き直った。
「今日は楽しかったです。でも、こういうのは今日だけにしましょう。」 穏やかな口調だった。拒絶というより、線引きだった。私は咄嗟に何も言えなかった。口説いた覚えもないのに、振られたような気がしたのは、その瞬間の記憶が曖昧だからだろう。
彼女は軽く会釈し、改札へと消えた。
追いかける理由も、資格も、私にはなかった。 それから彼女とは、以前と同じ距離で職場に立った。目を見て挨拶を交わし、それ以上は何もない。
やがて彼女は別の部署へ異動し、ほどなくして退職したと聞いた。 今も時折、渋谷の夕暮れに立つと、あの晩の光と匂いを思い出す。甘酸っぱいのは、恋情ではない。己の浅さを知った記憶の味だ。 あの女は、私に何も求めなかった。ただ一夜、境界線を示しただけだ。 そして私は、その線を越えなかったという事実だけを、ひそかな誇りのように胸に残している。
終わり
と思ったあなた、それではつまらないでしょう。この後が本当の本番でございます。
パターン1
月日は残酷なほど正確に、そして無情に過ぎ去る。
あの一夜からさらに二十数年。私は会社を定年で退き、妻とも穏やかながらどこか他人行儀な老後を過ごしていた。渋谷の街は再開発を繰り返し、あの雑居ビルの居酒屋がどこにあったのかさえ、今では定かではない。
そんなある日、私は思いがけない場所で「彼女」の名を目にすることになった。
新聞の片隅に載った、小さな訃報欄ではない。ある新進気鋭の女性画家の回顧展を特集した美術雑誌の、その謝辞の欄だった。
『ーー最後に、私をここまで導いてくれた母(奥富)に深い感謝を捧げます』 その珍しい苗字と、添えられた写真の面影に、私は心臓が跳ね上がるのを感じた。写真の中の女性は、確かにあの時コピー機の前にいた彼女の、二十年後の姿だった。凛とした瞳、そして……記憶の底にこびりついている、あの豊かな身体のラインを、さらに気高くしたような佇まい。
私は何かに突き動かされるように、その画廊へと足を運んだ。
展示されている絵画は、どれも「光と影の境界」をテーマにしたものだった。その中に一枚、異彩を放つ作品があった。
夕暮れの、おそらくは渋谷であろう雑踏の中で、一人の男の後ろ姿が描かれている。男の背中は情けなく、それでいてどこか救われたような、妙な安堵感に満ちていた。
「その絵のモデル、誰だかご存知なんですか?」 背後から声をかけられた。振り返ると、そこにはあの時の彼女を若くしたような、利発そうな娘が立っていた。「いいえ、ただ……見覚えがあるような気がしまして」
私は嘘をついた。娘は、母から聞いたという「ある夜の話」を語り始めた。
「母は昔、一度だけ、自分を救ってくれた男性がいたと言っていました。中途採用で入った会社で、孤独だった自分を食事に誘ってくれた人。母はその時、人生で一番苦しい決断をしようとしていたそうです。誰にも言えない秘密を抱えて、街を彷徨っていた……」
彼女の秘密。あの「豊満な臀部」が、ただの肉体的な色香ではなかったことを、私はその時初めて知った。彼女はあの時、新しい命をその身に宿していたのだ。前職でのトラブルか、あるいは別の誰かとの道ならぬ恋の結果か。彼女は一人でその命を背負い、戦う覚悟を決めるための「最後の穏やかな時間」を求めていた。
『奥様は、どんな方ですか?』『それなら安心ですね』
あの問いは、嫉妬でも線引きでもなかった。 彼女は、目の前にいる「まっとうな家庭を持つ男」の姿を通して、自分がこれから失うかもしれない「平凡な幸福」を確認し、そして、その男が自分を無理に口説き落とそうとしない「誠実さ」に触れることで、人間への信頼を繋ぎ止めたのだ。
「母は言っていました。その人は、最後まで私を汚さなかった。線を越えずに、一人の女として、ただ静かに酒を飲んでくれた。その優しさがあったから、私はこの子を産んで育てる勇気を持てたんだって」
私は言葉を失い、ただキャンバスに描かれた自分の、情けなくも誇らしげな背中を見つめていた。
甘酸っぱい記憶の正体は、振られた痛みなどではなかった。
私が無意識に差し出した、未熟で、浅ましく、しかし確かに存在した「善意」が、一人の女性の人生を根底で支えていたという、あまりに重すぎる答え合わせだった。
画廊を出ると、渋谷の街にはあの夜と同じ、少し冷たい風が吹いていた。
私はポケットの中で震える手を握りしめ、かつて彼女が消えていった改札の方を仰ぎ見た。
私は英雄でも何でもない。ただの、尻のラインに目がない中年男だった。
けれど、あの夜、あの境界線を越えなかった自分を、これまでの人生で一度だけ、優柔不断な性格を呪った。私は画廊の外で娘を待ち伏せした。娘は私を見て目を見開いた。
(完)パターン2著者はこっちが好き(笑)ーー業の章ーー
「今日だけにしましょう」
彼女の唇から漏れたその言葉は、拒絶の皮を被った、あまりに鋭利な誘惑だった。
駅の改札へと向かう彼女の、あの豊満な臀部が夜の闇に揺れる。それを見送るはずの私の足は、脳の指令を無視して動き出していた。
気がつけば、私は彼女の細い手首を掴んでいた。
「……送らせてくれ。駅までじゃない、家までだ」
柄にもない強引な口調。自分の中に、獣のような「雄」が目覚めるのを感じた。彼女は驚いたように目を見開いたが、すぐにその瞳に湿った熱が宿る。
「……奥様が、待っていらっしゃるんじゃなくて?」
「今は、君のことしか考えられない」
その夜、私たちは渋谷の喧騒を逃れ、名前も知らないビジネスホテルの、ひんやりとしたシーツの上にいた。
清楚だと思っていた彼女の身体は、服を脱ぎ捨てると、驚くほど生々しく、獣のような体温を放っていた。あの肩から腰、そして溢れんばかりの臀部へのライン。それは期待通り、いや、期待を遥かに超える重みで私の理性を圧殺した。
10年の歳月で築き上げた「平穏な家庭」や「誠実な夫」という仮面が、汗と共に流れ落ちていく。
彼女の肌に顔を埋めると、そこには化粧品の匂いではない、女という生き物が発する根源的な「色香」が充満していた。私はその香りに溺れ、自分が「種を残す本能」に従うだけの、ただの雄に成り下がったことを自覚した。それは、絶望するほどに心地よい堕落だった。
夜が明ける頃、窓から差し込む無機質な光が、散乱した衣服と私たちの「罪」を照らし出した。
彼女は鏡の前で静かに髪を整え、昨日の「清楚な中途採用の女」へと戻っていく。
「……これで、満足されました?」
振り返った彼女の顔には、もはや昨日までの凛とした態度はなかった。そこにあるのは、秘密を共有した共犯者の、冷ややかな、しかし共依存を確信した笑みだった。
結局、私は「線を越えなかった誇り」などという綺麗な思い出を手にすることはできなかった。
あの日以来、私の生活は二重底になった。
妻と囲む食卓の裏側で、常に彼女の肉体の感触と、あの生々しい匂いが脳裏を離れない。職場で交わす「おはようございます」という挨拶の裏に、昨夜の情事の湿り気を隠し持つ。
これを「不倫」という一言で片付けるには、あまりに重すぎる。
これは、英雄(勇)になれなかった男が、己の「業」に屈し、泥沼の中でしか見つけられなかった「生の証明」なのだ。
私は今日も、渋谷の夕暮れに立つ。
甘酸っぱい記憶などではない。
今も指先に残る、あの肉体の重みと、破滅へ向かう足音を噛み締めながら。
(完)
パターン3ーー特異点の章ーー
「今日だけにしましょう」
その言葉は、私の脳内にある高度な論理回路を一瞬でショートさせた。
東工大のラボで培った冷静な観察眼も、因果関係を解き明かす数学的思考も、彼女の放つ「色香」という名の未知の変数に、無残にも敗北したのだ。
改札へ向かう彼女の背中を、私は無言で追った。
10年間、妻との生活で積み上げてきた「平穏」という名の安定平衡状態。それが今、この瞬間に崩壊し、不可逆な変化へと向かっている。それを自覚しながら、私の足は止まらなかった。
「浅田さん……?」
手首を掴んだ私の手は、自分でも驚くほど熱かった。
「……計算が合わないんだ」
私は掠れた声で言った。
「君をここで帰して、明日も同じ顔をして挨拶をする。そんな数式は、私の人生には存在しない。……頼む、今夜は解を求めさせてくれ」
渋谷の雑居ビルの狭い一室。
蛍光灯の明かりの下、彼女が服を脱ぎ捨てた瞬間、私は言葉を失った。
中肉中背だと思っていたその身体は、衣服という拘束から解き放たれると、暴力的なまでの質量を持ってそこにいた。特に、あの臀部。それは工学的に完璧な曲線を描き、男という種の根源的な欲望を増幅させる「共振装置」のように私の視神経を焼いた。
触れた肌は、実験データの数値などでは到底測れない、生々しい拍動を伝えてくる。
理系エリートとして生きてきた私の矜持は、彼女の肉体の重みに押しつぶされた。
私は、彼女の首筋に顔を埋め、酸素を求めるようにその匂いを吸い込んだ。それは理性の外側にある、粘り気のある、そして抗いようのない「生」の芳香だった。
一線を越える。
それは座標軸が入れ替わるような衝撃だった。彼女の身体と一つになる過程で、私は自分が「博士号を持つ研究者」であることも、「誠実な夫」であることも忘れ、ただひたすらに彼女という「肉体の真理」を解明しようと貪り続けた。
事果てて、夜のしじまの中で、彼女は濡れた髪をかき上げた。
「……博士様も、ただの男だったんですね」
その言葉には、嘲笑と、そして一度踏み込んだら最後、二度と元の世界へは戻れないという宣告が含まれていた。 翌朝、東工大のキャンパスを歩く私の足取りは、昨日までとは決定的に違っていた。 白衣を纏い、精密なデータを分析しながらも、私の指先は常に彼女の臀部の弾力を記憶している。
妻と向き合う夕食時、私は完璧な論理で「残業」の言い訳を構築する。しかし、その背筋を冷たい汗が伝う。
私は「英雄」になどなれなかった。 ただ、一度見つけてしまった「快楽という名のバグ」に魅入られ、日常というシステムを静かに崩壊させていく一人の壊れた観測者に過ぎない。
渋谷の雑踏を見るたびに、私は思う。あの日、計算を間違えなければ。いや、私は間違えたのではない。 一生をかけて解くべき、泥沼のような「愛欲」という難問を、自ら選んでしまったのだ。
(完)




