File051 〜砂漠の鎮魂歌〜 後編
「こっちだ!!!」
誰かが叫んだ。いつの間にか、地面は砂から少し硬い石に変わっていた。無数に空いた地面の穴に時折身を潜めながら、一行はただ一つの目標を目指す。
「ボニーは何処!?」
「彼女ならマシューおじさんと居るから大丈夫だよ、母さん! ほら、身を隠して!!」
外を歩くは赤黒いローブをまとった人間。だが、ローブのフードを深々と被っているためにその顔は見えない。背中に四角い機械を背負っており、そこから太いチューブが伸びて、ノズルのような筒を手に持っている。丸太のような、重そうな金属製の筒の先には黒い煤が付いていた。
「こっちに来る?」
「いやだ、いやだ、死にたくない」
「静かに!」
穴の中で誰かが泣いている。すんすん、という鼻を啜る音が絶え間なく聞こえてくる。石の上を歩く音が聞こえてくる。
穴の入口は直径1m程の小さなもので、その奥は人が30人は入れる広い空間になっている。このエリアはそんな穴が何個も空いている。数えていたらキリがないほどに。
そして、その穴に向かってあのローブの人間は_____。
何処かで悲鳴が上がった。轟々と燃え上がる炎の音。近い。穴の中が静まり返った。人々は息を潜めた。泣き声が漏れないように必死に自分の口を抑える者、耳を抑える者、手を組んで神に祈る者。
他の足音が外から聞こえてくる。敵は多い。広大な土地に一定間隔で配置されている。もちろん、彼らは移動するので引きつけることも可能だが、引き付けた者の命は保証できない。
「まだだ、まだ出るな」
入口付近に居る男は中の人に言った。外を睨みつけ、完全に敵が去るのを待つ。やがて、耳を澄ましても、石を踏む音はしなくなった。
「行こう、走れ!!」
穴の中に居た人々がその言葉を合図に穴の外へと走り出す。
最後尾に居た親子が穴から出た瞬間、後ろから近づいてきていた敵に火炎放射器を向けられた。だが、皆前に進むのに必死で誰も振り返らなかった。子供とその母親、二人分の悲鳴が赤い空に響いた。
*****
「次は彼処に入ろう!」
ラミロが走りながら指さしたのは、此処から7m程先に見える穴だ。
集落を出ておよそ一日。コーデル達はいよいよ火炎放射器を使う敵が待ち受けるエリアにやって来て、その土地を駆け抜けていた。穴に時折入って、敵が過ぎ去るのを待ち、再び穴から出て走る。何とかコーデルもリンジーも、バレットもホルヘもリランも、そしてラミロも生きていた。リヤカーは穴に入らないので、隠れるポイントから離れた場所に置く。
敵はリヤカーの位置で、人が隠れている穴を認識するのだ。何人かがそれで既にやられた。
集落を出た時の人数は半分にまで減っていた。穴に隠れている時に声を上げてしまった、たまたま穴を覗かれてしまった。または、覗かれずとも焼かれてしまった。逃げ場のない暗い穴の中で、何人もの人間が燃やされた。
穴の中で身を潜めながら聞く仲間の悲鳴は、全身から嫌な汗を滲ませる不快感があった。いつ自分がそうなるか分からない。火傷では済まされない。あの火炎放射器はコーデルが知っている範囲にある、生ぬるいものではなかった。
「さあ、入って!!」
ラミロが合図し、人々が穴に入るのを待っている間にリヤカーを遠くに置きに行った。コーデルとバレットは穴の奥に入った。なるべくバレットが奥になり、肌が出ないよう、コーデルは自分の被っている布で彼を隠してやる。
「暑いか?」
「ううん」
コーデルは彼に水を与えた。何人もの人間がひしめき合う穴の中はいくら太陽が赤い空に隠されていようと酷い暑さだ。何をしていなくても汗が滝のように流れてくる。
コーデルはバレットが水を飲んでいる間、無線機の調子を確かめた。あれからブライスとは話ができていない。そもそも無線機が繋がらないのだ。
「くそ、ダメか」
コーデルは繋がらない無線機に舌打ちをした。布の裏からバレットが顔を出した。
「此処にどのくらいの間隠れる?」
「そうだな、5分くらいか。いや、10分かな。大丈夫、終わりは来る」
「......コーデル、俺母さんが心配。母さんは居る?」
「居るよ、ほら、そこに」
リンジーはホルヘとリランを抱いて、1m離れた場所に座っていた。バレットの声に気づいたのか、此方を見て微笑んでくれた。バレットもそれに気づき、小さく手を振った。
「何処か痛くないか?」
「大丈夫だよ。水、コーデルも飲んで」
「俺はいいよ。アンタが飲みな」
バレットが何か言おうとしたところで、穴にラミロが飛び込んできた。
「おい、まさかバレたんじゃないよな!」
入口の付近でそんな声が上がった。
「大丈夫だよ」
ラミロの冷静な声が潜もって聞こえた。遠くで石を踏む音がする。そして、火炎放射器から炎を出す音。悲鳴が聞こえないということはその穴には誰もいなかったということだ。
「まだ、出ちゃダメだよ」
ラミロが外を睨みつけている。コーデルは目を閉じた。暑くて、息も苦しい。この穴の中で外と通じているのはあの穴だけ。入口から最も離れている此処は空気が悪く、どうしても苦しくなってしまう。コーデルで苦しいのだ、一番奥に居るバレットはもっと苦しいはずだ。
「コーデル......」
「ん?」
突然、頭から水をかけられた。驚いて目を丸くすると、バレットが水が入った瓶をコーデルの頭上でひっくり返しているところだった。コーデルは何が起きたのか分からず、目を丸くしてバレットを見た。
「暑そうだったから......それに俺、こんなに水飲めないし」
バレットが瓶を戻して、
「もったいない?」
と恐る恐る聞いてきた。
「いや、助かった。実は暑すぎて死にそうだったんだよ。良い仕事したじゃんか、ありがとうな」
コーデルは頭を振った。水がバレットの顔に飛んできて、バレットはキャッキャと笑った。
「おい、煩いぞ」
穴の中心部から男の声がした。バレットが肩を竦めた。コーデルも口を閉じたが、目は笑っていた。そしてバレットの濡れた顔を布で拭いてあげた。
*****
二日目。その日も彼らは移動をしていた。しかし、どれほど走っても空に飛行船は現れない。人の数は数えられる限りでは、20人程になっていた。
「本当に飛行船に向かっているのか? 俺らを騙してはいないか?」
少し余裕ができた穴の中で、ある男はラミロに聞いた。
「うん、方向は間違っていない。僕は何回もこのエリアを駆け抜けたんだ。確実に前には向かっているよ」
「それに、飛行船が現れているのはいつもではないわ。でも、絶対に現れないということは無い。実際に見た人が何人もいるんだもの」
ラミロの言葉にリンジーもそう言って加勢した。
「ふん、どうだかな。急に集落から連れ出されたと思えば、世界はループしているとか、何とか......元はと言えばそこに若い兄ちゃんが来なきゃ俺らの命は脅かされることはなかったんだろ」
男の目はコーデルに向いた。
やはりこうなるか、とコーデルは小さく息を吐いた。自分がタイムリミットに影響していることは分かっている。あの集落に自分が入って来たからこそ敵が現れたのだ。
「でも、コーデルは私たちにヒントをくれたわ。私の集落に伝わる歌と飛行船を結びつけるというね」
「それが何だ。結局俺らの命は消えるんだ。で、ループしてまた戻る。今まで何人がそうやって死んできたって? 俺らは此処にしか存在できないんだ。飛行船に乗ったところで、何が変わる。確証は無いんだろうが」
男の声がどんどん大きくなっていく。
「なあ、コーデルって言ったな。ようはお前が俺らの命を握ってんだ。責任もって入口で見張りしろ」
「それは......」
「前々から思っていたが、穴の奥ばっか居てちっとも入口の近くに来ないだろ。死ぬのが怖いか? お前は生き返れないもんなあ」
男がニタニタ笑って、指を曲げてコーデルに手招きをした。コーデルは仕方なく腰を屈めて前の方に向かう。すると、バレットもついてきた。
「おい、アンタは奥に居ろ」
狭い洞窟なので完全には振り返ることが出来ないが、コーデルは後ろのバレットに言った。「やだ」とバレットは短く答えて、コーデルの服の裾を掴んだ。
洞窟の入口の近くは空気が良かった。やっと息ができる、とコーデルは大きく息を吸い込んだ。それと同時に、最もクリアに敵の足音を聞いた。近くにいる感覚が奥よりも強く、心臓が音を立て始めるのが自分でも分かった。
コーデルについてきたバレットは、コーデルが止まると同時に止まって、周りの目を気にしながらそっと腰を下ろした。あの男はバレットを冷たい目で見ながら、大きく咳払いした。
「コーデル、よく来たね」
ラミロも近くに居た。コーデルは彼に微笑んで、床に腰を下ろした。奥は暗かったが、此処は明るい。バレットは隣で膝を抱えて、じっと床を見つめている。
敵の足音は続いた。他の穴にもまだ誰か居るのだろうか。移動するのは小規模のグループなので、穴に人が居るのは此処だけではないはずだ。逃げるのに夢中になって周りを見ていなかったので、もう分からない。
コーデルは外の様子をじっと眺める。空の様子は見えるが、赤い空は相変わらずだ。飛行船の様子もまだ分からない。ラミロ達の集落の近くの砂丘で見えたのだから、此処からならば見えても良いはずなのに_____。
突然、穴の目の前に黒い足が二本立った。その近さに洞窟の中がしん、と静まり返った。コーデルは足から決して目を離さないようにした。ラミロも足を睨みつけている。
片方の手に汗ばんだ何かがまとわりついた。それはバレットの手だった。
時間にしておよそ五秒もなかっただろう。だが、その場にいる全員が死を覚悟した瞬間だった。騒ぎすぎたのか、呼吸音が大きすぎたか、と誰もが頭の中で自分の行動を後悔した。
やがて、二本の足は立ち去った。
誰もが安堵のため息を漏らした。
「足音が遠退いたら次に行こう」
「そうだな」
ラミロの言葉にコーデルは頷いた。
*****
足音はなかなかその場から離れなかった。ラミロがリヤカーを置いたのは穴から3mほど離れた場所だったが、彼らもその最も近くの穴に人が隠れていないということを察し始めたようだ。嫌なことに気づきやがって、とコーデルは思いながら、足音に耳を集中させた。
その穴に居たのは30分近かった。もう三分は音が聞こえていない。ラミロは頷いた。
「行こう。皆、出るよ!」
彼の言葉を合図にコーデルらは穴を飛び出した。ラミロがリヤカーに一直線に走り、コーデルはバレットの手を引きながら次の穴を目指す。どの穴に入るか、敵の目を欺くにはどの穴が最適か。
このエリアに来て二日目、大まかに敵の特徴について分かってきた。
まず、彼らは視覚を使って人間を探すが、その視覚の範囲は考えるに3m弱であること。一定の距離を持つと彼らの戦意は喪失し、火炎放射器を構えなくなるというのが分かった。恐らく目深に被ったローブのフードが見せる世界だけで対象の情報を把握しているのだ。
だが、気をつけなければならないのは彼らの聴覚だ。耳が良く、最低でも8mは離れなければ気づかれてしまう。足音がしたらまずは黙るのが鉄則だ。
一行は前の穴から60m離れた穴に身を隠した。最も入口近くに居なければならないので、コーデルは後方の者を待つ。すると、遠くで子供の泣き声がした。それはホルヘだった。穴に足を取られて転んだのだ。リンジーがそれに気づいた。戻ろうとするが、奥から既に敵は近づいてきている。
「馬鹿、戻るな!!」
男が叫んだ。リンジーは迷っているようだった。彼女の片方の手はリランに繋がれている。
「母さん!」
コーデルの横でバレットが彼女を呼ぶ。リンジーは何かを決心した顔をして、そっと自分の手をリランから離した。
「おい!!」
コーデルも呼ぶが、リンジーはホルヘの元に走った。反対側から敵は迫っている。もう4mもない。
「母さん!!」
バレットが走り出した。
「あ、馬鹿!」
コーデルが止めようと手を伸ばすが、掴み損ねた。
「来ちゃダメよ、バレット!」
リンジーがホルヘを穴から助けて、バレットに叫ぶ。もう敵は彼女の背後にいた。彼女の背中に向かって、敵は筒を向けた。
「やめろっ!!!」
バレットが叫ぶのと同時だった。リンジーとホルヘの体は炎に包まれた。
「やだ、やめろっ!!!」
バレットが泣き叫んだ。周りの敵が声に気づき始める。それは此方に向かってきた。ラミロ達が居る穴の方から叫び声が上がる。
「もうダメだ、俺らは死ぬぞ!」
「この穴はダメだ、次の穴に向かおう!」
「コーデル!」
ラミロが鋭く自分を呼んだ。コーデルはスピードを上げた。炎はまだ吹かれている。バレットがそれに触れようとする前に、コーデルは彼を抱き抱えた。そして、すぐに踵を返してラミロ達の元に向かう。途中で、立ちすくんでいるリランの手も取って、彼は走った。
「ダメだ、下ろしてよ!! 母さんが、母さんが死んじゃう!!」
バレットが腕の中でもがいた。リンジーは叫び声すらあげないようだった。ホルヘもだ。
「いやだ、母さんっ、母さんっ!!!」
バレットはもがき続けた。泣きじゃくって、頭を割りそうなほどの大声で彼女を呼ぶ。
「ガキを黙らせろ!! 敵に気づかれちまうだろうが!!」
さっきの男がバレットを睨みつけた。
「ダリアスさん、怒鳴らないで。君の声の方が大きい」
ラミロが彼の横で言って、コーデルの横に並んだ。
「火傷はしてない? コーデル」
「ああ、大丈夫だ」
コーデルはバレットを抱く腕に力を込める。
こんなに辛いことがあっていいのか。自分の母親が焼き殺される瞬間を目の前で見せられるなんて。残酷すぎる超常現象だ。
「コーデル、気を確かに。残忍性のついての説明はした。今は前に進むことだけを考えるんだ。リンジーもまだ死んだわけじゃない。飛行船に着いたら何かが変わるかもしれない」
ラミロの冷静な声に、反発したのはバレットだった。コーデルの肩に顔を埋めて泣いていたが、彼は顔を上げると隣のラミロを睨んだ。
「母さんは死んだ!! 俺は見たんだ!!」
短い言葉だったが、それに全ては込められていた。ラミロは目を伏せた。
「そうだね。ごめん、バレット。でも、まだもう少し悲しむのを待ってくれ。きっと終わりは見える。母さんと必ず再会させてあげるから」
バレットは何も言わなかった。再びコーデルの肩に顔を埋めて後は喋らなかった。肩が温かく濡れているのを感じながら、コーデルは走った。
*****
三日目。皆の顔に疲労が確実に現れてきた。栄養失調で大人が倒れる中、残るは14人となった。
「これが最後の水のボトル。皆一口ずつ回して」
ラミロがそう言って水を回し始める。子供を優先に、大人は唇を湿らす程度だ。
「何処かの誰かがコーデルの頭に水なんかかけなければ、もっと飲めるのにな」
それは例の男だった。彼はダリアスというらしい。バレットのことを言っているのだろうが、バレットはまるで相手にしなかった。赤く腫れた目で、静かにラミロから貰った絵本のページを捲っていた。
「綺麗な空だな」
コーデルはバレットの読む絵本を覗き込む。バレットは頷かなかった。字を目で追っているのか、それとも追っていないのか。1ページ1ページをじっくり時間をかけて読んでいる。
最後のページになって、彼はようやく口を開いた。
「青空が見たい。あと、星空」
喉がカラカラなのか、掠れた声だった。最後のページに書かれたのは無数の星が瞬く星空の絵だった。水彩なのか、溶け出して混ざり合うグラデーションがとても綺麗だ。コーデルは「そうだな」と頷く。
赤い空の景色になってから、青い空も夜空も見ていない。コーデルも空が恋しかった。夕暮れとも言い難いこの赤い空は本物では無い。偽物だ。だが、この異空間に本物の空があるわけがない。なら、バレットは本物の空を見たことがないのだ。あの、一日で何度も顔を変える美しい空を。
「コーデルと見た星空、俺もう一回見たい。コーデルが膝に乗せてくれて、俺に見せてくれたでしょ」
「ああ、そうだったな」
もうずっと昔のことに感じる。バレットの集落にやってきた夜に、ブライスとの連絡手段のためにと外に出て、砂漠で見える星空の綺麗さに圧倒されたのだ。その時にバレットもやって来て、二人で空を見上げた。あの満天の星空は、コーデルの心のずっと奥に刻まれた。
「この絵よりも綺麗だよ」
バレットが星空のページを指す。
「だな」
「俺も、空飛べるかな。鳥になったら、砂漠から逃げられる?」
「ああ、もちろん」
「そしたら、母さんのところにも行ける?」
「うん、行けるよ。アンタなら」
バレットが笑った。
良かったあ、と彼は絵本を手放した。自然と。
そして、体をコーデルに預けてきた。
思えば、三日も眠っていないのだ。コーデルは彼に膝を貸して、自分を外を眺めた。まだ飛行船は見えない。
*****
四日目で大きく変化があった。遠くの空に霞んで見える浮遊物。あれを飛行船と呼ばずして、何と呼ぶか。人々は歓声を上げた。ようやくゴールが見えたのだ。
だからこそ、死ぬわけにはいかなかった。死ぬわけには_____。
「穴がない......」
ラミロがそう言ってリヤカーを止めた。
「どうしたんだ?」
「穴がないんだ。隠れるための」
ラミロの言う通り、此処から先は穴がなかった。やっとエリアを抜けたのか。確かに敵が追ってくる様子もない。
「敵も追ってこないなら最高だろうが。何を恐れているんだよ?」
「エリアを抜けて新しいエリアに入ったのかもしれない。だとすれば、新しい敵だってきっと現れる。慎重に行こう」
リヤカーにはリランが乗っている。彼は昨日から体調が悪く、自分の力では歩けなかった。すっかり痩けた頬が胸を締め付けられるほど気の毒だった。
コーデルはバレットと手を繋ぎながら新たなエリアへと足を踏み込んだ。地面の感じはまだ石で、ごつごつしていた。だが、砂漠と言われれば砂漠だ。砂砂漠というのはほとんどなくて、砂漠の大半はこういった細かい石の砂漠なのだと聞いたことがある。
「見晴らしがいいね」
ラミロが呟く。彼の言う通り、皆の視界を邪魔するものは何も無かった。遠くの空に飛行船が少しずつ見えてくる。此処から見えるとなると相当大きい。自分が霞む視界の中で見たのが本当にあれだったかは自信が無いが、実在はしたのだ。
「どのくらいで彼処に着くんだ?」
「うーん......二日、三日は......でも小走りなら、一日で_____」
ラミロが喋るのを止めた。彼はじっと前を睨んだ。コーデルは気づいた。自分たちが進む方向に、雲のような、濃い霧がかかっているのだ。バレットが手に力を込める。コーデルもまた、彼を握る手に力を込めた。
「まずいんじゃないのか、あれ」
「うん、此処が新しいエリアだとすれば、」
「新しい敵だ!!」
一行はコースを変えようと進路を避けた。しかし、霧は再び行く手を阻んで迫ってくる。
「何なんだこの霧!?」
「分からない、でもこれを抜けないと向こうに行けない。皆、覚悟は!」
「決めなきゃ行けないんだろうが!」
しかし、再び一行は足を止めることになった。それは、霧の中から聞こえてくる声が原因だった。その声をコーデルも、そしてラミロも知っていた。
「......リンジー?」
焼け死んだはずのリンジーだった。そして彼女に限らず、
「ホルヘの声もする!」
バレットが言った。
「それを言ったらリランの声もだ」
そう言ったのはラミロだった。他にも色んな人の声がする。何を言っているのか定かでは無い。だが、確かに声がする。
「何なんだよ、次から次へと!」
ダリアスが苛立たしく声を張る。
「待って」
ラミロが静かに、と唇の人差し指を当てた。そして、リヤカーの上に倒れるように眠っている、リランの顔の前に手の甲をそっと差し出した。それから手首を持ち、厳しい顔で、
「......死んでる」
と小さく呟いた。
「そんな、リラン!」
バレットが彼に近づこうとするのをコーデルは抑える。ラミロと目が合った。彼と考えていることは一緒だった。
その時、
「コーデル、バレット、いらっしゃい」
リンジーの声が近くでした。コーデルは振り返る。霧がもうそこまで迫っていた。バレットはリランが居るリヤカーに走ろうとするのを止めて、愛しい母の声にパッと其方を振り返る。
「母さん!! そこに居るの!?」
「ええ、居るわ。今日までよく頑張ったわ。さあおいで」
「バレット、ホルヘだよ。もう大丈夫だよ。痛いエリアは抜けたんだ」
「ホルヘ!! 母さん!!」
バレットが嬉しげに走り出そうとする。コーデルはすぐに彼を抱き抱えて、困惑する皆を振り返った。
「耳を貸すな!! 全員走れ!! 此奴ら死んだ奴らだぞ!!」
「そうだよ、皆! 耳を塞いで霧の向こうへ!!」
コーデルはバレットを両脇でしっかり抱えて霧の中に飛び込んだ。ラミロが進路変更したことを頭に入れて、ズレた分だけまた道を戻した。
「母さんじゃないの?」
バレットの悲しげな声が耳元でした。
「声はリンジーだったな。でもあれはアンタの母さんじゃない。俺にしっかり掴まってろ」
「......うん」
霧の中では様々な声が聞こえた。それは皆、確実に命を落とした者達の声だ。リンジーの声はまだ追ってきていた。バレットは耳を塞いで、目を閉じていた。コーデルも前だけを見た。
「_____コーデル」
「っ!!!?」
その声は横から聞こえてきた。コーデルは足を止めた。
「コーデル、おいで、こっちだ」
「......アーバン」
それは、死んだはずの親友の声だった。
「嘘だ、アンタは偽物だ」
「そんなことない。証拠はあるのか? 此処は超常現象の中だろう。現実とはかけ離れた世界だ。何が起こっても不思議じゃない」
「やめろ、違う。お前は死んだんだ」
「死んだからこうなってる」
「話しかけるな」
「せっかく会えたのに」
コーデルは前に進めなくなった。足が石になってしまったようだ。バレットが気づいたのか、「コーデル......?」と耳元で呼んだ。それにまともな反応が出来ないくらい、コーデルは我を忘れて、自分の親友の声に耳を傾けていた。
「元気か、コーデル。デビットさんは? ああ、新しい助手を取ったって聞いた。バレットだっけ。バレット・ルーカス」
「やめろ」
知るはずないんだ。助手の名前なんて。
「此処に来た理由も知ってる。でも、助手を置いてまで此処に来るって......」
「やめろ、もう何も言うな」
コーデルは耳を塞いだ。
声だけ聞こえるのは気味が悪い。死んだ親友の声なんか聞こえてはならない。聞いていいものじゃない。
耳を強く塞いだ。彼は地面に蹲った。バレットが激しく体を揺さぶったのに、コーデルはそれすら拒絶したかった。彼を突き飛ばして、地面に再び蹲った。何日も砂漠にいるこの状況で、この攻撃は彼の胸の深くを抉りとった。
アーバンは死んだのだ。自分が殺したんじゃないか。そして、自分は助手を置いてその罪を償いに来たんじゃないか。
そうなら、きっとこの仕打ちは間違っちゃいない。
「コーデル」
「アーバン_____」
声の聞こえる方に手を伸ばした。何度見たか分からない彼の顔が霧の中に浮かぶ。
いっそ連れて行ってくれ。
俺も、そっちに。
「コーデル!!」
伸ばした手に抱きつくその赤髪にコーデルは目を見開いた。
「コーデルまで居なくなっちゃヤダ!!」
子供らしいそんな言葉は、親友の声を打ち消した。
「コーデルは、俺を連れて行ってくれるんじゃないの!!? その人のために此処に来たの!!」
「バレット......」
「まだやることあるんでしょっ!!!」
肩を強く揺さぶられて、コーデルは目が覚めた。もう、アーバンの声は聞こえなかった。リンジーも、ホルヘも、リランも、皆黙っていた。
「お願い、コーデル」
バレットが泣き出した。
「俺、一人で行けない」
彼の丸い輪郭を描いて滴り落ちる涙が、コーデルの手の甲に落ちた。その温かさを感じた途端、コーデルはバレットを抱き上げて走り出していた。
「ダメな大人だな」
コーデルは笑った。白い世界は、前こそ見えないが確実に終わりを彼に確信させていた。
「アンタに助けられすぎだ」
バレットは「本当だよ」と泣いた。わんわん、子供らしく泣き出した。
白い霧が少しずつ色を変えてくる。灰色、そして黒へと近い色になっていく。それは最初にバレットらの村を襲った霧にそっくりだった。同じものだとしたら、囲まれる前に逃げなければ。幸い、向かう先の霧はまだ白が残っている。もう声は聞こえない。同時に、ラミロや他の人の足音も聞こえない。
バレットが落ちないように気をつけてコーデルは全速力で走った。
五分もすると、目の前が開けた。飛行船はもうそこだった。
背中から迫る霧は真っ黒で、中から無数の敵が出てきた。それはリンジー、ラミロ、ホルヘやリランの姿をしていた。彼らの手には武器があった。火炎放射器、銃、剣。
これが最後のエリアか、とコーデルは思った。きっと、もう自分たちしか残っていない。この世界の命運を背負うのは自分とバレットだ。
「バレット、俺の腰から無線機取って。使い方わかるか? ブライスさんに繋がるか、やってみ」
「うん」
バレットも後ろから追ってくる者が本物ではないと気づいたらしい。母親だと泣き叫ぶことなく、コーデルの腰から無線機を取った。ザザ、とノイズが走ったがブライスの声らしきものは聞こえない。
「繋がらない」
「みたいだな。まあ、そんなもんだと思った」
「俺ら、あれに乗るの?」
「ああ」
バレットが飛行船を見上げる。銀色の近未来的なデザインの楕円形の飛行船。近くで見ると本当に大きい。だが、それは地面に降りてくる気配はなく、目を凝らすと1一本だけ縄ばしごのようなものを下ろしていた。
「あれか......!!」
コーデルはスピードを上げる。早くバレットをあれで引き上げてもらわなければ。
しかし、それは悪い判断だった。
「うわっ!!」
がくん、と視界が揺れた。そして激しい砂埃を上げながらコーデルは地面に転がった。石に足を取られて転んでしまったのだ。バレットを探すと、彼はコーデルの腕から完全に離れて遠くに力なく倒れていた。
そんな彼の後ろから迫ってくる無数の亡者。
「バレット......」
何日も何日も走っては隠れて、精神を集中させたからか。倒れたらもう立ち上がることは難しいくらい、手足は動かなかった。コーデルはバレットに手を伸ばしたが、彼との距離は自分の身長を遥かに超えていた。
「バレット......!」
リンジーの亡者が、手に持っていた剣を投げたのが見えた。それは綺麗な弧を描いて、そして地面に突き刺さった。バレットの太腿の肉を貫いて。
「うわあああっ!!!」
バレットの叫び声が上がった。地面に広がり血溜まりにコーデルはやっと体に力が入った。
「バレット、おい!!」
彼に走り寄って、剣に手を添える。
「しっかりしろ!! まだ死ねないぞ!!」
コーデルは深呼吸し、グッと彼の太腿から剣を引き抜いた。そして、頭に被っていた布を彼の傷口に巻いた。
「痛いけど我慢だ!!」
早くしなければ手遅れになる。
彼が死んだら、誰が飛行船に乗る?
彼はまたあの集落に戻されるのか?
俺を忘れて?
「コーデル......俺、もう死ぬの?」
「死なせない。アンタは、絶対」
結び目を強くして、コーデルは剣を片手に、そしてもう片方の腕で彼を抱き抱えた。さっき転んだ痛みが後引くが、もう構っていられるか。
「コーデル、俺、空が見たい」
バレットの言葉にコーデルは顔を上げた。赤い空はもう無かった。代わりに今は黒い霧が支配している。霧のスピードは最初の比ではなかった。確実にコーデルらを取り込もうとしているのだ。
「ああ、夜空では無いな。こんなの」
「うん、星もないよ。鳥も飛べないよ」
「ああ、全くだ」
もう飛行船は目の前だ。
「......?」
コーデルは嫌な予感がした。
「......梯子が」
飛行船からぶら下がっていた縄梯子が確実に回収されているのだ。此処で裏切られるのか。
あのヒントは間違っていたのか......?
「......バレット、最後に歌を歌わないか?」
「歌?」
「そうだ」
コーデルは微笑んで彼を見る。痛みに歪んだ彼の顔が、少しだけ輝きを取り戻した。
「いいよ、歌おう」
二人は声を合わした。集落に伝わる謎の歌。子供たちの子守唄となりつつあるその歌を。
「地に始まり、空に終わる 幾多の亡者から逃げず背を背けずして戦え しばしの別れを楽しもう 我が英雄」
飛行船から音が降ってきた。ギイギイ、何かが軋むような音だ。それは、飛行船の戸が開いたことを表していた。ゆっくり旋回してそれは地面のギリギリまで降りてきた。
「コーデル、追いつかれる」
バレットが怯えた声で言ってコーデルの服を握る。
「大丈夫だ」
コーデルは勝ちを確信した。
後ろから迫る亡者が何だ。黒い霧が何だ。
この子を無事に送り届けることが成功すれば、後は何も怖くない。
「アンタだけは絶対に助けてやる」
何百人の人間が此処に来るまで死んだのか。ループしてきた彼らが何度殺されたか。彼らが紡いできたこの子の命を、今送り届けるのだ。ゴールへと。皆が目指したゴールへと。
「バレット、鳥になれるぞ!!!」
コーデルが叫んだ。バレットがハッとして、コーデルの服から手を離した。
「本物の空を見てこい!!!」
コーデルは片腕の剣を捨て、片足を地面に埋め込むイメージで、その足を軸にぐるりと体を回転させた。その勢いで、バレットを宙に放り投げた。
バレットの体が飛行船に吸い込まれていく。
「コーデル_____」
彼が吸い込まれると、飛行船は完全に戸を閉めて、旋回して空に登っていく。
「先着一名様ってか!!」
コーデルは笑って、地面に放り投げていた剣を手にする。
「上等だこの野郎!! かかってこいよ、亡者ども!!!」
目標を達成した喜びは心の底から、足のつま先から感じていた。剣を構えた彼は嬉しさのあまりその剣を天にかざした。
自分はやってやったんだ。
「地に始まり、空に終わる 幾多の亡者から逃げず背を背けずして戦え しばしの別れを楽しもう 我が英雄!!!」
彼は大声で歌った。
そして、彼はその目に見た。黒い霧が晴れ、その向こうに見える綺麗な青を。そして、押した。腰に着いた無線機の、あの赤いボタンを。