3話:名を持たぬ者、風の名を得る
ファルネラの街に、朝日が差す。
石造りの街道には小商人の屋台が並び、店先からは焼き菓子や焼き魚の香りが漂ってくる。
だが、その香ばしい誘惑を前に、ハヤト――いや、“彼”は、腹を押さえてうずくまっていた。
「……ダメだ……今日こそマジで飢え死にする……」
財布は、空っぽ。
木刀は、ボロい。
背中の荷物には着替えと干し肉の切れ端がひとつ。
この街に来て三日。宿代を払えるのは、昨日までだった。
今日を乗り切れなければ、寝床も飯もない。
「よう、兄ちゃん。だいぶキてんな?」
背後から声がかかる。
振り向くと、腰に道具袋を提げた商人風の男が立っていた。
服はやや汚れていたが、目は優しく、どこか気のいい感じがある。
「腹減ってんなら、冒険者ギルド行ってみな。手伝いでもできりゃ、パンくらいは食えるだろ」
「冒険者ギルド……?」
「おう。あそこの大通り、角の三階建ての建物。木彫りの剣が看板になってる」
男はパンをひとつ分けてくれたあと、笑って立ち去った。
ハヤトはそのパンを一口かじり、天を仰いだ。
「神様……というか、祖父さん……生き延びました……」
そしてギルドの建物へ。
ファルネラ冒険者ギルド――“灰と鋼の狭間”と呼ばれるこの街の中心施設。
扉を開けると、喧噪と熱気が一気に押し寄せてきた。
「おっ、新人か?」
カウンターの奥から、陽気そうな受付の女性が声をかけてくる。
「登録? なら身分証か紹介状ある?」
「……ないです。旅人で、働けることがあればなんでも」
「じゃ、冒険者登録だね。仮登録はできるから安心して。名前、聞いていい?」
ハヤトは一瞬、言葉に詰まった。
カザマ――と名乗るべきか?
だが、父に言われた。
「この家を離れてから王都では名を出すな。ワシの敵も多い、災いを招くだけだ」
そしてカイエンも、ゲンジも――誰一人、彼に「カザマ姓を名乗れ!」とは言わなかった。
それに、今はもうカザマ神則流を名乗る資格もない
彼は木刀に目を落とす。
どこにでもある練習用の木刀。
でも、それが“今の自分”だった。
「……ハク。俺の名は、ハクです」
「ハク……ね。姓は?」
「ないです。ただのハクで」
「ふーん、変わった子ね。ま、いっか!」
こうして、“ハク”という剣士が、ファルネラの冒険者として登録された。
その名が、後に大陸に風のように響くとは――
この時、誰も知る由もなかった。