38 踏みにじるための円舞曲
いらだちに濁るヘーゼルの目が、開け放たれた大窓の奥にある内庭をじっとりと見つめていた。
好事家として知られるこの邸宅の主――ケンダル伯爵が諸国で買い付けてきたオブジェを所狭しと並べた、異国情緒溢れる空間だ。
ねじれて尖る奇妙なトピアリーのかたわら、芝生へ敷かれた絨毯には、車座になって話し込む貴婦人たちの姿がある。
銀細工を提げた白いパラソルの下で、水煙草を片手にくつろいでいるようだ。
果実の風味を含んだ煙が、鉄の香炉から燻るパウダリーな芳香と混じり合う。
それはときおり風に乗って、室内にいる少女のもとへも運ばれてきていた。
「機嫌悪ぅい」
「茶化さないで」
オケージョナルテーブルを挟んで掛ける少年少女は、ともに風変わりな庭へ体を向けている。
目元や頬に幼さの残る少年――ディミトリ・ルボア・ワロキエにからかわれ、フィオレンツァは横目で鋭く睨みつけた。
「グリゼルダさまたちだって、しくじったと思ってるんだよ。あんまりいじめないであげてよね」
少女の反応に頓着することなく、卓上のチェスセットへ手を伸ばすディミトリ。
十四歳になったばかりの彼は、病を得て儚くなった前ワロキエ夫人の忘れ形見だ。
金彩と赤のエナメルで飾られた美しい駒を気怠げに突っつき、十五歳しか離れていない継母を庇ってみせた。
「……やらかした自覚があるなら結構よ。わたしを家から連れ出すことが、せめてもの罪滅ぼしなんでしょう」
「じゃあなんでずっとむくれてるの~? 離宮でなんかあった? 古参の人たちから、嫌がらせでもされたとか」
不機嫌の根はそこではない、と言外に示す少女の横顔へ、ディミトリはわざとらしく首をひねって大仰に問う。
積もりに積もった憤懣がせり上がり、フィオレンツァは不快感がしたたる声で言い咎めた。
「…………茶化さないでって言ったわよね」
「あっは。ごめんて、マイエルでしょ」
葡萄の彫刻が施されたサロンチェアの背へ腕を回し、だらしなく座る彼は嘲りを隠さず吐き捨てる。
フィオレンツァは露骨に顔をしかめたけれど、あきらめたように視線を逸らした。
「屈辱、って顔に書いてある。しんどいね〜」
アルバライエン貴族の中でも耳ざとい者たちは、すでにベガ子爵家とマイエル家の縁談を聞きつけている。
家門の方針に反発するだけの大義を持たないフィオレンツァは、四方から迫りくる壁によって逃げ場を失くしつつあるのだ。
「…………もういや。なにもかもがうまくいかない。ルチカさまは塞ぎ込んでるし、ロートス宮には近寄れもしないし」
「へぇ。妃殿下、落ち込んでるの? 話聞いてあげたんでしょ?」
「教えてくれなかった。それとなく探っても、正面から聞いても……こんなことはじめてよ」
短い沈黙のあと、ディミトリがやや気まずそうな表情を浮かべて言う。
「……あれかな。もしかして、秘書官の買収に噛んでるって思われた?」
「だとしても、ルチカさまは無関係だってすぐにわかるはずよ」
「……そうだよねぇ。結局、グリゼルダさまたちにもお咎めなかったもんね。妃殿下が詰められるはずないか」
フィオレンツァは吐いた溜息の重さで引きずられるようにうなだれ、少女とは思えない低い声をひり出した。
「最悪。状況も、見通しも最悪よ。……あなたのお父さまが逃げ出さなければ、まだいくらかやりようはあったでしょうに」
「あぁ〜……父上もなぁ…………やってくれたよ。俺だって、しばらくまともに眠れなかったくらいだ」
ディミトリにとってもワロキエ伯爵の変節は痛手となっているようで、天井を仰ぎながら情けなくぼやいた。
いくつもぶら下がる極彩色のフリルランプが目に沁みたのか、体勢を戻した彼はしきりにまばたきを繰り返している。
「…………フィオレンツァ」
「なによ」
「俺もさ、その――いろいろと、考えてるんだよ」
「……なんの話?」
いつもの軽薄さが消え、歯切れ悪く話す少年に、フィオレンツァはつい身構えてしまう。
「成り上がりが幅を利かせる国になんか、させてたまるか」
「…………ディミトリ?」
「俺だって、本気で、そう思ってる。……父上たちに感化されたわけじゃない」
内庭では、貴婦人らが一斉に笑う声がさざなみのように広がっていた。
「始末しよう。ウィンゼルの跡継ぎ……長男を、どうにかしよう」
やっぱり、それしかないよ。張り詰めた声とは裏腹に、気の抜けた顔で呟いた。
晴れ渡る夏空がよく見えるサロンで、影から生まれた茨がフィオレンツァの足元へ絡みつく。
「行儀よくしてたって、誰も、報いちゃくれないんだから」
少女は勢いよく席を立った。盤上で整列していた駒が耳障りな音を伴い、次々に倒れ、転がり回る。
しきりに口を開け、なにかを言おうとして、けれどなにも言えないフィオレンツァ。ディミトリはそんな少女を茶化すことなく見上げている。
「…………たちの悪い冗談はやめて」
ようやく絞り出した言葉はひどく揺れていた。このときフィオレンツァは、ウィンゼルの長男――ヨハンという名の幼子を憐れに感じ、怖気づいていたわけではない。
彼女はただ思い知らされていた。
誰かを傷つけなければ叶えられない夢を見ている。
悪徳に身を浸してようやく、願いのしっぽにしがみつける。
みじめで、愚かな己のありさまが虚しくて――打ちのめされてしまっていたのだ。
「冗談なもんか。それくらい強引にいかなきゃ、妃の再選定にすら漕ぎ着けない。間に合わない。わかってるくせに」
身を乗り出して語気を強めるディミトリ。フィオレンツァは両耳を塞ぐように頭を抱え、苦悶の表情を浮かべる。
「このままウィンゼルをのせばらせてたら、アルバライエンはおしまいだ」
「……わからないわよ。そんな大それたことを、臆面もなく言ってのけてしまえる、あなたの神経が」
「大それた、って…………やだなぁ。君にだけは言われたくない」
見開かれたヘーゼルが、胸中で燃え広がった怒りに炙られ色を濃くした。
激昂するかと思われた彼女は、けれど視線をさまよわせながら立ち尽くすだけ。
肩を浅く上下させ、息を整えようとする少女へ、ディミトリは薄ら笑いを浮かべ椅子を指してみせた。
「ほら、とりあえず座れば? 勝算はあるんだ。聞くだけ聞いてみてよ。ね?」
けろっとした顔で言い放つ彼に、フィオレンツァはしばし思考を巡らせてから舌打ちを飛ばす。
四歳も下の少年に煽られ、まんまと主導権を握られてしまったことが忌々しくてたまらなかった。
「グリゼルダさまがウィンゼル夫人と懇意にしているのは知ってるだろ?」
険しい顔の少女が席へ着くのを見計らい、口を開いたディミトリ。遠くでたむろする貴婦人らをそっと窺うと、すぐに視線を戻した。
「おとなしそうな顔してるけど……グリゼルダさまに負けず劣らずの曲者だよ、ウィンゼル夫人。内情、筒抜け」
彼はのっそりと頬杖をつき、愉快そうな口ぶりでマグノリア・ガリエ・ウィンゼルを語る。
「……呆れた。想像以上に厄介だったのね、マグノリアさまって。いま、はじめてウィンゼル侯に同情を覚えたわ」
「ははっ、俺はそんな厄介な人が継母になるかもしれない君に同情してるけど」
手のひらに預けていた頬を腕に沿わせながら沈め、上体を深く傾けたディミトリは少し眠たげだ。
「…………でも、彼女になにができるの? ずっとメイフローネにいるのに」
「難しいことは頼んでないよ。グリゼルダさまが見繕った奴を侯爵邸に配置したり。もう三、四人は送ってるんじゃないかな」
「家政から完全に遠ざけられているわけじゃないのね……」
長男を産んですぐ、静養を名目にプリューセンを出ていったマグノリア。移り住んだのは、タルサージュ美術館と同じ地区にあるウィンゼルの別邸だ。
姻戚や知己が王都に滞在するときのために造られた邸宅は、いまやマグノリア個人の根城となっている。
「曲がりなりにも女主人だもん。それにほら、夫人の父君はウィンゼル侯の恩師だったって話だろ。いくら不仲でも、放ったらかしじゃあ立つ瀬がない」
マグノリアの父は、文明史と博物学の権威であった先代シャンタリオン伯爵。
昨年、長患いの末に亡くなり、長男マリアーノが後を継いでいる。
ウィンゼルやオーヴレイとも非常に縁の深い家門であることは、フィオレンツァもよく知っていた。
「……とはいえ、あのウィンゼルよ。やすやすと出し抜かれるとは思えない」
「そうかな。ヨゼフ・ガリエも人の子だったってことでしょ」
フィオレンツァの懸念を受け流したディミトリは、上体を起こしてシャツの袖を捲った。
「でさ、ここからが本題。プリューセンの侯爵邸には、母屋と離れがあるんだよ」
倒れたままの駒をひょいっとつまみ上げ、ばらばらに並べ置く少年。
本館、南館、収蔵館、厩舎など――敷地内に点在する建物の位置関係をチェス盤で表した。
「本当に筒抜けなのね」
「俺がここまで知ってるのは、グリゼルダさまが保管してる帳面とか報告書を勝手に見てるからだけど」
フィオレンツァは白けた目でディミトリを一瞥したものの、彼の言葉を合図に再び盤上へ意識を向ける。
「侯爵一家は南館っていう離れに住んでる。かなり古くて……近々、改装工事を予定してる木造の家屋」
額を寄せる少年少女。傍目には、ボードゲームへ熱心に取り組んでいる微笑ましい光景にしか映らないだろう。
「改装? 木造なんでしょう。建て直すのではなく?」
「そんな大がかりなもんじゃないらしいよ。掃除ついでにいじるくらい? だから、子供らも部屋を移らないんだってさ」
アルバライエン、とりわけメイフローネでは、木造から煉瓦や石を主材とした家屋への移行が進んでいる。
しかしウィンゼルほどの名門旧家であれば、古い建物を保存すべき文化財とみなしていてもおかしくはない。
フィオレンツァはわずかに違和感を覚えたものの、判断するのは仔細を把握してからでも遅くないだろう、と飲み込んだ。
「送り込んだ連中はみんな母屋、本館に配属されてる。だから、南館の内部構造とか、部屋割りはわかんないけど――」
「――前置きはもういいわ。言わんとしているところは理解できた」
柔らかな制止。視線がぶつかる。
「工事に乗じて、なにをしようとしているの」
「……事故でも起こそうかなって。できれば、南館が、まるごと吹っ飛ぶような」
引き結んだ唇を力ませるフィオレンツァを下から覗き込み、ディミトリはさらに語って聞かせる。
「女主人に許可証を出してもらいさえすれば、堂々と敷地へ入れるんだよ。業者を装って、荷馬車ごと」
テーブルの下、膝に置いた彼女の手は冷えながら火照り、わなわなと震えていた。
喜怒哀楽のいずれにも当てはまらない感情が、フィオレンツァの正気を輪郭から溶かしていく。
大人たちに任せていられない。そう判断したのは自分自身だ。
少女は顔を上げ、あくまで冷静に、共犯者となるかもしれない少年へ問いかけた。
「…………吹き飛ばすって、比喩ではないのよね。“ロンネルの恥さらし”を頼るつもり?」
「ドラコおじさんって呼んであげてよ」
「いやよ。偽名でしょう」
グリゼルダの愛人は小規模な工場の経営者だけれど、それは表向きの顔。
彼は工具製造業を隠れ蓑に銃火器を密造し、おもにヴィエント大陸で武装集団や犯罪組織にそれらを流していた。
「頼るっていうか、俺、何年か前からおじさんの客だもん」
「はぁ? ずっと準備していたの? いざとなったら、実力行使で――」
「あ〜違う違う。趣味。使うつもりで蒐集してたわけじゃ……まぁそれは置いといて、わりと無茶な話でもなかっただろ?」
フィオレンツァは目を閉じ、なだれ込んできた情報を片っ端から整理しようと試みる。けれど、さして経たないうちに小さく首を振った。
「……すぐにどうこう言えないわよ。ねえ、この話って、グリゼルダさまには?」
「言ってない。巻き込んだら、もっと血生臭くなるだろうし……事故で片付けてもらえなくなりそうだなって」
「……? 事件性が増すってこと?」
「母子もろとも、ってこと」
言いながら、ディミトリは苦笑いを見せた。少女の体は肌の表面にだけ火照りを残し、どんどん冷たくなっていく。
ただ、急激な体温の低下は図らずも彼女へ平静に近い思考回路をもたらしてくれた。
「――マグノリアさまを切り捨てることも、視野に入れているのね」
言いながら、フィオレンツァは鳥肌を立てていた。薄らぼんやりと、ここにいるはずのない誰かに名を呼ばれたような気もしていた。
いまならまだ引き返せる。けれど彼女は迷うのだ。引き返し、道を選び直したって、どうせその先に光なんて見えないのに、と。
「しょうがないよねぇ。果たす気もない約束で釣っちゃったから」
「果たせるはずもない……でしょう。その一点については、真に受けるほうもどうかと思うわ」
辛辣な物言いにけらけら笑ったディミトリは、捲った袖を戻しながら言う。
「グリゼルダさまってウィンゼルに用事ないじゃん? 首突っ込みはじめたのも、父上に恩を売ってやろうって魂胆だったみたいだし」
「なら、もうマグノリアさまへかかずらう理由はないわよね」
「それ。理由。たぶんね、途中ですり替わっちゃってる」
継母の為人をうんざりするほど知る彼へ、少女は無言で続きを促した。
「いまは単純に、ウィンゼル夫人のことを面白がってるんだよ。なんていうか……憂さ晴らし?」
「よくわからないわ」
「家でもしょっちゅう話してるもん。砂より噛み応えがない、とか、なのに味が濃くて癖になる、とか」
「……それ陰口じゃない?」
少年は手を叩いて笑い声を上げる。悪趣味ね、と呟く少女の表情も心なしかほぐれていた。
「今日もこのあと、別邸まで会いに行くんだってさ。朝から張り切ってた」
「よくそんな余裕があるわね。こっちは日々神経を削られているのに……憎たらしい」
「いやだから、憂さ晴らしだって」
フィオレンツァはふう、とかわいらしい溜息をつき、釈然としない様子で腕を組んだ。
「人の父親を生き餌にしておいて、ちっとも悪びれないのね」
「あれ、そこ気にしてたの? 子爵のことも散々こき下ろしてたのに」
「愛と軽蔑は共存し得るものよ。…………いまは、顔も合わせたくないけれど」
「だったらなおさら、腹括りなよ。逃げ回ってたってなんにもならないじゃん」
ディミトリは顎をしゃくり、フィオレンツァの目を内庭へ向けさせた。
「グリゼルダさまはともかく……あの人たちだって君と同じで、家の意向には逆らえない。いつまで付き合ってくれるかわかんないんだから」
お喋りに興じる集団、輪の中心には、砂色の巻き髪を揺らして笑うグリゼルダの姿があった。
ケンダルをはじめとした親ソルニア貴族家の夫人らが連帯から抜けていくのも、きっと時間の問題だろう。
「それに。まだ婚約が正式に結ばれてなくたって、君とマイエルの話をゴシップ誌が――あ」
視界の隅で、ひとり、またひとりと絨毯から立ち上がりはじめるのが見え、ディミトリはしぶしぶ密談を打ち切った。
「……王妃になるんだろ」
「……必ず」
「腹括ったら、手紙ちょうだいね」
きゃらきゃらと楽しげな声がサロンへ近づいてくる。
おどけながら集団へ向かっていく少年の背中を、フィオレンツァはじっと見送っていた。
あの日ルチカから手渡された香水――封を開けられずにいる友愛の証を思い出し、泣き崩れてしまいたい気持ちを懸命に堪えながら。
「あなたも来ればよかったのにぃ」
息子と少女をケンダル夫人に任せ、ひとり意気揚々と離脱したグリゼルダはご機嫌だ。
貴族街からさほど離れていないウィンゼル侯爵家の別邸に、粘度の高い猫撫で声が高らかに響いた。
淡い茶色と白を基調とした部屋で彼女を待っていたのは、窓辺のシングルソファへ腰掛ける邸宅の主人。
「……レディ・ベガも呼んだって言っていたから、遠慮したの」
癖のあるバターブロンドが、日差しを浴びてこっくりと艶めいていた。
限りなく人形に近い人間。唇が動いても、まばたきをしていても、温度を感じ取れない存在。
今日も今日とて変わりなく置物じみたマグノリアへ笑みを向け、グリゼルダは歌うように告げる。
「交流しておいたほうがいいと思うわよ? いずれ……」
あなたの娘になるんだし、と言いかけて、咳き込むふりをしてごまかした。
見慣れた顔の使用人が、よく冷えた飲み物をサーブして足早に去っていく。シャンタリオンが手配した人員のみを周りに置いているようだけれど、油断は禁物だ。
「以前あなたが教えてくれた子、調べてみたけどだめそうだったわ」
「……ソルニア出身の?」
「そう、ビビアンって子。だから――はいこれ。雇用契約書の写し、返すわね」
部屋の中央に設えられたテーブルセットへ近づき、ソファへ腰を下ろしたグリゼルダ。
懐から封筒を取り出して、コーヒーテーブルへぽいっと投げる。
「もったいないけど、こういうところは慎重にならなくちゃ。嫡子のそばに置くなら当然の人選だわね」
窓辺を離れ、ゆっくり歩み寄ってくるマグノリアが対面の席へ着くのを待たず、グリゼルダはビストログラスへ手を伸ばした。
「ヨハンちゃん、長いこと臥せっているみたいよ」
そう言ってルビーガラスを傾ける彼女を、ようやく腰を下ろしたマグノリアはぼんやりした表情で見つめる。
やや目尻の垂れた丸いライトグレーの目に疑問を浮かべ、頤へ手を添えて考え込み、やがてあぁ、と口を開いた。
「ウィンゼルで産んだほう、で合ってる?」
「…………ちょっとちょっと、やだぁ。さすがに、息子の名前くらいは覚えていてちょうだいよ」
「呼んだことがなかったから」
たしなめられたマグノリアはふふっと笑う。しかし表情を綻ばせたのはほんの一瞬で、何事もなかったかのように会話を繋ぎ直した。
「その子がどうかした?」
「……ああ、えぇ、ヨハンちゃんね。庭や森で遊んでいる姿をずっと見かけていないって、昨日届いた報告に書いてあったの」
「……グリゼルダ、なにか盛った?」
淡白に嫌疑をかけられ、グリゼルダはグラスを取り落としそうになりながら吠えた。
「盛ってないわよぉ!?」
「そう」
「そう、じゃなくって! 不可能よ、無理無理っ。子供たちの身辺なんて、紙切れ一枚ねじ込む隙間もないのっ」
にぎやかな手振りを交えつつ熱弁する友人に、マグノリアは他人事のように頷いてみせた。
「いろいろ大変なんでしょう。だから、事を急ぎはじめたのかと思って」
「…………まあ……そう、ねぇ……。そりゃ大変よ。旦那は日和るし、息子は妙に思い詰めてるし?」
「あなたのことだから、とくに心配はしていないけれど」
「んっふふ、それはどうもね」
テーブルへグラスを戻したグリゼルダはポケットから小さな金属缶を取り出し、すっかり口紅が取れてしまった唇へバームを塗り広げる。
ついでに手指を保湿しながら、焼菓子をつまむマグノリアを盗み見た。そろそろいいかしら、と判断し、ことさらにねっとり話しかける。
「話は変わるけど――この間、出先で黒髪の女の子を見かけたの。あなたの娘を思い出したわ」
マグノリアの動きが止まる。
「レディ・ウィンゼルと面識があるのかって? もちろんないわよ~。一度、遠目に姿を見ただけ」
返事は端から期待していない。グリゼルダはひとりでぺらぺら喋り続けた。
「二年前の、“喝采の日”ね。王立劇場で記念公演があったでしょう。彼女あのとき、王太子殿下と並んで観劇していたから」
ライトグレーの眠たげな目に、剣呑な火花がじりっと飛ぶ。
密やかな歓喜を味わいつつ、畳み掛けるグリゼルダ。
「幸せ者よねぇ、レディ・ウィンゼルは」
表情も顔色も変わらない。なのに、マグノリアが纏う空気は徐々に重苦しく渦を巻きはじめる。
「うらやましい。頼もしい父親に守られて、婚約者からも宝物のように扱われて――きっと彼女、手に入らないものなんてないのよ」
(……ああ怖い。最高。ぞくぞくしちゃう)
これだからグリゼルダは、マグノリアに構うのを止められないのだ。
「わたしもせめて、そのどちらかだけでも…………家族。そう、あんな風に守ってくれる家族が欲しかった」
(エルシャの娘の幸せが――初恋を叶えることが、そんなにも妬ましいのね。許せないのね!)
彼女は熱に浮かされながら、住まう者の人柄が如実に表れている部屋をさりげなく見渡す。
なにもない。暮らしを彩る花も、小物も、楽器も、芸術品も。
「シャンタリオンは、悪い噂を聞かないわ。悪いお友達とばっかりつるんでいるわたしの耳に入ってこないんだもの」
生家へ言及したとたんにマグノリアが目を伏せたので、グリゼルダは水を向けてやることにした。
「ご家族には恵まれたようだけれど……まぁ、外からじゃわからないこともあるわよね。あなただってずいぶん、苦労してきたんじゃない?」
「…………言いつけに従って生きてきた。子供だって、ふたりも産んだわ」
窓へ顔を向け、湿度のない声で切々と語る。
「そろそろ、幸せになったっていいじゃない」
「よく言ったわマグノリア〜。その通り、その意気よ」
ぱちぱちと控えめに拍手をして、グリゼルダは満面の笑みを贈った。
「あなたと、あなたの愛しい人のためにも。フィオレンツァには頑張ってもらわなくちゃね」
「……どういう意味? 彼自身も、娘を王家へやりたいと望んでいるの?」
「ううん。前に、旦那から聞いたのよ。ちょっと言いにくいんだけど…………」
前傾姿勢を取るマグノリアにならい、グリゼルダも前のめりになって顔を近づける。
「子爵はね、どうも、レディ・ウィンゼルを見るのが辛いようだから」
ウィンゼルブルーを瞳に宿した黒髪の少女エデリーナ。アルバライエンでは珍しい黒髪は、生母エルシャの出身国グレムノア由来だ。
「え……」
「彼女、ご両親のどちらとも、よく似ているのでしょう?」
息を呑むマグノリアを、友人の顔をして見守るグリゼルダ。かつて彼女の夫――ワロキエ伯爵ディルク・ルボアはこう語っていた。
『あれはウィンゼルの娘が泣きどころらしいな。話題がそちらへ及ぶと、辛気臭い顔で言葉を濁すんだ』
二度と相まみえることのない愛しい人の面影に、不純物が混入している――。
ファウストからすれば認めがたく、受け入れがたい現実なのだろう、と。
「……そんな顔しなくたって、大丈夫よぅ。すべてうまくいくわ、きっとね」
首筋をくすぐる巻き毛を払いながら、グリゼルダは全身を駆け巡る興奮に酔いしれる。
思い通りにならないなら、誰にどう盤面を荒らされたって構いやしない。
誰も彼も、もっと心を剥き出しにして生きればいいじゃないか。
「あなたをベガ夫人と呼べる日が、待ち遠しくってたまらない」
いずれ捨て去る国でなにが起ころうと、グリゼルダの知ったことではないのだ。




