8 運命―2
過去に戻るという行為は元々あった運命をねじ曲げる行為に等しい。俺を謀り、俺に多くの王国民を殺させ、その罪を被せた奴を見つけて殺す。それが俺の目的だが、それは同時に運命をねじ曲げる行為でもあるのだ。
俺が過去に戻ってきた時点で、俺という存在は異分子に他ならない。そして、異分子によってねじ曲がった運命は、新たな運命として形を成す。
運命は常に並行だ。俺が大罪人となった運命、これから作られる俺が大罪人にならないかもしれない運命。それらは常に近くにあるが、決して交わることはないのだ。
だから俺は、俺という存在を、この運命の俺に気づかれないようにしなければならない。
簡単なことだ。名前、身分、生い立ち、その他全ての素性を偽れば良い。もう俺は、俺ではない。だから俺は言った。
「あのさ、ちょっといいかな」
「なんですか?」
今はアリアにオルレイン家まで強制連行されている最中だった。
「もう俺のことをお義兄さんって呼ぶのやめてくれない?」
「⋯⋯私からそう呼ばれるのは嫌いですか?」
「いや、そういう話じゃなくて。俺はもうレーナとは恋人じゃないからさ、同じように君とも無関係なんだよ。それと、過去に戻ってきてるからなおさらそれは必然なわけで」
「あぁ⋯⋯たしかに。そういえばそうですね」
「でしょ」
もうオルレイン家とは何の関係もない俺だ。そんな俺のことをアリアが片時でもお義兄さんと呼ぼうものなら、一瞬で俺の社会的信用は死ぬ。運が悪ければ一番しょうもない死を味わうことになる。
口が滑ったなどといって誤魔化せることでもないだろう。こういうのは早めに釘を刺しておくに越したことはない。
「そういうことで、いいかな?」
聞くと、アリア頷く。
「はい、分かりました」
「よし。ありがと」
今日のアリアは物わかりの良いアリアだったようだ。しかし、すぐにアリアは付け加えた。
「けど、それで新たな問題も出てきますよ?」
「え、なに?」
「逆に聞きますけど、私は今後、あなたのことをなんて呼べばいいんです?」
「⋯⋯ぁ、そこは、まぁ適当に」
「適当じゃ駄目です。絶対になにか考えてください」
「えぇー」
アリアはよくわからないところで几帳面が出る。俺のことなんて何とでも呼んでくれれば良いのだが。
「んー、そうだねぇ。⋯⋯あっ、そうだ。じゃあ『シュレット』にしよう。君は今後、僕のことはシュレットと呼ぶようにして」
「⋯⋯その名前にはどのような意味が?」
「特に何の意味もないよ。この前、ある戦闘狂の友達から聞いた名前ってだけ。詳しくはどこかの地名みたいだけど、それ自体の由来は俺も知らない」
「そうですか。では、とりあえず今後はあなたのことはシュレットさんと呼ぶことにします。私のことはアリアと呼んでください」
「うん、よろしく。アリア」
よしよし。これで一つ心配事が消えた。
俺は心の中で呟く。よろしく、『シュレット』。そしてさよなら、『エルティス』と。
俺達は人々が行き交う大通りを抜けて、オルレイン家の前までやって来た。周辺の道路はまるで人通りがなく、閑散としている。王都でこれほど静かなのはここだけと言ってもいいだろう。
ここらも王都に属してはいるが、公爵邸の周辺区域ということで限られた人しか歩かない。それは公爵家の兵士が見回りをしているからだ。もし下手に歩いて、不届き者扱いされたらたまったものではない。
俺も何度か一人で公爵邸へ行ったことはあったが、もう最初の頃なんて酷い以外言いようがなかった。公爵邸に行こうとするだけで何度取り調べを受けたことか。
なんなら今のほうが格好的には酷いだろう。なにせ黒い仮面をつけているのだから。
しかし今回はアリアに強制連行されていたので、特にそんなことはなかった。ほとんど顔パス。顔パスこそ至高。
「ただいま戻りました」
アリアはそう言いながら家に入り、それに俺も続く。
すると、懐かしい声が返ってきた。忘れもしない。俺が、最も求めていたのかもしれない声。
「―――おかえりなさい、アリア。さっき急に出て行っちゃったけれど、何かあったの?」
出てきたのは新緑のドレスを身にまとった、十五歳くらいと見える少女。
腰にまで伸びた艷やかな金髪。ほのかに金色の光を宿す瞳。柔らかい印象を受ける微笑みは、同時に見惚れてしまうほどこの上なく美しく、愛らしい。
全て覚えている。運命が変わろうとも、忘れることはない。
俺のかつての恋人、レーナだ。
「私が家庭教師に推薦した人を連れてきました」
「あら、そうなの?」
「はい。私の後ろにいる、この人です」
アリアが俺に向かって指を指すと、レーナは金色の瞳をこちらに向けた。
俺は仮面をつけている。よって彼女からすれば俺は不審そのものだと思うのだが、レーナはふわっと微笑む。
「初めまして。レーナ・オルレインと申します。アリアのこと、よろしくお願いしますね」
「はい、こちらこそ。俺はシュレットといいます」
相変わらずの外面だと思った。彼女はこうやって自分を隠す。オルレイン家の長女として、王国の巫女として、良くあろうとするのだ。
「姉さん、まだこの人に決まったわけじゃないよ」
アリアが一旦否定すると、今度は長女の顔をして返す。
「そうだけど、アリアは随分この人が気に入ってるみたいだから」
「⋯⋯そういうことは言わなくていいの」
「照れ隠し?」
「違う!」
珍しく大声を出し、アリアはちらっとこちらに視線を送る。
―――さっさと行きましょう
おそらくそのような合図。
アリアが大広間から廊下の方にスタスタと歩いて行ったので、俺はレーナに一礼してからその後を追った。
◆◇◆
レーナとの再会の後に向かったのはオルレイン公爵がいる部屋だった。途中アルライトにも会ったが、彼はまだまだ元気盛りな子供だった。
俺に会うなり「アリアの家庭教師になったらぼくとも遊んでよ」と言ってきた。あのやさぐれたアルライトはどこから出てきたのか。
そしてオルレイン公爵は相変わらずの、他人を圧倒するようなオーラを出していた。俺はすでに幾度となく面会していたからそこまで圧倒されなかった。
アリアの家庭教師については後日試験があるらしく。ここでは特に何も無く、挨拶だけだった。
オルレイン公爵との面会が終わったあと、アリアはまた別の部屋に俺を案内した。
その部屋は、レーナやオルレイン公爵の部屋とは離れており、屋敷の最上階にある部屋だった。
「こっちです」
アリアは階段を上りきると、そこからすぐ目の前にある扉に手をつけた。そしてそっと扉を開ける。
中に入ると、その静けさに妙に萎縮させられた。
部屋は大広間ほどの空間が広がっていた。クローゼットやら椅子やらはあるものの、それだけでは決して埋まらない空間である。
左手には一面にガラスが張られて、巨大な窓となっている。
空を描いた絵画のような窓際に、一つのベッドがぽつんとあった。ベッドの側に近付くと、痩せた女性が横たわっていることに気付いた。
「この人は⋯⋯」
「はい、私の⋯⋯いえ、私たちの母です」
この人が公爵夫人。静かに目を閉じて寝ている。気持ちよさそうでも、苦しそうでもない、感情の域を超えた顔だ。
「あー。今から不躾な質問をするけど、いいかな」
「駄目です」
「おっと即答」
「⋯⋯母なら死んではいませんよ」
「俺が聞こうとしたこと解ったんだ」
「この状況ですから」
首にかけてまでしか見えないが確実に痩せている体。呼吸は今にも消えてしまいそうなくらいに弱く、明らかにオルレイン家の中でも隔絶された場所にある部屋。
ここまで出来すぎな状況を並べられたら気にしない方が難しいだろう。それに、公爵夫人は俺が前来た時にはいなかった。
いったいアリアは何の目的で俺をここに連れてきたのか。俺がそれを聞こうとすると、しかしアリアが一呼吸先に言った。
「母は今この瞬間も生きています」
「⋯⋯⋯⋯」
「けれど、この先起きる見込みはありません。母がこのようになってしまった原因⋯⋯これはあの事件と深く関係しています。シュレットさん、あなたにはもう一つ話したいことがあるんです。聞いてくれますか?」
俺を地獄に落とした事件と関係がある。それだけで聞いておくべきことだが、それよりも俺は仮面越しのアリアの表情が引っかかった。
アリアは宝物を失った幼い子どものような、どこか寂しげな表情を浮かべていた。