第3話 侯爵令嬢カテリーナ 前編
お金がない。
寝ても覚めても、お金の事ばかり考えていて嫌になる。
――これでは、近いうちに使用人に給金さえ払えなくなってしまう。
そんな不安な気持ちを抱えたままだったからだろうか。
ジェラルド様のお父上とのお茶の時間、思わず「仕事をしたい」と心の声が漏れ出してしまった。
すると義父はこんなことを言ってくれた。
「外で仕事をしたいのかね? そういうことならこの前……」
義父は、友人に会うたびに「うちの嫁は素晴らしい」と誇らしげに紹介してくれていた。
そんな友人の一人から「ぜひうちの孫娘の家庭教師になってもらえないか?」と繰り返し言われていたそうなのだ。
「本当ですか? やらせていただきたいです。今すぐにでも」
義父に感謝し、声をかけてくれたお友達の名を聞く。立派な家名に、私は思わず震え上がった。
「ルチアーニ前侯爵夫人……?」
来訪された際にご挨拶した、品の良い白髪の老婦人が頭に浮かぶ。
……ということは、お孫さんはルチアーニ侯爵の一人娘よね?
そんな高位貴族のご令嬢の家庭教師が、私なんかに務まるだろうか?
恐る恐る手紙を送ると、私の手紙の文面も気に入ってくださったらしく「すぐにでも来てほしい」とのお返事が。
義父は感心した。
「彼女の心を射とめるとはさすがだ。ルチアーニ侯爵家は狙いを定めた人物を必ず引き入れることで有名でね。君に伝えるのを躊躇していたのだが、大丈夫か? 強引に勧誘されていないかね?」
「大丈夫です。むしろ、夫人には目をかけていただきありがたいです」
うまくいけば、収入が得られる。
翌日、私は可能な限りの準備をして侯爵家に向かった。
屋敷の中に招かれると、品の良い老夫人が笑顔で迎えてくれた。そのお方が現ルチアーニ侯爵のお母上――前ルチアーニ侯爵夫人だった。
私の仕事は、8歳の孫娘ーーご令嬢カテリーナ様の家庭教師だという。
「授業内容はいかがいたしましょう?」
夫人からはご令嬢に教えてほしい内容は事前に指示されていなかった。
勉強なのか、礼儀作法なのか?
けれど侯爵夫人の考えは、私の予想とは違っていた。
「実はあなたに頼みたいのはね。教師としての仕事ではないの」
「どういうことでしょうか?」
意外な言葉に驚いていると、夫人は寂しげに表情を翳らせた。
「カテリーナはね、とってもいい子なの。教師の言ったことはすぐに覚えてしまうから勉強もよくできるし、礼儀作法や身のこなしも申し分ないわ」
「すばらしいご令嬢であらせられるのですね」
「そうやってみんな褒めてくれるのだけれどね……むしろ、いい子過ぎて心配なのよ」
夫人は深くため息をつく。
「まだ8歳だというのに、わがまま一つ言わないの。ずっと何かに憑かれたように机に向かって……母親がいた頃はここまでじゃなかったのだけど……亡くなった時も涙一つ見せなかったし。何かおかしい気がするのよ。私の勘違いならいいのだけどね」
夫人は私をじっと見つめた。
「この仕事を頼んだのは、あなたがブルーノを――目の悪い義理の父を世話をする姿を見たからなの。なかなかできることではないわ。そんなあなたなら、もしかしたら何かわかるかもしれないと思ったのよ」
前侯爵夫人の言葉に、私は思わず胸が熱くなった。
「そんな……恐れ多いです。私は特別な勉強をしたこともなく、実家で妹たちと祖母の面倒をみていただけで、ご期待にそえるかは……」
「まあ! おばあさまがいたからブルーノの世話も慣れていたのね! 妹さんがいるということは子供にも慣れているのかしら? 助かるわ」
こんな些細な経験が仕事につながるなんて想像もしていなかった。私は奥様の言葉をありがたく思いながら、子供部屋へと向かう。
カテリーナ様は、部屋で一人で聖書を読んでいた。こちらを振り返ると、プラチナブロンドの長い髪を耳にかけ、エメラルドグリーンの瞳が柔らかく微笑む。私のような使用人にも丁寧にご挨拶をくださり、奥様の言葉通り聡明なご令嬢であることがうかがい知れた。
「先生とお会いできてうれしいですわ。私、できるだけたくさんのことを学びたいの。今日はどんなお勉強をしましょう?」
そう言って、カテリーナ様は微笑んだ。やる気があって、礼儀正しくて。まるで教師が抱く理想の生徒そのものに見える。
ーー確かに、生徒としては申し分ないご令嬢だわ。優秀すぎるくらい。
けれどこの短い会話の中で、私はほんの少しだけ違和感を覚えた。私には3人の妹がいる。幼い頃から性格の全く違う妹たちと接してきた。
子供は、無邪気で、奔放で、かわいらしくて。
でも、今のカテリーナ様はまるで――大人の貴婦人のようだ。
本心を隠して。相手の反応を見て。その場に最もふさわしい言葉を選んで。
でもそれは、裏を返せば私に心を閉ざしているのと同じことだ。本心を見せまいと警戒している。
そんなカテリーナ様に、一体どんな言葉をかけたらよいのだろう?
私は、ほんの一瞬だけ迷った。
けれど言うべきことはひとつしかないように思えて、私は心を決める。
「カテリーナ様。私は家庭教師としてこちらに参りました。けれど、実はあなた様のおばあさまから、勉強を教えてほしいとは指示されていないのです」
「え? でも……」
「カテリーナ様は今、何かやりたいことなどございますか? お勉強でなくても、遊びでも昼寝でもなんだって大丈夫です。他の先生の時とは違って申し訳ないですが、私といる時はどうぞご自由に、カテリーナ様の望み通りに過ごしましょう」
私はすべてを正直に明かすことにした。
取り繕っていては、聡明なカテリーナ様にすぐ見透かされてしまうだろう。彼女の心を開くことなど絶対にできないと思ったからだ。
カテリーナ様は戸惑った表情になった。
「私の、やりたいこと……?」
「はい」
「お勉強でなくても?」
「はい」
カテリーナ様はうつむいて、しばらく考えているようだった。そしてしばらく後、恐る恐る小声でつぶやく。
「じゃあ……聖書じゃなくて、この小説の続きを読んでもいいかしら?」
「はい。もちろんです」
カテリーナ様は少し戸惑った様子を見せながらも、新しい本を読み始めた。
カテリーナ様が一人で過ごしているため、私はやることがなくなった。けれどこのまま何もせずにいては仕事をしていないことになってしまう。
せめて何か最低限の働きはしなければと、ぐるりと部屋を見回す。
今後の準備とか、何かヒントはないかしら……。
子供部屋の壁には、絵が飾られていた。
花や動物の絵。右下にはカテリーナ様のサインが描かれている。絵を描くことは貴族令嬢の嗜みとしては一般的ではない。もしかしたらカテリーナ様は趣味で絵を描かれるのかもしれない。
カテリーナ様が着ているのは、クリーム色のシルクのドレスだった。淡い色のレースで縁取られたドレスは、カテリーナ様のプラチナブランドとエメラルドグリーンの瞳に大変良く似合っている。シミひとつない美しいドレス。
でも、もしも絵を描くのがお好きなら……。
妹たちがまだ少女だった頃、よく作ったものを思い出した。私は持ってきた荷物の中から布を取り出して、部屋の隅で裁縫を始めることにした。
しばらくするとカテリーナ様が私に尋ねた。
「何を作っているの?」
「カテリーナ様の作業着です。カテリーナ様のお召し物は大変お美しいですが、今後何らかの活動をされる際、汚れてしまっては困るかと思いまして」
「……珍しいデザインね。だからお袖が長いの?」
「はい。袖口にギャザーを寄せますので腕まくりもできますよ。絵の具がいくらついてもかまいませんからね」
貴族の服は高価だ。子供の頃、汚すとひどく怒られたのを思い出す。この屋敷にそのような理不尽な者はいないかもしれないが、カテリーナ様の性格的に汚さないように気を張っているかもしれないと想像したのだ。
カテリーナ様の瞳に、かすかに光が灯る。
「その服、いつ完成するの?」
「そうですね。おそらく今日中には」
「……先生は、次、いついらっしゃるの?」
「お許しいただけるようでしたら、明日も参ります」
カテリーナ様は、じっと私を見つめる。
「そう……」
ぽつりとそれだけ言って、カテリーナ様は読書に戻った。
そうしているうちに、いつの間にか日が落ちて退出の時間を迎えた。私はカテリーナ様にご挨拶をして、仕事の初日を終えたのだった。




