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銀のひばりと朝の夢  作者: 問島 夕生
二章 わかれみちまで手を取り合って
45/48

44 涙に溶けた遊色

 無垢で善良なるアロイジウスは、退路を失った者の恐ろしさを知らない。

 曇りなき正論が人を傷つけ、追い詰めてしまうことを知らない。

 そう、彼は知らなかったのだ。この日、()()と対峙するまでは。


「イリア王妃。……部屋へ戻りなさい」


 ウィンゼル襲撃逆用計画、決行日。

 充血した紺碧の目が、疑問を浮かべてマルゴワール公爵へ向く。


「そうなさいませ、王妃陛下。いくらお若くとも、無理がたたれば障りも長引きましょうから」


 小宮殿の書斎に集まっているのはイリアとマルゴワール公爵、そしてオーヴレイ侯爵ギュスターヴ・ポルテの三人。

 彼らは気遣わしげに王妃を見つめ、口々に休息を促し、揃って席を立とうとする。


「下の会議室に空きはあるかね。なければ、わしの家でいいだろう。セヴランくんたちにも伝え――」

「だめよ、待って。いまさら段取りを変えたくない」


 イリアは慌ててふたりを引き止めた。口調こそつねと変わらないものの、所作や表情にいつもの覇気がない。

 燦々と降り注ぐ陽の光が、化粧の下へ隠したはずの消耗をあけすけに照らしていた。


「少し、寝不足なだけ。問題ないわ」

「そうは言ってもなぁ……」

「本当に大丈夫だから。……知っているでしょう。わたしは、ユーグやベルナデットほど、ヨハンと交流していなかったもの」


 あくまでヨゼフとエデリーナを介した繋がり。はじめて会ったときは怯えられ、次に会ったときも人見知りをされた。

 かわいらしい坊やだと、親しみは持っていたけれど、親しくはなかった。だから、さほど打ちのめされてはいない。

 感情を奥へ追いやった顔で線を引く王妃が、老紳士たちの目に痛々しく映る。


 ヨハンとの縁は薄くとも、彼女がエデリーナを娘も同然に扱っていたことは明らかだ。

 母を亡くし、弟までをも喪った少女の境遇が――その痛みを分かち合ってやれないこと、手を取り慰めてやれないことが、イリアを苛んでいるのだろう。


 ずいっと身を乗り出すマルゴワール公爵。彼がなにを言おうとしているのか察したギュスターヴが、小さく首を振って止めた。

 しゃらりと揺れるグラスチェーン。老いぼれた金色が、晩夏の光を浴びて慎ましやかにきらめいている。


 引かれた線の外側にいよう――旧友の意図を過たず汲み取った公爵は短く思案したのち、溜息を落としながら頬杖をついた。


「…………間に合って、よかったよ」

「……ええ。せめてもの救いね」


 感謝します、から始まる電信をヨゼフが送ってきたのは、四日前の夕暮れ時だった。


『娘とふたりで、静かに息子を送り出してやれました』


 絶望の輪郭を極限までこそぎ落として表された、簡潔な一文。

 思い出すたびにイリアの呼吸は浅くなり、預かり受けた荷物の重みに背骨が軋む。


 鈍い痛みをごまかすように息を吐いた彼女は、長机の木目へ視線をやりながら静かに切り出した。


「以前、ベルナデットには伝えたのだけど。…………もう、ウィンゼルに、これまでのような役目を背負わせたくないの」


 感情が先立つような口振りではあったものの、イリアは仕組み、体系、構造の話をしている。

 マルゴワール公爵が真剣な顔で頬杖を外したのは、彼女と似たような視座に立っているからだ。


「次代のウィンゼルとして、ヨゼフくんはラシーヌの長女を指名するつもりなのだろう?」

「……そう。当初は……ヨゼフ自身は、次男を養子に迎えようと思っていたそうなの。だけど……」


 ラシーヌ夫妻はヨゼフに、次男サウルではなく長女ダナエのほうが()()()()()と提案したそうだ。


「向いている、ときたかぁ……。難儀なものだ」

「……当主たりえるか否か、それだけの話ではないからね」

「オーヴレイ卿からしても、妥当な判断だと?」


 ラシーヌ伯爵家当主ダンテの大叔父にあたるギュスターヴは、丁寧な手つきで言葉を探しはじめる。


「うぅん……そうですね。妥当、なのかな。ダナエがいっとう割り切りがいいのは、事実ですよ」


 十五歳のダナエは、両親に持ちかけられた話を逡巡することなく受け入れたのだという。


「……選ぶ余地なく背負わされる実子より。自ら選び、覚悟を決めるだけの猶予が与えられるぶん、養子という立場は幸いだ。そのように話していたと、聞き及んでいます」


 立派だ、と。心がけのよい娘だと、手放しで褒めてやれない大人たちは口を噤む。

 ウィンゼルの仮面が当主、あるいは嫡子の人格を侵食していくその過程を、彼女らは目の当たりにしてきた。


 ダナエは兄や弟より仮面との親和性が高いのだろう。しかしそれは、きょうだいの中で、彼女がもっとも壊れにくいというだけのこと。


 イリアは流していた前髪を無造作にかきあげ、目を閉じたまま呟いた。


「たぶん、きっと。潮時なのよ」


 人差し指の関節で眉間をほぐし、たっぷり時間をかけながら考えを巡らせるイリア。


「これからは、ウィンゼルという番人が――」

()()がおらずとも。その鼻に、牙に頼らずとも、盤石な国で在らねばならん」


 年輪が目に見えるような声で、イリアが迷いながら紡ぎかけた言葉を力強く脚色してみせた公爵。

 彼はどうだ、と言わんばかりに口角を上げる。あとのふたりは呆気に取られたあと、苦笑いを浮かべるしかなかった。


「わしもな、事が済んだら、ヨゼフくんと話をしようと思っておったんだよ」

「……ダナエではなく、情報局が、次の番人になると?」

「ああ。先代も、そのつもりで我々に手を貸したんだろうさ」


 先代侯爵。ヨゼフの父。彼はおそらく、先王イライアスと同じ高さで世界を見渡せる唯一の人だった。

 いずれ訪れる時代の変わり目を、予見していなかったはずがない。マルゴワール公爵の返答は、イリアにこの上ない納得を与えてくれるものだった。


「いま享受している安寧は、ウィンゼルが逆徒を生み出さなかったからこそ得られたものだ。いつまでも乗っかっていられないよ」

「そうだね。礎は彼らの誠心と矜持。はじめから、危うかったんだ」

「はじめから? 何百年も前の理屈が通らなく――通せなくなってきた。そういう話じゃないか?」


 老紳士たちはああだこうだと議論をはじめる。そのさまを見るとはなしに眺めていた王妃が、突然ふたりに手のひらを向けた。


「来たわ」


 彼らはちらりと視線を交わし合い、同時に耳をそばだてた。

 誰かが書斎へ近づいてくる。気配が焦りを帯びている。

 イリアは腕時計へ視線を落とし、瞠目した。想定していた時刻より、まだずいぶんと早い。


 隣室で控えていたイリアの側近が廊下へ出たようだ。話し声がかすかに響いてくる。

 何食わぬ顔で座しながらも知らず知らず息を殺し、外の様子を窺う三人。その中で、マルゴワール公爵だけが眉をひそめていた。


「なぁ、妙だぞ。君の秘書官が人を寄越してくるはずじゃ――」


 生じた違和感が共有される前に、書斎の扉が鳴る。イリアは反射的に応じた。

 応じた口が閉じきらないうちに扉は開かれ、転がり込んできたのは。青ざめた側近と、息を切らした若い()()だった。


「……え」


 違う。計画にはない。ウィンゼル邸の火災を知らせに来るのは、王妃付秘書室が手配した連絡役のはずで。


()()()()()より緊急伝令です! 申し上げます!」


 日常が非日常となる瞬間の空気は思いのほか穏やかで、生ぬるく、なぜか見知ったにおいがした。


「アロイジウス殿下が負傷! ()()です!」


 イリアとマルゴワール公爵は席を蹴立て、扉のほうへ向き直った。

 大机を囲む全員が、それっきり身動ぎひとつせずに衛兵を眺めている。

 思考が止まったわけではない。逆だ。おおよそ人の限界に近い速度で、ひっくり返された盤面の立て直し方を計算している。


「フィオレンツァ・ロイス・ベガによる大逆です! 特例措置として、ロートス宮外郭衛兵待機所にて身柄を預かっております!」


 衛兵はイリアたちの目に動揺を凌ぐ理性を認め、ひたすらに己の本分を尽くす。


「――っ、殿下のご容態は?」

「切創が数箇所、出血多量、意識混濁。現在、応急処置を行っております!」

「……斬られたのか! どうなっている、武器の持ち込みを見落とすなど……」


 マルゴワール公爵は衛兵へ歩み寄り状況把握に努めつつ、懐から取り出した手帳へさらさらとペンを走らせる。

 公爵と入れ替わるように部屋の奥へ進んだ側近が、大机に両手をついたまま立ち尽くす王妃に寄り添った。


「イリア陛下、何卒、お気を確かに」

「……大丈夫。大丈夫よ。王陛下へ……この時間なら、まだミサフランカ城にいるはずだから、急報を」

「ギュスターヴ、これを! お前の判断で回してくれ!」


 我に返ったギュスターヴは頷きを返し、公爵がちぎって渡してきた紙切れを手に書斎を飛び出していく。

 指示を受けた側近も即座に退室し、イリアは伝令を運んできた衛兵へ秘書室から人を呼ぶよう言いつけた。


 喧騒から一転、静まり返った書斎で、王妃と公爵は席へ戻ることもできず呼吸を整えている。


「じきに、うちの部下も集まってくるだろう。イリア王妃はひとまず殿下のもとへ――」


 書架の甲板に手を置いた老紳士が言いかけたそばから、またもや廊下を走る足音が聞こえてくる。

 焦燥感に駆られたイリアは自ら扉を開け、向かってくる者の姿を確かめた。連絡役ではない。衛兵だ。先ほどとは別の。


 前触れなく顔を出した王妃に驚きつつも、彼は書斎の前で立ち止まると儀礼に則り低頭した。


「緊急伝令です。王太子殿下より、火急の言上がございます」

「……入って。このまま聞くわ、王太子はなんと?」


 人払いの必要はない。イリアはそう示しつつ、息子は会話ができるのだという事実に母として安堵を覚えていた。

 大きく息を吸った衛兵が、重責に潰されそうな声で、アロイジウスからの言付けを伝えてくるまでは。


 ――“ベガ子爵家とワロキエ伯爵家が気脈を通じ、ウィンゼル侯爵家への攻勢を企図している模様”

 ぐわん、と視界が揺さぶられたような気がした。


 ――“ルチカ妃殿下は、両家の企図を支持するかのような振る舞いを見せた”

 立っているのに、どこまでも沈んでいってしまうような気がした。


 イリアを置き去りにして世界が進んでいく。音と光が鋭さを伴って、それでいて他人事じみた距離から彼女の五感を掻き乱す。

 いつの間にかマルゴワール公爵の背中が目の前にあって、衛兵とやりとりをしている声だけが聞こえてくる。


(なにが。どうして。……なにが、起きて…………)


 切れ長のサファイアブルーが脳裏をよぎり、イリアは結い上げた髪がほつれるのも構わず頭を振った。

 無意識であろうとヨゼフへ助けを求めてしまった己を、心の中で叱咤する。


 紺碧の目にうっすら涙が滲む。しかし彼女は手のひらに爪を食い込ませ、一歩、二歩と前へ踏み出した。

 公爵が振り返る。そよともしない彼の表情が、いままさに難事に直面していることを思い知らせてくる。


 乱れ打つ鼓動は宿主へ恐怖を訴え続けるけれど、イリアは立ち止まることを許されていない。

 黙りこくることも、荷物を放棄することも許されない場所に生まれてきたのだと理解している。


「…………事実であれば。内乱準備にあたるわね」


 老紳士が丸い頬を引きつらせたのはほんの一瞬。彼はすぐに“公爵”の顔をして、重々しく頷いた。


「……いかにも」

「マルゴワール公。裏取りを任せるわ。それと」


 言葉を切り、不安を押し隠すためか唇を引き結んだ衛兵を見据えるイリア。


「側妃ルチカに禁足令を。わたしの名前で、離宮に閉じ込めて。いますぐに」


 微塵も揺らがない声で言い放ち、衛兵の背を見送る。

 いまとこれからの道を整えるためには、明瞭な視界が必要だ。靄と歪みを生むだけの涙を、王妃はまばたきで散らしていった。


 時は遡り、小宮殿の書斎に誰の姿もなかったころ――日常がまだ、日常のまま形を保っていたころのこと。


「セルジュ。母上の秘書室から返答は来たのかい?」


 整列した衛兵に見守られミサフランカ城を後にした王太子は、迎えの自動車へ乗り込むなり王太子付秘書官長に問いかけた。


 この日、ミサフランカ城では、朝からスフィーノ王国親善使節団や関係者を招いての交流会が開かれていた。

 スフィーノの王女であった祖母ライサ、父王バルトロメウスと共に出席していたアロイジウスは、当初の予定通り一足先にアイテール城へ帰還するところだ。


「はい。小宮殿での打ち合わせが終わり次第、大事をとってロートス宮へ戻られるとのことです」

「やはり、まだ本調子ではないのかな」

「ええ。明日以降のご予定も、すでに再調整を終えているようでした」

「……心配だね。お体には、いつも気遣っておいでだったのに」


 四日前、体調不良を理由に夕食の席へ姿を見せなかったイリアは、翌朝以降もほとんどの時間を私室で過ごしていたようだ。


 社交や公務の都合によっては数日顔を合わせないこともある。三度の食事も、必ず家族で取っているわけではない。

 それでも、滅多に臥せることのないイリアの不調は、否が応にも青年を心細くさせる。


 車内で直近の予定について確認を済ませたアロイジウスは小宮殿を横目にロートス宮へ戻り、まっすぐ私室へと向かった。

 使用人の手を借りて着替え、ようやくひとりきりになって人心地ついたとき、あることに思い至って面持ちを曇らせる。


(そうだ。……母上は、ルシアンのところにも顔を出していないはずだ)


 少し前に天上の庭でルチカと遭遇してからも、第三王子を取り巻く環境や母子の距離に変化はないようだ。

 イリアが臥せっているいま、使用人に囲まれていようとルシアンはたったひとりで日々を過ごしている。


 ふと、大窓近くのブックビューローへ置いていた雑誌が彼の目に留まった。

 吸い寄せられるように窓際へ向かい、何度も読み返した土産に手を伸ばし、ぱらぱらと頁をめくる。

 見せてあげたら、きっとヨハンは喜ぶだろうと考えていた。ならば、ヨハンと同い年のルシアンだって。


 躊躇いは長く続かなかった。くだけた装いで、イグニスが選んだ雑誌を手に部屋を出ていくアロイジウス。

 後ろめたさがそうさせたのか、彼は誰にも行き先を告げなかった。


「あの、ルチカさま。お気持ちはありがたく存じますが……」

「ううん、今日は譲らない。座ってちょうだい、フィオレンツァ」


 あれからしばらくが経ち、天上の庭を歩いていたアロイジウスは、生垣の隙間から見える女性たちのやりとりに文字通り頭を抱えていた。

 ホルテアの池を臨む丸屋根のガゼボ。背の高い生垣や植栽の配置も計算し尽くされた、心地よい日陰を味わえる空間だ。


 風に踊る草木のざわめきが王太子の気配を包み込む。ティーテーブルを前に攻防を繰り広げるルチカとフィオレンツァは、背後の生垣が彼を隠していることに気づいていない。


 万が一にも、再び側妃と鉢合わせることのないように――わざわざ迂回してルシアンの邸宅を目指していたアロイジウスは、せり上がってくる嫌悪感をじっと堪えている。


「内緒にしておけばいいの。お茶も、お菓子も、みんなわたしがひとりで楽しんだって思ってくれるわ。ね、隣にいらっしゃい」

(……なんという。なんと、不届きな真似を…………)


 女官や側付きを伴って散策をする。休息を取る。ルチカが享受する立場であるならば、アロイジウスとて庭の使い方に物言いをつけるつもりはない。

 しかしルチカは、側付きの少女を隣に座らせ、自分のために用意された茶菓でもてなそうとしているのだ。


 アロイジウスは冷えた怒りが全身へ及んでいくのをまざまざと感じていた。

 エデリーナやハーシュリーだって、天上の庭へ足を踏み入れたことはない。

 幼いころからアイテール城に部屋を与えられていたイリアでさえ、王太子妃になるまでけして立ち入らなかったと聞いている。


「きれいな池でしょう? ずっと見せてあげたかったの。ここなら衛兵もいないから、誰の目も気にせずふたりで過ごせるのよ」

(信じられない。あなただって、教わったはずだろう。わかっていないのか? なんのために、ここが造られたと……?)


 王族居住区からしか出入りできないよう設計され、王族のみが自由に過ごし、憩うことを許された庭園。

 命を脅かされ、神経を擦り減らした王族がほんのひととき無防備にくつろげる逃げ場を求めたことから天上の庭は生まれた。

 ロートス宮の増改築と共に少しずつ拡張され、百年近くかけて現在の広さにまで至ったのだ。


 祖先の切実な願いが気安く踏みにじられたように思えて、アロイジウスのみぞおちにひんやりとした疼痛が走る。


「……ごめんなさい。お菓子は、遠慮します。あまり……食欲がなくって」


 断りきれず、とうとうアイアン製のガーデンチェアへ腰を下ろしたフィオレンツァがか細い声で言った。


「知っているわ。このところ、いつも苦しそうにしていたし」

「……側付きとして、あってはならない失態ですね」

「そんな風に言わないで。王陛下も、あなたを友人として遇していいと仰ってくださったのよ」


 青年の気も知らず、ふたりは肩が触れるほどの近さで隣り合い、静かに語らっている。


「ごめんね、フィオレンツァ」


 ルチカの手が、少女の薄い背中へそっと添えられた。


「きっと、わたしの力では……あなたを思い悩ませるものを、取り除いてあげられない」

「ルチカさま……」

「でも、聞いて。わたしの前では、我慢して欲しくないの」


 風向きが変わる。濃い緑のにおいが鼻腔をくすぐり、息をひそめるアロイジウスの眼裏に瑠璃鳥の森を浮かび上がらせた。


「わたしたちは友人なんだから。泣いたり怒ったり、していいのよ」


 少女を労り慮る、心優しい側妃。王太子は左手を胸に当て、濁った怒りが噴き出さないよう深呼吸をする。

 ルチカの席からだって、見えているはずだ。ルシアンがひとりで暮らす邸宅の、茶色い瓦を敷き詰めた屋根が。


(相手が、違うじゃないか。……あなたが慈しみを向けるべきなのは……)


 右手の雑誌がみしりと歪む。彼は慌てて力を抜き、そっと表紙を確かめてみた。薄いしわは入ってしまったものの、目立った破損はない。


「……すみま、せ…………泣きつくつもりなんて、なかったのに」

「んもう、やっぱり。ずっと我慢していたんでしょう。かわいそうに……」


 ミルク色のアフタヌーンドレスを纏う少女が涙を拭うたび、レースをあしらったパゴダスリーブが風を孕んで揺れる。

 目を細めたルチカも、ミルク色をしたデイドレスの袖を捌いてフィオレンツァの頭を撫でてやる。


 アロイジウスは白けた顔で視線を巡らせ、木陰に設えられたガーデンベンチを見つけると座面に雑誌を置いた。


(盗み聞きについては謝ろう。でも、だめだ。これ以上、逸脱を看過できない)


 王室構成員としての分別を弁えない側妃へ物申さねば。そう決意し、大股で生垣の切れ目へ近づいたそのとき。

 泣き止んだフィオレンツァが顔を上げ、鼻声でルチカの名前を呼んだ。


「ルチカさま」

「なあに?」

「レディ・ウィンゼルは、王太子妃になりません」


 母譲りの紺碧の目が驚愕に染まる。ルチカにとっても予想外の発言だったらしく、やや裏返った声で問いかけている。


「…………そっ、そうなの? どうして? 辞退、してくれる、とか……?」

「辞退、させるんです。長男さえいなくなれば、おのずと……レディ・ウィンゼルが跡継ぎになる。()()()彼女は、王太子妃には、ならないです」


 聞き間違いではなかった。それどころか、明確な害意を匂わせるものだった。

 脈打つたびに眼球が揺れる。自制の効かない震えに襲われながらも、彼はフィオレンツァの言葉を何度も咀嚼し直している。


「足掻いてみたんです。間に合いそうです。……きっと、うまくいきます」

「じゃあ! わたし、フィオレンツァとずっといっしょにいられるのね?」


 悲愴に沈む青年の横っ面をはしゃぎながら殴りつけるような、ひたすらに無邪気な一撃だった。


「可能性は、高まりましたよ。わたしが選ばれるとは……再選定会議へ候補者として臨めるか、決まったわけではありませんが。まだ、道は潰えていません」

「あなたを候補に入れてもらえるよう、王陛下を説得するわ! 今度こそ、役に立ってみせるから!」


 興奮と多幸感で上擦る声。ルチカの喜びがどれほどのものか、アロイジウスから表情は見えなくとも嫌というほど伝わってくる。


「うれしい……! 頑張ってくれたのね、さすがフィオレンツァだわ。あなたって、本当にすごい。きれいで、賢くって、頼もしいんだから」

「あぁいえ、ワロキエの力も借りて……わたしだけでは、とても」

「ワロキエ? あの人たちも……協力、してくれているの?」


 ルチカは事の重大さを理解していないようだけれど、アロイジウスは当然これをフィオレンツァによる自白だと捉えていた。

 ベガとワロキエが叛心を持っている。国家が定めた王族の婚姻契約を、おそらく、私闘によって破綻させようとしている。


 生垣の影で聴覚に全神経を集中させる青年。けれどふたりは端無くも顔を寄せ、なにやら小声で話しはじめた。


「待って。誰かこっちへ来ているわ」

「そのようですね。わたし、横で控えています」

「いいのに、そんなことしなくたって……」

「いけません。ルチカさまが叱られてしまうのですよ」


 衣擦れと椅子を動かす音が聞こえ、止み、空白が生まれる。

 ほどなくして、区画を仕切る生垣の向こう――アロイジウスとは真逆の方向から二名の女官が姿を現した。


「失礼いたします。妃殿下を工房へお連れするよう、王陛下よりご下命を賜りました」

「工房? でも、王陛下は今日、スフィーノの人たちと……」

「先様が、香水事業にご興味を示されたそうで」

「そうなの……わかったわ。ああ、でも。待ってちょうだい」


 父王による間の悪い呼び出し。アロイジウスは表情を険しくするも、温和な調子で無茶を言い出すルチカにまたもや唖然とさせられることとなった。


「あのね、あなたたちの、どちらかひとり。フィオレンツァについてあげて。せっかくだから、もうしばらく池を見せてあげたいのよ」

「ルチカさま!? お待ちをっ、そのようなご無体は――」

「心配しないで。あとで王陛下に話しておくから。ね? だから、あなたたち。どちらでもいいわ。この子のいいように計らってあげて」

「……承知いたしました」


 ルチカは満足そうに微笑むと、少女に手を振りながら女官をひとり連れて去っていった。

 貴人の背中がすっかり生垣の奥へ消えたころ、張り詰めた空気に耐えかねたフィオレンツァが口を開く。


「……ついてくださらなくて結構です。わたしもすぐに、離宮へ向かいますので」

「いま戻られては困ります。妃殿下があなたに構って、出立が遅れてしまうでしょうから」


 ルチカの性分を知り尽くしている女官は、フィオレンツァの申し出を平坦な声で退けた。


「裏口から入れば、ルチカさまにはわかりません」

「……どのみち、ついていきますよ。天上の庭で単独行動を許されているのは、ヒュペリエルの名を持つ方々のみです」

「そう、でした。すみません。もう行きます――」

「――待ちなさい!」


 いま彼女を取り逃してはならない。アロイジウスは直感に従い、生垣の切れ目を通り抜けてふたりの正面へ回り込んだ。

 目を丸くしている女官の横で、フィオレンツァが短い悲鳴を上げた。現れた人物が王太子であると認識するなり、口を覆って後ずさる。


「レディ・ベガ。なにを企んでいる。……ヨハンに、なにをしようとしているんだ」

「ユ…………でん、か」

「エデリーナを引きずり下ろしたいがために、あの子を害そうというのか……? 唾棄すべき性根、見下げ果てた行いだ!」


 いきさつを知らない女官も、彼の言いようからただならない事態を察した。さりげなく立ち位置を変え、用心深く少女を見る。


「言い逃れは不可能だ。心得ておくように。君とワロキエの企みも……ルチカ妃の立場も。私が証人となって――」

「ちがっ、違いますっ! 違う、ルチカさまはなにも! ルチカさまは関係ないんです!」

「だったら! なぜ彼女は君を咎めようとしなかった!」


 狼狽する少女が張り上げた声を、真正面から粉々に打ち砕く鎚のような叫びだった。

 淡いヘーゼルの目が、こぼれ落ちてしまいそうなほどに見開かれる。


「……ルチカ妃は、ウィンゼルへの謀略を聞かされてなんと答えた?」


 息を荒げ、顔を歪め、少女へ一歩近づきながらアロイジウスは尋ねた。


「咎めたか? 止めたのか?」

「ちが…………ルチカさまは……ただ、わたしを……」

「そうだ、彼女は君を褒めてすらいた。…………あんなにはしゃいで、喜んでいたじゃないか!」


 身を震わせるほど、涙が込み上げるほどの怒りに突き動かされたアロイジウスは、さらにフィオレンツァへ詰め寄る。

 詰められた分だけ後ずさる彼女の腰がティーテーブルにぶつかり、茶器が弾んでかちゃんと鳴った。


「無関係なものか。国家秩序を乱す、非道な犯罪に……! 彼女は! あろうことか! 同調していたんだっ!」


 弁解の余地もなく追い込まれたフィオレンツァは、しきりに肩を上下させていた。

 顔色を失い、うつむき、立っているだけで精一杯といった様子だ。


 咳払いをし、乱れた呼吸を整えたアロイジウスは女官をそばへ寄らせ、人を呼ぶよう指示を出す。少女から目を離したのは、ほんのわずかな時間。

 けれど、次に彼が視線を戻したとき一帯に響き渡ったのは、身がすくむほどに暴力的な破壊音だった。


 のどかな庭園が不穏に翳る。細い両腕のどこにそんな力があったのか、フィオレンツァは椅子の背を掴み、ティーテーブルめがけて振り下ろしたのだ。


「レディ・ベガ! なにをして――」

「殿下! 近づいてはなりません!」


 ふたつの声が重なる先で、フィオレンツァの狼藉はさらに凄烈なものになっていく。

 砕け散った茶器やコンポートトレイを薙ぎ払い、クリスタルの花瓶を手に取ると何度も打ちつけ叩き割る。


「お下がりくださいまし!」


 正気を手放したとおぼしき少女から距離を取らせるべく、女官は渾身の勇気を振り絞って“王太子”をその背に庇った。


「お逃げください! お早くっ!」

「私だけでも押さえ込める。君は誰かを呼んできなさい!」

「なりません! どうか! どうかお下がりくださいっ!」


 相手は華奢な少女だ。衛兵じゃなくてもいい。人手さえあればすぐにでも事態を収められる――アロイジウスは、本心からそう思っていた。


 後悔がよぎったのは。過ちに気づいたのは。なにごとかを叫んだ少女が、泣きながら天を仰いだとき。

 たおやかな手にしかと握られた花瓶の鋭利な残骸が、陽光の中でプリズムを放ちながら振りかざされたとき。


 はじめに動いたのは誰だったのか、当事者たちでさえ思い出せない。

 恐慌と混沌の渦に叩き落されようとしている、断絶の一歩手前。

 アロイジウスの目に映っていたのは澄み渡る青空と、七色にきらめく凶器の切っ先だった。


「――衛兵さん! お庭がおかしいのです!」


 同じころ、ロートス宮外郭に位置する衛兵待機所へ、ふたりの年若い女性が現れていた。


「わたしたち、離宮の洗濯場に配属されている者なんですけど……」

「なにかがこう、割れる音ですとか……とにかく、いつもは静かなのに、さっきから様子がおかしくって!」

「えぇと、離宮を背にして、正面よりちょっと左……? そっちの、奥の方から、物音が……」


 女性が悩みながら見当をつけた位置は、第三王子ルシアンの邸宅がある区画だ。

 居合わせた者たちはすぐさま連携し、静電気に似た危機感を駆動力に変えて駆け出した。


「知らせてくれてありがとう。あぁ、君たち、雇用契約はきちんと把握しているね?」

「はっ、はい。見聞きしたことは、けして外部へ漏らしません!」


 よろしい、と言い置いた衛兵も身を翻し、同僚を追って待機所から走り去っていった。


「池のほうだ! あっちから声が聞こえる!」


 庭へ面した窓がいくつも開け放たれ、誰かが指をさし、誰かが叫び、その誰もがうろたえている。

 波紋は静かに、そして確実に広がり、ロートス宮を隅々まで飲み込もうとしていた。


「大逆にございますっ!」


 駆けつけた者はみな、悪夢に等しい光景を見せつけられ絶句する。

 ティーテーブルは無残に荒らされ、至るところがどす黒く染まった芝生にはきらめく破片が点在している。


「ベガの娘が、殿下を……っ! 大逆にございます!」


 手傷を負った女官が全身でのしかかり取り押さえていたのは、両手やアフタヌーンドレスをまだらに赤く染めた少女。

 違う、違うと泣きじゃくる少女は、側妃ルチカが贔屓にしているベガ子爵家の長女フィオレンツァ。

 そのかたわらに、血塗れの王太子が倒れていた。衣服で吸いきれないほどの出血量だった。


 女官を保護し、少女を連行していく者たちの横で、数名の衛兵がアロイジウスを取り囲んだ。

 左頬、左腕――いくつかの防御創も見える。ひとりがテーブルから剥がしたクロスを裂き、ふたりがかりで慎重に王太子の上体を起こす。


「母上に……ヨハンが、ウィンゼルが、あぶない、んだ」


 止血をはじめた彼らに、アロイジウスが必死の形相で語りかけた。

 唇のすぐそばまで開いた傷から、話すたびに口内へ血が入り込んでいく。


「ベガと、ワロキエ…………っ、彼らは、用意をして」

「殿下、息を。落ち着いて息をなさってください」

「私が……証人だ。ルチカ妃も……賛意を、示し……」


 青年の目からとめどなく溢れ出す涙は、きっと痛みのせいだけではない。


「伝えてくれ……! 頼む、母に、急いで…………っ!」


 舌がもつれ、己と世界の輪郭がだんだん曖昧になる。アロイジウスは朦朧とする意識の中で、使用人を伴い池を見つめていた末弟と行きあった日のことを思い返していた。

 王族という役割から解き放たれ、誰かの子、誰かのきょうだいとして過ごした素朴な思い出だ。


 太陽の下で頼りなく光る薄いブロンドとラズベリー色の瞳を持つ幼子。まだ四歳だったルシアン。

 無口で大人しい彼の手を引き、アロイジウスは池の周りを散策した。

 よほど興味を惹かれたのだろう。水面から視線を外さないルシアンに、もう少し大きくなったら池遊びもできるよ、と声をかけた。

 ボートに乗って、池の真ん中で景色を楽しみながらお茶を飲むんだよ、と。


 返事はなかった。けれど、繋いだすべすべの小さな手に力が籠もったこと。ほんの少しだけ身を寄せてくれたこと。

 あのときのよろこびを、愛おしさを、アロイジウスはいまでも忘れられずにいる。嬉しくてたまらなかったのだ。


「医官はまだか!」

「そっち押さえて、もっと強く!」

「腕はむやみに動かすな! 神経をやられているかもしれん!」


 悲痛な叫びと怒号が、風に煽られた火の粉のように庭園の空気を焦げつかせていく。


 ウィンゼル侯爵邸火災発生の第一報がアイテール城を駆け巡るまで、あとわずか。

 喝采や賞賛とは無縁の舞台、失うばかりの悲哀を語る歴史劇は、誰の覚悟も待たずに幕を開けてしまった。


「………ル……シ……」


 母の行いはきっと彼を苛むだろう。血溜まりの中で、邸宅に姿を隠したままの異母弟を呼んだ。

 受け止めきれない痛みが意識を体の奥へ引きずり込む。アロイジウスはやがて、泣き濡れた目をゆっくり閉じていった。


 アルバライエン王国の中枢に激震が走ったこの日――またたく間に時は過ぎ、夕焼けが迫る空の下。


「どうして? 僕も行きたいってば。どうしてだめなの!」


 ラシーヌ伯爵邸の玄関ホールで、三男ダリルがじいやの袖を掴み猛烈な勢いで抗議をしていた。

 きっかけは急遽決まった父の外出。慌ただしく飛び交う会話の中から、聞き捨てならない名前を拾ったためだ。


「旦那さまは、重大な用向きのためにお城へ行かれたのですよ」

「でも、さっき父さまはウィンゼルって言った! 僕ちゃんと聞いたんだから! ねえ、ヨハンになにかあった? どうして誰も答えてくれないの!」


 腰をかがめて諭すじいやを引っ張って揺さぶり、ダリルは不安をあらわに言い募る。

 手紙の返事もエデリーナによる代筆で、待てど暮らせどヨハンが復調したという知らせは訪れない。

 そこへきてこの騒ぎだ。良からぬことが起こっているに違いないと、幼い子供でも勘ぐってしまうだろう。


「ダリル。こちらへいらっしゃい」


 粘る弟のもとへ駆けつけたのは、ラシーヌ伯爵家の長女ダナエ。

 じいやへ素早く目配せを送ると、玄関ホールから頑として動こうとしない七歳離れた弟の正面にしゃがみ込んだ。


「聞き分けなさい。父さまはわたしたちに留守を任せてくださったのよ。わたしたちで、母さまをお支えするの」

「姉さま、でも――」


 いまだかつて見たことのない厳しい表情で首を振るダナエに、ダリルは渋々頷いてみせた。


「お部屋に戻りましょう。みんな集まっているわ」


 立ち上がったダナエは弟の手をむんずと掴み、邸の奥へ向かって歩き出す。


 もう小さな子供じゃない。手を繋がなくたって逃げたりしない。みんな(使用人)に見られるのは恥ずかしい。

 ダリルは機嫌が悪いとき、そう言って兄や姉の手を振り払ってきた。

 それなのに、彼はいま文句ひとつぶつけることなく、呆然と姉を見上げながら足を動かしていた。


 いつかの冬、ヨハンと駆け回った真っ白な庭、瑠璃鳥の森。

 あのとき触れた雪を連想させるほど、ダナエの手が芯まで冷えきっていたからだ。

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