幕間
夜はすでに更け、魔王の寝宮は高塔の最奥に静かに佇んでいた。
周囲には一片の物音もなく、黒曜石の床をわずかな灯火が照らし出すのみ。炎はゆらゆらと揺れながら、次第にその輝きを失っていく。
侍女は恭しく頭を垂れ、静かに告げた。
「お休みなさいませ、お嬢様。」
魔王は答えず、ただ片手をひらりと振ると、ゆっくりと身を横たえた。
寝宮の重厚な扉が閉ざされる。動作は一分の隙もなく、優雅で精密だった。
扉を閉めた侍女は、寝宮に隣接する小部屋へと戻る。そこは内殿へと直結する、夜警の侍女専用の待機室。
既にもう一人の侍女が部屋の隅に端座し、両手を膝の上で重ねたまま目を閉じていた。まるで交代の時を待ち続けているかのように。
先ほど「お休み」を済ませた侍女は、張りつめていた礼儀正しい笑みを解き、スカートの裾を整えながら静かに腰を下ろした。
衣装は複雑な裁断で仕立てられ、腰はきつく締め付けられている。縁には控えめに銀糸が織り込まれ、深い色合いの刺繍が施されていた。それは単なる礼服ではなく、影の一族としての誇りと身分を示す象徴でもあった。
だが、その静寂は長くは続かなかった。
空気の流れが――ほんの一瞬、僅かに揺らいだのだ。常人なら決して気付かぬほどの微細な異変。しかし、彼女の鋭敏な感覚は確かにそれを捉えた。
彼女ははっと顔を上げ、寝宮の方角を振り返る。
「……感じましたか?」
目を開いたもう一人の侍女が、低く問いかける。
「……ええ。」
返答と同時に、その姿は影に溶けるようにかき消えた。次に現れたときには、既に姿を変えていた。
身体にぴたりと張りつく暗色の戦闘装束。関節は動きやすく補強され、掌には漆黒の刃を持つ短剣。全身からは、戦闘の気配が立ちのぼる。
二人は寝宮の扉を押し開けた。
しかし、そこにあったのは――空虚な寝台。
「……お嬢様?」
かすかな呼びかけに、応える声はなかった。
互いに視線を交わすと、即座に無言の合図を送り合う。
寝宮の隅々を探索する――書架、更衣室、浴室、暖炉の傍……。
だが、どこを探しても主の姿は見つからない。
「お嬢様、どちらに……」声が次第に焦燥を帯びる。
迅速かつ正確に寝宮を探り終えた彼女は、足早に内殿へと戻る。背後に控える侍女に短く告げた。
「あなたは引き続き現場を調べて。私は衛兵に知らせてきます。」
そう言い残し、彼女は踵を返して駆け出した。
光と影が交錯する床を数歩走り抜け――やがてその身体は影へと沈み込み、闇に融けていった。
姿は完全に、跡形もなく消え去った。