1 おとぎの国へようこそ
10話まで毎日更新、以降は週末を中心に投稿していく予定です。
どうぞお付き合いください。
眼を閉じて見る夢は宝箱。生まれたときには空っぽで、暮れゆくころにはさて、なにで満たされているのだろう?
逆さまに飛ぶ鳥よ、思いは残したままでいい。行っておいで、探しておいで。わかれみちまで手を取りあって。
――リル・マール・ベル【ロレッタの冒険 銀のひばりと朝の夢】オリヴィエ・ペトラルカ訳
風のにおいがまるで違う。長い夜を経て乗降場へ降り立ったロレッタは、もう一度大きく息を吸い込んでみた。
肺を満たす冷たい空気は茶色い外套の隙間からも注がれて、ぼやけた意識が輪郭を取り戻していく。
警笛、喧騒には至らないざわめき、もったりと舞う小さな埃。夜通し走り続けた黄緑色の車体を背にトレインシェッドを仰いで、白濁した光に顔をしかめたのも束の間。右に左に正面に、少女の視線は忙しなく巡る。
ここはメイフローネ中央駅。五か国を繋ぐ大陸鉄道の終着駅で、若き王イグニス一世を戴くアルバライエン王国の玄関口だ。
両手に提げた荷物で服のしわをさりげなく隠しつつ、一歩二歩と前へ進み出るロレッタ。ゆうべまでは本の中に閉じ込められていた異国の言葉がそこらじゅうに溢れ返って、彼女と同じ朝日を浴びていた。
鉄骨とガラスが細切れに整えた空の下、空によく似た色の瞳は跳ね踊りながら文字を追う。ひときわ大きなブリキの案内板によると、北の連絡通路を抜けた先に出札所があるそうだ。
鞄の持ち手を握り直したロレッタは、頬と口元をゆるませたまま飴色のブーツを北へ向けた。
淡い色調の煉瓦と石材で組み上げられた長い列柱廊を半ばほどまで進むと、左手の壁にぽっかり空いたアーチが現れる。待合室の入り口だ。
出札所を目指すまばらな旅客の群れから外れた少女は、迷いなく壁の奥へ吸い込まれていく。
両耳の下で結ったアプリコット色の髪はのんきに揺れているけれど、むくんだ足の鈍い重さにひどく難儀しているらしい。
ロレッタは部屋の中央付近のベンチへ倒れ込むように腰を下ろした。窓際には、談笑しながらスーツケースの中身を整理している夫婦らしき先客の姿がある。
ただ座っているだけではなんとなくおさまりが悪い気がして、少女は父にねだって譲ってもらったトランクから小さく折りたたまれた二枚の紙を取り出す。
(うわぁ、折り目から破れちゃいそう……)
数か月前に作成されたとは思えないほど年季の入った手書きの地図を、注意深くそうっと開いていく。
大胆な筆致と端的な線で示されているのは、官庁街と呼ばれる大通りにある銀行と移住者管理局の場所。そして詳細な説明文までぎっしり添えられたもう一枚の紙は、これから彼女が暮らす新居への経路案内図だった。
ひとりで家から出たことのない箱入り娘にとっては、母国も異国も等しく未知の領域だ。胸の高鳴りは実に生々しく、灯台たる紙切れを持つ手がじんわり汗ばむ。
(――大丈夫。言葉が通じるんだから、なにがあっても大丈夫)
地図をトランクへ戻したロレッタはまだ立ち上がる気配を見せず、今度は外套で覆っていた口金ポシェットの細い鎖をたぐりよせた。
どこか切実な面持ちで蓋を開け、奥底から引っ張り上げたのはラズベリー色の小さな巾着だ。
これは心を均すためのささやかなおまじない。なめらかな生地越しに中身を撫でていると、むくむく膨らみかけていた不安が育ち切る前に消えていく気がしていた。
憩う少女への配慮だろう、支度を終えた夫婦は努めて静かに待合室を後にする。詩趣に富んだ秋の気配によるものか、降車直前まで没頭していた冒険譚の影響か。
見知らぬ横顔と背中を黙って見送りながら、ロレッタはそれぞれが持つ背景――片道限りの旅物語を想起していた。
革のスーツケースは味わい深い傷で飾られ、旅券だって遠目にわかるくらいぼろぼろだった。ロレッタからすれば特別な非日常だって、あの夫婦にとっては意識するまでもない日常なのかもしれない。
人生を一冊の本になぞらえるなら、【ロレッタ・リンデ】と題された物語は十七ページ目に差し掛かったところだ。
波乱や起伏のない余白だらけのページを、発行されたばかりの旅券のような身の上を彼女は恥じていて、危機感ともいえる焦りにずっと急き立てられていた。
よし、と口の中で呟いたロレッタはポシェットへ巾着をしまい、代わりにまっさらな旅券を取り出した。いつか色とりどりのスタンプで埋め尽くされる日まで、小さな歩みを重ね続けるしかない。
「行こう。いまさら悔やんだってしかたないもの」
ゆるく弾みをつけて立ち上がると、ロレッタは背筋を伸ばして元気よく赤褐色のタイルを蹴った。足のむくみはまだ気になるけれど、そんなことよりも早く新しい世界に、新しいなにかに出会いたい。
ずんずん歩き、決意に満ちた表情で連絡通路へ半身を出したそのとき、彼女の願いは思わぬ形で叶えられる。右側の死角から、出会い頭に壁のようななにかがぬっと現れたのだ。
鼻先すれすれを横切る物体。とっさにのけぞり回避する少女。すんでのところで衝突は免れたものの、ロレッタは傾いた体を立て直せずにあえなく尻もちをついてしまった。
「あ……ああっ! ごめんなさい! お怪我はないですか!?」
おびただしい数の疑問符に思考を埋め尽くされた少女は、悲鳴じみた謝罪が飛んできた方向へ反射的に顔を向ける。壁の正体は、ロレッタの背丈に迫るほど荷物を積み上げたキャリーカートだったようだ。
焦茶色の髪をした、見るからに仕立てのいいスーツに身を包んだ都会的な男性がカートの背後から姿を現し、転ばせてしまった少女を慌てて助け起こす。
「すみません……! 寝ぼけていて、出入り口があるってわかってたのに、注意してなくて……! 本当にごめんなさい!」
七歳上の兄と同世代らしき彼がしょげかえって謝る姿を見て、ロレッタが真っ先に感じたのはいたたまれなさだった。
たっぷり荷物を載せたキャリーカートが音もなく近づいてくるはずはない。彼だけに落ち度があるとは思えず、我が身を省みたロレッタは穏やかな口調で男性に声をかける。
「あの……わたしも考え事というか、ぼんやりしていたんです。怪我だってないですよ、ほら。なので、そんなに謝らないでください」
「そうは言っても――あっ、旅券! これ、あなたのですよね?」
どうやら、ロレッタが手にしていた旅券はひっくり返った拍子に滑り落ちてしまったらしい。素早く身をかがめ拾い上げた男性は、裏表紙に印字された発行国名を目にしたとたん表情を明るくさせた。
「ソルニアの方でしたか! 僕、出張で旧都に滞在していて、いま帰ってきたところだったんですよ! ご旅行でいらしたんですか?」
「いえ、引っ越しです。今日から移住――」
「ええええ! そんな大切な日に! 転ばせちゃうなんて!」
再び顔面に悲壮感を滲ませ、とうとう頭を抱えてしまった男性をロレッタはどうにか宥めすかした。話はそこで終わらず、彼女は四輪がタイルをざりざり擦る音を道連れに出札所を抜けることとなった。
お詫びに荷物を運ばせてほしい、という彼の申し出をすったもんだの末に受け入れたのだ。
「なんだかすみません、助かります」
「いえいえ! レディの記念すべき日にとんだ失礼を働いてしまったんですから。荷運びとして存分に使ってくださいね!」
人懐っこく陽気な男性につられて、ロレッタも自然と笑みをこぼす。
連絡通路よりもずっと高さのある円天井に、壁面と柱に施された動植物の彫刻が見事なコンコース。ひとたび視線を落とせば、花の文様が床一面に描き出されていた。
技術大国として知られているアルバライエンは、もとより芸術性や文化的価値を重んじる国なのだ。とりわけ高名な建築家を多く輩出していて、国内各地の街並みをモデルにした絵画作品や物語は古くから他国でも親しまれている。
ここメイフローネ中央駅もまた、古今の要素を融合させた新たなランドマークとして注目を集めているらしい。
「どこも凝っていてかわいいし、きれいな建物ですねぇ……おとぎの国って呼ばれてる理由がよくわかります」
「住んでると意識することってあんまりないんですけど、文字通り、絵になる景色が多いかもしれないですね〜」
弾む会話と同じリズムで歩いている間に、行き交う人の数は徐々に膨れ上がっていく。男性はできるだけ壁際へ寄り、ロレッタも周囲に気を配り慎重に進む。
装いなどから察するに、旅客と通勤客が半分ずつだろうか。四方から交差して流れ込んでくる人々の合間を懸命に縫い、ふたりはようやく巨大な駅舎の正面口へたどり着いた。
「……母国とは比べものにならないです。洗練されていて、にぎやかで……」
空色の目に映したのは、おおよそソルニアでは見たことのない光景だった。まだ早朝といえる時間帯にも拘らず、駅前広場と取り巻く大路には人、馬車、自動車までもがひっきりなしに行き交う。これが、王都メイフローネの日常風景なのだろう。
「気楽にいきましょう? 意外とすぐに慣れちゃうもんですよ」
「気楽に……気楽に。はい。そうなるように、がんばります」
圧倒されて尻込みした様子の素朴な少女を、男性は軽い口調で励ました。彼の世代なら、ソルニアが王国だったころを知り、どのように共和国へ移行したかを覚えているだろう。
手探りでもがきながら復興と発展を続けるソルニアと、大きな政治的転換点を乗り越え悠然と立つアルバライエン。
歴史として語るには近すぎて、思い出話には重すぎる。ふたつの国を揺るがした十六年前の出来事は、いまなお多くの人々に沈黙を選ばせてしまう。
ロレッタは物思いに耽る手前で我に返ると、男性へ向き直り静かに口を開いた。
「あの、ここまでで結構ですよ。運んでくださってありがとうございました」
「とんでもない、僕のほうこそ改めてすみませんでした! いまお返ししますね……あ、そうだ。ちょっとだけ待ってもらえますか?」
彼はそう言って立ち並ぶ街路樹のそばへキャリーカートを寄せると積んでいたトランクをいくつか下ろし、しゃがみ込んで中を漁りはじめた。
肩越しにさまざまな種類の生地や画材、スケッチブックがちらりと覗いて、ロレッタの好奇心を刺激する。きっと、彼の仕事道具なのだろう。
じろじろ見るのは失礼だわ、と気づいた少女がそっぽを向いたとき、男性が明るい声を発した。
「あったあった、お待たせしました! これ、端切れで習作したものなんですけど、お詫びの印に差し上げます!」
大きな手のひらにちょこんと乗っていたのは、黄色と淡い桃色の大花柄が織り込まれた生地を使ったリボンブローチ。いわゆる蝶々結びではなく、長さや幅が変則的に調整された大胆な造形のものだ。
マザーオブパールやガラスの飾り釦が結び目を彩り、朝日の下で七色にきらめいている。厚みのある生地を贅沢に折り込んで糊を効かせた、コサージュとして活躍しそうな一品だ。
習作とはいえ、華やかで完成度の高い装身具を前に、ロレッタは泡を食ってしまった。
「ええっ! こんな素敵なもの、いただけませんよっ!」
「んっと……じゃあ、お祝いとしてなら受け取ってくれますか?」
言葉の意味するところが汲み取れず、少女の顔には困惑が浮かぶ。笑みを深めた男性はリボンブローチを両手で丁寧に持ち、先ほどよりも恭しく差し出してみせた。
「ようこそアルバライエン王国へ。これからあなたが過ごす日々が、喜びばかりで溢れたものとなりますように!」
小さなブローチが、真心だけをぎゅっと詰め込んだ歓迎の花束へと変化した。おそるおそる受け取ったロレッタは、手の中で咲く春色の花束を食い入るように見つめる。
「――大切に、しますね。ありがとうございます」
いつかの未来、今日この日を振り返ったとき、いまより大人になった自分なら、迸るやわらかな稲妻に似たこの感情に名前をつけてあげられるかもしれない。
ふさわしい言葉ひとつ取り出せないもどかしさに喉を詰まらせつつも、ロレッタは上擦った声で男性へ礼を述べた。
「いつでも気軽に声かけてくださいね! 僕、だいたいお店にいますから!」
やがて造作もなくトランクを積み直した男性は、ぶんぶんと手を振り軽やかに去っていった。笑みをこぼしながらその姿を見送ったのち、リボンブローチが潰れないようトランクにしまい込んだロレッタ。
足元に置いていた荷物を持ち上げ、いざ官庁街へ向かおうとしたところで――ようやく肝心なことを思い出して青ざめる。
「あれ……? ああっ!? 待って、お名前……!」
慌てて振り返り雑踏の奥へ紛れていった背中を探すも、通りすがる人波や乗り物に遮られて見つけられそうにない。うそでしょう、と声にならない声でつぶやき、ロレッタは肩を落とす。
「お店って言ってたけど…………うわぁ、どうして聞き忘れちゃったんだろう……」
自らも名乗っていないことに気づくまで、あと十数秒ほど。まだ嗅ぎ慣れないにおいの風が、短く揃えられた前髪を慰めるように、からかうように撫でていった。