第3話 侯爵令嬢カテリーナ 後編
ーー手ごたえは何も感じられなかったけれど、今日はあれでよかったのかしら?
ヴェルディ伯爵邸に帰ると、一気に不安が押し寄せた。
カテリーナ様とは少し言葉を交わしたくらい。結局私は、何もしていない気がする。
もしかしたら、もうお呼びはかからないかも。
そんな覚悟もしていたのに……翌日の朝、侯爵家から来訪依頼が来た。
(……昨日、なにか気に入っていただけるようなことをできていたかしら? 心当たりがないわ)
私は戸惑いながらも、再び侯爵家に向かう。
屋敷に到着すると、前侯爵夫人が嬉しそうに笑顔を向けてくれた。
「カテリーナがね、あなたが今日必ず来るようにしてほしいって言ってきたの。今まで数えきれないほど家庭教師を呼び寄せたけど、あの子からこんなこと言ってくるなんてはじめてよ! これからもお願いしてもいいかしら?」
私は嬉しさが込み上げる。
不安に思っていたけれど、どうやら夫人の期待に応えることができたようだ。
「お嬢様にそのように言っていただけて大変光栄です。こちらこそよろしくお願いいたします」
子供部屋に向かうと、カテリーナ様はもじもじと遠慮がちに言った。
「先生。今日は絵を描こうと思うの。昨日の服、着てもいいかしら?」
「もちろんです」
昨日私が作ったエプロンドレス型の作業着は、カテリーナ様にぴったりのサイズだった。
私はほっと胸を撫で下ろす。
「ソフィア先生は、服を作るのが得意なの?」
「実家にいた時に、こんなふうに自分や妹たちのちょっとした服を作っていたんです。亡くなった母がよく作っていたので。それを真似て」
「先生のお母様も子供の頃に亡くなられたの?」
「はい」
カテリーナ様は顔を上げ、私をじっと見つめる。
「……私と同じね」
そう小さく呟いて、カテリーナ様はキャンバスに向かった。その日はひたすら無言で絵筆を走らせるだけで、それ以上声を発せられることはなかった。
けれど不思議なことに、翌日から少しずつカテリーナ様との会話が増えていった。ぽつぽつと何気ない話をされることから始まり、10日ほど経つとすっかり打ち解けたご様子になり、私は嬉しく思った。
そして。
奥様からいただいたはじめての給金も予想以上の金額で。
こんなに受け取れないと、返金しようとしたものの「今後、何かと物入りでしょう? 大丈夫。この家にはお金がたっぷりあるのよ」とにっこり微笑まれただけで、受け付けてはもらえず。
――でも、これで使用人に給金を出すことができるわ。
定期収入があることがありがたかった。私は悩みの種がひとつ消えて、心が軽くなっていくように感じた。
カテリーナ様の絵も完成間近となっていた。
私は家庭教師という肩書ではあったものの絵を描く心得はない。そのため、カテリーナ様の話し相手、兼、助手、のような立場になっていた。できることといえばよく似た花を探して参考資料として飾ったり、道具の準備をしたりと、ちょっとしたお手伝いくらい。
カテリーナ様の絵は、色使いが美しい。キャンバスいっぱいに広がる花畑が、日を追うごとに鮮やかに咲き誇っていくようだった。
「まるでここに、本物の花畑があるようですね。華やかで、とても素敵です」
私が思わず感嘆の声を漏らすと、キャンバスに絵筆をのせながら、カテリーナ様は口を開いた。
「この絵はね。お母様の誕生日に贈るために描いていたものなの。お母様も今のソフィアみたいにね、いつも私の絵を褒めてくださっていたわ。でも、亡くなられて……私、続きを描けなくなってしまって……」
声を震わせたカテリーナ様の頬に、一筋の涙が伝う。
私は急いで駆け寄った。ハンカチを渡さなければと手を差し伸べると、カテリーナ様は、ふいに私を抱きしめた。
「この絵も……見ていただきたかったわ」
カテリーナ様は声を上げて泣き出した。お母上が亡くなられた際、人前で一度も泣かなかったというカテリーナ様が、はじめて流した涙だった。
「絵が完成したら、お母様の墓前に絵を見せにいきましょう。こんなに素敵な絵ですもの。きっと天国から降りてきて、喜んで見てくださるはずですから」
「ええ。ぜひそうしたいわ」
絵を描き終えると、約束通りカテリーナ様のお母上の眠る墓所に向かった。
カテリーナ様が墓石に向かって何かを話すのを、少し離れた場所から見守る。
戻ってきたカテリーナ様の目は、涙を流されたのか少し赤くなっていた。
「ソフィア先生、そろそろ帰りましょう。私ね、次はお裁縫をしてみたいわ。教えてくれる?」
「はい。もちろんです」
カテリーナ様が浮かべた笑顔は眩しいほどで。その晴れやかな表情に、私は胸がいっぱいになった。
(……私が働き始めたきっかけは、お金のためだったけど……)
私は心に、あたたかなものが広がっていくのを感じた。
こんなふうに幸せな気持ちにしてくれたカテリーナ様に、感謝を込めて笑みを向けたのだった。




