第1章:辺境の黄昏
太陽はゆっくりと地平線へ沈みかけ、もう半分の空は深い蒼に染まっていた。細長く伸びた雲が反対側の光を映し、まるで炎のように赤々と輝いている。
風が木の葉を揺らし、さやさやと音を立てた。
ルシウスは重い足取りを引きずり、何度も迷った末にようやく口を開いた。
「……少し休んでもいいか?」
ニクシアは周囲を一瞥し、念のため来た方角にも視線を走らせると、短く答える。
「構わぬ」
そう言って近くの巨岩に腰を下ろす。
ルシウスは草むらの小丘を選び、どさりと仰向けに倒れ込んだ。両腕を広げ、大きく息を吐き出す。
「はぁー……」
大きな欠伸をひとつ漏らし、天を仰いだままぽつりと尋ねる。
「で、これからどうするんだ」
「オレヴィアの関所はもう通れぬ。西へ進み、北境山脈の果てにある《ネクサス湖》へ。そこから魔界に潜入する」
「……さっき、あの女がどう呼んだか聞いてただろ?」
ルシウスは上体を起こし、じっとニクシアを見つめる。
「お前ももう“魔界の敵”になっちまった。それでも帰るつもりか?」
「――真実を突き止めさえすれば、道は開ける」
ニクシアは立ち上がり、腰を下ろしていた巨岩を一蹴して粉砕する。
「魔王としての権能が使えなくても、堂々と表に出て調査することはできなくても……力がある限り、暗に動くことはできる」
「……仕方ないな」
ルシウスは苦笑し、肩をすくめる。
「俺たち、もう完全に“世界の敵”になっちまった。今さら信じられるのは、あんたくらいだ」
「世界の敵……か」
ニクシアは小さく息を吐き、しばし沈黙した後、軽く目を細める。
「それにしても――勇者のくせに、ずいぶんと弱いじゃない」
「どうしようもないだろ。二年前に勇者に選ばれたとき、俺なんてただの農家の息子だったんだ」
「じゃあ、この二年間で王国は何をしていた。訓練はなかったのか」
「一応あったさ。剣術の鍛錬は一日二時間」
「……それ以外の時間は?」
「午前中は文学と歴史、午後は礼儀作法と剣術、夜には神学。そんな感じのスケジュールで、剣術の時間が二時間あるだけマシだろ」
ルシウスは身を起こし、肩を回す。
「それに、さっきみたいに一隊丸ごとの兵士相手じゃ、勝てなくて当然だ」
「なら――試してみるか。お前の腕前がどの程度かを」
ニクシアは右手に暗黒の剣を生み出し、左手の指先で挑発するようにくい、と招いた。
「その言葉、本気だな」
「まさか、自分が私を傷つけられるとでも?」
ニクシアは口元をわずかに緩め、艶やかに片眉を上げる。
「……いいだろ!」
ルシウスは剣を抜き放ち、一気に踏み込み心臓目掛けて突きを放つ。
だが魔王は、ほんのわずかに身体を傾けただけで、容易くかわしてみせた。
「くっ!」
ルシウスは畳みかけるように斬撃を繰り出す。だが、振り下ろしも突きもすべて空を切る。
ニクシアはついには瞼を閉じ、薄く笑みを浮かべたまま軽やかに攻撃をいなしながら、淡々と告げる。
「攻撃は軟弱、動きは鈍重、技は皆無」
その言葉と同時に、彼女は目を開き、右手の剣を止めずに左手を伸ばす。
人差し指と中指で剣の刃を挟み込むと、ルシウスがいくら力を込めても剣は一歩も動かなかった。
次の瞬間、魔王は暗黒の剣を振り上げ、下から上へと鋭く払う。
「――ッ!」
ルシウスの心臓が一瞬にして縮み上がる。
「来る……!?」
反射的に目を強く閉じ、身体を硬直させた。
刃が空気を裂き、頬をかすめていく感覚だけが、鮮烈に伝わってきた。