お陰様で、貴方に愛されずとも幸せですが?
「エルヴィーラ! お前との婚約を破棄する!!」
疑念に満ちた視線が多く飛び交う中、婚約者リュディガーは私にそう言った。
彼の腕には私ではない別の女性――男爵令嬢ヴァネサがいる。
「お前はその卑しい性格から嫉妬に狂い、ヴァネサを自殺にまで追い込んだ!!」
「ッ、違――」
「お前のせいで、彼女は死ぬところだったんだぞ!!」
私の声は届かない。
彼は涙ぐむヴァネサの肩を抱き寄せ、周囲の冷たい視線が私を突きさす。
違う、違うの。
そんな声は恐怖で掠れて上手く出せない。
反対に、リュディガーは声を張り上げて私を罵った。
顔を上げることが出来なかった。
周囲がどんな顔で私を見ているのか、容易に分かったから。
怖かった。
この先、信じてくれる者が誰一人いない社会で生きていかなければならない運命が。
恐怖と、胸の痛みのせいで、私の呼吸はだんだんと浅くなっていく。
気が付けば、呼吸すらままならなくなっていて。
お腹の鋭い痛みを抱えたまま、私はその場に膝をついた。
「被害者面か? そんな事をしても、誰もお前の事なんて――」
リュディガーは私が自分の気を引こうとしているとしか思っていないらしかった。
けれど、そんな彼の言葉を否定する余力もなく。
私の意識は遠ざかって行き……
がくり、と床へ倒れ掛かけたその時だった。
私は腕を掴まれ、かと思えば抱き留められた。
朦朧とする意識の中、私の視界に入ったのは良く知った顔。
やや長い前髪の下、赤い瞳を細めた彼は何も言わずに私を抱き上げた。
私は彼にされるがまま――意識を手放したのだった。
***
それからずっと、あの日の夢を見る。
私を罵倒するリュディガー。
彼の後ろで嘲るヴァネサ。
そして周囲で私の悪評を囁き合う大勢の人々……。
「ああやっぱり、エルヴィーラ様は駄目ね」
「いくら侯爵家の娘とはいえ、あんな悪女では」
「彼女こそ、社交界からいなくなるべきなのに」
一人ひとりの声がやけに鮮明に聞こえる。
「……やめて」
耳を塞いでも、一向に止まない罵倒、嘲笑、非難。
「お前が、死ねばいいんだ」
一際大きな声が聞こえて――
「――ッ!!」
私は瞼をこじ開ける。
見慣れた天井が視界に広がった。
額を冷やす汗に、乱れた息。
繰り返し見る悪夢のせいで、寝た心地は全くしなかった。
私は気持ちを落ち着かせようと呼吸を整える。
その時、視界の端で大きな影が揺れた。
不思議に思って視線を移す。
するとそこには、黒髪の青年がいた。
全てが崩れ去ったあの日。
倒れた私を家まで送った彼。
名をラースという。
公爵家の嫡男で、私の幼馴染でもある。
「……どうして、いるの」
「…………さぁ」
掠れた声で問えば、小さく短い呟きが返される。
彼は昔から口数が少なく、ぶっきらぼうだった。
私と彼は所謂腐れ縁。
公爵家と深い繋がりを持とうとした父の企みもあって、無理矢理引き合わされただけの関係だった。
定期的に、興味のない相手と会わせられるラースからすればいい迷惑だっただろう。
彼が話そうとはしないので、私も話さない。
沈黙が当たり前の関係だった。
ラースは近くにあった布を私へ差し出す。
使えという事だろう。私はそれを受け取った。
いくら幼馴染とはいえ、淑女の寝室に勝手に入るなど、本来ならば許された事ではない。
にも拘らず、こんな状況が成立しているのは……家族が私に興味を持っていないからだろう。
公爵家という高貴な立場の彼の来訪。
それを父は喜んで受け入れ、彼が私の元へ向かいたいと言えば私の了承もなく許可を出した……どうせそんなところだと思った。
父と母は政略的な結婚をし、その仲はお世辞にも良いとは言えなかった。
だからこそ父は、母が流行り病で亡くなると同時に新しい女性とその連れ子を家族として招き入れ……私は嫌悪の対象であった女の娘として冷遇された。
幼い頃から、愛情なんてものは殆ど受けなかった。
だからこそ、勝手に決められた婚約者リュディガーが婚約当初に見せた優しさに依存した。
最初は彼も、私を婚約者として大切に接してくれていたのだ。
けれどそれは、私が家で冷遇されている環境を知って一変する。
侯爵家の嫌われ者である私。
そして私の事を悪く言う義母と義妹。一切かかわろうとしない父。
そんな状況を目の当たりにしたリュディガーは、その状況を生み出しているのは私であり、それ程までにどうしようもない女であるのだと結論付けた。
それからの彼は冷たく、いつも私を見下し、罵倒するようになった。
それでも私は必死に彼の気を引こうとした。
私を気に掛けてくれたのは彼だけだったから。
彼の優しさを失えば私はまた独りになってしまうと思ったから。
けれどそう思い、必死になればなるほど、彼の心は遠ざかって行った。
リュディガーとヴァネサの浮気の話を知った。
私はリュディガーに色目を使い、アプローチを続ける彼女を窘めた。
本当は怒りに任せて非難したかったけれど、そうはしなかった。
出来るだけ冷静に見えるよう装って、淡々と事実を述べた。
けれど何度言っても彼女はやめることをせず……。
そして気が付けばいつの間にか、事ある毎にヴァネサをいびろうとする女であると、私の噂が流れてしまっていた。
悪評はどんどん誇張され、取り返しがつかなくなった頃には……私はヴァネサを死に追いやろうとした悪女となっていた。
リュディガーからは婚約を破棄され、父は怒りのままに私を打ち、義母と義妹はそれを笑い、社交界の貴族達は私に冷たい視線を浴びせた。
私は完全に、社会から孤立したのだ。
「私、寝間着なのだけれど」
暗に出て行ってくれ、と私はラースへ言う。
けれど彼はベッドの脇に座ったまま動こうとしない。
「……ねぇ」
涼しい顔で居座る彼を私は睨む。
「誰も気にしないわよ。私を見限ったって」
あの日。倒れた私を助けてしまった上に、一応幼馴染という立場もある。
心配しているふりくらいはしておいた方が体裁が保てるとでも思っているのだろう。
そう思って私が声を掛けるも、ラースは相変わらずの無表情でその場に留まっている。
何故か頑なに出て行こうとしない彼の考えが理解できず、私は長々と溜息を吐いた。
何も話さない癖に間近からじっと見つめられても、居心地が悪いだけだ。
気まずさを覚えた私は彼に背を向け、布団を頭まで被って無視をする事にした。
けれどそれも一時間が限界だった。
私は観念して体を起こす。
「出ていって」
相変わらず動こうとしない彼へ、もう一声。
「着替えるから」
すると、これまでびくともしなかった癖に、彼は素直に退室した。
「……何なの」
初めからこうして追い出しておけばよかった。
そう思いながら私は着替えを済ませると、部屋の中で数時間を過ごした。
それから、少しだけ外の空気を吸おうと思って廊下に出る。
……そこで私はギョッとした。
扉の隣で壁に凭れ掛かるラースがいたのだ。
「…………何してるの」
「着替えると言っていただろう」
「着替えに三時間も掛かる訳ないでしょ」
「そうだな」
「帰りなさいよ」
またもや無言。
もうすっかり、彼のペースだと私は肩を落とす。
私は部屋を飛び出し、さっさと早足でその場を離れる。
……もしやとは思っていたのだが。
私が移動を始めるや否や、キースは私の真横を平然とした顔で歩き始める。
こちらは懸命に早足になっているというのに、足の長い彼は涼しい顔をしている。それも腹立たしい。
(ッ、何なのよ……!)
意味不明に付き纏って来る幼馴染の行いに、私は頭を抱えるのだった。
それから。
彼はまるで金魚のフンのように私に付き纏った。
魔法学園でも、夜会でも。
私が一人でいると必ず涼しい顔で近づいてくるのだ。
その癖、何か用がある訳でもない。
ただ……彼の様子には困惑させられっぱなしだが、ありがたい事も確かにあった。
婚約破棄以降、私へ直接的な嫌がらせを行う者が明らかに減ったのだ。
理由は明らかだ。
公爵家嫡男のラースの存在。
傍から見ればラースが私に肩入れしているように見えるのだろう。
そんな中、私が受けた嫌がらせや悪口の数々を彼に話せば……どんな制裁が待っているかも、分かったものではない。
そんな事実があったからこそ、もしかしたら本当に気に掛けてくれているのかもしれない……という考えが過る。
けれど私はその考えをすぐに追い払った。
人の優しさ程儚く、恐ろしいものはない。
その事を私はリュディガーの一件から理解していた。
だから、ラースに期待したくはない。
きっと彼の気まぐれだろう。どうせすぐに飽きて……もしくは悪評を鵜呑みにして、離れていくに決まっている。
私はそう思い直す事にした。
もう二度と傷付きたくはなかったのだ。
***
けれど。
それは半年過ぎても変わらなかった。
気が付けば傍には必ずラースがいる。
彼は相変わらず、殆ど話そうとはしなかった。
ただ、涼しい顔で私の傍にいるだけ。
初めはこんな居心地が悪い事なんてないと思っていた。
けれど……少しずつ、彼との時間が苦ではなくなっていた。
そして彼と過ごす時間が増えるにつれて、日々抱えていた不安や恐怖は少しずつ和らいでいき、毎日のように見ていた悪夢の数も減っていった。
(そういえば……昔もそうだった気がする)
昔も、私達は殆ど言葉を交わさなかった。
けれど不思議と、二人でいる時間が苦ではなかった。
寧ろ……私は居心地がよかったのだ。
ある日。
気晴らしに街へ出ていた帰りの事(尚ラースは当然のように私の隣にいる)。
何となく家に足が向かず、私は人気のない丘まで歩みを進めていた。
街の喧騒が遠のき、風の音がやけに大きく聞こえる。
少し冷たい空気に身を委ねながら、私は街並みを眺める。
「どうして、私に付き纏うの」
返されるのは沈黙。
彼は返事をするつもりはないのだろうと、私は割り切った。
しかし、数分程静寂がその場を満たした後。
「……君は、信じていないだろう」
ラースは口を開く。
驚いて振り返れば、鮮やかな赤い双眸が私を真っ直ぐと見ていた。
「貴方をって話?」
「それもある。だが……何よりも、自分を」
彼の言葉の意味がよくわからず、私は首を傾げる。
「君は、自分が愛される自信がない」
続いた言葉は、まるで頭を鈍器で殴られたかのような衝撃があった。
自覚はない。けれどきっと図星だったのだろう。
「君がリュディガーに固執し、愛を求めたのは、愛されているというわかりやすい証拠が欲しかったからだ。君の場合、家の環境の問題も、きっとあった」
心臓の音がやけに煩かった。
変な汗が滲む。
「仮にリュディガーが君に愛していると言っても、君はきっとそれを信じる事は出来なかった」
何故だか責められている様な気がした。
今、愛されていないのは、他でもない自分が、愛を感じる事を無意識的に拒絶し続けたせいなのだ……と。
けれど……
「だから――俺は、態度で示した」
ラースはそう言うと、私の頭に手を伸ばした。
そして、優しく、私を撫でる。
「言葉で示せば君は距離を置くだろう。ならば……言葉が信用できないのなら、それ以外で示せばいい。納得せざるを得ない結果を出せばいいだけだ」
彼の声が緊張をほぐしていく。
彼の声は、こんなにも優しい色だっただろうか。
……滅多に話さないから、忘れていた。
「ただの腐れ縁や体裁を理由に、俺はしつこく付き纏ったりはしない。拒絶されても押し切るのは君相手くらいだろう。……ましてや、それを半年、毎日続けるなんて」
彼の手に触れている内、視界が滲んでいく。
「……どう、して?」
「愛しているからだ」
「う、うそ」
「そう言うと思ったから、言わなかっただけだ。だが、いい加減信じてくれ」
ラースは困ったような笑みを浮かべる。
呆れつつも、優しさに満ちた微笑みだった。
彼は私の手を取る。
「君がどれだけ悪評を流されようとも、俺はそれに振り回されなかった。君の傍に居続ける事を選んだ。……これが事実だ」
彼の主張はわかる。
けれど、何故という疑問が拭えない。
だって婚約が決まってからそれが白紙に戻るまで、私達は殆ど接点がなかった。
そして婚約破棄の後の私に、惹かれる要素があったとは思えない。
そんな私の考えを察したのだろう。
「……幼少の頃。厳しい教育に耐えられず、大人達の批判と重圧に押し潰されそうになった事があった。誰にも悟られまいと隠れて泣いていた俺を見つけてくれたのは、君だった」
確かに、そんな事があった。
後にも先にも、彼の涙を見たのはそれだけだったから、よく覚えている。
「その時、君は……何も言わず、ずっと傍に居てくれた」
そう。励ましの言葉を使ったりはしなかった。
ただ、いつも通り彼の傍に居ただけ。
涙を見せまいと隠れていたのは、強く在りたいという虚勢から来るものだとわかっていた。
強がらなければ心が折れてしまうような事があるという事を、私自身が良く知っていたから。
だから私は、彼のその心を認めた。
彼の弱さを受け入れようとするのではなく、指摘するのではなく、何でもない風に流したのだ。
「君の傍はずっと居心地がよかった。けど……自分の気持ちを自覚したのは、あの頃からだ。その後、すぐに君の婚約が決まったから、言えず終いだったが」
彼の柔らかな口調や、私に触れる手の優しさが、その言葉に偽りはないと訴える。
私の瞳から、雫が零れ落ちた。
「俺は君の優しさも、不器用な所も、愛おしいと思っている。……いい加減自分を疑うのはよせ。エルヴィーラ」
ラースが私を抱き寄せる。
その頃には、私の口からは子供の様な嗚咽が溢れ出していた。
「それでも君が信じられないというのならば、俺がこれからも証明しよう」
愛している、と彼は続けた。
その言葉を疑うことは……もう、出来なかった。
***
それから半年が経った頃。
すっかり周囲の視線が気にならなくなった私は、ラースと共に夜会に出席する事が多くなった。
そんな折。
ヴァネサは親しかった友人との関係を破綻させた。
何でも、リュディガーと新しく婚約を交わしたというのに、友人の婚約者へ乗り換えようとしたとか。
そしてその友人が流した、ヴァネサの裏の顔という真実が噂となって流れ出す。
露見した真実の殆どがヴァネサの気に入らない女子生徒を陥れるような計画に絡んだものばかりで、特に私の悪評を広めた際の詳細な話が話題を生んだ。
結果として、私の罪は知らない内に晴れていて……ある時を境に、大勢の貴族が私へ謝罪をしに来るようになった。
そして、その大勢の中にはリュディガーの姿もあり……。
「ッ、え、エルヴィーラ……ッ、俺が間違っていた……! 本当に恐ろしかったのは、ヴァネサの方だった!」
とある夜会の中で、彼はそんな事を言い出した。
「なぁ、頼む。どうか俺ともう一度――」
目つきを鋭くさせ、嫉妬心を剥き出そうとするラースを私は制してから、膝をつくリュディガーを私は見下ろす。
「許しません」
「ッな――」
「許しませんよ?」
私とラースの婚約は周知の事実。
次期公爵に気に入られた私を敵に回すという事は……今後、彼の周りから味方が消える事を意味する。
公爵家に睨まれたくないのは皆同じ。
つまり、私のこの一言で――彼の今後の未来は定まってしまったのだ。
一年後。彼は廃嫡され、領地の辺境へ追いやられ、二度と姿を見せる事はなかった。
ヴァネサはもっと酷かった。
恐らくは公爵家へのご機嫌取りか、味方であることを主張したがった一部の貴族達の圧力によって家ごと潰されてしまったのだ。
こうして、私を苦しめた元凶は社交界を去った。
尚、ラースは私との婚約が成立するや否や、我が家にも大きな圧力をかけ、次期公爵夫人を冷遇するならば相応の制裁を与えるというとんでもない脅し文句をぶつけた。
このお陰ですっかり家族達は縮こまってしまい、今や顔を合わせる度に胡麻を擦られる始末。
これまでの仕打ちと正反対の態度に戸惑い、それはそれで逆に少し生活がしづらいのだが……とはいえ、以前よりはずっと良い生活が送れるようになった。
***
周囲から降る非難の声。罵倒。
それを受けた私は座り込み、涙を流している。
……そんな半年前の私の姿を、私は少し離れた場所から見ていた。
ああ、夢か。
すぐに理解する。
これまでとは少し違う視点から見る、あの悪夢。
けれどもう、胸は苦しくなかった。
私は真っ直ぐ突き進む。
そして半年前の自分を優しく抱きしめた。
「……大丈夫。大丈夫よ、エルヴィーラ」
一人で泣きじゃくる自分の頭を撫でる。
……彼が、そうしてくれたように。
「今は悲しくて苦しいかもしれないけれど。すぐに気付くことが出来るわ。自分も、愛してもらえる人間だという事に」
独りを怖がる癖に、愛というものを疑った弱くて愚かな私。
寂しくても、それを打ち明けられなかった不器用な私。
「いつかきっと、生きててよかったって思える日が来るわ。他の誰でもない、私が保証してあげる。だから――」
且つての汚点とも言えるかもしれない過去の私。
けれど今の私にとって彼女は――とても愛おしい存在のように思えた。
「――大丈夫よ、エルヴィーラ」
***
意識が浮上する。
ガタゴトと揺れる馬車の中、私は隣に座るラースの肩にもたれて眠っていた。
「……気分は?」
且つて見ていた悪夢の事を気にしてか、彼が声を掛ける。
私は寝ぼけ眼で彼を見つめてから、改めてその体に寄り掛かった。
「平気よ」
甘えるように頭を摺り寄せれば、それに応えるように優しく撫でられる。
幸せだった。
優しく、温かい感情が胸を満たしていく。
「今は……貴方がいてくれるから」
私を愛してくれる人がいると、漸く信じられるようになったから。
馬車の音だけが響き渡る中、私達は静かに見つめ合い……それから甘い口づけを交わすのだった。
最後までお読みいただきありがとうございました!
もし楽しんでいただけた場合には是非とも
リアクション、ブックマーク、評価、などなど頂けますと、大変励みになります!
また他にもたくさん短編をアップしているので、気に入って頂けた方は是非マイページまでお越しください!
それでは、ご縁がありましたらまたどこかで!




