21 “アロイジウス”
「……いまさらなのですが。リンデさんは、ヨハン以外にも人ならざるものの類いを感知できるのですか?」
サンルームで話をしてから数日が経ったこの日、ふたりは数十分後に南館へ先代オーヴレイ侯爵夫人を招いてのお茶会を控えていた。
極度の緊張で朝から真っ青な顔をしているロレッタを見かねたダリルが本館へ呼び寄せ、気を紛らわせるべくこうして雑談に興じているのだ。
「いえいえ、ヨハンくんだけです。それに、越してきた日の夜に言われたんですよ。おばけなんか見たことない。だからいないと思う、って」
「それはまた。自分のことをなんだと思っているんでしょうねあの子は」
愉快そうに言い放つダリルにつられてロレッタもくすくす笑う。執務室は相変わらずしかつめらしい雰囲気で満ちているけれど、彼女からすれば優雅なサロンへ通されるよりもずっと気が楽だった。
(ノーチェさん、ヨハンくんから似顔絵をもらったら、喜んでくれるかなぁ)
おばけと少女はいま、隙間時間を読書ではなく似顔絵制作に充てていた。
こだわりが強い芸術家肌のヨハン画伯は色鉛筆だけでの表現に早くも限界を感じているようで、助手のロレッタはクレヨンの購入を検討しているところだ。
彼女の和らいだ表情を確かめたダリルは、じきに森へやってくる客人についての話題をそうっと大机へ載せてみた。
「先代夫人は、とにかく人との交流を好む朗らかなお方なんですよ」
ぴくっと小さく肩を揺らしたロレッタ。しかし、事前にある程度は先代夫人――ベルナデットの為人や状況を伝えておかねばなるまい。そう思ったダリルはためらいつつも慎重に言葉を重ねる。
「二年ほど前に先代侯爵を亡くされてから、体調が思わしくない時期が続いていたのです。夫人の場合、誰かと楽しく過ごすことも、ご快復への助けになるのではないかと」
「まあ……まだ代替わりされたばかりでしたか。お辛い思いをされていたのですね」
「先代さまは父の大叔父で、のんびりした優しいお方だったんです。夫人とも、大変仲のいいご夫婦でした」
「ラシーヌ伯爵の? ええと、では」
「はい、婿養子としてオーヴレイへ」
ロレッタを覆っていた薄曇りの空気が鳴りを潜め、まるで数式と向き合っている学者のような面持ちへと変わる。
「アルバライエンでは、女性にも継承権があるものだと思っていたんです。でも、もしかして、王家に限ったお話でしたか?」
「いえ、あなたの認識で合っていますよ。直系長子による継承が基本です。先代オーヴレイ夫妻の婚姻時には、まだ法改正がされていなかったということですね」
「あの……ずっと不思議に思っていたんです。エデリーナさまがいらっしゃるのに、どうしてウィンゼルは断絶してしまったのか」
ダリルも当然疑問に感じ、けれど答えを持ち合わせていないことだ。
「傍系の……親族の方。それこそ、ノーチェさんのお兄さまやお姉さまが継ぐことも、できなかったのかなって」
「う〜ん…………養子縁組制度は整備されていますし、前例もあるのですが……」
アルバライエン貴族、とりわけ公侯伯家における爵位継承を目的とした養子縁組は、リーザ大陸の近隣諸国と比較しても格段に厳しいのだとダリルは言う。
「我が国ではそれだけ、過去に家督を巡る争いが多かったということでしょう。“八日王ガウス”のような簒奪者は、いつどんな時代にだって現れうる存在ですから」
「あ、たしか、王女さまが双子のお兄さまを助けに行ったと……」
「そうです、そうです。アロイジア王女は他国でも有名らしいですね」
歴史上の人物の話でひとしきり盛り上がり落ち着いたころ、ダリルは窓の外――水瓶像の庭へ視線を送りながら呟いた。
「僕のきょうだいはともかく……エデリーナさまは、継げなかったのではなく。継がなかった、ということなのかもしれないですね」
死者として身を隠し、家門の歴史を終わらせた。エデリーナはいま、なにを思っているのか。ふたりは黙ったまま、けれど同じように考える。
「ウィンゼルという家は、少し特殊で。ほかの貴族家と並べて語れない節もありますから」
「王族血統だから、ですか?」
「その点もおおいに関係しているのでしょうが、なんと言えばよいものか…………嫌われ役を、買って出るような。それでいて潰されることなく、頂点に近い場所で立っていられる家、なのですよ」
「……もし、ヨハンくんが大人になっていたら、嫌われ役を」
「似合いませんよね」
まったくだ、とロレッタは何度も頷いてみせた。そこへノックの音が割って入り、息を弾ませたジェレミーが姿を現す。
「ダリルさま、電信です。おいでになりましたよ」
「ありがとう。さ、リンデさんも。いっしょに出迎えに行きましょう」
ウィンゼルの紋章は蛇と二本の剣。知性と再生の象徴としてとくに重んじられていた蛇は、門扉の装飾にも用いられている。
何度か出入りしているうちに見慣れてきたのか、ロレッタは畏怖すら覚える存在感を醸す蛇をちょっとかわいいな、と思いはじめていた。
「あなたが水瓶像へ捧げてくれたあのアポロを、僕と先生も見ているんです。ロレッタとアポロが揃ったと、たいそう喜んでおいでだったんですよ」
玄関から外へ出るとき、ダリルが少女へ振り返って扉を押さえながら告げた。
「……先生?」
「……そうだ。すみません、肝心なことを話していなかった。先代夫人は僕らが小さいころ、教育を請け負ってくださっていた方なんです」
僕ら、ということはヨハンにとっても――ロレッタがそう考えているとぴかぴかの自動車が正門を抜け、車寄せの前へ滑り込んでくる。
「春色のお嬢さん、ごきげんよう! ずっとあなたに会ってみたかったの」
駆け寄ったジェレミーの手によって後部座席の扉が開かれたとたん、無意識に歯を食いしばっていたロレッタの全身は温かな言葉でふわんと包み込まれた。
「ごっ、ごきげんよう。お会いできて光栄に存じます」
「そう畏まらなくってもいいのよ。あぁ、いつも悪いわねぇジェレミー」
ジェレミーのエスコートは堂に入ったもので、足を悪くしているらしい貴婦人の降車をなめらかに導く。
ベルナデット・ポルテ・オーヴレイ。くるみ色の瞳を飾るように刻まれたしわがチャームポイントに見える、かわいらしい女性だった。
熟した苺に似た深い赤のセットアップにシャンパンゴールドのショールを羽織るベルナデット。その手には、百合の彫刻が施された美しい杖を携えている。
「ご足労いただきありがとうございます、先生」
「出かけるのは大好きだもの。うちの者は揃って過保護だから、お呼ばれという大義名分を振りかざせてありがたかったくらい」
ね、と茶目っ気たっぷりに視線を投げかけられた壮年の男性――モーガンと名乗る彼はベルナデットの秘書なのだとか。
愛嬌で包んだ当て擦りに苦笑しつつも、初対面のロレッタに紳士的な礼を送った。
やがて、マチルダとラシーヌ伯爵家の使用人たちが万全に整えた南館のサロンにベルナデットの楽しげな声が響き渡る。
「まさかあなたから“秘密のお茶会”について聞けると思わなかったわ〜!」
ロレッタが履いていた“記憶の花”のコルセットスカートにベルナデットが目を留めたことから、ムネモシュネで見聞きした話が真っ先にお茶請けとなったのだ。
「僕も驚いています。貴族家の子女は成年を迎えると必ず一度は王城へ招かれるので、謁見の機会を持たない子供たちのために抽選への参加を控えていますから」
「なるほど……そうなると、マダム・オーヴレイやノーチェさんのお耳にはそうそう届かないですよね」
名前で呼んでちょうだい、とロレッタへねだるベルナデットの横で、ダリルもやや興奮した様子で話を膨らませる。
「お茶会が催される中庭は、もともと王族のために造られた場所なんです。かつては“天上の庭”と呼ばれていて、王子殿下がたの教育係も務めていた先生ですら立ち入ったことはないのですよ」
ロートス宮と名付けられた王族居住区からのみ出入りできるよう設計されていた天上の庭。十三年前、イグニスの発案で王族以外にも開かれた庭園として生まれ変わったのだという。
「まあ、多少は回廊から覗けたのだけどね。陛下のご意向で大改造がはじまったときには、これからどう変わっていくのかどきどきしちゃったわ」
テーブルを囲んで尽きないお喋りを転がす大人たち。ぎこちなかった少女の態度がくつろぎはじめたころを見計らって、ベルナデットはすかさず話題を変えた。
「ねえねえロレッタさん。ヨハンはいま、どうしているの?」
彼女がダリルから受け取った招待状には、僕らと秘密を三等分してくださいませんか、と記されていた。
ベルナデットが首を傾げつつ読み進めると、そこにはウィンゼルのきょうだいが置かれた現状について事細かに書き連ねてあったのだ。
二十四歳となった元教え子は、なかなか強かに成長していたらしい。
「朝食の席では一緒だったのですが、いつの間にかいなくなっていて……マチルダさんたちが出入りする気配を察して、気を遣ってくれたのだと思います」
「まっ、あの子らしい。ぼくはなんにも知りませ〜ん、なんて顔して、周りをよく観察しているのよね」
『なんで〜!? シャトン先生がいる〜!』
「ひぃっ」
ロレッタの死角に位置する窓の向こうからサロンへ突入してきたヨハン。背後で発された元気な声に全身をびくつかせたロレッタは、カップを持つ手を大きく揺らしてしまった。紅茶の雫がソーサーへ飛び散ったけれど、周りを汚すほどには至らなかった。
『わ、ごめんねロレッタ、びっくりしちゃったね?』
「いいの、平気よ。失礼しました、ちょうどいまヨハンくんが、シャトン先生と呼びながら現れて――」
年齢は感じるもののしみひとつない手で口元を覆い、目を見開いたまま固まるベルナデット。その隣では、ダリルが不思議そうな表情を浮かべていた。
「…………懐かしいこと。やだ、もう。ちょっぴり泣けてきちゃう」
「シャトン……? チェリジア語?」
「ふふふっ。わたしと、ウィンゼルの子供たちだけの秘密だったのに」
『あっ、そうだったかも。いけない、忘れちゃってた』
ヨハンはぺちんっ、と自身の口を平手で叩く。三者三様の反応にどうしたらよいものか困惑するロレッタへ、ベルナデットが笑いかけた。
「ダリルの言う通り、チェリジアの古い言葉で子猫という意味なのよ。ロレッタさんも知っていたかしら?」
「いえ……ヴィエント大陸の言語となると、ペルク語しか触れていないもので」
「ああ、話者人口がいちばん多いものね。むかし、ヨハンとエデリーナと三人で森を散策していたとき、猫の親子に遭遇したことがあるの」
はじめて目にする愛らしい動物にヨハンは大喜びで、子猫のみならず母猫にも興味を示した。
「子猫たちはすぐ近寄ってきたけれど、母猫はやっぱり警戒心が強くって。離れた場所からじっとこちらを観察していたわ」
しかし母猫は、大きく迂回しながら近づいてきたかと思えば、しゃがみ込むベルナデットの足に体をくっつけて座った。そして、そこから子猫とヨハンの交流を見守りはじめたそうだ。
「それを見たヨハンが、先生のことも自分の子供だと思ったんじゃない? って……こんなおばあちゃんを掴まえて、そんなことを言い出したものだから」
「知らなかったです。まさかヨハンが、先生にあだ名をつけていたなんて」
『え〜? シャトン先生って言いはじめたのは姉上だと思うんだけど〜』
ロレッタがおばけの言葉をふたりに伝えることで、四人での会話が成立する。ヨハンは終始嬉しそうな顔で、ロレッタにぴったりくっついたままご機嫌に話し続けていた。
『あのね、義兄上もシャトン先生からお勉強を教わって――あっ、違う。違うよ。アロイジウス殿下!』
「アロイ、ジウス」
『シャトン先生に注意されたの、思い出した。ほんとはね、まだ姉上と結婚してないから、お名前で呼ばないといけないんだ』
虚空を見つめる少女がぼんやり口にした名前に、ベルナデットとダリルは思わず顔を見合わせた。
尊称もなしに呼び捨てたことを咎める意図はない。明らかに、はじめて耳にしたのであろうことがわかるたどたどしさに、ふたりは息を呑んだのだ。
大人たちの変化には気づかず、けれどロレッタの目はすぐに焦りと驚愕で揺れはじめる。彼女もまた、思い至ったのだろう。
「――ロレッタさん。あなた自身と、あなたが触れているものならヨハンも触れられるのよね?」
「えっ、は、はい」
「試してみてもいいかしら」
返事を待たずにロレッタの手を握り、ベルナデットはヨハンが自身へ触れられるかどうかを確かめ出した。
「ん〜、残念、だめみたいね? ダリルならどう? ほら、試してみましょうよ」
有無を言わさずダリルの手を掴んで、強引に事を進める。されるがままの少女がなにも話せない分、ベルナデットはことさらに明るく振る舞ってみせた。
結局、ヨハンが触れるのはロレッタと、ロレッタが触れているものだけということを確認して、ベルナデットの実験教室はあっさり幕を下ろした。
しばらくすると、お茶会への参加に満足したらしいヨハンは再びどこかへ飛び去っていく。サロンに残った三人はしばし沈黙を貫き、やがて、ほぼ同時に口を開いた。
「リンデさん、もしや」
「わたし、とんでもない思い違いを――」
「アロイジウス・ユーグ・ヒュペリエル殿下」
耳にした者が自然と居住まいを正すような厳粛な響きで、ベルナデットは彼の名前を告げた。
「イグニス陛下の、実の兄君よ。かつて王太子殿下であったお方で……いまはベルギア公爵閣下として、人々の暮らしに直結する諸問題の是正に取り組んでおいでなの」
「……エデリーナさまが婚約されていたのは、アロイジウス殿下だったのですね」
悄然とこぼし、ロレッタはうつむく。口を開きかけたダリルを視線で制止して、ベルナデットは教育者らしい張りのある声で少女を呼んだ。
「ロレッタさん。まずは、十六年前に起きたこと――ウィンゼルの事件だけではなく、公にされている過去を知るところからはじめてごらんなさい」
見落としてしまっているものを拾い集める。知った分だけ、世界の様相は変化する。
欠落を、偏りを、歪みを認識し、改めなければ片手落ちだ、とベルナデットは言う。
「あなたの母国も絡んだ、とっても複雑なお話だから……すべてを理解するには時間がかかってしまうでしょうけれど。アルバライエンで起こったことに関しては、飲み込みにくい部分があるなら彼を頼ればいいわ」
ロレッタもダリルも、ベルナデットの言葉になにも返せなかった。実際にロレッタは、イグニスに兄王子がいたことさえ知らなかったのだ。
「まあ、ただ。閣下が王籍から離脱した経緯を思えば……軽々しく口にできることではありませんしね」
「アルバライエンの者であっても、貴族ならともかく、子供たちへ詳しく教えている家はそう多くないのではないかしら」
ベルナデットにはまだ、ロレッタが情報機関に属しているだろう男性たちから追われていることを打ち明けていない。
ここからどう話を転がせば、現状を大きく変えていけるのか――多少の猶予はあるはずだが、と思いつつもダリルは歯噛みする。
「……エデリーナがなぜ姿を消してしまったのか。ヨゼフたちはなぜ嘘をついたのか。知りたかったのでしょう?」
ロレッタとダリルは、示し合わせたかのようにベルナデットへ勢いよく視線をぶつける。
「んもう、ふたりとも、お顔が怖いことになっているわよ。……襲撃事件についても。あなたたちはもう、語られていることが事実ではないと知っているんだものね」
感情の読めない、しかし柔和な顔で、ベルナデットは少女を見た。
「ロレッタさん。わたしはね、ヨハンがあなただけに見えることを、ある種の救いだと感じているわ」
「救い、なのですか? わたしより、ヨハンくんをずっと想っている方が、たくさんいるのに」
にこっと笑うと深くなるしわ。旅路のずっと先を行く者は、投げかけられた言葉に戸惑う少女へ簡単に答えを与えない。
「慰めは止まり木。いずれ飛び立つために縋るひとときの憩いであるべきだと、そうも思っているの」
「……ひとときの……」
ベルナデットは一度ダリルへ視線を移し、懸命に考え込んでいるロレッタを眺め、持ち上げたカップの中で揺れる紅茶を見つめながら口を開く。
「我々はどうしたって、失いながら、手放しながら生きていくしかないんだもの」
「――先生」
示唆に富みつつも核心を避けるベルナデットの言葉を静かに聞いていたダリルが、教え子だったころのように顔の横で手を挙げた。
「なあに?」
「先生は、エデリーナさまが生きていらっしゃることを、ご存じだったのですか?」
「ええ、十六年前から」
間髪入れずに頷いたベルナデット。窓から注がれる光が唖然とするダリルを照らし、アッシュブラウンの髪が淡い緑色を帯びて明るく輝く。
もうなにがなんだかわからず置物のように座っていたロレッタは、光の中で見るダリルの髪はなんとなくヨハンに近い色だな、と思っていた。
「……わたしにも、少しだけ時間をちょうだい?」
「先生、しかし、僕たちは……リンデさんは」
「意地悪がしたいわけじゃないのよ。わたしがそんなことをするような大人に見える?」
「そんなことは……ない、ですけど……」
「あっ」
少女の声に大人たちは動きを止める。会話を遮ってしまったことを謝りつつ、ロレッタはなにも感じ取れないふたりに告げた。
「ヨハンくんが、戻ってきました」
窓の向こうへ笑顔で手を振るロレッタ。ダリルは自身を落ち着かせようと大きく息を吐いて、ループタイを握る。
(たしかに、救いなんだ。先生は間違ってない。見えなくてよかった。少なくとも僕にとっては……これでよかったんだ)
見えてしまったら、話せてしまったら。またいつか失うことを、離ればなれになる日のことを恐れて、前へ進めなくなってしまうに違いないのだから。




