3 亡霊館は春を待つ
かつて人々からこよなく愛されていた森には、愛されるだけの理由と、遠ざけられるまでに至った理由がある。
分厚い煉瓦塀に取り囲まれていながら、瑠璃鳥の森に漂う清廉な空気を損なうことなく湛える旧ウィンゼル侯爵邸。
複数の家屋が点在する広大な敷地の一角には、死者を慰めるため大理石の塊から生まれた彫像が置かれていた。
アルバライエン国章にも描かれる二対の目を持つ鷹が後肢で水瓶を支え、清らかな水を注ごうと傾ける瞬間を彫り出したものだ。
小さなトピアリーや生垣、花壇が円状に配置された小さな庭園の中心に据えられ、太陽の光を浴びている。
水瓶像の前に佇むひとりの男性が、向かい風から逃れるように真後ろへ体を反転させた。右手は胸元のループタイに添えられており、嵌め込まれた大粒のサファイアが翳って色を深くする。
静かな眼差しで仰いだのは、まだ主を持たない空っぽの邸宅だ。声を張れば届きそうな距離に建つこの建物が完成したのは一年半前。
王妃と王太后から私財を投じた水瓶像が贈られたのは、彼が成人を迎え男爵位を賜った十九歳のころ――もう五年も前になる。
目まぐるしく過ぎた日々に思いを馳せていた男性は、真新しい建物から剥がした視線を左へ投げた。駆け足で向かってくる少年の気配を察したためだ。
「ダリルさま! たったいま、詰所から電信が入りました!」
ダリルは青磁色の目を細め、ゆっくり頷きを返す。瑠璃鳥の森入口にある警備隊詰所が旧ウィンゼル侯爵邸への来訪者を知らせるのはいつも通りのこと。
けれど、これからやってくるのは馴染みの業者や客人ではない。待ち焦がれ続けた新しい住人だ。
「そうか、もうじきだね」
「なんだか緊張してしまいますね」
「気負うことはないよ。ジェレミー、少し身だしなみを整えておこうか」
「ああしまった、髪が……いえ、すべて、ですね。急いで万全にしてきます!」
サスペンダーを肩に掛け直しつつ駆け出す少年のみならず、長いこと庭へ出ていたダリルも鏡に向かう必要がある。アッシュブラウンの髪を手ぐしで梳きながら歩く主人へ、先行していた少年が振り返ってはつらつとした声を届けた。
「リンデさんはきっと気に入ってくださいます。瑠璃鳥の森も、“南館”も、夢みたいにきれいな場所なんですから!」
「……うん。ありがとう」
無垢な笑顔を見せたジェレミーは一礼し、全速力で去っていった。夢みたいにきれいな場所。蹂躙され、取り残され、世界から切り離された思い出の箱庭。必死で手を伸ばしてようやく掴んだ、守り人たる立場。
過去を知るジェレミーの目にも、美しく映っているのなら。物言わぬサファイアを撫でたダリルの指は、わずかに震えていた。
森の入口から長い並木道と角をふたつ経た先、楡の木を従えるように鎮座する旧侯爵邸。移住者――ロレッタ・リンデという名の少女は、本館と呼ばれる母屋でもてなす手筈になっている。
トラムの停留所があるプリューセン中心部から徒歩で目指すにはやや距離があるものの、ロレッタは送迎を丁重に辞退した。
ダリルが手紙で森についてあれこれ言及していたせいか、せっかくだから歩いて景色を楽しみたい、と返されてしまったのだ。
「お天気が崩れなくてなによりでしたねぇ」
「――あぁ、マチルダ」
キャロットオレンジのデイドレスと清潔なエプロンを身に着けた女性が、本館の玄関ホールでそわそわ歩き回るダリルを微笑ましげに見つめながら語りかけた。
ウィンゼル侯爵家の威容を体現したかのような規模を誇る本館は、両開き扉の正面に配された大階段をはじめ、壁や床のほとんどが黒茶色でまとめられている。
ファブリックの色もサファイアブルーを中心としていて、高潔で重厚な印象を来客へ与えるものだった。
「雨が降らなかったのは幸いだけど……長旅のあとでこんな距離を歩かせてしまって、少し後悔していたところなんだ」
「お若い方にとっては、さほど苦にならないと思いますよ。たしかリンデさんは、ジェレミーのふたつ上で――あらっ」
マチルダはジェレミーと同じ鳶色の瞳をぱちくりとまたたかせ、途中で言葉を止めてしまった。彼女の視線を追ったダリルがあっ、と声を発したのち、ふたりは同時に動き出す。
正門から進入してくる二輪馬車を出迎えるジェレミーの背中が、玄関脇の窓の向こうにちらりと見えたからだ。
手綱を引いて馬を停止させる恰幅のいい男性の横に、見知らぬ少女がちょこんと腰掛けていて――彼女こそが待ち人であると、なんの疑いもなく理解する。
「ただいま戻りましたよ。並木道で行き合いましてね、リンデさんをお連れいたしました」
ジェレミーの手を借りた少女が地面へ靴底を着けると、アプリコット色の髪が大きく弾んだ。
「ジョゼさん、ありがとうございました!」
やや芝居がかった動作で帽子を胸に当て、ジョゼは敷地の奥へとのんびり馬を向かわせる。少女は荷物を預かろうとしたジェレミーにトランクのみを託すと、待ち構えていた大人たちへ向き直り、晴れやかな笑みを浮かべた。
「お初にお目にかかります。ソルニア共和国リンデ家のロレッタと申します!」
「遥々ようこそ、管理者のダリル・アリオスト・ラシーヌです。彼女はマチルダで、いま駆け出していった少年がジェレミー。どうぞお見知り置きを」
道中何事もなく、少女が無事にたどり着いてくれたことをダリルは真っ先に喜んだ。表情にはさほど反映されていないけれど。
彼は、自身が気難しい人物として他者の目に映りがちであると知っていた。だからこそ、ロレッタが委縮してしまわぬようすぐさま人当たりのいいマチルダを紹介したのだ。
とはいえ、彼女の反応を見る限りダリルの取り越し苦労に過ぎなかったらしい。
本館のサロンを目指し連れ立つさなか、ダリルから質問を投げかけられたロレッタはまったく臆することなく朗々と答えた。
「瑠璃鳥の森はいかがでした?」
「素晴らしいですね! ジョゼさんが馬車をゆっくり進めてくださったおかげで堪能できましたし、わたしのちっぽけな想像力が作り上げていた頭の中の森は見事に吹き飛びました」
「吹き飛んでしまいましたか……お聞き及びかと思いますが、マチルダとジェレミーがジョゼの家族ですよ。もともとは夫婦で僕の生家に勤めていたんです」
旧侯爵邸に住み込む使用人はジョゼ一家のみ。けれど当然、この規模の邸宅を三人で維持できるはずはなく、ダリルの生家ラシーヌ伯爵家から適宜人員を派遣してもらっていた。
やがて壁紙にサファイアブルーの花が楚々と咲くサロンへ通されたロレッタは、ここへきてはじめて全身に張り詰めた空気を纏わせる。
茶菓を囲んで会話を重ねるうちに和らいでいったものの、ダリルは張り切って上等なサロンを選んだことが裏目に出てしまったか、と内心で猛省していた。
「近日中に、改めてドミニク殿へ書状をお送りするつもりです。もしご家族がおいでになるようでしたら、ぜひ僕にもご挨拶させてくださいね」
透き通ったグラスに琥珀色の液体が注ぎ足され、氷がかちゃころと鳴る。たっぷり体を動かした少女のために用意された冷たい飲み物は、緊張による渇きに見舞われていたダリルにとってもありがたいものだった。
ダマスク織のクロスをかけたラウンドテーブルを挟んで、ダリルは少女がまだ手をつけていない菓子が載った皿を押し滑らせる。
「両親も祖父もみんな、ノーチェ男爵に感謝していました。大叔母夫婦はお仕事で留守にすることも多いので……常にどなたかが近くにいてくださる環境は、願ってもないことなんです」
「あぁ、もっと楽に呼んでください。こちらこそ、リンデさんに選んでいただいてありがたく思っていますよ」
移住などとんでもない、と反対していたミレイユが折れたのは、ノーチェ男爵という管理者の存在が大きかった。
プリューセンはいわゆる高級住宅街で憲兵隊の巡回も多く、住まいは警備隊に守られた森の中。そこへ加えて、身元の確かな管理者と使用人一家がすぐそばに住んでいるのだ。
ほかの候補と比較するまでもなく、ロレッタがひとりで住むなら旧ウィンゼル侯爵邸しか選択肢はなかった、と言い切っても過言ではない。
「実は……契約が成立するまで、ずっとはらはらしていたんです。わたしが家族と話し合っている間に、どなたかが入居を決めてしまうんじゃないかなって……」
虚を突かれたような顔で固まったダリルは、何秒かすると口元に手をやり心底楽しそうに笑い出した。
肩を揺らしながら彼がこぼしたのは、卑屈さのかけらもないこざっぱりとした自嘲だ。
「亡霊館の異名はご存じでしょう? ここは本当に不人気で……とはいえ、噂だけが理由ではないんです。移住してくる方はメイフローネで働き口を探すことが多いので、住まいもおのずと向こうの集合住宅が選ばれる」
「あ、なるほど……通勤で毎日トラムに乗るのも大変でしょうしね」
プリューセンとメイフローネはトラムで三十分ほどかかる距離だ。先ほどロレッタが利用したときは座席に余裕があったけれど、通勤客の集中する時間帯ともなれば相当に混雑しているはず。
ダリルの笑う姿が兄を思わせるものだったためか、ロレッタの肩から自然と力みが消えていく。なんの気負いもない指でくるみの糖衣掛けをつまみ、ひとくち齧る少女を、やはりどことなく兄に似た眼差しが見守っていた。
溶けかけたいびつな氷がグラスの底でひしめきあうころ、いよいよロレッタを新居へ案内するべくダリルは動き出した。彼が人生の半分近くを捧げ、執念を以て撒いた種のひとつが結実しようとしている。
今日から、少なくとも三年間は旧ウィンゼル侯爵邸南館に明かりが灯るのだ。
「この小道を右手へ進むと、すぐに見えてきますよ」
本館の玄関扉を開けたダリルは逸る気持ちを抑え、足元の煉瓦と石で組んだ舗道を指して説明した。
芝生の上にゆるやかなカーブを描きながら正門と家屋を繋げる小道。両者とも浮足立った本心を降り注ぐ陽光に暴かれないよう、粛々と歩きはじめる。
彼の言葉通り、木々に囲まれた二階建ての建物はたちまちのうちに全貌を現した。屋根は柔らかな赤。煉瓦をアクセントに用いたクリーム色の外壁。こじんまりとした庭を、背の低いアイアンフェンスと生垣が取り囲んでいる。
「わあ、かわいい! 仲介人さんに見せていただいた図面よりも大きく感じます……あっ、もしかして、ずっと奥にある建物が収蔵館ですか?」
ロレッタが少し背伸びをして、進行方向のはるか先を手のひらで示した。本館よりは小規模な、けれどまるで官庁街で目にしたような門構えの建物が木々の隙間から覗いている。
「ええ。あそこでウィンゼル歴代当主の蒐集品や古い家具調度の一部を保管しています」
「あの位置に収蔵館があるということは、国家憲兵さんの訓練場は……こっちの方角! で、合っていますか?」
「お見事です。ずいぶん資料を読み込んでいただいたんですね、作った甲斐がありました。いま、訓練場のそばに新たな施設を建てているところなんですよ」
敷地を囲む森へと向けられたダリルの視線は、宝物が傷ついていないか確かめるときのそれによく似ている。無意識なのだろう、話しているうちに彼の手は胸元のループタイへ伸びていき、美しいサファイアを守るように包み込んだ。
「もちろん森の保全を第一義としていますが、ほかにも開発計画を進めているんです。なにしろ若輩者ですから、到底順調とは言えませんけれどね」
計画には収蔵館の大規模修繕及び改装も含まれているそうで、いまは案内できないことが残念だとダリルは付け加える。
不揃いの足音が南館へとさらに迫っていく中、ロレッタが歩みを緩めたことに気づいたダリルは自身も歩幅を狭くして振り返った。彼女の目は小さな庭へ固定され、なにかを探しているようにも見える。
「リンデさん、どうかされました?」
「えっと、水瓶像は南館のお庭にあるんですよね? 見当たらないなぁと思って……」
「ああ、像があるのはもっと奥――ちょうど南館のダイニングから見える辺りで、いわば裏庭に当たる場所なんですよ」
ウィンゼル侯爵一家と親交のあった者が定期的に水瓶像のもとへ訪れるため、南館の庭とは切り離してあるのだそう。
「よろしければ、先に案内しましょうか」
「ぜひお願いします! どなたかの思い出が詰まった場所に住まわせてもらうので、ご挨拶と捧げ物がしたくって」
そう話すなりロレッタは旅行鞄を開け、水玉模様のスカーフで包んだ物を取り出した。彼女の両手におさまるほどの大きさだ。
丁寧に解かれていくスカーフから中身が覗いた瞬間、ダリルの心臓が跳ねる。
「…………ゴブレット」
「仲介人さんから水瓶を意匠にした鎮魂像があるとお聞きして、ひらめいたんです」
「……ありがとうございます。あなたの真心はきっと、彼らへ余さず伝わることでしょう」
小道を外れ、芝生をさくりと踏みしめる。本館の西側からも覗えるという水瓶像の庭は、澄み切った風と光の中で儚く輝いていた。憂いを帯びた白は緑に映え、葉の摩擦音が絶え間ない水流を連想させる。
(よかった……ここはちっとも怖くない。頼もしくて、なんだか、胸がぽかぽかする彫像だわ)
春色の少女は真鍮のゴブレットを台座へ載せ、目を閉じた。もう誰も苦しんでいませんように。小さな声で安寧を願うロレッタの頭上で、四眼の鷹は変わらずに水瓶を傾ける。
届け、届け。いたわりも優しさも、絶えず水のように、永久に注がれていけ。
大理石の塊から生み出された彫像は、遺された者たちを慰めるためのものでもある。ダリルはきつく目を閉じてから、優しい主を迎えようとしている邸宅を祝福するように振り仰いだ。