13 いざや唄うは
しゃくしゃく、ざわりと落ち葉を掃き集める音がかすかに響く肌寒い朝。秋色でいっぱいの瑠璃鳥の森は、今日も穏やかに規則正しい呼吸を繰り返している。
「んもう。ロレッタってば、なかなか起きないんだから――あっ、曲がってるよ。もう少し右ね……そう、その辺り」
鏡に向かって座るロレッタの背後から、小言まじりの指摘が飛ぶ。新調したばかりの赤いリボンで飾ったハーフアップがようやく完成しそうな頃合いだ。
「ごめんね……子供のころからなの。家でもみんなに言われていたのよ。どこでも寝ちゃうし、一度寝たらずっと起きないって」
後頭部へ両腕を回して指先に神経を注ぎながら、ロレッタは己の悪癖を恥じ入る。
夜行列車でアルバライエンへ来た日も、終着駅とはいえ寝入ってしまうのが恐ろしくほぼ徹夜でメイフローネ中央駅に降り立ったくらいなのだ。
「僕が起こしてあげるから、もう心配いらないけどねっ」
「うん、毎日助かってる。ヨハンくんのおかげで、リボンだってきれいに結べるようになったわ」
いまの彼女には、朝食を欠かさず取り、丁寧に身だしなみを整え、お喋りに興じる余裕すら残されている。それらはひとえにヨハンの支えがあってのことだ。
鏡に背を向けて座り直したロレッタは手鏡をかざし、結んだばかりのリボンを角度を変えつつ嬉しそうに眺めた。
「お家の人に教えてあげたら? 毎朝、ロレッタはお寝坊してないかな、ちゃんと起きられたかな〜って思ってるかもしれないよ」
「そうだね、次の手紙で知らせて安心させなくちゃ」
リンデ家とニケへ返事を出してからまだ三日も経っていないため、ロレッタの家族はもうしばらく気を揉む日々を送ることになりそうだ。なにしろ、少女の寝坊癖は寒くなってくると本領を発揮するのだから。
鏡台を片付け、ピッチャーに残っていた水を飲み干したロレッタは、靴を履き替えるべくワードローブの前に置いたスツールへ腰を下ろす。
「――わたしね。このままずっとソルニアにいたほうがいいかなって、考えていた時期もあったのよ」
それは、発言した本人でさえ戸惑いを抱いた唐突な思いの吐露だった。ブーツの紐を結び終え、顔を上げたロレッタはしばし黙して窓の外を見つめる。
「自由に出歩くことさえ許してもらえるなら、誰かに負担をかけてまで移住しなくたってよかったんだもの」
ヨハンの姉が生きていることを知ってから、ロレッタは妙に開けた迷路へ放り込まれた気がしていた。閉塞感や恐れはない。ただ漠然と、なんとなく、途方に暮れているのだ。
「広い世界は見たいけど、家族のそばにもいたい。正反対だけど……わたしにとっては、両方とも本当の気持ちだったの」
胸の奥に居座るしこりの周りが毛羽立って、ちくちくして、なにをしていても落ち着かない。だからこうして、取り留めのない思考がふとした拍子に漏れ出てしまうのだろう。
朝日に照らされた寝室で、少女の言葉に耳を傾けていたおばけはやがて大きく首肯した。
「ぼく、わかるよ。反対の気持ち。よくダリルと喧嘩してたから」
「えっ? ノーチェさんと喧嘩してたの? それは……かなり意外だわ」
「ダリルは怒りんぼうだったからね〜。面白いから好きだけど、怒りんぼうしてるときは嫌いだったもん。ね、反対の気持ちでしょう?」
物静かで落ち着き払ったダリルしか知らないロレッタは、ただただ驚くばかり。それだけふたりが気の置けない間柄だったということかな、と内心で結論づけていると、ヨハンがずいっと顔を近づけて彼女へ問う。
「でもさ。じゃあロレッタは、どうしてアルバライエンに来たの?」
ロレッタの生い立ちと出国までの経緯を知るヨハンが聞きたがっているのは、もっとずっと内側にある理由だ。
「ふたつある本当の気持ちの、お家から出ていくほうを選んだんでしょ? それはどうして?」
「あぁ……なんて言えばいいのかな。可能性を、高めたかった。友達との約束を、できるだけ、納得のいく形で果たせるように……」
「友達って、ニケ?」
うん、と笑って安楽椅子に置いていたポシェットを拾い上げたロレッタは、奥底からラズベリー色の巾着を引っ張り出す。
「このお守りをね、むかしニケから預かったの」
「へえ〜、きれいな色の袋。ちょっとおいしそうかも」
「果物みたいでしょう。ニケの目にそっくりな色の生地を探して、自分で縫ったのよ。失くさないように、いつもこうやって持ち歩いてるんだ」
声を弾ませ、いそいそと中身を取り出そうとするロレッタ。そんな彼女を制止するように、ヨハンが遠慮がちな声を上げた。
「……あのさ、まだお喋りしてても大丈夫なの?」
訝しんで尋ねる彼に、少女は傾けた巾着を片手に持ったままぽかんとした顔を向ける。
そして機敏な動きで時計を確認するやいなや、一転してしょぼくれた表情でヨハンへ言い縋るのだ。
「大変。せっかく早めに起こしてもらったのに、トラムの時間を忘れてた……急いで出なくっちゃ」
後頭部のリボンに引っ掛けないよう慎重に提げたポシェットへ巾着をしまい、ロレッタは室内を慌ただしく駆ける。
「転ばないようにね。お金は持った? ハンカチと鍵は? ぼく、届けてあげられないから忘れ物しちゃだめだよ?」
「えっと……うん、ちゃんと持ってる! ありがとうヨハンくん、いってきます!」
外套に腕を通しながら扉の向こうへ飛び出していく少女。その背中と髪を束ねて揺れるリボンを見送ると、ヨハンは一仕事を終えたと言わんばかりに空中で腰に手を当てた。
「う〜ん。やっぱり、ぼくがもっとしっかりしなくっちゃ。ロレッタは、少しおっちょこちょいだからね〜」
左右へふよふよ体を揺らし、歌うように独りごちるおばけは満ち足りた表情をしている。にぎやかな朝のひとときは、得も言われぬ充実感を彼にもたらすものだった。
ニケと交わした約束とやらは気になるけれど、あとでゆっくり教えてもらえばいい。ヨハンはそう考えて、ぎゅっと目を閉じいずこかへ消えていった。
「ダリルさま、詰所より電信です。ベルナデットさまが森へ到着されたようですよ」
「ああ、ありがとう。車を使っておいでだろうから、すぐに向かわなくては」
いつもと変わらない午後を迎えた森に、来客の知らせが届いた。マチルダを伴い玄関の扉を開けたダリルは、車寄せで姿勢よく佇むジェレミーのすぐ後ろまで歩み寄る。ちょうどそのとき、速度を落とした一台の自動車が正門から進入してきた。
「ようこそ先生、ご無沙汰しています」
「久しぶりねぇ、元気にしていた? 近頃とくに気に入っているお菓子を持ってきたわ」
現れたのは、豊かな霜髪のボブカットを大きくカールさせた老婦人――ベルナデット・ポルテ・オーヴレイ。
物寂しい季節の空気を微笑みひとつで和らげる彼女は、瑠璃鳥の森を定期的に訪れる数少ない存在だ。
彼らは連れ立って本館の玄関からほど近いサロンへと向かう。足を悪くして杖を手放せないベルナデットへの配慮だった。
「ねえダリル、南館に入居された方はどんなご様子?」
サファイアブルーの生地が張られた重厚なアームチェアにちょこんと掛ける老婦人は、くるみ色の瞳をきらめかせてダリルへ問う。
「森での暮らしを満喫してくれていますよ。マチルダたちともすぐに打ち解けていましたし、水瓶像の庭も気に入ってもらえました。今日は、仕事で不在にしているようなのですが」
「あら〜、よかったじゃない。でも残念。ご挨拶だけでもしておきたかったわぁ。ちなみに、どんなお仕事をされているの?」
「翻訳を。礼儀作法の教本や料理のレシピ集……あとは、童詩集を手がけたこともあるそうです」
「そうなのね、なんだか勝手に親しみを感じちゃう」
手土産の焼菓子をつまむ彼女の顔色は、頬紅の助けを差し引いてもけして悪くはない。
二年前に夫を亡くして以来、このまま儚くなってしまうのでは、と誰しもが危惧するほど痩せ細ってしまったベルナデット。追い打ちをかけるように旧友や知己の訃報が続き、起き上がることさえ難しい時期もあった。
しかし、家族や友人、元教え子、使用人――ダリルを含めた彼女を慕う人々の励ましと本人の努力によって、こうして心身の健やかさを取り戻しつつあるのだ。
「あなた、ずいぶんと顔つきが柔らかくなったんじゃない?」
恩師が復調した喜びを焼菓子と共に噛み締めていたダリルは、思いもよらない言葉に動きを止める。
「ずっと、ずうっと張り詰めていたものね。大変だったでしょうに……よく頑張りました」
「ありがとうございます。たしかに、これまでと比べたら幾分か気が楽になりました」
無自覚な変化に言及された上、掛け値なしのねぎらいを送られたダリルは照れ臭そうに青磁色の目を細めた。
「不思議なことにね、去年より森がきらきらして見える気がしたのよ。さっき、車の中でモーガンとそんな話をしたわ」
「やはり、そう思われますか? たったひとり住人が増えただけなのに、まるで雰囲気が違うと僕も感じていたんです」
父に付き添われ、事件以降はじめて瑠璃鳥の森へ足を踏み入れた五年前のあの日のことを、ダリルはいまでも夢に見る。
旧南館跡地に据えられた真新しい水瓶像――幼い記憶の中で輝く思い出の場所には、底なしの静寂と幽愁の気配だけが漂っていた。
吹き付ける風がわずかに窓を揺らす。四角く切り取られた森にいつか描いた青写真を重ねて映し、ダリルは一瞬だけ表情を曇らせた。
「ただ……ここまで事が運んだからこそ、思い知らされたこともありました」
変えられたものはある。けれど、彼が力を尽くしたところで変えようのないものこそが、願いの結実へ続くただひとつの道だった。
「学生寮の開設まで漕ぎ着けたとしても。収蔵館を改装して、舗道を敷いたとしても。きっと、これから僕がなにを成し遂げようと…………あのころの森は、帰ってこないんです」
ループタイへ伸びるダリルの手につられて、ベルナデットの視線はスクエアカットのサファイアへ注がれる。彼女にとってもひどく懐かしく、いまだ胸に沁みる色だ。
「愛されていたものね」
「はい。愛されていたから、あんなにもきらめいていたのでしょう」
めいめいに思い起こすのは、笑い声や音楽、楽しげなざわめきで彩られていた瑠璃鳥の森。いまだって充分に美しい森がいまよりずっと美しかったことを、彼らは覚えている。
「でも、悲観的に構えるにはまだ早いと思うわ」
亡霊を恐れ、惨劇の舞台を厭う人々が遠ざかってから十数年が過ぎ、事件を伝聞でしか知らない世代も増えた。
「良くも悪くも人の心は移ろうし……月日が経てば自然と愛着は生まれるものよ。南館の住人さんみたいに、はじめから好意的じゃなくってもね」
ベルナデットの語り口は、旧ウィンゼル侯爵邸が持つ冷厳な趣も、諦観を滲ませるダリルをもまろやかに包み込む。
「愛さずにはいられない場所だもの。またいつか、望んでここを訪れる人々だって現れるはず」
「……そう信じたいです、僕も」
「ええ、信じましょうよ。打てるだけの手を打ったら、あとは気長に、信じて見守るほうがいいわ」
薄い唇がようやく笑みを形作り、正面のベルナデットもにっこり笑う。数秒後、壁際の振り子時計から太くて重たい音が響いた。
カルディアンガラスの皿がテーブルへ落とす影は知らぬ間に伸びていて、そろそろかしら、と呟くベルナデットに応えるようにダリルは腰を上げた。
「本当に、ここで人が暮らしているのねぇ……」
「内装は姉とマチルダにいろいろ相談したんですよ。おかげで喜んでもらえました」
「あら楽しそう。次はわたしもまぜてちょうだい? かわいい弟に頼ってもらえて、ダナエも嬉しかったでしょうね」
南館裏手を目指すふたりは、もう空っぽではない家屋を横目に芝生を歩く。
ダリルの手には小さな花籠がひとつ。ベルナデットが用意した捧げ物はときおり吹く風に煽られ、柔い花びらが無邪気にひしめき合っていた。
明度を落とした森を背負う水瓶像の輪郭がはっきり見えてきたところで、ダリルは台座の上になにかを見つけて目を眇める。
「……アポロ?」
「そうよね。あれって、アポロよね?」
ベルナデットも首を傾げながら彼の言葉に続く。さらに像へ近づいていった彼らは、水瓶の下に置かれたアポロそっくりな木馬をまじまじと観察しはじめた。
ネジらしき複数の黒い点は大きさがばらけていて、しっぽの先端には色むらが残っている。
「手乗り木馬を、ご自身で彩色したのでしょうね」
「ふふっ、かわいいこと」
やや拙い仕上がりではあるけれど、不慣れながらも懸命に筆を動かしたのだろうことがふたりにも伝わった。
「南館の住人さんが?」
「おそらくは。越してきた日にも捧げ物をしてくれたんですよ」
ゴブレットを、と言い足したダリルの横で、ベルナデットが息を呑んだ。風に撫でられる草木の声だけが、オレンジ色に染まる空へさらわれていく。
「……優しい方が来てくれたのね。それにしても、驚いちゃった。あの子はアポロがいっとう好きだったから」
自身の手で花籠を捧げ、アポロを撫で揺らすベルナデット。ダリルの位置からその表情を窺い知ることはできない。現実味のない光景をぼうっと眺める彼は、いま己がどんな顔をしているのかさえもわからずにいた。
「ねえダリル。住人さんは、どちらの出版社とお仕事をされているか聞いていて?」
「社名は存じ上げませんが、中央二区か三区でしょう。劇場通りの方面だと伺ったことがあるので」
振り向きざまに問われたダリルが反射的に答えると、ベルナデットはひときわ明るい声を上げる。
「アラゴン夫人のところじゃない! あの辺りならエメス・リーブル社しかないもの、ちょうどよかった。住人さんのお名前も教えてもらえるかしら」
「――――ロレッタ。ロレッタ・リンデさん、です」
ためらいがちに告げたダリルの予想を裏切ることなく、ベルナデットはみるみるうちに頬を紅潮させた。そして愛用の杖を胸の前で握り締めると、ちっとも棘のない声で不満を訴え出す。
「んもう、ダリルったら! どうして早く教えてくれなかったの!」
「いや、あの、先生。ぐうぜ――」
「ロレッタとアポロが揃ったのよ? 胸躍る冒険の旅以外に、いったいなにがはじまるっていうのかしら! 明日にでもアラゴン夫人へ連絡を付けなくっちゃ」
踊るように踵を返す恩師を追って、彼も慌ただしく水瓶像の庭を後にした。
「ネム、ツェルル、アシュリカローナ、いざや唄うはアポロジア――」
隣からご機嫌な声が聞こえてきて、無粋な言葉を遮ってもらってよかったとこっそり胸を撫で下ろすダリル。
奇跡と呼べるほど特別なものではない、ほんのささいな偶然だとしても。彼女が笑って明日を待ち望んでくれるなら、なんだっていいと思えたのだ。
(鍵の唄……子供のころは、覚えていたのにな)
諳んじられなくなっていることが思いの外さみしく感じたダリルは、リル・マール・ベルが生み出した冒険譚を今夜にでも読み直してみようと決めたのだった。




