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銀のひばりと朝の夢  作者: 問島 夕生
一章 空だけが知る青
2/39

2 記憶の花

 移住者管理局のファサードを彩る小庭園に、旅装の少女がぽつんと佇んでいる。

 通りを警邏中の騎馬憲兵が視線をよこしたことにも気づかず、呆けた顔を空へ向け立ち尽くすばかり。


 暇や退屈と縁遠い大都会にあって、とろけていく薄い雲の行方を見届けたのはきっと彼女だけだろう。北東へ吹く風は、王が座する場所――アイテール城上空へと雲のかけらを連れ去っていった。


「終わった……。想像より、だいぶあっけなかった……」


 トランクの持ち手からぎっ、と革の擦れる音がする。発行された在留許可証をしまい込んでから、ロレッタの手指はきつく握り締められたままだ。

 足元に置いた旅行鞄さえなければ、きっと彼女は両腕でトランクを抱きかかえ歩いていただろう。


 詰めていた息を短く吐き、外套のポケットから懐中時計を取り出す。蓋の中央に小鳥と飾り文字のイニシャルが彫られ、五弁の花や蔦草でふちどられた銀の時計は兄夫婦が贈った移住祝いだった。


(安心したらお腹が空いてきちゃった。朝食にしては遅いけど、軽くなにか食べたいなぁ)


 浮遊感を引きずりながら小庭園を抜けた彼女の眼前には、行儀よく整列した施設群が広がる。

 いかめしくも壮麗な背後の建物と同じく、どれもカスタードクリームに似た柔和な色味を基調にしていた。


 街路樹や生け垣、花壇が満遍なく配された通りを行く者はみな洗練されていて、そつがなくて、ほんの少し気難しげな顔だ。

 きれいだけど長居はしたくない。用が済んで余裕を得たロレッタが抱いたのは、そんな身も蓋もない感想だった。


(飲食店は……この辺りにはなさそう、よね)


 やみくもに探し回るより、新居がある街への乗り継ぎを考慮して駅まで戻ったほうがいい。そう判断して爪先を半回転させたロレッタの視界に、石畳を軽快に駆けてくる人物が飛び込んできた。


 マゼンタのスカーフとアプリコット色の豊かな巻き髪を揺らす、距離があっても華やかさが伝わる女性だ。

 その姿に既視感を覚えたロレッタは、中途半端な体勢のまま足を止めてじっと目を凝らす。


「――――ロレッタちゃん、ロレッタちゃん!」

「……やっぱり、ドロテアおばさま! えっ、どうして、お仕事は!?」


 やがて大きく手を振りはじめたのは、ロレッタの大叔母。父方祖父の年の離れた妹であるドロテア・フォーレだった。

 予期せぬ再会にロレッタは目を剥き、けれど駆け寄ってくるドロテアを力強く受け止めてみせる。


「予定を調整してもらったの! ああ、すれ違いにならなくってよかった! いま管理局から出てきたんでしょう? ちゃんと許可証はもらえた?」

「うん! もう両替もしてきたのよ。おばさまが書いてくれた地図、とってもわかりやすかったから」


 数年前に夫アンリの祖国アルバライエンで国籍を取得したドロテアはロレッタの後見人だ。フォーレ夫妻は彼女の移住における最大の協力者であり、功労者だった。


「じゃあ、あとはプリューセンへ向かうだけね。お腹は空いていない?」

「いまね、ちょうどお店を探しに駅のほうへ戻るところだったの。昨日の夕方に食堂車で食べたっきりだから」

「市庁舎三階の食堂ならすぐに連れていけるけど……いいお店を知っているわ。もう少し我慢できる?」

「できるわよぉ。小さい子じゃないもの」


 すっかり気が緩んだ様子のロレッタはドロテアが履いている靴へ目をやり、こんなに高いヒールで走れるなんてすごい、と他愛ないことを考えていた。


「それにしても、ずいぶんな大荷物ね。送り忘れでもあった?」

「家を出る前にお母さんがあれこれ詰めてきて……こうなっちゃったの。大変だったんだから」

「なるほどねぇ、ミレイユちゃんの気持ちもわかるわ。さ、とりあえずついてきてちょうだいな!」


 旅行鞄を強引に請け負いながら、ドロテアはリンデ家で巻き起こった親子の攻防を思い浮かべてさもありなんと頷く。パンプスとブーツを仲良く並べ、ふたりは石畳を楽しげに叩きながら官庁街を後にした。


「もう。おばさまったら、笑いすぎ」


 気恥ずかしさからむくれるロレッタの指が、蜜蜂と草花の絵付けがされたティーカップをたわむれに撫でおろす。

 馴染み客のドロテアが移住初日の親族を連れてきたと聞いた店主が、食後に茶菓でもてなしてくれたのだ。


 もともと貴族の別邸だったというこの店は、ふたりが案内された広い中庭のテラス席を目当てに訪れる人が多いらしい。

 花の気配に囲まれ、低木の複雑な影がテーブルの隅を飾る席で、ひとしきり笑ったドロテアは目の端に溜まった涙をハンカチに吸わせていた。


「ごめんねぇ。あなたもだけど、その男性もかわいらしくって。そそっかしいというか、なんというか」

「だって……お喋りしていたら忘れちゃったんだもの」

「きっと、南四区にある“ムネモシュネ”の関係者でしょうね」


 リボンブローチをそっとつまみ上げたドロテアは、いともあっさり男性の正体に当たりをつけてみせた。ロレッタはもちろん仰天して、大叔母の顔と手元を何度も交互に見つめている。


「懇意にしている画廊のそばにあるの。こじんまりとしてるけど、洒落たブティックよ」

「画廊……ああ、おばさまの絵を売っているところね」


 画家として身を立てるドロテアの勝手知ったる場所。画廊や古書店、画材専門店などが軒を連ねる区域に、ムネモシュネは店を構えているらしい。


「でも、どうしてわかったの? 銘でも入ってた?」

「花をよ〜く見て。どれも、ちゃんと開いていないでしょう? ムネモシュネのデザイナーが考案した意匠なの。端切れを気安く使えるってことは、関係者だと思うのよね」


 蕾へ戻ることも、咲き誇ることも、朽ちて枯れることもない。時間という概念から切り離され、織物の中に留め置かれた永遠にもっとも近い花。


 “記憶の花”と名づけられたこの意匠は、ムネモシュネの特徴であり象徴だ。デザイナーは素性の一切を秘匿しており、どういった経緯でブティックを開いたか、意匠がどんな意味を持つのか、そのすべてが謎のままいまに至っているそうだ。


「教え子たちがたまに着ているの。どの品も配色がいいし、どこか哲学めいた作風にはわたしも好感を持っているわ」

「へえ……もしかして、あの男の人がデザイナーさん、なんてこともあるのかなぁ」

「う~ん、ミゲルくんと同世代に見えたんでしょう? 五年くらい前……わたしがこっちで暮らしはじめたころにはもう、ある程度ブティックの名は知れていたようだし。見習いとか、お弟子さんと考えたほうが自然じゃないかしら」


 たしかに、と言いたげな表情で頷くロレッタが揚げ菓子を咀嚼し終えるのを待ってから、ドロテアは声を潜めて付け加えた。


「徹底して伏せている以上、デザイナーは貴族なんだと思うわ。とんだ大物の可能性だってあるし、気になってもあまり詮索したり、深入りしてはだめよ」

「そっか、そうよね。ノーチェ男爵のような方は珍しいって、お父さんも言っていたもの」


 今度はドロテアがたしかに、と大きく頷く番だった。今日からロレッタが住まう邸宅を管理しているノーチェ男爵は、一般的な貴族の在り方からやや逸脱した存在であることはドロテアにも否定できない。


 賃貸契約を交わす段では仲介人こそ置かれていたものの、ノーチェ男爵は率先してロレッタの父やフォーレ夫妻と手紙でやりとりをしていた。

 情報がぎっしり詰め込まれた地図をロレッタのために書き上げたのも、男爵本人なのだという。


 秘書や代理人ではなく、自ら熱心に動く彼のやりようは誠実で、奇妙でもある。いくらリンデ家がソルニアの()()()とはいえ、ノーチェ男爵はいささか好意的すぎたのだ。


「ただ、ノーチェ男爵の場合は……親切なお人柄だからこそ、ロレッタちゃんに対して負い目を感じていらっしゃるんじゃないかしら」

「ええ〜、またそのお話? ひどい事件があった場所だからって、怖がる理由にはならないのに」


 ドロテアのみならず、両親、兄、祖父とも散々繰り返したやりとりにロレッタは不満げな顔を見せる。


「わたしは平気。それに、こんなに手厚く迎えてくれる貸主さんなんて、ほかには見つからないでしょう?」

「そうねぇ……ミレイユちゃんを納得させるほどの条件となると、()()()しか満たせなかったでしょうね」


 人呼んで、プリューセンの亡霊館。物件を見つけてきたドロテア自身も候補に挙げるのをためらった、いわくつきの土地に建つ新築の邸宅だ。


「それより、貴族の方と接するときは粗相のないよう気をつけなくちゃね。なにかあったら、おばさまやアンリおじさまに迷惑をかけちゃうもの」

「わたしたちは、あなたが理不尽に晒されなければそれでいいの。作法だって充分身に付いているんだから、自信を持って」


 会話がひと段落したところでカップに口をつけたドロテアは、そういえば、と顔を上げて浮かんだ疑問を投げかけた。


「ロレッタちゃん、()()()は新居へ送ってあるの?」

「ううん、持ち歩いてるわ。ほら、見て! 自分で作ったの!」


 ロレッタは提げたままのポシェットから巾着を取り出すと、よくぞ話題にしてくれました、と言わんばかりの笑顔でドロテアに手渡した。


「よくできているじゃない。この色も……懐かしい。会いたくなっちゃうわ」

「ねっ? ニケの目にそっくりでしょう。落ち着いたら移住したよって手紙で知らせるつもりなんだ」

「驚くでしょうね〜。彼女、意外と心配性だから、わたしのところへも連絡が来そうだわ」


 海の向こうの大陸へ移住したニケとは、もう十一年会っていない。閉じた世界で生きてきたロレッタとは対照的に、国から国へ渡り歩く自由で大胆な暮らしを送るニケ。

 家族ぐるみで親しくしていたこともあり、ふたりはしばしのあいだ旧友が残していった数々の逸話をテーブルに転がしては笑い合った。

 そしていま、ロレッタをトラム(路面電車)の停留所へと送り届けたドロテアは、一転して気遣わしげな表情で口を開く。


「かなり歩くことになるわよ。本当に貸馬車じゃなくていいの? トラムで向かうよりずっと楽よ?」

「大丈夫! お邸の周りにある森はアルバライエンで五指に入るほどきれいなんですって。ノーチェ男爵がお手紙で何度か仰っていて、ずっと楽しみにしてたの」

「ああ、瑠璃鳥(るりちょう)の森ね……」


 仕事へ戻らなくてはならないドロテアとはここで一旦お別れだ。メイフローネ中央駅から幹線道路を目指して進む道中にある停留所は、時間帯のせいか閑散としていた。

 時刻表を確認している背中におばさま、と呼びかけたロレッタは、振り向いた彼女の横で視線をわずかにさまよわせ、静かな声で切り出した。


「叶えてくれて、ありがとう」


 アプリコット色の髪がふたり分、風に遊ぶ。春空に似た目は伏せられて、その温かな色彩を隠してしまっていた。


「すごく大変だったでしょう? いろんな手続きだけじゃなくって、家探しも……お父さんたちといっしょに、お母さんの説得だってしてくれた」

「それくらい、なんてことないわよ。ロレッタちゃんが手に職をつけていなかったら、後押しするか悩んだかもしれないけど……。真剣に、あなたなりに人生を考えた上での願いだったじゃない」

「……うん。どうしても、外へ出たかった」


 ロレッタは口の中に苦みが広がっていくのを感じていた。祖父の伝手を頼って十三歳からはじめたのは翻訳の仕事。寝食をおろそかにするほどがむしゃらに取り組んで、どんな小さな依頼も引き受けてきたのは、一日でも早く自立したかったから。


「狭い世界しか知らなかったら、誰にキテラを繋げればいいのかわからない。せっかく預けてもらったのに……わたしのところで、止めたくなかったの」


 切実な吐露を黙って受け止めるドロテアは、ロレッタの父――自身の甥から移住へ至るまでの経緯と、リンデ家が抱える葛藤をつぶさに聞いていた。


 身内の贔屓目を差し引いても、ロレッタは賢い子だとドロテアは思う。分厚い真綿の中で窒息しそうになりながら、自身に足りないものと、補うために必要なことを過たず突き止めた。

 疑問を抱かず、変化を望むことなく生きた末にたどり着くであろう未来を歪みなく描き、危惧していた。


「焦っちゃだめよ、ロレッタちゃん。まずは……あなたが夢にまで見ていた外の世界を、ゆっくり味わってほしいわ」


 ドロテアからすれば、ロレッタが致命的な欠落であると認識している凪いだ十七年は、けして値打ちなきものではない。


「絵も、物語だって、余白や行間がなければ成り立たない。空白にも役割はあるのよ」


 茶色い外套に包まれた頼りない肩へ手をやり、ロレッタの顔を覗き込むドロテア。どこかぼんやりして見えるのは穏やかな顔立ちのせいだろう。

 返ってくる眼差しだけは小さなころから変わらない。目の奥できらめいているのは、好奇心と探究心だ。


 あまり笑わない子だった。口数も少なく、おもちゃを与えても不思議そうにじいっと見つめる大人しい子。そんな娘を心配する両親に、ドロテアの兄がかつてこう言っていた。


『眺めて、考えて、解釈することを静かに楽しんでるだけだよ。この子にとっては、世界の観察がいちばん夢中になれる遊びなんだろうね』


 祖父に抱っこされた小さな哲学者は、彼が整え損ねた顎髭の端っこを見つめていたかと思いきや、急に手を伸ばして髭の束を鷲掴みにする。

 驚いて奇妙な声を上げる祖父の反応にきょとんとして――やがて、実に楽しそうに笑ったのだ。


「大丈夫。まずは今日から三年間、存分に楽しんでいらっしゃい」


 ドロテアが思い出し笑いを堪えていることに気づかず、ロレッタが素直に頷いたときのことだった。建物の角から姿を現したトラムが、聞き慣れない音を響かせ停留所へ近づいてくる。夜行列車とそっくりな、黄緑色の車体だ。


「――ねえおばさま、王国旗の色でもないのに、黄緑がよく使われている気がするわ。アルバライエンで流行っているの?」


 尾を引いていた深刻な空気はなりを潜め、感興をそそる対象に釘付けのロレッタ。よく喋り、よく笑うようになったけれど、彼女の根っこは成長しても変わらないらしい。


「ああ、流行とは少し違うわ。あれは四眼(しがん)の鷹――国鳥の瞳の色だからよ」

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