除霊師・上野弘志、大いに怒る
そこは、古い木造アパートだった。建物は古く、築ウン十年という雰囲気を醸し出している。二階建てで、階段はトタン屋根に覆われていた。壁は汚れており、得体の知れない染みが付いている。
そんなアパートの前に、男と女が立っていた。
「先生、いるのでしょうか?」
不安そうに尋ねた女。年齢は二十代だろうか、スーツ姿で飾り気のない地味な雰囲気である。顔立ちも地味で真面目そうだ。
「ええ、間違いなくいますね。しかし、わからないな。あいつは、何がしたいんだろう」
答えたのは除霊師の上野弘志である。外国人のような彫りの深い顔で、百八十センチを優に超える長身だ。すらりとした体にポロシャツを着ており、除霊師というよりは怪しげなセミナーを開く講師のように見える。
そんな彼は、訝しげな表情でアパートを覗きこんでいた。
「はい? 何がですか?」
女も訝しげな表情になる。その問いは「あいつは、何がしたいんだろう」という言葉に向けられたものだろう。上野は苦笑しつつ、目線を彼女に向ける。
「いえ、こっちの話です。正直、本来なら引き受けない案件ですな。しかし、入来くんの紹介とあらば仕方ない。やりましょう」
翌日の夜、上野はアパートの一室に入った。
いつものように室内で荷物を広げチェックしていると、唐突に現れた者がいる。
それは、一匹の三毛猫であった。体は大きいが、痩せこけており肋骨が浮いて見えた。上野を見る目には、あからさまな敵意が感じられる。
と同時に、部屋の温度が下がったような気がした──
上野は首を捻る。これまで見てきた霊とは、明らかに違うのだ。ほとんどの霊は、生者に対する羨望と嫉妬と憎しみの感情を抱いている。その感情が、妖気と化して空気を侵食していく。結果、居心地の悪さを感じて住人たちは去っていくのだ。
この猫からも、憎しみは感じられる。だが、単なる憎しみだけでここまでの妖気を発することが出来るのだろうか。
まあいい、いずれわかるだろう。上野は、再び荷物をチェックする。
その途端、またしても空気が変化する。異様なほどの妖気だ。これほど濃いものは久しぶりである。常人なら、呼吸困難になっているだろう。これは、単なる霊の出せるものではない。もはや妖怪に近いレベルである。
上野は、顔をあげた。三毛猫は、ずっとこちらを睨んでいる。その瞳には、凄まじいまでの憎しみがあった。
どういうことだろう。人間への憎しみだけで、ここまでのものが出来上がるとは思えない。何か、他に理由があるのか。
そんなことを考えている間にも、妖気はさらに濃くなっていく。上野を、この部屋から追いだそうという意図によるものであるのは明白だ。並の人間なら、今ごろ気絶しているだろう。
だが、上野は荷物のチェックを続ける。必要なものが全て入っていたことを確かめると、うんうんと頷く。
直後、バックパックの中から何かを取り出した。潰れた浮き袋のようである。
上野は、それに空気を注入した。すると、ビニールは巨大な人形へと変わっていく。大きさは、小柄な女性と同じくらいか。
次に上野は、スマホをスタンドにセットした。画面を指で操作する。
数秒後、声が聞こえてきた。
(ハーイ、あたし茶々明美! 今から、みんなにランバダを指導するわよ! これからの時代、ランバダくらい踊れないと恥かくわよ!)
「かくか馬鹿」
ボソッとした声で突っ込むと、上野はすっと立ち上がった。さらに、人形も立ち上がらせる。そのまま、向き合う形となった。
やがて、何やら陽気で軽快かつ若干の狂気を感じさせる曲が流れ出した。上野は曲に合わせ、人形を抱き抱えて踊り出す。
と、明美の声が聞こえてきた──
(そうよ! そこそこ! ああ、いいわ! あなたのパッションが感じられる! パッション! パッションよお!)
字面だけ見れば勘違いを起こしそうだが、本人は真面目にダンスの指導をしているつもりのようである。
上野は全く動揺せず、人形を抱え踊り狂っている。
さらに、明美の声も激しさを増してきた──
(もっとよ! もっと! あなたのパッションをパートナーにぶつけるの! ランバダは、ラブとパッションのダンス! あなたとパートナーは、セクシーの高みに突入するのよ! ああ! 素敵!)
「普通に言えないのか」
ボソッと突っ込みながらも、上野はダンスを続ける。ビニール人形を抱えて、その場でくるくる回転する。次の瞬間にはピタッと止まり、腰をくねらせ体を密着させていく。
そんな異様な光景を、三毛猫は憎々しげな目で睨んでいた。
翌日、上野は八時に目覚める。
上体を起こし、周りを見回した。その途端、ぞくっとする。重苦しいまでの妖気が、辺りに立ち込めていた。昨日よりも、さらに強くなっている。これは尋常な量ではない。常人には、もはや毒ガスに近いレベルであろう。
妖気の源である三毛猫は、少し離れた位置から上野を睨んでいる。早く出ていけ、とその瞳は言っていた。
上野は首を傾げた。動物霊であるのは間違いないが、発している妖気は異常な量である。人間の地縛霊が数十体がかりで発する妖気と、同じくらいのレベルだ。たった一匹の猫から発せられるとは思えない。
まあ、いい。今はまず、やらねばならないことがある。上野は手を伸ばし、スマホを操作した。
すると、ラジオ体操の音楽が流れ出す。上野は立ち上がり、軽快な動きで体操を始めた。
その時、強い圧力を感じた。重力が、いきなり二倍になったような感覚である。手足も重い。パワーリストとパワーアンクルを装着しているようだ。あの三毛猫の仕業だろう。
にもかかわらず、上野はラジオ体操を続行していた。手足を振り回し、体を伸ばし、ぴょんぴょん飛び跳ねる。
三毛猫は、そんな姿をじっと眺めていた。敵意は収まる気配がなく、したがって妖気も濃いままだ。
やがて、ラジオ体操は終わった。上野は座り込み、バックパックからペットボトルを取り出す。中には、黒い液体が入っていた。
蓋を開け、ぐいっと飲む。途端に、顔をしかめた。
「うーん、これが噂に聞く炭酸抜きコーラか。あまり美味くはないな」
ボソッと呟いた時だった。いきなりドアホンが鳴る。上野は立ち上がり、玄関へと向かう。
ドアを開けると、目の前にひとりの少女がいる。髪は短く、とぼけた感じの顔立ちである。何となく地方のゆるキャラに似ている。
この娘は:山樫明世、十五歳の女子高生である。同時に、特殊な案件のみを取り扱う配達員でもある。その上、上野の知り合いでもあった。緑色のツナギを着て、手には大型の封筒を持っている。顔を引き攣らせながらも、荷物を突き出してくる。
「はい、これ。ちゃんとお届けしましたからね。では失礼します」
早口で言ったかと思うと、慌ただしく帰っていく。上野に語る隙を与えぬまま、あっという間に消えてしまった。
いつもなら、上野は彼女を呼び止めていただろう。彼女の礼を逸した振る舞いに対し厭味のひとつも言っていただろう。
しかし、この毒ガスのごとき妖気の中で立ち話をさせるわけにもいかなかった。ここまで来ること自体、彼女でなくては不可能なのだ。上野はビニール袋をぶら下げ、部屋に戻っていった。
中では、相も変わらず三毛猫が睨んできている。しかし、上野は無視して座り込む。
ビニール袋の中には、プラスチックケースが入っている。それを開けると、中にはライ麦パンとラクレットチーズが入っている。どちらも出来たてだ。
チーズをライ麦パンに挟み、口に運ぶ。直後、満足げな表情になった。
「うむ、これは美味い。アルプスの山脈を思わせる味だ。ものすごく高いブランコに乗りたい気分だぞ」
そんなことを呟きながら、三毛猫をちらりと見た。
三毛猫は、敵意に満ちた目で上野を睨んでいる。妖気の方は、さらに濃くなってきた。ここまでの妖気を、たかだか人間への恨みだけで発することが出来ない。他に何か理由がある。まずは、その理由を突き止めなくてはならない。
その時、ある者のことが頭に浮かんだ。
朝食を終えると、上野は立ち上がった。服を着替え、バックパックを背負い外に出る。
アパートの前で立ち止まると、念のため振り返ってみた。
三毛猫は追ってこなかった。室内に留まっている。もっとも、妖気は依然として漂っている。周囲の空気まで浸蝕してきていた。やはり、このアパートに憑いている。上野はスマホを取り出し、ある人物へメッセージを送った。その後、しばらくアパートの周りを観察してみる。だが、変わった点はない。
やはり、もう少し詳しく調べてみないとならないようだ。上野は、国道にてタクシーを拾い乗り込んだ。
しばらくして、タクシーが停まりドアが開く。
降りた上野は、とある場所へと真っすぐ入って行った。入来宗太郎の勤めるコンビニである。
「いらっしゃいませ……あっ、上野さん」
レジにいた入来は、入ってきた上野を見るなり顔を引き攣らせる。途端に、上野の目が鋭くなった。
「何だ、その顔は。こいつ、また来やがった……とでも思っているんだろうが」
「い、いえ、思ってませんよ。今日も元気そうですね」
そう言ってへらへら笑う入来に、上野はそっと顔を近づける。
「ところで、あいつとはどうなっているんだ?」
「へっ? あいつって誰ですか?」
きょとんとする入来に、上野は目を細めつつ囁く。
「あいつだよ、あの配達娘だ」
「配達娘? あっ、もしかしてアキ……いや、山樫さんですか?」
入来の表情が変わった。目を逸らし、落ち着かない様子で頭を掻く。そう、朝に現れた配達娘の山樫明世と入来は付き合っているのだ。
対する上野は、いやらしい顔つきでニヤリと笑った。
「そうだ。あいつとは、上手くいってるのか?」
「ちょっと待ってください。なんで、あなたがそれを?」
「当たり前だ。俺には、全てまるっとお見通しなんだよ。で、どうなんだ?」
「いや、それは、そのう、あの……」
入来の顔は真っ赤になり、声も上擦っている。その反応に、上野は思わず顔を歪めた。どうやら上手くいっているらしいが、この照れ方はひどい。
今日は、このくらいにしておいてやるか。
「ふん、いい年齢で何を照れているのだ。童貞中学生でもあるまいに」
言い放つと、上野はカゴを手にした。買い物を開始する。
買い物を終えコンビニを出た後、上野はスマホをチェックした。
メッセージが来ている。少し長いが、最初から最後まで全て読み込んだ。
このメッセージのおかげで、三毛猫の謎が解けた。奴が何をしたいのかも、だいたい読めてきた。次に打つべき手もわかった。
だが、そのためには少々厄介な手続きが必要だ。
上野は溜息を吐き、またタクシーを拾う。
一時間後、上野は見晴らしのいい丘の上にいた。町が一望できるくらいの高さだ。周囲に人工物は何もなく、緑に覆われている。空は青く、降り注ぐ日の光は心地好い。上野は土の上に座り込み、買ってきた弁当を食べ始める。
その時、漂う空気が一変する──
現れたのは、一匹の黒猫であった。
黒猫はとても美しい毛並みをしており、体型も痩せすぎず太りすぎでもない。前足を揃えて佇んでいる姿からは、気品すら感じさせる。瞳は、美しいエメラルドグリーンだった。
そんな不思議な雰囲気を漂わせている黒猫には、他の猫とは決定的に違う点がある。長くふさふさした尻尾が、二本生えていたのだ。その二本の尻尾を、優雅にくねらせている。
しばらくの間、上野と黒猫は無言で見つめ合っていた。異様な空気が、両者の間を漂っている。
やがて、黒猫の口から溜息のような音が漏れた。
「小僧、何しに来たのニャ?」
流暢な日本語で、黒猫は聞いてきた。異様な事態ではあるが、上野は意に介さず答える。
「今、ちょっと厄介な案件を抱えている。そこでだ、あんたに手を貸してもらいたい」
「猫の手も借りたいのかニャ? 嫌だニャ。二百年も生きてるあたしが、お前みたいな小僧の頼みなんか聞くかニャ」
そう言うと、黒猫はぷいと横を向いた。その場で、毛繕いを始める。
この喋る黒猫は、ミーコという名の猫又である。数百年前から生きているらしく、妖魔の中でも高位の存在であるのは間違いない。人間のことをバカにしており、気難しい性格でもある。
「おい、話くらい聞いてくれてもいいだろうが」
「どうせまた、しょうもない妖怪を追い払えとか、そんな話なのニャ。三百年も生きてるあたしが、何でそんなアホなことしなきゃならないのニャ」
ミーコの態度はにべもない。上野のことを見ようともせず、毛繕いを続けている。
だが、今回はこの化け猫の妖力が必要なのだ。何せ、超法規的手段を用いなくてはならない。
「違うんだよ、こみいった話でな。ちゃんとお礼するからさ、話だけでも聞いてくれ。梅さんの寿司屋で、イカの握りを好きなだけ食わしてやるから」
すると、ミーコはこちらを向いた。
「もちろん、ワサビ抜きだろうニャ?」
「当然だ」
その夜。
上野はアパートに帰り、ぼーっとテレビを観ていた。時おり、傍らに置かれている駄菓子に手を伸ばし口に運ぶ。
そんな上野を、三毛猫は憎悪に満ちた目で睨んでいた。妖気は、さらに濃くなっている。もはや、毒ガスにも等しいレベルだ。常人がここに入ったら、一瞬で昏倒してしまうだろう。
上野と三毛猫の息詰まるような戦いは続く。だが、状況を一変させる出来事が起きた。
突然、部屋の真ん中にひとりの女が出現する。縞模様のパジャマらしきものを着ており、髪は肩までの長さだ。眠っているらしく、目をつぶり寝息を立てている。
だが、その体がピクリと動いた。突然、苦悶の表情を浮かべる。呻き声をあげながら、室内を転げ出した。この部屋に立ち込めている妖気が原因だろう。
すると、三毛猫の表情が変わった。同時に、室内に充満していた妖気が消えていく。ほんの数秒で、妖気は跡形もなく消えていた。
女は荒い息を吐きながら、目を開けた。周囲を見回す。
三毛猫と目が合った瞬間、女は息を飲んだ。
「そ、そんな……」
・・・
矢野真奈は混乱していた。
自分は今、どこにいるのか。なぜ、ここにいるのか。
そして、目の前にいる三毛猫は……。
彼女は、女子刑務所に収容されている受刑者だ。覚醒剤の所持使用さらに売買という罪を犯し、逮捕され三年の刑を言い渡される。
受刑者となってから、半年が経過した。最近、ようやく刑務所での生活に慣れてきた気がする。
今夜も、真奈は普通に刑務作業を終え、就寝時間になり独房で眠りについた……はずだった。
しかし今、彼女は何もない部屋にいる。家具はひとつもなく、古い木造アパートの一室。だが、見覚えはある。逮捕される前に住んでいた部屋にそっくりだ。
そして、目の前にいる猫。
「ミ、ミケゾウ?」
思わず呟いていた。そう、真奈は……この三毛猫を知っている。名はミケゾウだ。
ミケゾウを拾ったのは、五年前のことだ。
当時、真奈はアルバイトに明け暮れる生活をしていた。その日は夜勤であり、疲れきった体を引きずり公園を歩いていた。彼女の家への最短距離が、公園を突っ切るルートだったのである。
虚ろな顔で、公園の草むらを歩いた時だった。耳に妙な音が入る。
みい。
疲れていたにもかかわらず、思わず立ち止まっていた。辺りを見回す。
草むらに、一匹の仔猫がいた。とても小さく、動きもおぼつかない。かろうじて目は開いているが、放っておいたら確実に死んでしまう。
考えるより先に、体が動いていた。真奈は仔猫を抱き上げ、家に連れ帰る。ネットで情報を仕入れ、コンビニに駆け込み必要な物を買い揃えた。疲れていたにもかかわらず、体を綺麗にしてあげ餌を与える。
仔猫の方はというと、真奈に一瞬で懐いた。暇さえあれば、喉をゴロコロ鳴らしながら彼女にじゃれついていく。体も、すくすくと大きくなった。
真奈は、そんな三毛猫にミケゾウと名付け可愛がっていた。後にミケゾウが雌であることを知ったが、そんなことはどうでもよかった。彼女と三毛猫は、アパートの一室で仲良く暮らしていたのである。
そんな幸せな生活に、悪魔がそっと忍び寄る。
ある日、真奈はひとりの男と知り合った。顔がよく遊び慣れており、口も上手い。真奈はたちまち男に惹かれていった。
だが、男の正体は覚醒剤の売人であった。
いくらも経たぬ間に、真奈はヤク中へと変えられていた。覚醒剤なしでは、いられない体になる。真奈は自宅にも帰らず、売人の家に入り浸るようになっていた。白い悪魔に冒された頭は、ミケゾウのことなど浮かぶことすらない。やがて彼女は、売人の手伝いをするようになる。
だが、そんな生活は長く続かない。売人の家に警察が踏み込んだ。真奈は、売人と共に逮捕される。
裁判の結果、初犯であることが考慮され三年の実刑判決を言い渡される。
その後は、ずっと刑務所で過ごしてきた。ところが、今は違う場所にいる。まさか、刑務官に移動させられたというのか。
混乱している真奈だったが、不意に声が聞こえてきた。
「おい、あいつのことを忘れたのか?」
真奈は、慌てて声のした方向を向く。
そこには、険しい表情の男が座っていた。彫りの深い顔で、目つきは鋭い。手足は長く、すらりとした体つきをしている。
真奈は、思わず飛び上がった。
「だ、誰!?」
「誰だろうが、そんなことはどうでもいい。お前、あいつのことを忘れたのか?」
言いながら、三毛猫を指差した。
真奈は、ためらいながらも答える。
「ミケゾウ、ですよね?」
「そう、あんたの飼い猫のミケゾウだ」
想像通りだった。真奈は複雑な思いを感じながら、ミケゾウに視線を移す。
三毛猫は、真っすぐこちらを見つめていた。その瞳には、昔と変わらぬ愛がある……。
「どうしてここに?」
知らないうちに言葉が出ていた。なぜ、ミケゾウがここにいるのだろう。そもそも、ここはどこだろうか。
すると、男は溜息を吐いた。
「ここは、昔あんたが住んでいた部屋だよ。あいつは、一年前に死んだ。だが、未だ霊となって現世に残っている。この部屋から、出ようとしない。その理由が何なのか、あんたにわかるか?」
怒りのこもった声だ。その怒りが、自分に向けられているのは明らかだった。
しかし、真奈は男のことなど見ていなかった。その目は、ミケゾウに向けられていた。
「死んだ……」
呆然とした顔で呟いていた。
ミケゾウは、どこかで野良猫となって逞しく生きているのだろう。今まで、そんな風に考えていた。
それ以前に、逮捕されてからの日々はあまりにつらく大変であった。己の問題に向き合うのが精一杯で、外のことなど考える余裕がなかった。
まさか、そんなことになっていようとは──
「そうだ。あんたが売人の彼氏と覚醒剤キメてヨレまくっている間、ミケゾウは飯も食わずにあんたの帰りを待っていた。挙げ句、飢え死にしちまった。だが、ミケゾウは霊になった。あんたの帰りを、じっと待ち続けたんだ」
男は、一方的に語り続ける。その言葉のひとつひとつが、真奈の心をえぐっていった。それは、殴られるよりもつらいものだった。
彼女は何も言えず、俯くことしか出来なかった。
「このアパートは、近々取り壊される予定だ。いろんな人間が入って来た。それを見たミケゾウは怒った。あいつにとって、ここはあんたの帰って来る場所だ。入って来た人間を、片っ端から追い払った。全ては、あんたが帰って来ると信じていたがゆえの行動だ。あんたへの愛が、ミケゾウを妖怪に近い存在へと変えたんだよ」
男の口調が、どんどん強いものになっていく。その奥に潜む感情が、はっきりと感じられた。真奈はいたたまれず、唇を噛み締める。今になって初めて、己の犯した罪の重さに気づいた。
そんな真奈に向かい、男はなおも語り続けた。
「ミケゾウは、自分が死んだことも知っている。あいつは、あんたにお別れを言ってからあの世に逝きたい……ただ、それだけの理由でこの世に留まっていたんだ。さあ、見送ってやれ」
その言葉に、真奈は顔を上げた。
ミケゾウは前足を揃えた姿勢で、じっと彼女を見つめている。大きな瞳には、溢れんばかりの親愛の情があった。
少しの間の後、その口が開く。にゃあ、と鳴いた。
直後、ミケゾウの体は白い光に包まれていく。真奈は、その不思議な光景をただただ見ていることしか出来なかった。
やがて、その姿は完全に消えた。
「ミケゾウはな、生前にこんなことを言ってたそうだ。仔猫の時、公園で親猫とはぐれた。たったひとりで、寂しくて悲しくて怖くて仕方なかった。でも、あんたが家に連れ帰り、美味しいご飯を食べさせてくれた。本当に嬉しかった、ってな。あんたみたいなクズ女に、ずっと感謝していたんだよ」
男の冷酷な声が、室内に響き渡る。だが、真奈は何の反応も出来なかった。
呆然とした表情で、その場に座り込んでいた。そんな彼女に、男は容赦なく追い撃ちをかける。
「はっきり言うよ。俺は、あんたが嫌いだ。あんたのような女は、今すぐ両手両足をへし折ってやりたい。だが、そんなことをミケゾウは望んでいない。だから、あんたを無傷で刑務所に帰してやる。自分の犯した罪と、きっちり向き合うんだ」
気がつくと、刑務所に戻っていた。独房を、補助灯のほのかな明かりだけが照らしている。
そして真奈は、布団の中にいた。先ほど見た、ミケゾウの顔が脳裏に浮かぶ。その大きな瞳には、自分への感謝の念があった。
途端に、涙が溢れる──
感謝など、される覚えはない。覚醒剤などやっていなければ、もっと長生きさせられた。
逮捕されなければ、今も一緒に暮らせていたのだ。
そんな自分を、ミケゾウは今まで待っていてくれた──
「ミケゾウ……ごめんね……」
真奈は、ついに耐え切れなくなる。
布団の中で、声を殺し泣いた──