第4話 ルチアーニ侯爵 後編
「ソフィア。もしもよければ、今夜眠るときに手を握っていてほしいの」
ある日、カテリーナ様が遠慮がちに言った。
私が侯爵家に滞在する時間は、日を追うごとに長くなっている。夜の用事を言いつけられるたび、私が必ず応じていたからだ。
元々給金は十分すぎるほどいただいている。
少しでも金額に見合う働きをしなければ。そう思い続けていたのもあったのだけれど。
(カテリーナ様は本当にかわいらしいご令嬢だわ)
素直に甘えてもらえることが嬉しい。お願い事をされるたび、つい頼みをききたくなってしまう。
「はい。もちろんです」
私が頷くと、カテリーナ様はほっとした表情をしたあと、輝くような笑みを向けてくれた。
請われるままに長居し、カテリーナ様が寝入られるまでを見届ける日も増えてきた。
そうなると、決まって夜も深い時間になった。その後急いで伯爵邸に帰る日々。
そんなある夜。
カテリーナ様がお休みになられたあと、私は一人、暗い廊下を早足で歩いていた。
すると向こうから、人の気配が近づいてくることに気づく。
(どなたかしら?)
暗がりの向こうから歩いて来るのは、どうやらレオナルド様。ふらふらとおぼつかない足取りだったので「お酒でも召されたのかしら」と、思ったその時。
「うっ……」
レオナルド様は、苦しげに呻かれてその場にうずくまった。
私はあわてて駆け寄る。
「大丈夫ですか!?」
「……っ」
レオナルド様は手で口を押さえていた。
顔色が悪い。
今にも吐き戻しそうだ。
ーーどうしよう。
足下には侯爵家の高級絨毯。レオナルド様が着ているのは上質なウールの軍服。
その後の惨状が、瞬時に頭に思い浮かんだ。
(だめよ、このままでは)
私は咄嗟に両手を差し出した。そして、すんでのところで、レオナルド様が吐き出されたものを手とエプロンの両方で受け止める。
「旦那様、すべて吐き切れますか? その方が楽になれます」
その後はもう夢中だった。レオナルド様の服や侯爵家の絨毯にシミをつけるわけにはいかない。手早く汚れたものをまとめて、自分の手を拭った。
そして一番重要なのは、具合の悪いレオナルド様を寝室にお連れすることだった。
支えたレオナルド様の体は、燃えるように熱く。
これほどに高熱ならば、なんらかの感染症の可能性もある。
ご気分の悪そうなレオナルド様をベッドに寝かせた後、呼び鈴を鳴らしてドア越しにメイドに声をかけた。
「誰も部屋に入れないで。もしかしたらうつる病気かもしれないわ。それから、ドアの外に持ってきて欲しいものが……」
メイドに頼み事を終えると、隣の浴室で手を洗った。持ってきてもらった服に着替え、ぐったりと横たわるレオナルド様の元に戻る。口の周りをふき、水で濡らした布を額にのせた。
「すまない……こんな……」
「看病は慣れているので大丈夫です。何かほしいものはありますか?」
「……では……冷たい水を」
「かしこまりました」
メイドが持ってきてくれた氷水をグラスに注ぎ、助け起こしたレオナルド様の口にあてがう。
少しだけ水を口に含んだあと、レオナルド様は再び横たわり、気を失うように眠りについた。
駆けつけてくださったお医者様からは「伝染病ではなく過労」との診断だった。ゆっくりと体を休めることが何より重要とのこと。過労は心配だが、重い病気や感染症ではないとのことでほっと胸を撫で下ろす。
レオナルド様は、静かに寝息をたてていた。
私がここにいても、これ以上できることはなさそうだ。夜勤の使用人に任せて、私もそろそろ退出しようと立ち上がる。
おでこの布を新しいものに交換してから帰ろう。そう思い、レオナルド様の顔に手を伸ばしたその時だった。
「ジュリア……」
レオナルド様に、手を握られる。「ジュリア」とは今は亡きレオナルド様の奥様の名前だ。
「迷惑かけて、すまない……でも、やはり君のいる家はいいな……ほっとする……」
そう言って、レオナルド様は目を閉じたまま嬉しそうに微笑む。
そして突然、私の手に頬を擦り付けたのだ。
(どうしよう。亡き奥様と勘違いされているのだわ)
早く手を振り解かねばならなかった。
けれど、こんなにも幸せそうなレオナルド様の表情を見ていると、罪悪感が込み上げてしまい……。
私はどうしたらいいのかわからなかった。ただ石のように固まっていることしかできない。
レオナルド様の瞼がゆっくりと開く。その瞳に映るのは奥様ではなく、使用人の私。
エメラルドグリーンの瞳に、みるみるうちに驚きの色が広がっていく。
「ソフィア……?」
私は慌てて手をひっこめた。自分の顔が赤く染まっていくのを感じる。
「す……すまない! 夢をみていて……」
「こちらこそ申し訳ありません。ご指摘しなければと思いながら動くことができず……。あの、そろそろお暇いたします。どうぞごゆっくりお休みください。失礼いたしました!」
私は逃げるように、慌てて部屋を飛び出した。心臓がばくばくと音をたて、今にも壊れそうになる。
「なんてことをしてしまったのかしら……」
騒がしい気持ちを抱えたまま。
私は慌てて侯爵邸を後にしたのだった。




