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銀のひばりと朝の夢  作者: 問島 夕生
二章 わかれみちまで手を取り合って
43/44

42 靴擦れを隠したまま

ご無沙汰しております。

 アドアストラ鎖橋の東岸へ続く遊歩道沿いには真新しいカフェがある。

 馬車やトラム、自動車が行き交う大路のすぐそばではあるけれど、川と木々の生み出す音が喧騒の輪郭を曖昧にしてくれる場所だ。


 歩き疲れた旅客をフレーバーコーヒーでもてなす小粋な店のテラス席で、華奢な少女が道行く者たちを眺めていた。

 行き交う誰もが楽しげな笑みを浮かべ、石畳を打つ無数の靴音もどこか弾んで聞こえてくる。


(あなたも、あなたも……そっちのあなたも。……なにかを、諦めたことはある?)


 陽光にヘーゼルの目を眇め、通りすがる横顔へ言葉なく問うフィオレンツァ。

 名前も年齢も、生まれた国も知らない人々。誰を愛して、なにに傷ついて、その足でどこへ行こうとしているのか。


 風に乗って運ばれてくる異国の言葉は、王都メイフローネの街並みへ向けられた賛辞ばかりだった。


(……そうよね。きれいでしょう。美しい国でしょう)


 人波の向こう、深い青緑に染まったオムニス川を観光船がゆったりと横切っていく。

 波打つ水面は白い泡や光の粒で軽やかに彩られ、石造りの鎖橋や高欄をひときわ壮麗に引き立てていた。


「だぁ〜、もうっ。眩しすぎる!」


 生成りのクロスがかけられたテーブル越しに文句が聞こえ、我に返った少女は正面へ視線を戻した。


「なにこの日差し。真夏みたいじゃん。君、よく平気で見ていられるね」

「……だから劇場通りのカフェがいいって言ったのに。お店も席も、選んだのはディミトリでしょう」

「あっちのほうはだめだってば。どこで顔見知りに出くわすか読めないだろ」


 石畳の照り返しに顔をしかめた少年は、目元を揉みほぐしながらなおも言い募る。


「う〜、目が痛い。()()()()が急かすからさぁ……ここんところ、寝不足なんだよ」


 彼の睡眠時間を奪った張本人――フィオレンツァはつんと澄ました顔を崩さず、バニラが香るコーヒーを意味もなく匙でかき混ぜた。


「不可抗力だもの、仕方ないじゃない。それより…………ちゃんと間に合いそうなの?」


 広々としたテラス席に散らばる客は、みなお喋りや景色に夢中だ。それでも少女は辺りを念入りに見回し、身をかがめて小声で問いかける。


「ん……とりあえずなんとかなりそう」

「なりそう? それじゃ困るのよ。間に合わなかったらなんの意味もないのに」

「うるさいなぁ、なんとかするってば」


 鬱陶しそうに言い捨て、シナモンの利いたコーヒーを呷るディミトリ。

 正面から注がれる切実な眼差しには気づかないふりをして、カップを戻しつつへらりと笑む。


「でも実際、君があれこれ口出してくれた()()()で、うまくいきそうではあるよ?」


 言いようから他意を嗅ぎ取った少女は眉を寄せたものの、じっと黙って続く言葉を待っている。


「とくにほら、送り込む奴をどこで拾ってくるか、とか」

「それは――よりにもよって、あなたがあんな人を頼ろうとするから」


 数日前、少年がドラコ・シルバのコネクションから実行役を雇おうとしていることを知ったフィオレンツァは泡を食って止めた。

 自分たちが優位性を保てる相手ではないと主張し、代わりに、ウィンゼルへ侵入している内通者たちの人脈を利用するよう提案したのだ。

 悪党ではなく小悪党を。もとより危険な道ならば、より手綱の握りやすい馬を選ぶべきだ、と。


「まぁたしかにさ、密売人とつるんでるような連中が俺たちの手に負えるわけないもんね。グリゼルダさまなんか、その筆頭だ」

「ディミトリ、もう少し声を抑えて」

「誰にも聞こえちゃいないし、だ〜れも聞いちゃいないよ」


 彼は怠そうに答えると懐へ手を突っ込み、金のカフリンクスを取り出してみせた。


「それにしたって、よく思いついたよねぇ」


 嵌め込まれたシトリンが輝くそれをテーブルへ無造作に転がし、指で軽く弾いてせせら笑う。


「うちのじいさんが普段使いしてたやつなのに、みんなあっさり信じちゃうんだもん。俺がトラーヴァ侯の使()()だって」


 ワロキエの名は徹底して伏せ、ソルニア貴族トラーヴァ侯爵家の()()()()だと匂わせるよう指示を出したのもフィオレンツァだ。

 少女はカフリンクスを一瞥するとすぐに目を逸らし、歯切れ悪く呟いた。


「……前に、ルチカさまが話していたのを思い出しただけ。ソルニア王族は、固有の印を刻んだペンダントを持っているんですって」

「ふぅん。刻印なんか入ってないけどね、これ」

「入っていたとしても、市井の人間が貴族家の紋を見分けられるはずないわ」


 やたら愉しげに頷いた少年は、日差しへ背を向けるように座り直してから口を開く。


「そもそも、俺だってまともに知らないもん。トラーヴァ侯の紋やら印章なんて」

「だけどあなた、グリゼルダさまの部屋へ忍び込んでいたんでしょう。手紙のひとつくらいは残っていなかった?」

「いや、たぶんあの人も、直ではやりとりしてないんだよ」


 ディミトリが継母の私室で見つけた手紙は、ほとんどがモンフェイル子爵――トラーヴァ侯爵の弟であるグリゼルダの父親から送られてきたものだったという。

 適当な相槌で済ませたけれど、フィオレンツァは内心で少しだけ意外に感じてもいた。


「だからさ。そこも含めて、俺は素直に助けられてるんだよ」


 ふいに、空気を塗り替えるひと言が落とされる。改まったように切り出され、つい身構えてしまうフィオレンツァ。


「俺ひとりじゃ、詰めの甘さに気づけなかった。君の助言……入れ知恵の()()()なんだよね」

「…………ねえ。いったいなんなのよ、さっきから」


 彼は珍しく柔和な笑みを浮かべ、フィオレンツァの貢献を繰り返し強調する。

 せり上がる不快感に耐えられなくなった少女は、とうとうディミトリに噛みついた。


「え〜? だって。君、ずっと悲劇の主人公みたいな顔してるから」


 ――共犯者のくせに。

 彼は自身を睨むフィオレンツァへ顔を近づけ、愛の言葉を贈るが如く囁いた。

 夏の終わりを思わせる、少し乾いた風が吹く。


 ディミトリはとっさに仰け反る少女の手を握り、引き寄せ、さらに距離を縮めて言った。


「君が決めたんでしょ。誰のせいでもない。選んだんだよ、俺と組むって」

「……わかってるわよっ」


 繋がれた手を思い切り振り払うフィオレンツァ。怒りと羞恥が綯い交ぜになった表情を歪ませ、舌打ちをぶつける。

 声を上げて笑った少年はおもむろに辺りを見回し、払われた手をひらひら踊らせ給仕を呼び寄せた。


「ミントシロップある? じゃ、炭酸水で割って。あとねぇ――」


 何事もなかったかのように、平然とした様子であれこれ注文するディミトリ。

 少女はしばし呆気にとられていたものの、やがて溜息をつき、握られなかったほうの手を持ち上げてまじまじと観察しはじめた。


 傷ひとつない、柔らかくなめらかな手指を、角度や形を変えながら食い入るように見つめる。

 ほどなくして眼裏へ浮かび上がってきたのは、ラズベリー色の目をした弱々しい女性だ。


(…………足掻いてみましたよ、ルチカさま)


 彼女が紡ぐ気の抜けるような、けれど透き通った言葉たちが恋しくてたまらなかった。


(……あまり、実感はないのですが。恐ろしいことを、しでかそうとしています)


 あの頼りない声が、自身をどれほど支えてくれているのか――。いまさら思い知らされた少女は、揃え伸ばしていた指をそっと握り込む。


「ね、君もなにか食べる?」


 朗らかに問われ、フィオレンツァは肩を揺らしたのち無言で首を振る。

 テレーゼに期限を提示されたあの夜から、彼女がろくに食事を取れなくなっていることをディミトリは知らない。


(ルチカさま。あなたは、きっと……)


 覚悟なら決めたはず。腹も括ったはず。それなのに。

 心身を襲う異変が己の弱さを突きつけてくるものだから、時折無性に泣きたくなるのだ。


(たとえわたしが罪を犯しても。どれほどこの手を汚しても…………笑って、おそばに置いてくださるのでしょうね)


 懊悩から逃れるようにきつくまばたきをしたフィオレンツァの視界、その片隅を、一台の自動車が鋭く掠めていった。

 後部座席に乗っているのはヨゼフ・ガリエ・ウィンゼル。届いたばかりの息子の礼服を傍らに置き、静かに目を閉じている。


 艶を帯びた黒い車体は、彼を子供たちのもとへと運ぶべく鎖橋をひた走るのだった。


 ちょうどそのころ、オムニス川沿いの高台に建つマルゴワール公爵の別邸へひとりの客人が現れていた。

 白髪の交じったダークブロンドを丹念に整えた、齢五十ほどとおぼしき男性だ。


 彼を邸内の奥まったサロンへ案内した使用人は低頭し、静かに扉を閉める。

 室内に小さく響くのは、寄木細工の床にほとんど吸い込まれてしまったひとり分の足音だけ。


 中央に鎮座するラウンドテーブルを、大窓から差し込む光がテーブルランナーのように照らしていた。

 朱赤のカーテンが半分だけ開かれた部屋は充分に明るく、窓の外にはオムニス川も見える。


 誇示せずとも揺るがない権威を持つ公爵が設えた、ひたすら穏やかな空間だ。


「やあセヴランくん、昨日ぶりだね」


 アームチェアへ深く腰掛ける頬の丸い老紳士は、象牙と金細工で飾られたパイプを持ち替えつつ客人へ手招きをした。


「遅参いたしました。申し訳ございません」

「よいよい。ヨゼフくんとは入れ違いになってしまったな」

「そのようで。シャンタリオン伯には、いましがた車寄せでご挨拶が叶いましたが……」


 男性がラウンドテーブルのそばへたどり着くのとほぼ同時に、老紳士――マルゴワール公爵の横に座っていたイリアが口を開いた。


「連日呼び立ててごめんなさいね、コルニオラ卿」

「君のお誘いが唐突で強引なのは、いまにはじまったことじゃないだろう」


 すかさず茶々を入れるご老公と、それを睨む王妃。ふたりの向かい側へ腰を下ろし困ったように笑う男性はコルニオラ伯爵だ。

 王太子付秘書室の秘書官長セルジュの父親で、国家憲兵隊の副総監を務めている人物。


 茶菓へ手を伸ばすより先に、彼は柔らかな物腰を崩すことなく問う。


「ウィンゼル侯は、クレドの天文台へ?」

「ええ。予定通り、()()()()()()()わ」

「あそこの所長は彼の古馴染みなんだ。滞在が延びることもあろうなぁ」


 急拵えの台本をなぞり確かめ合う三人。さながら芝居の稽古だ。


「では…………南館の撤収はもうお済みで?」

(から)にはしないそうよ。燃やされてもよいものは置いていく、と」

「今夜中に、子供たちの家財と入れ替えて配置するよう手配してあるらしい」


 二巡目のやりとりは、仄めかしも建前もなし。口頭で端的に現況を共有する。


「三階にあるマグノリアの私室は――まあ、一度も使われなかったようだけど、そのままにしておくと話していたわ」


 すでにヨゼフから南館の内部構造を知らされていたコルニオラ伯爵は、顎先へ手を添えじっくり情報を咀嚼する。


「なるほど……ウィンゼル侯は、半焼で収まることも見越して準備をされたのですね」


 損壊の規模によっては、消防大隊や第三者の目にも南館内部が晒されてしまう可能性がある。

 もぬけの殻にはしておけない、と語ったヨゼフはさらに、ディミトリが仕掛ける爆発物が不発に終わった際の対応策まで用意していた。


「当日はヨゼフの部下も数名周辺に控えているから。部隊への周知をよろしくね」

「一刻も早く子供らを追いかけたかったろうに。ここまで整えて、ようやく預けてくれたんだ」


 マルゴワール公爵はそう呟きながらグラスを手で示し、向かいに掛ける彼へ一息つくよう促す。

 三者三様、思考の気配がぎゅうぎゅうに詰まった沈黙は、そう長くは続かなかった。


「……先ほど、シャンタリオン伯がひどく疲弊しておられるように見えました。もしや、妹君と話を?」


 冷たい紅茶をふたくちほど味わったコルニオラ伯爵が、車寄せで行き合ったマリアーノの様子に言及する。


「ああ。彼女のところへ立ち寄ってからここへ来たんだよ」

「昨日の時点で、外部とのやりとりを断つよう別邸の使用人に通達していたんですって。だから、ヨハンの予後を知らせにね」

「反応は……言わずもがな、ですか」


 タンパーを取り軽く火皿を押し整えたマルゴワール公爵は、豊かな煙を吐き出し終えると眉を下げつつ言う。


「お父上に似たのか、マリアーノくんも実直な(たち)だからねぇ……。さっきだって、ヨゼフくんが止めても頭を下げ続けて」

「彼、先代ベガの長男(フレイドル)と親しかったらしいの」


 妹とファウストが出会うきっかけを作ってしまった。父母の苦悩、婚家の苦慮はもとを辿れば己のせい。

 マリアーノは二十年以上もの間、絶えず自責の念に苛まれ続けていた。


 だからこそ彼は、マグノリアがヨハンを産むなりプリューセンを離れたそのときから目を光らせ続けていたのだ。


 “ウィンゼル侯爵夫人”が住まう別邸、そこへ置かれた使用人の主はマリアーノ。

 慣れないながらも妹の動向を探り、ヨゼフへ判断を仰ぎ、けして用心を怠ることはなかった。


「別邸内における情報収集は、ウィンゼル侯が主導されていたものだとばかり……」

「マリアーノくんに負うべき咎などありはせん。だが、本人にとっては、せめてもの罪滅ぼしだったのかもしれんな」


 この部屋からヨゼフが立ち去ってすぐ、マリアーノも暇の挨拶を、と立ち上がろうとしていた。

 しかし彼は憐れなほどに顔色を失い、握られた拳も力みゆえか不規則に震えている。


 少し休んでから行きなさい、と引き止める王妃と公爵へ、やがてマリアーノはうつむきがちにぽつぽつと話しはじめた。


『ずっと、まだ、あの子が幼いころから、両親は危惧していました』


 おっとりした慎ましい子だと受け止めていられたのは、ほんのわずかな間だけ。

 家族は彼女の先行きに一抹どころではない不安を覚えるようになっていた。


『……言葉は通じるのに、響かない。僕たちを見ているはずの目に、なにも、映っていない。あの子と本当の意味で向き合えたことなど、ただの、一度も…………』


 うまいこと慰めてやれなかったな、と思い返していたマルゴワール公爵は、目を伏せながらぽそりとこぼす。


「ウィンゼルへ報いるどころか、災厄をもたらしてしまったと。ひどく悔やんでいたよ」

「後添えとして迎えられたことへ……それほどまでに、恩義を感じておられたのですね」


 ファウストがテレーゼと婚約を結び直すのとほぼ同時期に、再従兄にあたるムルシア子爵家嫡男のもとへ嫁いでいったマグノリア。

 しかし、息子を産んで間もないころ夫が急逝。子を置いて生家へ戻った彼女は、寡婦として六年ほど過ごしていた。


「きっともう、よそへ出さないつもりだったんじゃないかしら」


 彼女の父――先代シャンタリオン伯爵は、元教え子ヨゼフからの申し出をなかなか受け入れようとはしなかった。

 娘が抱える底なしの情念は、いつか取り返しのつかない破綻を招いてしまうだろう。そう危ぶんでいたからだ。


「共倒れも覚悟で長男(マリアーノ)へ背負わせるか、ウィンゼルという大樹へ委ねるか。後者を選んで当然だ、誰が彼らを責めるかね」

「シャンタリオン伯にも言ったのよ。わたしがヨゼフに再婚するよう頼んだせいでもあるでしょう、って」


 人々の意志、あるいは選択が絡み合うことで現れ出る世界を、詩人や劇作家はたびたび長く巨大な織物になぞらえて語る。

 目を凝らせばようやく見えるほど細い糸の、たった一本がねじれてしまったところで。

 織り成されていく紋様をいびつに乱すことなど、できはしないはずなのだ。


「マグノリアを選んだのはヨゼフくんだしなぁ」

「そうよ。もっと言えば、王陛下がルチカを望んだせいでもあるんだから。誰かひとりが悪いなんて話じゃないの」


 ほんの一瞬だけ視線をさまよわせたイリアは、長い溜息と共に言葉を連ねる。


「……それでも。子供たちのことを思えば、やすやすと割り切れるものじゃないわよね」


 サロンの空気にしめやかな色が滲み出した直後、ノックの音が響き渡り全員の注意が扉へ向いた。


 どうやら、使用人がマルゴワール公爵へ情報局からの電信を届けに来たようだ。

 さっと目を通し、慣れた手つきで折り畳んで懐へねじ込んだ彼は、職責に引っ張られた硬い表情のままふたりへ告げる。


「ワロキエ夫人を常時監視対象とするよう言いつけてあったんだが、完了の報告だ」

「あぁ、それ。わたしも頼もうと思っていたの、助かるわ」

「やはり、逐電する可能性は高いとお考えで?」

「襲撃決行までまだ日があるでしょう。長男の企て……もしくは、マグノリアへ接触できなくなっていることに気づいたら。グリゼルダなら、真っ先に保身を図るはずよ」


 言いながら隣席へ視線を流すイリア。マルゴワール公爵は頷きを返し、王妃から話を引き継いだ。


「いざとなったら彼女は捨てるさ」


 つまんだ焼菓子を口元へ運び、けれど放り込まずに腕を下ろした彼は浅く天井を仰ぎつつ言葉を探す。


「…………婚家、愛人、一族、祖国。ありとあらゆる(しがらみ)を、きっと捨ててしまえる。根拠はないがね。そういうにおいがするんだ」

「同感よ。どこへなりとも行ってしまえばいいけれど、その前にけじめはつけてもらわなくちゃ」


 鞭をしならせるように言い放った彼女の横で、老紳士がようやく焼菓子を味わいはじめた。

 それを合図に再び茶菓へ手を伸ばす面々。ほどなくしてイリアが、言いそびれていたことがある、とコルニオラ伯爵へ声をかけた。


「ヨゼフがね。エデリーナに問い詰められて、すべて話してしまったそうなのよ」


 二日前、侯爵邸本館でヨハンの予後を知らされたマリアーノは、泣き腫らした直後にエデリーナと顔を合わせていた。


「“おじさま”を泣かせる原因なんて、坊や(ヨハン)かマグノリアしかないだろう、ってなぁ」

「その上、父親も城へ呼び立てられて。戻った途端にクレドへ行きなさい、なんて言い出したら……誤魔化しようがないわ」

「すべて、と仰いましたね。それはつまり、ご子息の余命のみならず……」


 無言のまま首肯するふたり。コルニオラ伯爵はあまりの痛ましさから顔を覆いそうになるも、王妃が居住まいを正したため深呼吸で心を均す。


「前置きが長くなってごめんなさい。今日、改めてここへ呼んだのは、誰を本件に()()()()か――コルニオラ卿。あなたの意見も聞いた上で決定したかったからなの」


 現時点で襲撃逆用計画に関わっているのは五家。イリアの生家(ゼーレワイス)、マルゴワール、コルニオラ、シャンタリオン、ラシーヌだ。


「万一ということがある。わしとしては、ギュスターヴ(オーヴレイ侯爵)には知らせたいと考えているよ」

「……そう、ですね。備え過ぎるくらいでよろしいかと。であれば、キアロへも伝えるべきでは?」

「やっぱりその二家よね。……ちょっと待って。マルゴワール公、いまの言い方って……ベルナデットは除くつもり?」


 わざわざ彼女を外して動く意味がわからない。そう言いたげに、イリアは体ごと彼のほうを向いて問う。


「君の秘書官を補佐に付けているとはいえ、ベルナデットはいまベガ夫妻の件で手一杯だろう」

「だけど……」

「彼女を頼りにしているのはわかる。だがね。もう坊やに会わせてやれないなら、伏せておきなさい」


 わずかに目を見開き、短く息を吸い込んだきり言葉を失ってしまったイリア。


「わしらとは比べようもないほど長い時間を、坊やと過ごしてきたんだ。いくら世慣れた彼女とて――」


 彼の言葉は王妃の耳を素通りしていく。ただ愕然としたまま、ヨハンを愛する者たちの顔を眼裏へ並べることしかできない。


 考えてもいなかったのだ。ウィンゼルの父子が別れの時を静かに過ごせるよう。逆用計画を無事に遂行できるよう。頭の中はそれだけだった。


 ベルナデットも、アロイジウスも。ハーシュリーや、ラシーヌの子供たちだって。

 ウィンゼル襲撃計画さえなければ、まだ温かく、やわらかなヨハンの手を握ることができたはずなのに――。


「……最期に一目。見つめ返してくれなくとも、一目。それすら叶わず、花籠を捧げてばかりだったよ」


 目の前で泡が弾けたような錯覚によってイリアは我に返る。

 挙動から彼女の動揺を感じ取っている老紳士は、痣を撫でる手のひらに似た声色で語りかけた。


「この年まで生きてきたからこそ、言えることだな。…………死に目に会えるなんて、得難い幸福だ。()()()んだよ、イリア王妃」


 言い終えるなりパイプを咥えたマルゴワール公爵は、唇を引き結びなにかを堪えているイリアからそっと視線を剥がした。

 そして滑らかな煙を口内で泳がせつつ、短く整えた爪でテーブルをかつん、と叩いてみせる。


「ともかく、だ。ベガはベルナデットに預けて、我々はワロキエとドラコ・シルバを引き受けよう。セヴランくんも、それで構わないかね?」


 力強く頷くコルニオラ伯爵。彼らはすぐさまギュスターヴとキアロ伯爵(ハーシュリーの父)への電信を手配し、来たる日のため協議を重ねて行く。

 大窓から差し込む光は、いつの間にか寄木細工の床を照らしはじめていた。


「かねてより聞き及んではおりましたが……ベガ夫人は、ベルナデットさまからそこまで目をかけられておいでだったのですね」


 集中力が途切れてしまいそうなころ、折良くサロンへ軽食が運び込まれてきた。

 小休止を入れ雑談に興じていた三人だったけれど、話題は自然と計画の関係者へ移っていく。


 イリアはいまだ尾を引く動揺を隠し、悠揚迫らぬ態度で伯爵の言葉に応えた。


「エデリーナが王妃として立つとき、そばにテレーゼを置いてやりたいんだと話していたほどよ」

「王妃陛下にとっての、ベルナデットさまのように?」


 そうね、と薄く笑った彼女は肘掛けへ体を預け、冷えてしまった指先をそれとなくさすりながら言い添えた。


「テレーゼが離縁を考えているらしいから、ここぞとばかりに囲い込むつもりかもしれないわ」

「ふむ。離縁、離縁ねぇ…………おお、そういえば」


 妙に白々しい口振りで割って入ってきた公爵を、ふたりは不思議そうな顔で見やる。


「ウルスラ王妃は、離縁を前提に母国(デュパール)へ戻られるのかね?」

「ちょっと、おじいさま」


 マルゴワールのおじいさま、と彼を呼んでいたのは遠いむかしのこと。

 けれどイリアは焦りのせいか、懐かしさと気恥ずかしさが等しく押し寄せる呼び方をしてしまった。


 ひとり首を傾げるコルニオラ伯爵。王妃らが纏う空気に緊迫感が混ざっていないことを確かめた彼は、茶目っ気たっぷりの仕草で耳を塞ぐ。


「なんだい。内緒話がしたいからうちに集まっているんだろう」

「明かすべき頃合いってものがあるでしょう。……ごめんなさいコルニオラ卿、手を外していいから。もうこの際、とことん巻き込まれてちょうだい」


 声に張りが戻ってきたことを自覚したイリアは、どこか開き直った様子で詳細を語りはじめた。


「成婚以来、ウルスラ殿下は一度も母国へ帰っていないの。三人目の孫も生まれたところだし、近々デュパール王が兄として私的に招く予定なんですって」


 ウルスラの娘、第一王女ウィニエラはデュパールの貴族家へ降嫁している。


「なるほど。実のところは?」

「きな臭い国から妹を逃がしてやろうとしているわけ。彼女の娘も噛んでいるようね」


 帰郷中に体調を崩したとして、静養を口実に滞在を延ばす。ソルニア王妃であるウルスラを保護するには、それ以外に穏便な手立てはない。


「離縁にまで至るかは……なんとも言えない。でも、何年か前から、ウルスラ殿下は本当に健康を損なってしまっている。このままソルニアにいたら潰れてしまうわ」

「なんと、初耳だ。ずっと隠しておられたのか」

「そりゃあ隠すしかないわよ。向こうの宮廷は魔窟だ、って言っていたのはおじいさまじゃない」


 腕を組み、テーブルへ視線を落としていたコルニオラ伯爵が眉を寄せながら口を開いた。


「王女殿下はみな他国へ嫁し、ここへきて、ウルスラ妃も…………。ならば、オルフェ王のそばへ残るのは、ソロン王太子殿下と」

「トラーヴァ侯爵の娘。カリスタ妃のみだ」

「グリゼルダの従姉、でもあるわね」


 第二妃カリスタとイリアは、面識こそあれどほぼ没交渉に近い。

 ウルスラは彼女に悪感情を抱いていないようだけれど、イリアが警戒を緩めるに足るだけの判断材料は揃っていなかった。


「あまり思わしくはございませんね。トラーヴァ一族が、いっそう勢いづいてしまうのでは……」

「そこはまだわからんぞ」


 よいせ、とテーブルへ肘をついた老紳士が心得たように話し出す。


「バルカ伯だとか、宮廷から追いやられた者たちが()()()の周りに集まっているじゃないか」

「道楽…………あぁ、はい。マストランジェロ公爵ですね」


 ヘクトル・スカリア・マストランジェロ。ソルニア王オルフェの祖父ギデオン二世が、自身の乳母の娘に産ませた庶子だ。

 軍に身を置き、政治とは縁遠い立場を選んで生きてきたヘクトル。退役後、趣味が高じて立ち上げた劇団には、かの名役者ルネ・マリス――ルチカの生母も在籍していた。


「マストランジェロ公って……おじいさまより少し下の世代よね? 担ぎ出すには十年遅いと思うんだけど」

「年寄りには違いないが、矍鑠(かくしゃく)としたもんだよ。いまだ役者をわんさか囲っているそうだ」

「へえ、お達者なことで。結婚しても変わらなかったのね」 

「おや。マストランジェロ公が妻帯していたとは……」


 コルニオラ伯爵が意外そうな声を上げる。


「さほど取り沙汰されていなかったからかねぇ。もう何十年も前のことだよ」

「わたしは資料で追ったけど、意図して伏せていたように思えたわ。相手は劇団で下働きをしていた女性なんですって」

「そうか、貴賤婚を。いまでこそ珍しくはございませんが、何十年も前となると……披露目を慎むのも尤もなことです」


 老紳士は柱時計をちらっと確かめたのち、控えめに肩をほぐしながら溜息をついた。


「道楽公も大概だが、ソロン殿下もなぁ。……さっぱりいい話は聞かないね」


 ヘクトルに続き、ルチカとは二歳違いの異母兄ソロンに言及する公爵。

 ソロンを産んだ第三妃ポレットはすでに亡く、トラーヴァ侯爵の庇護下で育ってきたという謎多き存在だ。


「昨年、いえ、一昨年でしたか。妃を迎えましたでしょう」

「ええ、トラーヴァの姻戚から。結局、婚儀も延期されたまま立ち消えてしまったようだし、もう何年も公に姿を見せていないんじゃない?」


 あまりにも素性の知れない相手に対して、不気味さすら覚えてしまうのは人の(さが)なのだろう。

 イリアたちの表情には不審感と、仄かな恐れがちらついていた。


「陰気で、排他的で……おおよそ、王族として以前に難のある人物評ばかりだ」

「王陛下がソルニアを訪問したときだって、ろくに交流できなかったそうなのよ」

「……表へ出さないようにしているのか。もしくは…………」


 しばし黙考していたマルゴワール公爵はスタンドへパイプを置き、ゆるりと首を振りつつ言う。


「……いや。いまは置いておこう。閑話休題だ」


 ガラス皿に残っていたオリーブをつまむと、節くれ立った手を叩く。


「夕食まで、もうひと踏ん張りしようじゃないか。……ヨゼフくんがはじめて甘えてくれたんだ。期待以上に応えてやらなければね」


 琥珀色のベールがかけられたような空間を、ひととき静寂が

支配した。

 胸中で意気込み、深く座り直そうとしたイリアの目に、夕焼け空とオムニス川が飛び込んでくる。


 四眼の鷹はどこへ行ってしまったのか。

 この国はいまも、鷹が守りたいと思えるような姿をしているのだろうか――。


 そんな感傷を端へ追いやり、がむしゃらに働いた彼女がアイテール城へ戻ったのは、人も鳥も寝静まった真夜中になってからのことだった。


 長い道のりを経てロートス宮の玄関をくぐったイリア。げんなりした顔を浮かべているのは、ベッドへたどり着くまでにこなさなければならない行程を数えているからだ。


 扉や仕切りのないサロンを通り抜けようとしていたそのとき、彼女は不意に足を止める。

 サロンの最奥――上階へ続く階段の手前、常夜灯のそばへ置かれたソファに誰かが座っているのが見えた。


「…………ユーグ?」

「おかえりなさい、母上」


 立ち上がり笑顔を見せるアロイジウスだったけれど、明らかに精彩を欠いている。


「こんな時間に起きているなんて珍しい。どうしたのよ」

「ええ、その。……気分転換に、思いつきで。ここで読もうと思って……下りてきたんです」


 そう言って彼が掲げたのは外国語で綴られた雑誌。第二王子イグニスが、スフィーノ王国から送ってきた土産物のひとつだ。


(…………嘘が下手ね、この子は)


 父へ怒りをぶつけて以降、アロイジウスからは距離を置いたままだとイリアは聞いている。

 おそらく――いや間違いなく、母に相談したくて帰りを待っていたのだろう。


 微笑ましいような、頼りないような。複雑な心持ちを抱いた彼女はあえて追及せず、長男が座っていたソファへと腰を下ろすのだった。


「挿絵が多いので、ヨハンぐらいの年齢の子でも読めそうですよね」


 隣からそう話しかけられた途端、楽しげに雑誌を流し読みしていたイリアの顔が曇る。


「あぁ、ご安心ください。いまは押しかけたりしませんよ」

「……そうしてあげて。ヨハンは、あなたの顔を見ると……はしゃいでしまうのでしょう?」


 震えそうな声と荒くなる呼吸が気取られないよう、イリアは身動ぎしながら雑誌を閉じた。


「私のせいでまた体調を崩してしまっては、申し訳が立ちません」


 母は嘘をつくのが上手だ。そして、長男は疑わない。

 ヨハンはいつもより長く寝込んでいる。エデリーナは弟に付き添っている。

 余計な気を遣わせないよう、そっとしておいてあげなさい。


「よく懐いているものね、あなたに」

「“姉上”には敵いませんよ。もちろん、“父上”にも。……元気になったら会いに行きます。それまでに、レオが送ってくれたような菓子を探しておかないと」


 イリアは木箱の中で行儀よく並ぶ色とりどりの飴を思い起こし、のたうち回る心をどうにか宥めすかす。


 花や星の形に固められたかわいらしいおやつは、誰宛ての贈り物か一目瞭然だった。

 イグニスの手紙には、土産調達に同行してきたレンフォニアの王太子が勝手に選んだものだ、とそっけなく書き添えられていたけれど。


「スフィーノの菓子は洗練されていますね。ルシアンも、さぞ喜んだでしょう」

「それがねぇ……もったいないと思ってしまったのか、眺めるばかりで。ほとんど手をつけていないようなの」

「あはは、かわいいなぁ。大喜びではないですか」


 亜麻色の髪に紺碧の目。揃いの色を持つふたりの心境は正反対だ。


「ですが。……母上たちも、ルシアンと同じことをしているんですよね」


 やや強い口調で突っつかれたイリアはきょとんとしていたものの、一拍の間に理解してばつが悪そうに笑った。


 祖母にショール、兄に雑誌、弟には菓子を贈ったイグニスが両親のために選んだのは、美しい風景画が描かれた紅茶缶。

 しばらく飾っておくつもりでいたことを、七歳児と同じだなんて言われてしまっては立つ瀬がない。


「香りも味も知らないままでは、いつまで経ってもレオにお礼の手紙が書けませんよ」

「……そうよねぇ。なら、王陛下に淹れてもらおうかしら」


 びたりと動きを止め、露骨に戸惑うアロイジウスへ、イリアはさらに言う。


「あの人、お茶淹れるの得意なのよ」

「…………知り、ませんでした」


 父の話題に乗じて相談を切り出すでもなく、彼はすっかりうつむいてしまった。

 隣で母があくびを噛み殺していることには気づいていないようだ。


「言っておくけど。仲を取り持とうなんて魂胆はないから」

「や、その、私は……っ」

「私的な場で口をききたくないなら、きかなくたっていいし」


 ともすれば投げやりに聞こえる言葉なのに、イリアの声は芯まで誠実な響きを持っている。

 慌てて顔を上げたアロイジウスは、母の真意を受け取りたくて懸命に思考を巡らせた。


「いいじゃないの。まともに主張をぶつけられない関係のほうが、よほど不健全ってものよ」

「しかし。私の態度は、咎められて然るべきものだったかと……」

「王と王太子である以前に、あなたたち親子でしょう」


 ちょっとくらいの衝突がなんだ、といわんばかりの調子に、先王イライアスと父の確執を思い出した青年。

 関わった者が拭い去れない切なさに胸を痛めるような過去を、彼だって再演したくない。弟にも、させたくはない。


「あの、父上は」

「ルチカやレディ・ベガの振る舞いも、じきに落ち着くから」


 なにかを言いかけたアロイジウスは、母の予言じみた宣言を耳にしてまたもや動きを止める。


「あなたには、我慢を強いるばかりで申し訳なく思ってもいる。……レオが気兼ねなく帰ってこられないことも含めて」

「――えっ」

「あの子が家族と過ごす時間を。わたしたちの息子として、あなたの弟として思い出を重ねていく機会が奪われてしまったと――そう感じているのよね?」


 ひた隠しにしてきた本心を言い当てられ、放心したようにイリアを見つめるアロイジウス。

 そのさまがいじらしくて。とうに母の身長を抜かしていった息子が、イリアの目にはやけに小さく映っていた。


「……ねえユーグ。わたしも、王陛下のせいで苦労しているように見える?」


 見えているんだろうな、と聞かなくてもわかる素直な彼の表情を前に、イリアは込み上げる笑いを抑えられなかった。


「逆なのよ。ここ数年は、まあそれなりに楽をさせてもらっている」

「こんな時間にお戻りになるほど、根を詰めていらっしゃるのに……?」

「あぁ、違う。わたしの()()は、妃の本分ではないわ」


 エデリーナなら進んで引き継ごうとするかもしれない、と内心で苦笑しつつ、王妃は王をほんの少しだけ庇ってやる。


「王陛下がうつけ者だったら、わたしが小細工――いえ、余事に専念できるはずないでしょう」


 焦がれるような慕情とやらを知ることなく今日まで生きてきたイリア。

 バルトロメウスは彼女にとって弟のような、戦友のような、放っておけない幼馴染のような――とにかく、気づいたら隣にいた旅の道連れなのだ。


 義務と責任で結ばれた縁であろうと、繋いできた時間の分だけ熱を持つ。

 できることなら嫌わないであげて欲しい。

 口には出せないから、代わりに手と足と頭を動かし続けている。


「…………しばらくは立て込みそうで、ゆっくり、というわけにはいかないんだけど」


 まぶたの重みに耐えながら、イリアは息子に語りかけた。


「近いうちに、ここでお茶をしましょうか」


 家族だからこそ通用する、あやふやな口約束だ。


「飲んであげてね」


 きっとバルトロメウスは、なにも言わなくたって三人分の茶器を用意する。


「はい。いただきますよ。……レオがくれたお茶なのですから」


 そしてきっと、遠い異国で暮らすもうひとりの家族へ、揃って想いを馳せるのだろう。

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