43 哀悼歌はまだ聞こえない
磨き上げられたガラス越しに風の音が聞こえる朝。
いつも通り食事を済ませ私室へ戻ってきたマグノリアは、いつも通り窓辺のシングルソファへ腰掛けていた。
淡い茶色と白を基調とした、清潔で、静かなだけの部屋。
いつも通りに外を眺めているマグノリアは、いつも通りに幸せだった遠い日々を思い出して――いるわけではなかった。
窓に反射した己と視線が合い、唇をわずかに歪ませる。兄マリアーノが通達もなしに別邸を訪ねてきたのは数日前のこと。
彼と交わしたやりとりが、蓋を閉めても鳴り止まないオルゴールのようにマグノリアの内側で響き続けている。
小さな胸騒ぎはやがて苛立ちへ置き換わり、いまもなお彼女の神経をあらゆる角度から逆撫でしていくのだ。
『――もうひとり産めと。そう仰っしゃりたいのですか?』
ヨハンが死に瀕している。マリアーノ自らが足を運んで伝えたのは、妹を完膚なきまでに諦めるためだったのかもしれない。
『……なにを…………なぜ、そんな話に……』
正面のソファで顔色を失っていく兄へ、マグノリアは抑揚のない声でさらに言い立てる。
『ウィンゼルにはまだ、長女がいるではないですか。長女に継がせればいいのです』
『マグノリア……そうじゃない。そういう、話では、ないんだ』
『妃になんか、ならなければいい』
彼女の目は少しずつ、けれどたしかに淀みはじめる。その奥底には、兄をすくみ上がらせるだけの宿怨が見え隠れしていた。
マリアーノはひとりでに震える唇を手のひらで押さえ、しばし息を整えることだけに集中する。
『…………他意はないよ。君はウィンゼル侯爵夫人で、ヨハンの母だ。だから、知らせに来た』
『そうですか』
グラスへ手を伸ばし、目を伏せたまま口内を湿らせるマグノリア。先ほどまで滲ませていた剣呑な気配はもう感じられない。
マリアーノは溜息に引きずり下ろされるようにうなだれ、妹と同じバターブロンドへ手を差し込みゆるくかき回した。
『なあ、マグノリア。……君は、なにがしたかったんだ』
しばらくが経ち、やっとの思いで頭をもたげた兄は問う。
『……なに、って』
『いや、ごめん。聞くまでもなかった。わかっているよ。ファウスト殿をいまでも想っていて……。そんなの、むかしから知っている』
聞いているのかいないのか、眠たげな顔で兄を見つめ返すマグノリア。
マリアーノはふと、亡き母がかつて『絵画へ向かって必死に語りかけているみたい』と嘆いていたときのことを思い出していた。
『気持ちはわかるんだ。本当に。……父上も、母上も。君の想いそのものを否定したことはなかっただろう?』
両親のように、自身もまた、虚しさ以外の後味を知ることなく妹と道を分かつのか――内心で虚しく自嘲する彼の問わず語りは続く。
『僕だって、はじめから妻と心を通わせていたわけではないよ。お互い、違う誰かを胸の真ん中に座らせていて……似たような夫婦は、たくさんいると思うけれど』
並び立ち、ぎこちなくも手を携え、歩幅を合わせようと努めながら過ごしてきた十数年。
それはけして特別ではない、ありふれた挑戦だった。しかしマリアーノは、誠実に挑んできたことを少なからず誇りに感じてもいる。
『……マグノリア。父上がよく仰っていただろう。誰も、望んだ通りになんか生きられない』
すっ、と視線が逃げていった。マグノリアはうつむき、物憂げに自分の腕を撫でている。
これは独りよがりの説教。徒労に終わることもわかっている。しかしマリアーノは、愚直なまでに言葉を尽くそうとした。
数え切れないほど繰り返してきたがゆえの習慣、反射に近い行いでもある。
『現実と折り合いをつけなければ、どこへも行けないから。……誰だって、悩みながら……それでも。与えられた立場と、果たすべき役目に、向き合っているんだよ』
『……これ以上、わたしになにを求めるのですか』
穏やかで、それでいて突き飛ばすような声が放たれ、部屋から一切の音が消えた。
ここから先へは踏み込んでくれるなという、明確な拒絶が示された。
『嫁ぎましたでしょう。子供だって産みました。ふたりも。……これ以上、どうしろと?』
頬へ手を当てた彼女は、ほとほと困り果てている、といった態度で嘆息を漏らす。
『どうしろも、なにも……いまの君は、ウィンゼル侯爵夫人だ。その立場を――』
『結構よ。もうたくさんです』
語調を強めて兄の言葉を遮るマグノリア。ソファの背へぐったりともたれ、手の甲で目元を覆い隠し、つねより低い声で呟いた。
『……あの人を諦めるくらいなら、死んだほうがましだわ』
耳へ届いた音を情報として受け取るなり、マリアーノは立ち上がって声を荒げてしまった。
『いい加減にしなさい! なぜそんなことが言えるんだ! ヨハンがいまどんな――』
『お黙りになって!』
マグノリアもすかさず上体を起こし、彼を睨みつけながら怒鳴り返した。
『その子だけが哀れなのですか? わたしだって、未来を取り上げられたのに!』
温厚な兄とうつろな妹。これがはじめての、そして最後の兄妹喧嘩であるという自覚はどちらにもない。
人間らしく感情を剥き出しにした彼女を、マリアーノが驚愕の表情で見下ろしている。
勢いを削がれた兄へ向かって、マグノリアはひたすら心のままに叫ぶ。
『サンテリス号のせいよ! あの事故さえなければ、ずっとファウストのそばにいられたのに!』
『…………あぁ……』
『ねじれてしまった道を、あるべき形へ、戻したいだけなのに…………っ!』
相槌や同意とはほど遠い呻きと共に、マリアーノは肩を落とした。爪先が凍りついたように痺れ、痛み、体の軸がぶれる。
一方で、大声を出したことなどないマグノリアは苦しげに咳き込みはじめた。口元と胸を押さえ、荒い呼吸を鎮めた彼女は再び兄をねめつける。
『…………何度だって言います。死んだほうがましよ』
『……やめてくれ』
『わたしの心は彼が持っていました。一目でわかったわ。……やっと見つけて、幸せで……っ。これからは……幸せに、歩いていけると、思ったのに』
丸くて、少しだけ目尻の垂れたライトグレーの目は潤んでいた。熱に浮かされる甥のそれと重なって見え、彼は奥歯を噛み締める。
『……だからって。手の中にある縁を、蔑ろにしていいはずがないだろう』
マリアーノは悲しみに塞がれそうな喉を開き、胸中の濁流から拾い上げた言葉を差し出した。
『関わった人たちを、傷つけていい理由になんか。……絶対、ならないんだ』
不服そうな顔で首をひねる妹。ついぞ埋まることのなかった隔たり、底なしの溝へ、無力な涙声が吸い込まれていく。
その後、マリアーノは彼女に背を向け、一度も振り返ることなく別邸を後にしたのだった。
窓際のマグノリアは、あのときの兄の背中が眼裏に焼きついていることを奇妙に感じていた。
ファウストの顔を浮かべても、声を思い出そうとしても、打ち消すように差し挟まれる無用な記憶。
脳天気な晴れ空すら忌々しく思えてきたとき、マグノリアの耳にノックの音が飛び込んできた。
いちいち応えることも億劫な彼女は、返事の代わりに卓上ベルを振る。扉はすぐに開かれたようだ。
現れたのは別邸に置かれた使用人ではない。仕立てのいいスーツを纏った、ヨゼフより年若いと思しき赤毛の男性。
「奥さま。お迎えに上がりました」
「――? 誰、あなた」
聞き慣れない声に小さく体を跳ねさせたマグノリア。バターブロンドを揺らし背後へ向くと、男性を胡乱な目で観察しつつ誰何する。
「プリューセン本邸南館の設備工事は本日午後より。お立ち会いを」
彼は名乗ることなく、微笑みひとつ浮かべず、淡々と用件のみを告げた。
ウィンゼルに仕える者か、と解釈したマグノリアはとたんに興味をなくし、再び男性に背を向ける。
「…………知らないわ」
「申請書は奥さまが通したようですが」
「本邸の者が取り計らうでしょう。行きません」
「さようでございますか」
にべもない態度で言い捨て、もう振り返ろうともしない彼女のほうへ、男性はゆっくり近づきはじめた。
彼の目はマグノリアを見据えたまま。優雅とも形容しうる所作で懐へ手を入れ、なにかを取り出しながら。
「無作法な人。出て行って――」
別邸を取り囲む庭園から視線を外し、マグノリアは男性へ向き直る。
ライトグレーの目が身に迫る脅威を正しく認識したのは、彼が引き金へ指をかけた、まさにその瞬間のことだった。
銃声は間を空けて二度響いた。破裂音の余韻が抜け静寂を取り戻しつつある部屋へ、体格のいい茶髪の男性が顔を出す。
「終わりましたね」
「運び出すぞ」
あとから入室してきた男性がシーツを床に広げると、ふたりは事切れたマグノリアの体を包みはじめる。
しかし、開け放たれた扉の向こうからかすかに物音が聞こえ、赤毛の男性は小声で問いかけた。
「……シャンタリオンの使用人は全員撤収させたんだろう?」
「確認済みです。いまのは情報局から差遣された人ですよ」
「あぁ……そうか、証拠品の回収か」
紐で何箇所か縛った亡骸を茶髪の男性が担ぎ上げる。彼らは足早に部屋を出て、迷うことなく別邸裏の通用口を目指した。
静まり返った邸内を進んでいくと、通路の先でブロンドの男性が待ち構えているのが見える。
「本邸への報告、完了しました」
彼は赤毛の男性へそう伝えつつ通用口を開け、ふたりが裏庭へ出るまで扉を押さえた。
すぐそばの梢でくつろいでいた小鳥が驚き、さえずりを残して飛び去っていく。
「残り四名の状況は届いていたか?」
「はい。明け方、南館地下へ連行後に始末したそうです」
端的に情報をやりとりする間も彼らの手足は止まらない。
荷台へ遺体を積み、全員が乗り込むやいなや馬車はなめらかに動き出した。
「始末命令が出ていたの、夫人だけじゃなかったんですね」
「相手が誰であってもわざわざ苦しませることはないという、閣下のご慈悲でしょうか」
ひととき緊張の糸を緩ませ雑談を交わすふたりの前で、赤毛の男性が珍しく口角を上げる。
「あれ。違いました?」
「いや、いい。建前としては間違っていない」
「なら、実のところは」
「……逃さないよう先に仕留めておけ、ということだ」
技師を騙る者が南館へたどり着くまでに、整えておかねばならない支度はまだいくつもある。
ヨゼフの部下たちを乗せた馬車は、にぎやかな王都の日常へするりと紛れ、誰に見咎められることもなく消えていった。
それから数時間が経ったころ。メイフローネの南西に位置するスエラという街、オーヴレイ侯爵夫人が保有している邸宅にて。
ベガ夫妻を招いてのささやかな午餐会を終え、ベルナデットはふたりを風変わりな六角形のサロンへ案内していた。
ウォールファウンテンを循環する水音が軽やかに響く部屋。ハイバックソファへ並んで掛ける夫婦に、貴婦人の意味ありげな笑顔が正面から向けられた。
「実はね、ワロキエ伯のご友人からも、あなたたちと似たような相談を受けているところなのよ」
猫背のファウストはやや前のめりになって、隣にいる妻を窺う。
じっとしていなさい、と表情で叱られたような気がして、すぐに姿勢を戻したけれど。
「わたしの判断で名を明かすわけにはいかないから、そこは追及しないでちょうだいね」
前置きを済ませたベルナデットは手元の紙面へ視線を落とし、ときおり膝に置いた資料を確認しつつ口を開いた。
「ディルク殿は……“彼なら親身になってくれる。妃殿下の心強い味方だ”と言って、ファウスト殿と引き合わせた。ルチカ妃は、そのように話していたのよね?」
「はい。主旨としては」
「一方であなたには、“妃殿下からのお声がけだ”とだけ伝えた。要は、仄めかしがあった。間違いなくて?」
唇を引き結んで頷くファウスト。しゃらしゃら流れる滝と紙の擦れる音だけが、やけに大きく響いている。
「ケンダル邸の大広間から、あなたは誰に、どこへ誘導された?」
「庭の一角にある、離れです。ケンダル伯ご本人と、ワロキエ伯の従弟殿と……」
目線だけ正面へ投げていたベルナデットは、彼が話し終えてから一拍置いて指摘を入れる。
「食い違うのはここね。ご友人は、離れへ案内したのはグリゼルダだと話していたわ」
「それは……自分の記憶だと、二度目、のはずです」
「……わかった。大筋で齟齬はないようだし、九年も経てば多少の記憶違いは致し方ないでしょう」
彼女は書類をまとめ持ち、軽く整えてからテーブルの端へ伏せ置いた。
「レディ・ベガがなぜ王家との縁を切望していたのか。そろそろ、見えてきたんじゃなくって?」
「……ええ、ようやく」
唐突に話を振られたテレーゼは、疲労が透けた微笑みを添えてベルナデットへ応える。
娘を突き動かしている感情、その正体を、母は保護欲と愛着に不純物が混ざった成れの果てだと結論づけた。
「まさか、混じりっけなしの友好関係を築いていただけとは……立場のみならず、年齢だって離れていますから」
「あのふたり、会うときは必ず服の色を揃えているんですって。ただ仲良しなだけ。イリアさまも、そこは疑っておられないわ」
ピーコックグリーンの目が隣で悶々と考え込む夫へ向く。彼はまだ、娘の真意を掴みあぐねているらしい。
「フィオレンツァは、妃殿下の後ろ盾になろうとしているのよ」
「…………そんなの。それなら、妃にならなくたって……やりようは、あるだろうに……」
「その通りね〜。あなたに言われると腹が立つけど、その通りなのよ」
唖然とした顔で細切れに語るファウストへ、すかさず貴婦人が切り返した。
朗らかな声色ではあったものの、棘を隠す気はさらさらないようだ。
「たらればは好まないわ。でも、ファウスト。あなたは彼らの提案を、一蹴することだってできたはず」
十三歳のフィオレンツァを、側妃ルチカの話し相手として取り立てる。それは当主ファウストの許しがなければ実現しえなかったことだ。
「親ソルニア派に弱みを握られている。だけどそれって……お互い様じゃない? ねえ?」
貴婦人とテレーゼは同時に苦笑し、同時にカップへ手を伸ばした。
失望すらされていない。そこに気づいたファウストは、傷口もないのに生じる痛みを無抵抗で受け入れる。
テレーゼが感情のままに夫を責め立てる人物だったなら、彼はきっと苦痛の中に身を置くことで安堵を得られただろう。
かちり。ソーサーとカップで鳴らす小さな音を、ベルナデットは場を仕切り直すために使った。
「ファウスト殿。情勢次第で覆ることは前提として……あなたと妃殿下の過去は、表沙汰にならない。わたしはそう考えているわ」
なぜ、という戸惑いを彼が見せなかったのは、ベルナデットの見解がテレーゼのそれとまったく同じものだったからだ。
「首さえ差し出せば片が付く時代でもなし。……とはいえ、覚悟だけはしておいでなさい。きっかけがどうであれ、あなたは当事者のひとりなのだから」
「はい。けして、許されようなどとは思っておりません」
「……そう。なら、あえて聞くわね。ルシアン殿下の行く末を、想像したことはおあり?」
テレーゼが腿を覆う布地を強く握り、ファウストは血相を変えて腰を浮かせた。対策だけは、万全を期していたはずだったのに。
「……ま、お待ちくださ、あの」
「わからないのよ。わからなくて、わからないまま、ここまで来てしまった」
ベルナデットの眼差しがファウストの痛点を貫く。
第三王子ルシアン。ラズベリー色の目とクリーミーブロンドを持つ、生母ルチカの面影を色濃く宿した男の子。
彼は王族居住区から出たことがない。ほんの一握りの者しか、容貌を知らない。
イリアは悩みながらも庇護しようとしている。ゼーレワイスやウィンゼルは、なかったことにしようとしている。
アロイジア門の向こう側でどんな思惑が渦巻き、誰が奔走しているのか――ファウストには、知る由もなかった。
「あなたの子ではないと、証明できて?」
罪の深さを測るような重くて長い沈黙が、六角形の部屋に満ちていく。
正解も、最善も、すべてを救ってはくれない。取りこぼされるものは、必ず現れてしまうのだ。
「…………不毛な問答ね」
やがてベルナデットはそう言って、目を伏せながら笑った。
教え子たちの未来から陰りを取り払うため、燻る心を押し隠す。
穏やかさを纏い直した彼女は、紙束を持ち上げることで聞き取りの再開を知らせた。
「テレーゼのことは心配しないで。わたしに任せておけばいい」
しばらくして、ラバトリーへ向かうテレーゼを見送ったベルナデットは、扉が閉まるなりファウストを見据え言い放った。
「離縁するのでしょう?」
「彼女は、そうするつもりで。はい。……いずれ、そう遠くない未来に」
「……念のため言っておくけれど。カンパネラって、キアロには及ばずとも強く縁組みを望まれる家なのよ?」
英雄ヴィルマー。ファウストの世代からすれば、すでに“伝説”にも等しい存在だ。いまでも人々から親しまれ、縁の地には銅像も建つ。
ベルナデットは、そんな英雄の生家とテレーゼの生家――カンパネラ男爵家を当たり前のように並べていた。
「彼らは自分たちが目立つことを良しとしないだけ。それでも、家系をずうっと遡れば、戦乱期に国境を守り抜いたドレストア侯爵家が本流でしょう」
血は確かで、気質は堅実。義理堅くって、時流を読む目も冴えている――貴婦人が列挙した美点はまさしく妻そのものを指しているようで、ファウストは静かに得心していた。
「テレーゼがベガとの婚約続行を望んだから、あのときは口を挟まなかった。でもね。わたし、このありさまに怒っているんだから」
「お怒りは、ご尤もです。兄ならともかく……自分には、もったいない人でした」
渋面を作るベルナデットはじいっと彼を観察し、揺さぶるために語りかけた。
「離縁が成立したら、マグノリアは跳び上がってよろこぶでしょうねぇ」
「――えっ? よ、よろこばれても。困ります。彼女とはもう、なんの関係もないんですから」
目を見開いたファウストは両手を振って否定する。
「本当に? 交流のひとつもないの?」
「ないです、一切ございません。すれ違う程度なら……あったかもしれませんが。それだって、伴侶を同伴している場に限られます」
ふぅん、とすげなく返したベルナデットへ、今度はファウストが質問を投げかけた。
「……ウィンゼル夫人は…………やはり、いまも自分にこだわっている、ということですか?」
「よっぽどお好みだったのでしょうね。あなたのきれいなお顔が」
うぐ、と吐息で唸った彼は、彫刻のような顔を露骨にしかめてしまう。
「ベガの美という美を結集した奇跡、だったかしら。先代子爵の、おなじみの語り草。懐かしいこと」
目の辺りは曽祖父。口元は母。鼻筋は祖父で、眉の形や生え際は肖像画に描かれた七代前。
ファウストがいるとき、いないときだって、彼の父はお決まりのように笑ってそう話していた。
「お恥ずかしい限りで……祖父や兄も、よく便乗しておりましたし」
「恥ずかしいものですか。下卑た噂があなたの母君を悩ませることのないよう、わざとおどけていらしたんでしょうに」
叱るような口調で諭されたファウストは、ぽかんと口を開けたままベルナデットを見つめる。
「……嘘でしょう。ねえ、まさかあなた」
「……そんな意図が、あったとは」
「…………だからつけこまれるのよ……」
「……返す言葉もございません」
良くも悪くも、根が素直すぎる。彼の性質を知ったベルナデットは脱力し、肘掛けに預けた腕で頭を支えた。
「身の丈にそぐわないものばかりを与えられて、結局、このざまなんです。思慮も、器量も……なにもかもが足りなかった」
「よくわかっているじゃない」
「はい。いまは、誰よりも、わかっているつもりです」
泣きそうな顔で笑うファウストを前に、ベルナデットは呆れを含んだ溜息をつく。
嫌味でちくちく刺す気も失せてしまったところで――はたと思い出した。
「…………遅いわよね?」
「…………遅いですね?」
「ちょっと様子を見てくるわ」
揃って首を傾げたあと、ベルナデットはファウストを置いて扉へ向かった。
「まあっ、テレーゼ!?」
廊下へ顔を出すなり大声を上げた彼女は、ぱたぱたと駆けていく。ファウストも何事かと立ち上がって、不安そうに後を追った。
「どうしてしまったの、テレーゼ!」
「え――」
サロンを出た彼は、あまりの驚きに声を発することができなかった。
扉からそう遠くない位置で床に座り込み、いまにも倒れ伏してしまいそうな妻。
その体を、ベルナデットの秘書を務める女性が支えていたからだ。
「なんてこと! ひどい顔色だわ。医師を呼んだほうがいいかしら……」
膝をつき、テレーゼの顔を覗き込みながらベルナデットは言う。
「あの、ベルナデットさまっ。いましがた、ギュスターヴさまから急報が届いたのですが」
「ギュスターヴから? 今日は登城しているはずよね。あなたもどうしたの。そんなに、慌てて――」
言い終える前に、ベルナデットは全身からじわりといやな汗が滲み出すのを感じていた。
アイテール城。夫。急報。テレーゼの異変。点と点、その配置を俯瞰して浮かび上がる輪郭の不穏さに、くるみ色の目が揺れる。
テレーゼの肩を抱く秘書の左手も震えていた。ベルナデットは押し黙ったまま、差し出された封筒を引き取る。
しかし、内容を確かめるのが恐ろしくて、躊躇いが指先を鈍らせてしまう。
「わたくしの落ち度です。モーガンさんへ電信を回さねばと、口頭で補佐役に伝えていたところ、ベガ夫人が通りがかって……申し訳ございません!」
深々と頭を下げる女性。その横で、テレーゼは焦点の合わない目で虚空を――狼狽えて中腰になったまま固まる夫の脛辺りを見つめていた。
(あぁ。だめ。いつまでもこうしてはいられないわ……)
まなじりを決したベルナデットは立ち上がり、封筒から電信を取り出した。
記されていたのは、たった一行。叩きつけられた事実の重さに、四肢の先端から血の気が引いていく。
「ベルナデットさま……? いったい、なにが」
この場で唯一、まだなにも知らないファウストがおそるおそる問いかけた。
息を詰めたまま振り返ったベルナデットは彼を見て、くしゃっと表情を歪ませる。
「…………レディ・ベガが……」
言葉はそこで断ち切られた。苦しげに顎を反らし、目を閉じた彼女は、受け入れ難い現実をしゃがれた声で絞り出す。
「アロイジウス殿下を……斬りつけたわ」
脳天をつんざくような耳鳴りが、ファウストから平衡感覚を奪った。
よろめいた彼は壁へ手をつき、喘ぎながら、はらはらと床へ落ちていった電信を凝視する。小さな文字は読み取れない。
ファウストはもう一度ベルナデットを見るけれど、両手で顔を覆った彼女は何度も頭を振っている。
やがて彼は、覚束ない足取りで妻のほうへ歩きはじめた。ぴくりともしなかったテレーゼが、緩慢に夫を見上げる。
感情も血色もこそげ落ちた彼女の面持ちは、どういうわけか幼さすら帯びていた。
「テレー、ゼ……」
名を呼ばれた妻は、数秒の空白を経て、小さく首を振ってみせる。
風になびくクリーミーブロンドを幻視するファウスト。
母とよく似た華奢な背中が、幻なのに、遠ざかっていく。
「――ぁ。あ、あぁ……っ。…………離縁してくれぇ!」
掠れた咆哮が空間を震わせた。崩れ落ちたファウストは這いつくばり、必死の形相で腕を伸ばし妻を抱き寄せる。
「俺のせいだ、ぜんぶ、俺だけでいいっ! 君は関係ない、だめだ、離縁してくれ!」
テレーゼに寄り添っていた秘書は息を呑み、夫の手によって乱されたブルネットの毛筋をただ見つめていた。
「ごめん、ごめん! 兄さん俺はっ、違う、フィオレンツァ、あの子は!」
割れた心の薄片がそのまま言葉となり、彼の喉を削りながら吐き出されていく。
「俺だけでいい、罰を受けるから! 頼む、だめだ、君は違う! なにも、悪くないのに……!」
「わかったわ、わかったから。一旦彼女を離してやりなさい」
「離縁します、もう、今日、いまこのとき! テレーゼは関係ないんです!」
ファウストを宥めていた貴婦人は、複数の足音が接近してくることに気づき体の向きを変えた。
現れた使用人たちは経緯を把握しているようで、女主人の手招きに従って速やかに廊下の隅へ集まる。
「隠し部屋のふたりは?」
「すでに書斎へお通ししております」
「ありがとう。テレーゼたちを客室へ」
言葉少なに指示を飛ばすと、ベルナデットは張り詰めた表情を取り繕うことなく書斎へ駆け出していった。
「イリアさまとあなたたちの家へ、急ぎ電信を手配してきたわ」
ベガ夫妻は客室のソファに掛け、息をひそめるように寄り添い合っている。
一仕事を終えたベルナデットはふたりの前に立ち、テレーゼの肩へ手をやりつつ告げた。
妻の右手を自身の膝の上へ引っ張り込み、腕ごと抱えて握り締めていたファウストが、侯爵夫人の言葉にのろのろと顔を上げる。
「俺たちの、家」
「ベガ邸に憲兵隊が遣わされたら、わたしが送った文面をそのまま見せるよう伝えてある。手荒な真似はされないはずよ」
「……っ! 感謝します……!」
パトリックたちの顔が浮かんで、彼の目はみるみるうちに潤み出していく。
ソファから離れたベルナデットは、どこへ行くでもなく室内を巡りはじめた。無意識に扉へ向かっていた視線が、彼女の足元へゆるやかに着地する。
「もどかしいけれど、城内も混乱しているでしょうから……ここで続報を待つしかない。……あぁ、もう。よりによって、ヨゼフがいないときに……」
自身へ言い聞かせるように呟いたあと、ベルナデットの口から弱音が漏れ出した。
アロイジウスの怪我の程度も、城のどこでなにがあったのかもわからない。
不安に駆られまた足を踏み出したとき、彼女を探す声が遠くから響いてきた。
「ベルナデットさま! ベルナデットさま、急報です! ベルナデットさま!」
客室の扉を力強く開け、ベルナデットも声を張り上げる。
「ここにいるわ、こっちよ! ギュスターヴから? 殿下の容態は?」
「いえっ、モーガンさんからです!」
困惑に眉をひそめるベルナデット。受け取った電信へ目を通すよりも早く、使用人が半ば叫ぶように告げた。
「瑠璃鳥の森で、火災が発生したそうです!」
「…………なんですって」
腹の底へ響くような低い声で呟いたきり、ベルナデットは硬直してしまった。
テレーゼも、ファウストも、畳み掛けてくる変事に目を剥くことしかできない。
三人の視線を一身に浴びた使用人はひるみつつも、懸命に詳細を伝えた。
「プリューセンの、園芸協会の方が、知らせてくださったそうなんです! おそらく、燃えているのは、ウィンゼル侯爵邸ではないか、って……!」
ベルナデットの脳裏に淡い水色の建物がよぎる。あれは、侯爵邸でもっとも古い、木造建築だ。
よろよろと手近なソファへ沈んだ貴婦人は、身振りで使用人を下がらせた。
(……エデリーナ。ヨハン。……あの子たちは、大丈夫。きっと。必ず、守られるはず…………)
ウィンゼルが選び抜き、育て上げた使用人たちなら、当主が不在であっても適切な行動を取れるだろう。
信頼は揺るがない。けれど、ベルナデットの左胸は警鐘を鳴らし続けていた。
取り返しのつかない破局が迫っている。それは直感というより、見込みに近いものだ。
ベルナデットはテレーゼを見る。彼女もまた、予感ではなく推測によって思い当たってしまった可能性に、打ちのめされている。
膝の上に置いた二通目の封筒は、まだ開けられそうにない。くるみ色の目は、力なく窓の外を――どこまでも広がる美しい空を見つめていた。
同時刻。プリューセンの晴れ渡る空に、おびただしい数の火の粉が舞う。
芝生にはペールや水差し、バケツがいくつも転がり落ち、ささやかな水溜りを作っている。
使用人はみな一様に顔をこわばらせ、炎に蹂躙される南館を見つめていた。
すさまじい勢いで水色の家屋を舐め尽くした火は、いままさに装飾塔の真下、四階の部屋まで及ぼうとしている。
「消火栓はこっちだ!」
「離れて! 全員、ここから離れなさい!」
本館や森へ延焼する危険性は低いと思われるものの、真っ先に駆けつけていた警備隊員が使用人らを正門付近まで遠ざけた。
革のコートと真鍮のヘルメットを身に着けた男性――プリューセン消防大隊の隊員たちは、乗り付けたばかりの消防馬車からホースを引き、声を張り上げつつ走り回っている。
「侯爵閣下は!?」
「不在です! 取り残されているのは――」
森で訓練をしていた憲兵隊員と現状確認をしているのは、ヨゼフから留守を任されているトマス。
焦燥感に追い立てられ、現場はただただ騒然としている。もはや、誰が演技をしているかなど、区別のしようがないほどだった。
赤々と燃え上がり、黒煙を吐き出し、乾いた悲鳴を断続的に上げる建物。茫然と立ち尽くす使用人たち。
やがて、集団の先頭にいたひとりの女性が嗚咽を漏らし、膝から崩れ落ちてしまった。
「……ビビアン…………」
しゃがんでその背を撫でてやる同僚も声を詰まらせ、まばたきのたびに目を潤ませていく。
鼻を啜る音。こぼれ落ちた呻き。破裂しそうな悲しみの発露が、ビビアンを中心に少しずつ広がっていった。
轟音と共に南館の一部が崩れる。必死で立ち向かう人々の怒号が、事態の深刻さを如実に物語っている。
南館がじきに役目を終えることは彼女たちも知っていた。
うねる火と、空を飲み込んでしまいそうな煙の中には、主人へ仇なす者しかいないことも。
青い瞳を揃い持つ一家の、いちばん小さな男の子が、二度と帰ってこないことだって。もう、知らされている。
けれど。こんな形で失われていい場所ではなかったはずだ。ビビアンは顔を上げ、南館の姿を目に焼き付けようとしていた。
ウィンゼルに生まれた子供たちを守り、育んだ家が、哀しげに軋みながら焼け落ちていく。
誰かがわあっ、とひときわ大きな泣き声を上げた。それぞれが横にいる者と手を取り合い、肩を寄せ、身も世もなく咽び泣く。
そんな彼女たちの姿を、離れた場所からトマスが見守っていた。
(それでいい。……すべて、炎のせいになる。思い切り泣きなさい)
眼鏡を外し、そっと目元を拭う。事情を知らない者はみな、彼らに痛ましげな視線を向けていた。
(もう、堪えなくていいんだ)
組んだ両手を目線の高さへ掲げ、己の額を預けるトマス。
クレドへ出立する直前、エデリーナは南館への出入りを許されていた使用人を呼び寄せ、弟の手を順に握らせた。
弱々しく握り返されたあの感触と熱を記憶へ刻み込むように、彼は痛みを覚えるほど固く目をつむった。
(…………じいやも、見届けとうございました)
最期を、ではない。新しい礼服に袖を通し、誇らしげに笑う七歳のヨハンを。
八歳、九歳、十歳――老いていくばかりの自身を軽やかに追い越していく、その軌跡を。
父と並ぶほど大きく、姉を守れるほどに強く育ったいつかの未来が失われたことを、いまはまだ、誰も受け止められずにいる。




