私は席を譲りました。押し付けてはいません
――ああ、これはもう決まってる顔だ。
部屋に入った瞬間、私はそう思った。
父は背筋を正し、母は柔らかく微笑んでいる。
この二人が揃って「穏やかな顔」をしている時は、たいてい話は終わっている。
こちらの意見を聞く“形式”だけが、これから始まるのだ。
だから私は、すぐには口を開かなかった。
最初に喋った人間が負ける場だから。
応接室の中央。
長椅子に座る二人の男女を見て、胸の奥がひくりと引きつった。
元・私の婚約者。
そして――妹。
ああ、やっぱりね。
頭の中でそう呟きながら、私は席についた。
ここで立ち止まったのは、逃げたからじゃない。
自分がどの位置に座るべきか、あえて確認したかったからだ。
端か、中央か。
それだけで、今日の話の性質が分かる。
私は、端に座った。
この話の主役ではない、と彼らが決めているから。
「イレーネ」
父が私の名を呼ぶ。
確認のための呼び方だ。
反論しないかどうか、様子を見るための。
「今回の件だが……」
来る。
分かっているから、私は背筋を伸ばす。
感情的な人間ほど、姿勢は大事だ。
崩れると、舐められる。
「婚約は整理されることになった」
整理。
便利な言葉だ。
壊したとも、終わらせたとも言わない。
「君が、妹に譲ってくれたおかげでな」
――その瞬間。
胸の奥で、はっきりと音がした。
怒りが弾ける音ではない。
もっと冷たい、拒絶の音だ。
譲った?
誰が?
何を?
私は即座に言い返さなかった。
ここで反論すれば、「妹を責める姉」という役を押し付けられるから。
それだけは、絶対に嫌だった。
妹は俯き、申し訳なさそうな顔をしている。
演技ではない。
本当に、悪意はないのだ。
だからこそ、厄介だった。
「……イレーネ?」
元婚約者が、困ったようにこちらを見る。
その表情を見て、私は心底理解した。
ああ、この人は、今も決断を私に委ねている。
私はここで、笑った。
社交用の笑みだ。
怒っていないように見せるための、完璧な仮面。
「ええ。承知しています」
なぜそう言ったか。
理由は二つ。
一つ。
ここで場を荒らすと、事実より感情が先に語られるから。
二つ。
私はまだ、自分の言葉を使う場所を選んでいた。
譲った?
違う。
私は、降りただけだ。
その言葉を、この場で使う理由は、まだ無かった。
◇
応接室を出て、廊下を歩いている間、私は一言も喋らなかった。
口を開いた瞬間、言ってはいけないことまで全部出そうだったから。
怒鳴る準備はできていた。
泣く準備もできていた。
でも、どちらもやらなかった。
なぜか。
私が怒鳴り、泣いたところで、「感情的になった姉」という評価が上書きされるだけだと、分かっていたから。
自室の扉を閉めた瞬間、私は背中を預けた。
鍵はかけない。
単純に、私は逃げていないと示したかった。
「……譲った?」
声に出して言った途端、喉の奥がひりついた。
なんだそれ。
誰が決めた。
いつ私が、そんな合意をした。
私は椅子に腰を下ろし、勢いよく息を吐いた。
呼吸が浅くなっているのが分かる。
こういう時、無理に落ち着こうとすると逆効果だ。
だから私は、あえて喋る。
「違うでしょう。全然違うでしょう」
独り言なのに、勢いがつく。
私は昔からこうだ。
考えをまとめるために、口を使う。
私は“譲った”わけじゃない。
席を立っただけだ。
だって考えてみてほしい。
譲るっていうのは、そこに価値を感じていて、それでも相手のために手放す行為でしょう?
でも私の場合は違う。
あの席に、もう座り続ける必要がなかった。
◇
最初は些細なことだった。
本当に、取るに足らないこと。
例えば――
親戚の集まりで、失礼な発言をされた時。
「まあまあ、悪気はないから」
彼はそう言った。
なぜそう言ったか。
場の空気を壊したくなかったからだ。
理解はできる。
でも、納得はできない。
次。
領地運営について、意見を求められた時。
「皆が納得する形がいいよね」
またそれだ。
誰の“皆”なのかは、最後まで明確にされなかった。
私はそのたびに考えた。
結婚したらどうなる?
答えは簡単だ。
決断は私がし、責任も私が取る。
でも表に立つのは彼。
それが見えたから、私は降りた。
これは逃げじゃない。
将来を見据えた判断だ。
◇
「優しい人、なんですって」
私は鼻で笑った。
優しい?
違う。
優しいという言葉で包まないと、決断しない人だと気づかれてしまうから、そう呼ばれているだけだ。
それに――
妹。
妹は悪くない。
本当に。
でも、だからといって、私が席を空ける理由にはならない。
私が立ったのは、妹のせいじゃない。
あの席が、私の人生に合わなくなったからだ。
◇
私は少し時間を置いてから、廊下に戻った。
自分の意思で、場に戻るため。
逃げたと思われたくなかった。
沈黙を肯定と誤解されたくなかった。
扉の前で、私は一度だけ深呼吸をする。
そして、ノックはしない。
なぜなら――
私は、許可を求める立場ではもうなかったから。
扉を開けた私を見て、全員が一瞬だけ言葉を失った。
その沈黙が、何より雄弁だった。
「一つだけ、訂正します」
声は、我ながら落ち着いていた。
感情は荒れている。
でも、言葉は選べる。
「私は、婚約を譲ったわけではありません」
父が眉をひそめる。
元婚約者が息を呑む。
妹が顔を上げる。
「私は、自分の意思で降りました」
なぜ今言ったか。
この表現を許すと、私の選択が歪められるから。
「それだけです」
私はそれ以上、何も付け加えなかった。
説明はできる。
理由も山ほどある。
でも、今は必要ない。
私は背を向け、廊下を歩き出す。
その足取りは、軽かった。
初めて、自分の席を探しに行ける気がしたから。
◇
朝。
目が覚めた瞬間、まず思った。
――あ、私、もう婚約者いないんだ。
不思議と、胸は軽かった。
泣いてもいないし、取り乱してもいない。
それが自分でも意外で、少しだけ笑ってしまった。
なぜ平気なのか。
はっきりしている。
私はもう、とっくに心の中で降りていたから。
昨日は、ただそれを言葉にしただけだ。
私は勢いよく起き上がり、カーテンを開ける。
光が差し込む。
いつもと同じ朝なのに、見え方が違う。
「……自由って、こういう感じ?」
誰に聞かせるでもなく呟く。
よく喋るのは昔からだ。
黙ると、余計な感情が溜まる。
◇
朝食の席は、妙に静かだった。
全員が、私の出方を探っている。
私は先に口を開いた。
沈黙が続くと、周囲が勝手に話を作るからだ。
「先に言っておくけど、私、後悔してないから」
母が一瞬だけ目を見開く。
父は咳払いをした。
「イレーネ……」
「“感情的になるな”って言いたい?」
遮った。
その台詞を聞くと、話が逸れるから。
「私は感情的よ。でも判断は理性的」
これは強がりじゃない。
本当だ。
「婚約を続けなかった理由、ちゃんとある」
父が黙る。
だから私は続けた。
「私が結婚したら、私は一生“決める役”になる。でも、責任を負うのは私だけ」
母が小さく息を吸った。
分かっている。
彼女も、同じ立場だったから。
「それは、夫婦じゃない」
私はパンをちぎりながら言う。
手を動かしているのは、感情が高ぶりすぎないようにするためだ。
◇
決定的だったのは、三か月前。
王宮の行事で、ある判断を迫られた。
招待客の配置。
誰を立て、誰を下げるか。
「どう思う?」
彼は、そう聞いてきた。
自分で決める気がなかったから。
私は答えた。
根拠も、影響も、全部説明した。
でも彼は最後にこう言った。
「じゃあ、それでいいかな。
皆も納得すると思う」
――その瞬間、私は気づいた。
この人は、私の判断を“自分の盾”に使う。
何かあれば、「彼女がそう言った」と言えるように。
だから私は降りた。
これは、自己防衛だ。
◇
「優しいからじゃない」
私は鏡に向かって言う。
自分に言い聞かせるために声に出した。
「私が壊れる未来が、はっきり見えたから」
結婚は、ゴールじゃない。
生活だ。
積み重ねだ。
その席に座り続ける自分が、想像できなくなった。
だから私は立った。
それだけ。
◇
昼前、使者が来た。
元婚約者からの。
私は会うことにした。
何故なら、逃げたと思われたくなかったから。
感情的な女?
結構。
でも、逃げない女だ。
私は椅子に座り、深く息を吸う。
「さあ、何を言いに来たの?」
胸は高鳴っている。
でも、もう後戻りはしない。
私は、降りたのだから。
◇
正直に言う。
私は妹と話したくなかった。
嫌いだからじゃない。
むしろ逆だ。
嫌いじゃないから、言葉を選びすぎてしまう。
そうなると、私が壊れる。
それでも中庭に出た。
このまま黙っていると、「優しい姉」の物語が完成してしまうから。
それだけは、耐えられなかった。
中庭は静かだった。
噴水の水音と、午後の風。
いかにも「姉妹の和解」に使われそうな場所で、私は内心うんざりしていた。
妹は、もうそこにいた。
ベンチに座り、両手を膝の上に揃えている。
ああ。
その座り方。
守られる側の人間の姿勢だ。
私は立ったまま声をかけた。
対等な位置に座りたくなかった。
「話、いい?」
妹は勢いよく顔を上げた。
「うん……!」
返事が早い。
早すぎる。
準備してきた言葉がある証拠だ。
◇
「お姉さま、ごめんなさい」
来た。
予想通りだ。
私は、すぐに「いいのよ」とは言わなかった。
その一言で、全部がなかったことにされるから。
「何に対して?」
声は落ち着いていた。
感情は、全然落ち着いていない。
妹は視線を泳がせる。
「……その、婚約のこと」
「うん。それで?」
私は続きを促す。
本人がどう理解しているかを知りたかった。
「私が……奪ったみたいになって……」
ああ。
違う。
そこじゃない。
私は深く息を吸った。
感情的にならないためじゃない。
感情を正確に使うためだ。
「マリア。私は、奪われたなんて思ってない」
妹の肩が、ぴくりと跳ねた。
「でも……お姉さまが、譲って……」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がきしんだ。
私は、はっきり言った。
曖昧にすると、また歪むから。
「その言い方、やめて」
妹が息を呑む。
「私は、譲ってない」
なぜ強く言ったか?
その表現は、私の意思を消すから。
◇
私は一歩、妹に近づいた。
座らない。
逃げ道を残さないために。
「ねえ、考えて。
私があの婚約に、どれだけ悩んでたか」
妹は黙っている。
だから私は、続ける。
「譲るっていうのはね、
欲しいけど、相手のために我慢することよ」
声が、少し震えた。
怒りじゃない。
悔しさだ。
「でも私は、もう欲しくなかった」
はっきり言う。
「あの人と結婚したら、
私は一生、自分の判断を後回しにされる」
妹が、困った顔をする。
「でも……優しい人だって……」
「知ってる!」
思わず声が上がった。
すぐに口を押さえる。
怒鳴った理由?
その言葉を、何度も自分に言い聞かせてきたから。
「優しい。分かってる。
でもね、優しいだけで人生は回らない」
◇
「……私」
妹が、小さな声で言った。
「私、あの人と結婚したら、守ってもらえる気がして……」
ああ。
やっぱり。
私は、目を閉じた。
怒らないため。
ここで怒ると、全部が壊れるから。
「それが、悪いとは言わない」
これは本音だ。
「でもね、それは私の席じゃない」
私はゆっくりと妹を見る。
「私は、守られる役じゃない。
決める役を、一人で背負う役でもない」
妹の目に、涙が溜まる。
「……お姉さま、冷たい」
その言葉が、胸に刺さった。
でも、私は否定しなかった。
優しい嘘をつくのを、やめたから。
「冷たいわよ。
でも、それは私が生きるため」
◇
私は一歩、下がった。
距離を取る。
これ以上近づくと、どちらかが壊れる。
「マリア。
あなたが悪いわけじゃない」
これは、嘘じゃない。
「でも、私はあなたのために立ったんじゃない」
妹が顔を上げる。
「私は、自分のために降りた」
それを、はっきり言う必要があった。
「だから――しばらく、距離を置く」
なぜ距離を置くのか?
このままでは、私が“理解ある姉”の役を押し付けられるから。
妹は何も言わなかった。
それでいい。
私は踵を返し、歩き出す。
背中が、少し痛かった。
でも、後悔はない。
私はもう、
自分の席を、誰にも決めさせない。
◇
はっきり言うけど、私は夜会が嫌いだ。
人の人生を、軽い言葉で要約する連中が集まる場所だから。
それでも私は、王宮に来た。
来ないという選択肢もあった。
でも選ばなかった。
なぜか。
ここで黙ると、「譲った姉」の物語が完成するから。
小広間は、ちょうど噂が一巡する規模だった。
大広間ほど騒がしくなく、かといって私語が埋もれるほど静かでもない。
最悪。
でも、狙い通り。
私は背筋を伸ばし、ゆっくりと歩いた。
足取りをゆっくりにして、視線を集めた。
感情的な女でも、演出は使う。
「――あの方が、妹に婚約を譲った伯爵令嬢よ」
聞こえた。
ちゃんと。
だから私は、歩みを止めた。
今、否定しないと、この言葉が既成事実になる。
◇
私は、声を上げた。
大きすぎず、小さすぎず。
「失礼します」
この一言で、視線が集まる。
狙い通り。
噂話をしていた貴婦人たちは、一瞬だけ気まずそうな顔をした。
その一瞬を逃さない。
相手がまだ防御を張っていないうちに仕掛ける。
「今のお話、少し訂正させてください」
誰かが口を開きかけたが、私は止めない。
遮ると、私が攻撃者になるから。
「私は、婚約を譲ったわけではありません」
空気が、凍った。
ああ、いい。
これでいい。
「私は、自分の意思で降りました」
なぜここまで言うか。
理由は明確だ。
“譲った”という言葉は、私の判断を善意の犠牲に変えるから。
◇
「でも、それって同じことでは?」
誰かが言った。
若い令嬢だ。
悪気はない。
だから私は、感情を抑えなかった。
ここで感情を殺すと、また都合よく解釈されるから。
「違います」
はっきり、即答。
「譲るのは、残りたい人がすることです」
私は一歩前に出る。
言葉に重みを持たせるため。
「私は、残りたくなかった」
どよめきが起きる。
「美談にしないでください。
あれは、私の選択です」
胸が熱い。
でも、逃げない。
◇
「……イレーネ」
聞き覚えのある声。
私は振り返った。
逃げたと思われたくなかったから。
元婚約者が立っていた。
困った顔。
相変わらずだ。
「誤解を招く言い方は、やめよう」
その瞬間、私は理解した。
この人は、今も波風を立てないために、私を黙らせようとしている。
だから私は、即答した。
「誤解じゃないわ」
誤解という言葉で、私の意思を曖昧にされたくなかったから。
「私は、あなたの婚約者をやめた」
ざわめきが大きくなる。
「はっきりしてる」
私は視線を逸らさない。
「あなたは、決めない人だから」
残酷?
いいえ。
正確。
◇
「私は、誰かのために立ったんじゃない」
声が震える。
でも止めない。
「自分の人生の席が、そこじゃなかっただけ」
沈黙。
私は最後に、深く一礼した。これが“感情的な暴露”ではなく、公式な意思表示だと示すため。
「以上です」
それだけ言って、私はその場を離れた。
足が少し震えていた。
怖くなかったわけじゃない。
でも――
私はもう、他人の物語の登場人物じゃない。
◇
正直に言う。
夜会を出た直後、私は少しだけ後悔しかけた。
あんな公の場で、あそこまで言わなくてもよかったんじゃないかって、頭の隅で、いつもの「穏便に済ませろ」という声が囁いたから。
でも――
馬車の中で一人になった瞬間、その後悔は消えた。
「……いや、違うわね」
私は一人で喋る。
昔からそうだ。
感情が強い時ほど、言葉にしないと整理できない。
「あれを言わなかったら、一生“譲った姉”のままだった」
それは、耐えられない未来だった。
だから私は、言った。
恥をかく覚悟で。
嫌われる覚悟で。
なぜそこまでしたか。
私はもう、元の席に戻らないと決めたから。
◇
数日後、私は父の書斎にいた。
自分から来た。
呼ばれたからじゃない。
これからの立場を、自分で決める必要があったから。
父は書類から顔を上げ、私を見る。
「……随分、はっきり言ったそうだな」
「ええ。事実だけを」
私は椅子に座らなかった。
交渉の場で“腰を据える”つもりがなかったから。
「私は、婚約者の席を降りました。
だから次は、自分の席を選びます」
父が黙る。
この沈黙は、反対ではない。
様子見だ。
「社交の場での評価は下がるぞ」
「承知しています」
即答した。
そこを迷うと話が進まないから。
「でも、“譲った優しい姉”で評価されるより、“面倒な女”で結構です」
母が、静かに息を吸った。
視線が合う。
分かっている。
彼女も、若い頃に似た選択をしなかったことを。
◇
「私、王宮付きの補佐官職に応募します」
そう言った瞬間、父の眉が動いた。
驚かせたのは、抽象論を避けたかったから。
私は続ける。
「婚約者という立場がなくなった今、私は“何者でもない貴族令嬢”です」
それは事実だ。
「だから、役割が必要です。飾りじゃなく、席としての」
父はしばらく考え込み、やがて言った。
「……噂は覚悟しろ」
「ええ」
覚悟はできている。
なぜなら、噂はもう出ているから。
◇
案の定だった。
「強気すぎる」
「可愛げがない」
「婚約者を切った女」
全部、聞こえてくる。
でも同時に、別の声もあった。
「はっきりしていて気持ちいい」
「自分の立場を理解している」
「使える人材かもしれない」
私は、後者を拾うことにした。
全員に好かれる席なんて、最初から存在しないから。
◇
数週間後、正式な返答が来た。
王宮付き補佐官――
仮採用。
私は通知書を握りしめ、笑った。
声も出た。
「……ほら、あったじゃない」
空いた席は、
待っていても現れない。
探しに行った人間にだけ、見える。
私は深く息を吸う。
怖くないわけじゃない。
失敗するかもしれない。
叩かれるかもしれない。
それでも進む理由は、はっきりしている。
あの席に戻るくらいなら、立ったままのほうが、ずっとましだから。
◇
初出仕の日。
私は、少し早めに王宮に着いた。
緊張していたからじゃない。
自分で選んだ席に、遅れたくなかったから。
補佐官室は、思っていたよりも地味だった。
豪華な装飾もないし、視線が集まることもない。
でも私は、ここを気に入った。
なぜか。
ここでは、誰も私の過去に座らせようとしない。
「アルフォード嬢」
上官が私を呼ぶ。
「今日からここが、あなたの席です」
私は、はっきりと頷いた。
この瞬間を、曖昧にしたくなかったから。
「承知しました」
声が、少しだけ震えた。
でも、それでいい。
◇
仕事は、簡単じゃなかった。
書類は多いし、判断も早さを求められる。
でも、不思議なことに――
私は疲れていなかった。
自分の判断が、そのまま自分の責任になるから。
誰かの盾になる必要がない。
誰かの顔色を見る必要もない。
「決断が早いですね」
そう言われた時、私は少し笑った。
「慣れているだけです」
これは謙遜じゃない。
私はずっと、決断してきた。
ただ、それを自分の席でやれていなかっただけ。
◇
廊下で、元婚約者とすれ違った。
避けなかったのは、もう避ける必要がなかったから。
「……元気そうだね」
彼は、相変わらず困った顔をしている。
「ええ。適材適所ですから」
これは嫌味じゃない。
本音だ。
「君は……冷たい人じゃなかったはずだ」
ああ。
まだ、そこか。
私は立ち止まり、きちんと向き合った。
ここで曖昧にすると、また物語を上書きされるから。
「冷たくなったんじゃない」
私は、はっきり言う。
「私は、自分の席に座っただけ」
彼は、何も言えなかった。
◇
後日、また噂を聞いた。
「やっぱり、妹に譲ったんでしょう?」
私は、即座に否定した。
躊躇はない。
もう、訂正を恐れる必要はない。
「いいえ」
微笑んで、言う。
「私は、席を譲りました」
相手が、ほっとした顔をした。
美談を期待したのだろう。
だから、続ける。
「押し付けてはいません」
相手の表情が、固まる。
「譲ったのは、“そこに座る権利”ではなく、“そこに居続ける義務”です」
これは、ずっと言いたかった言葉。
◇
仕事を終え、私は自分の机に座った。
深く、腰を下ろす。
なぜここまで描写するか。
これは、私が初めて“選んだ席”だから。
私は、思わず笑った。
よく喋る自分にしては、珍しく静かに。
譲った?
ええ、譲った。
でもそれは、誰かのための犠牲じゃない。
降りただけ。
そして、移動しただけ。
人生の席は、一つじゃない。
私は、
自分で選べる場所に座った。
完。
よろしければ何点でも構いませんので評価いただけると嬉しいです。




