File052 〜色のないカンバス〜
B.F.星4研究員ノールズ・ミラー(Knolles Miller)のもとにその仕事が舞い込んできたのは、彼が独立してから一ヶ月が経過した頃であった。
一人になったオフィスでデスクに向かっていると、オフィスの扉がコンコンとノックされたのだ。
「どうぞ」
そう言うと、扉は開いた。入ってきたのは銀髪の綺麗な男性だった。伝説の博士の一人であるナッシュ・フェネリー(Nash Fennelly)だ。
「やあ」
「ナッシュさん」
ノールズはペンを置いて立ち上がる。
「いいよ、座ったままで。新しい超常現象の情報を持ってきたんだ。危険な超常現象じゃないから、手の空いている研究員に片付けて欲しいと思っていてね。単体実験の材料にもなるだろうし、やってみる価値はあると思うんだ」
ナッシュはそう言って、何枚か束になった資料を渡してきた。ノールズはそれを受け取ってその場で開いてみる。
地上で話題になっているものらしい。突然道路の真ん中や誰もいない廃屋に現れる男だ。カンバスに向かって熱心に筆を動かす、絵描きの超常現象だった。
「絵描きですか」
「そう。この男が出現してから交通事故が多発しているんだよ。道路の真ん中に突然現れるもんだから、車同士の玉突き事故が尽きないんだとさ。死人が出ていないのが不幸中の幸いといったところかな」
ナッシュはそう言って、くるりとノールズに背を向ける。
「気が向いたらでいいよ。無理して引き受けたって良い結果は得られないからね」
ナッシュは小さく言うと部屋を出ていった。パタン、と扉が閉まる音が残る。ノールズは資料を一通り眺めたあと、ゆっくりと後ろを振り返った。
そこには誰もいないデスクがある。デスクの上はまっさらで、まるで今そこに置いたかのような真新しさがある。だがそれは逆で、一か月前までは此処に自分の先輩が座っていた。近づいてみれば小さな傷や汚れが目につく。
ノールズは目を逸らしてデスクに戻った。ペンを手にして、再び仕事に戻った。
*****
結局その仕事は受けることにした。ジェイスが居なくなったことで仕事の数は明らかに減ったし、少しでも星5に昇格するチャンスを上げるためにも単体実験はしておいた方がいい。
ノールズはブライスから実験室を開けるための鍵を受け取った。が、手渡されたものは実験室のものではなかった。
「今回そいつが現れたのはセーフティーフロアと有害超常現象保管フロアの渡り廊下だ」
「はあ......」
「普通の研究員は入れない危険な場所だ。エレベーターまではナッシュに案内を頼んでいる。エレベーター前にいるはずだ」
「わかりました」
セーフティーフロアとは、セーフティールームがある階のことだ。有害超常現象保管フロアもセーフティーフロア同様、害を与える超常現象を保管する階で、二つとも同じ七、八階にある。
このフロアは危険なので、基本的に上の許可無く立ち入ることは禁止されている。よってノールズは今までほとんど足を踏み入れたことはなかった。
また、そのフロアを管理する研究員はまた異なる肩書きを持っており、特殊研究員なる者しかそのフロアに許可なく立ち入ることができない。
「やあ、来たね」
エレベーター前にはナッシュが居た。エレベーターの扉が開いてノールズとナッシュはそれに乗る。ナッシュがボタンを押した。押されたボタンは地下七階。エレベーターがゆっくりと動き出す。
「あのフロアは基本的に通常の研究員は立ち入り禁止だからね。今回は渡り廊下までしか行かないから大丈夫だとは思うけれど......念の為に、はい、これ」
ナッシュがノールズに手渡してきたのは、自分の体の周りに特殊なバリアを張ることができるボールであった。衝撃から体を守るだけでなく、耐寒性、耐熱性もあり、また酸素のない空間にも少しの時間ならば耐えることができる優れものだ。驚くべきことにこれはある超常現象が発明したものであった。
「何かあれば警報が鳴るようにはなっているし、僕らもカメラで確認できるから大丈夫」
「......ありがとうございます」
ノールズはボールを受け取って白衣のポケットに突っ込んだ。
「分からないことはそのフロアの特殊研究員に聞いてくれ。じゃあ、行ってらっしゃい」
扉が開いた。その向こうは真っ白な廊下が続いていた。ノールズはエレベーターから降りた。そして振り返ることも無く、その廊下を歩いていった。
*****
B.F.の地下七、八階はセーフティーフロア兼有害超常現象保管フロアとなっている。といってもセーフティーフロアに値するのは地下七階の一角だけで、あとは全て有害超常現象保管フロアになっている。それだけの数、恐ろしい超常現象が居るということだ。
この七、八階は造りが他の階とは異なっている。
それもそのはず、他の階がロの字型であるのに比べてこの七、八階は、言うなればエの字型である。
セーフティーフロアと有害超常現象保管フロアは別々になっていて、それは一本の渡り廊下で繋がっている。
ノールズはセーフティールームが並ぶ廊下を通って、廊下の突き当たりにある頑丈な扉の前までやってきた。ブライスから貰った鍵をドアノブに差し込む。がちゃ、と重々しい音がして、扉を押すとゆっくりと開いた。
その奥にある風景をノールズは初めて見る。
まず目に入ってきたのは巨大な壁だった。物質までは分からないが、硬い金属でできているらしい壁がその空間を隔てていた。向こう側は見えないが、所々に窓のような場所がついていることから、そこが何かの建物であるのだろう、とノールズは予想した。
B.F.の中にこんな施設があったとは_____。
建物と言うよりは「部屋」「フロア」というのが正しいだろうが、この大きさにその呼称は合っていない気がした。この異様さが、この奥に居る、見るのもおぞましい危険な超常現象の存在を彷彿とさせた。
さて、その「建物」とノールズが今出てきたセーフティーフロアを繋ぐ渡り廊下を塞ぐ者がいる。
それはノールズには背を向けていて、顔は此処からでは見えないが、彼の前にあるカンバスと、手に持っているパレットから、今自分が探している超常現象であることが伺えた。
ノールズはその背中に近づいていく。足の下は金属の板になっているので、歩くとカンカンと音が鳴る。また、渡り廊下の両端には細い棒二本で出来た頼りない柵がついていた。無論廊下の下は暗闇が支配する空間だ。うっかり廊下から落ちたら命の保証はないだろう。
その背中は猫のように丸く、カンバスに向かっていた。頭に乗ったヨレヨレのベレー帽には、べっとりと絵の具がついており、白いシャツの上に着た土色のエプロンにも、たくさんの色を散りばめていた。
「あの......」
ノールズは控えめにその背中に声をかける。返事はない。ノールズはもう少し大きな声を出してみた。が、やはり何も返っては来なかった。
夢中になって筆を動かしているようだが、一体何を描いているのだろう。カンバスに浮かんでいるだろう絵は、残念ながら猫背の背中のせいで見えない。ノールズは首を伸ばして彼の絵を覗き込んだ。
そこには目の前の有害超常現象保管フロアの建物があった。ほとんど黒と、赤だけで描かれた、薄気味の悪さがよく表現された絵だとノールズは思った。
赤い点は、その建物の所々に付けられた警報装置のランプだろう。
あれに似たものをノールズは自分がよく知るB.F.の施設の廊下で見る。「彷徨う悪夢」が現れた際に反応するものだ。
あの超常現象はノールズが此処に来てから一度だけ現れたことがあった。施設の何もかもの電気が落ちて、真っ暗になるのだ。その廊下に光るのは赤い警報装置のみ。研究員らはそれを合図に寝たフリを直ちに始める必要がある。ジェイスに初めて聞いた時、ノールズは身の毛もよだつ思いだった。
彼の絵に光る赤色の点は、その暗闇にぼんやりと浮かんでいる様子がよく表現出来ていた。ノールズは首が疲れたので、姿勢を直した。そして、
「此処、通っていいですか」
と聞いてみた。リアクションを貰えれば何だっていいのだ。結果が出ればそれだって立派な実験なのだから。
返事が返ってこないので、また何か声をかける言葉を変えなければ、とノールズが考えていると、
「急ぎか」
と短く問いかけてきた。それは低い男の声だった。
「いいえ、でも、あなたの顔を前から見たくて」
ノールズは正直に言った。すると、背中は「はっ」と嘲笑を返してきた。
「物好きなやつも居るもんだ。俺の顔なんざ見るに堪えないだろうな。振り返らないと約束するなら、此処を通してやったっていいさ」
ノールズは目を丸くした。醜い顔でもしているのだろうか。それとも、シャイなだけなのか。だが、通してはくれるらしい。ただ、振り返るなという条件付きだった。これではこの超常現象の顔すら確認できない。
「......じゃあ、このままでいいです。話せるだけ十分なので」
ノールズは言って、柵に寄りかかった。前に回り込むことはできないようだ。仕方なく会話だけで済ませることにした。
「此処へ何をしに?」
「見ればわかるだろう」
「こんな建物を描きたいんですか?」
「俺は常人が描きたがらないものが描きたいんだよ」
「そうなんですか」
確かにこんなに不気味な建物なら筆を動かす気も無くなるだろう。使う色もほとんど黒だから、華やかさはない。
「どうして絵を描くんですか?」
「理由などない」
「楽しいんですか?」
「別に」
ノールズの淡々とした質問に、男は淡々と答える。その間にも筆は止まることなく、カンバスの白を確実に潰していた。
「息をするのと同じだ。気づけば描いている。眠りも食事もいらない分、絵だけを描くんだ。そうすりゃ生きていることにはなる」
よく分からなかった。ノールズは彼の言った言葉をバインダーに記す。絵の具を塗る音が暗闇の中に消えていくようだった。
「常人が描きたがらないものが描きたいって......今までどんなものを描いてきたんですか?」
「さあな。描いた絵は次々忘れていく。いちいち覚えてちゃしんどいだろ」
「不思議な価値観をお持ちですね」
ノールズは言って、ペンを動かす。
「お前」
「はい?」
突然男の筆先が止まった。
「使い切った絵の具みたいな声だな」
一体どんな声だよ、とノールズは心の中で突っ込んだ。彼の足元に目を向けると、彼が座っている丸い木のスツールの脚の傍に、絞られたレモンのようにしわしわになった黒い絵の具のチューブが見えた。自分があれのようだと言うのか。比喩にしては分かりづらい。
「それはどうも」
「それだよ」
男が筆を耳の後ろ辺りに掲げた。筆先はノールズの方を向いている。
「その声。水に濡れて使い物にならなくなったカンバスみたいだ」
「よく分かりません」
ノールズは今度は声に出していた。言ってから口を抑えた。
この超常現象の危険性は未知だ。ナッシュは安全だから自分に頼んできたわけだが、超常現象というのは未知なもの。何処からが安全で何処からが危険かは誰にも分からない。
「声に張りが無いって言ってるんだよ。中身のないチューブは使い物になるか? ならないだろ。水に濡れたカンバスに絵が描けるか? 描けないだろ。お前はまさにそれなんだよ。前は使えたけど、今は使えない」
「......」
「今まで何度も声をかけられてきたけど、皆声に張りがあった。煩わしさしか感じないくらいにな。でもお前は、壊れた三脚を開く時の蝶番の音みたいな心地良さのある声だ」
「使いものにならないって言ってるのに、心地良さがあるんですね」
「言ったろ」
筆がカンバスに戻った。
「俺は常人が描きたがらないものが描きたいって。常人と価値観が合わないのは当然だ。それが俺だからだ」
「......」
ノールズは黙った。彼の言葉をメモしながら、彼の言った言葉を考える。
自分は今空っぽかもしれない。心にぽっかり穴が空くという表現がよくあるが、それは今の自分にピッタリだとノールズは思う。
ジェイスが居なくなって果てしない孤独感、喪失感に今自分は苛まれている。簡単に抜け出せるものではなかった。部屋に戻る度にそれらが胸の奥深くから波のように襲いかかってくるのだ。
「......的確な表現かもしれません」
彼が言った表現を指でなぞってノールズはぼそっと言った。男は何も言わずにカンバスに一心に色を重ねている。といっても重ねる色は黒か赤だ。
「......さ、できた」
男が言った。ノールズは柵から体を起こして男の背中から絵を覗いた。最初と見て変わった場所はほとんどなかった。ただ、黒の割合が明らかに増えていた。暗闇が強いとはいえ、これじゃあ目の前の建物を描いているのか、夜空を描いているのかわからない。
彼は出来上がった絵を三脚から持ち上げた。そして、
「え!!」
柵の向こうに投げ捨てた。ノールズが止める間もなく、男の手から離れた絵は眼下に広がる闇の中に消えていった。
「何をしているんですか!!」
「お前に関係あることか? さ、こっちに来な」
男が新しいカンバスをどこからともなく取り出した。そして、スツールを二脚重ねて座っていたらしく、そのもう一脚をカンバスの向こう側に置いた。
「......」
「お前を描いてみる。顔を見せろ」
「......でも」
「お前になら顔見られたっていい。ほら、さっさとしろ」
男は座っていたスツールを避けて、ノールズがギリギリ通れるくらいの隙間を空けてくれた。ノールズはその隣を通り、そして恐る恐る振り返った。
彼には顔がなかった。本来顔があるべきところが丸いカンバスになっており、そこに髪が生え、カンバスには黒や赤、青の絵の具が塗り付けられてあった。ノールズは思わず目を見開いて彼の顔を見た。
「ほお」
男が、感心したようなそんな声を出した。そしてノールズの方を向いたまま、ポケットに手を突っ込んだ。取り出した手には黄色の絵の具のチューブが握られていた。
「良い色だ」
その声は何処から発せられているのか分からない。彼の顔には口は愚か、目や鼻などないのだ。
「まあ座れ。久々に黄色なんざ使うな」
声は心做しか弾んでいるようだった。ノールズはスツールに腰かけて、彼の顔をしっかりと見た。絵の具は完全には固まっていないようだった。ハケで塗られたような色の重なりが、違和感というものを段々と取り除いていく魅力を持っている。
「しばらく人間なんか描いていないな」
「......もしかして、俺は常人が描きたがらないものになるんですか」
「いや、これは完全に俺の興味だ」
男はカンバスに筆を走らせた。残念ながら絵はノールズの位置からは見えない。だが、彼の手の動きに迷いはなかった。
「お前を描くことで何色のチューブを手に取るか、俺は俺を確かめてるんだ」
「......そうですか」
ノールズは男の手にあるパレットを見る。さっきの黒や赤は使われていないようだ。ほとんど黄色だった。
「珍しい色の目だな」
男が言った。
「母の譲りです。兄もこの目を持っています」
「はあ、兄弟がいるのか」
男は大して興味もなさそうな声色でパレットの上で色を重ねている。
「お前名前は?」
「ノールズです。ノールズ・ミラーと言います」
「ふーん。有り触れた名前だな」
「そうですね」
ノールズはバインダー取り出したが、果たして動いていいものなのか、と迷った。ペンを動かすには当然下を向かなければならない。だが今の会話もメモする必要がある。ノールズはなるべく下を向かないように注意してバインダーに会話の内容を記入した。
「時折思うんだが_____」
男が筆を止めた。
「絵を描くよりも息をする方が難しい。生きる運動より、娯楽の運動の方が生を感じられるように思わないか」
「......息をする方が_____」
「心臓動かすのも、息をするのも無意識のうちにやっているんだろうが、意識すると苦しくならないか。俺は、こうして絵を描いていると意識してもしなくても、不思議と苦しくない」
男は筆を止めたままだった。何となく視線を感じるのでおそらく今自分を見ているのだろうな、とノールズは思って、顔をあげた。
「俺だって昔は妻も子もいる絵描きだったさ。世界を揺るがすような大作だって生んださ。でもそれで自分は満足出来なかった。完璧を求めすぎて何も分からなくなっていた。だから、ある日誰もいない場所に行ったんだ。誰もいない場所で、誰も知らない、誰も見たことがない、絵を描きたいと」
男は筆を変えた。細い筆を手に取る。そこに初めて黒い絵の具をつけた。
「褒められたくなんてなかった。寧ろ人を狂わしてやりたい絵を描きたかった。まあ、それは矛盾か。俺は誰に会うのも望んでいないんだから」
「......人が嫌いなんですか」
「さあな。妻子も居るなら嫌いにはならないのだろうが......だが、誰かに会いたいという気が起きるというのはこれまで一度もなかった。作品に向き合う時は常に作品と一対一が良かった」
男は静かに絵の具を塗りつけては、パレットにその筆先を戻す。時折黄色も拾いながら、彼の筆はスラスラと動いていく。
「俺の相手はカンバスだけで十分だ。言うなれば、カンバスが俺の心臓なのかもしれない」
男が筆を置いた。
「さ、できたぞ。これがお前だ」
男がカンバスを持って立ち上がる。ノールズも立ち上がった。男がカンバスを裏返す。そこには、
「俺には少し眩しすぎる絵だな」
顔に少年のような笑みを浮かべた二人の男性が居た。一人は黒髪、一人は金髪。
「......ジェイスさん」
「過去は捨てな。持っていて良い事なんてないね。少なくとも俺は。だからこうして、闇に絵を放る」
男がカンバスを放った。暗闇に消えていくはずのそれは、黄色の絵の具を使いすぎたせいだろうか、眩しく光り輝いて落ちていった。
ノールズはその光が見えなくなるまで目で追った。
目を戻す頃には、男も三脚もスツールも、そこにはなかった。ただ空になった黄色い絵の具のチューブだけが、ひとつ物悲しさを携えて落ちていた。
*****
その事件は40年も前になるらしい。
ある森の奥深くで、湖畔に向かって絵を描く男の遺体が見つかった。スツールに座って男は亡くなっていた。男は着ていた衣服から長い間行方不明になっていた有名な絵描きであることが判明した。男の周りには空になった絵の具のチューブ、仕上げられたカンバスが無数転がっていた。
湖畔の絵や、木の一部分を切り取ったもの、落ち葉や、虫、太陽や、星、土のひとつひとつに、絵の具のついた雑草_____。
そのひとつひとつに、題名もついていた。
『忘れられた湖畔』、『足音』、『記憶から消えた星』_____。
彼の最後の絵は、カンバスに白い絵の具を塗りたくったというものだった。たったそれだけの絵であった。だが、それだけで片付けるのはまた違った。
カンバスを裏返すと、彼は小さく言葉を書いていた。
『想像を色付けることは簡単である。』
その絵の名前は『闇』といった。




