プロローグ
薄暗くて少し気味が悪い、広々とした駅にここでは珍しく制服を着た一人の青年が立ち止まっていた。
何もない、ただ薄暗さだけが支配する世界で、青年は一枚の写真に目を通していた。
それは、彼の幼馴染である結斗と一緒に写った写真だった。
ピースサインをする結人の笑顔は、夏の太陽みたいに眩しくて、見ているだけで心の奥を温めてくれる。
指先でその笑顔をなぞった瞬間、青年の脳裏にひとつの光景が蘇った。
――蝉の声がやかましいほど鳴き響く、真夏の夕暮れ。
部活を終えて汗だくのまま、自転車を並べた走った帰り道。
前を走る結斗の白いシャツが、赤く沈む夕日を反射してやけに眩しかった。
「なぁ、俺たち、これからもずっとこうやって一緒にいられたらいいよな」
あの時の何気ない一言。
でも、風を切る音も、焼けつく空の赤も、あの声も――今でも鮮明に覚えている。
だからこそ、今ここで手にしている写真が、彼の胸に小さな希望を灯す。
もう二度と会えないと知っているはずなのに、どうしても「また会えるかもしれない」と願わずにはいられないのだ。
ここは黄泉へ通じるホームだ。
青年がいるこの場所は、現世では肉体が無くなり魂だけになった者があの世に行く為の電車を待つホーム。
青年はもう死んでいる。そのことを彼自身もきちんと自覚している。死んだら生きている人達には二度と会えないということも。それでも彼の胸には、きっとまた大切な人達に会えるかもしれないという僅かな希望を抱いているのかもしれない。
遠くから、微かにレールを軋ませる音が聞こえてきた。どうやら、そろそろ電車が到着するようだ。
ホームからは「やっとか!」「待ってたぞ!」など歓喜の声が飛び散っている。ホームに居る人達の年齢層はお年寄りの方が大半だ。稀に若い方もいるが、ここにいる人達はみんな悔いのないスッキリとした顔をしている。後は電車に乗ってあの世に行くだけ。ようやく長い長い人生の幕が降りるのだから、喜びの感情が湧き出てくるのも無理はない。しかし、あの青年の表情は曇っていた。とても、これから訪れる終着駅を心待ちにしている者の顔には見えなかった。
……何か嫌な予感がする。
どうか、この予感が当たりませんように。今の私に出来ることは願う以外何もない。
「まもなく、77番線に黄泉行きの列車が参ります。危ないですので黄色い線の内側までお下がり下さい」
薄暗い世界には合わない、元気で陽気なアナウンスがホームに響き渡る。
(これで私もやっと自分の仕事が出来るな)
自分の仕事をこなすためにホームの前に出ると、私よりも前にいた青年がこちらに視線を向けた。青年は目が合うと、僅かに俯き、申し訳なさそうに小さくて頭を下げた。一瞬のことだったが、その動きには妙な重みがあった。まるで、これから起こることを知っている者の、せめての謝意のように。
青年はゆっくりと頭を上げ、線路の奥を真っ直ぐに見つめた。もう、何も迷っていないようだった。後はただ、その結末を迎え入れるだけの顔をしていた。
青年がこれから起こそうとしている事は何となく予想できた。だけど、私は動かなかった。動けなかった。声も出せなかった。
なぜなら、彼の行動を止めるのはあまりにも残酷で無慈悲だと思ったから。
風が強くなる。
警笛が鳴る。
人々の歓喜の声はやがて悲鳴へと変化していった。
――その時、何があったのか。
それは誰にも語られていない。
ただあの日、あの駅でひとつ'気配'が確かに消えた。
それだけの事だ。




