File005 〜寄生痕〜
「混んでるなあ」
食堂の喧騒の中、誰にもその声は届かなかったが、ノールズは確かにそう言った。
朝食もそうだが、昼時はピークで混むのが、此処B.F.で数少ない職員の憩いの場である食堂だ。広い食堂では、白衣を着た職員たちが楽しそうに会話をしながら、腹を膨らましていた。
ノールズは、昼食を仕事をしながらオフィスで食べることが多い。そのため、テイクアウトがほとんどなのだが、今日はラシュレイがオフィスで真剣に仕事をしていたので、久々に食堂で食べようかと思っていたのだ。
だが、相変わらず凄い混み具合である。
今日の実験は午前に集中していたようで、実験室から直に食堂へと人が流れ込んできたのだろう。
「うーん......今日は俺一人だしなあ。一席でも空けば良いなーって思ったんだけど......」
独り言を呟いて、ぐるりとカウンター席などに目を向けて見るが、一席も空いている場所は見当たらない。
ラシュレイは単体実験で近頃は忙しく、朝から晩までデスクに向かっている。星4に昇格するために、彼も必死だ。
少しは一人にさせて集中させてあげたいというノールズなりの気遣いでもあったが、食べ終われば自分もすぐオフィスに戻る予定である。
下手すれば、結局席が取れずにいつも通りオフィスで昼食をとることになるかもしれない。
「うう......混んでる......」
後ろから声が聞こえてきた。幼い男の子の声だ。ノールズは聞き覚えのある声に振り返る。
そこに居たのは、
「あれ、キエラじゃん」
ノールズの同期であるイザベルの助手、キエラ・クレイン(Kiera Clane)だった。
色々やらかしてはイザベルに怒られていることは、ノールズも耳にしている。だが、彼女がキエラにとても甘いことも、ノールズは知っていた。
キエラは勿論、イザベルでさえ自覚していないようだが。
「ノ、ノールズさん! ご無沙汰しています!」
「あー、そういや、最近会ってなかったもんねえ。実験忙しいでしょ。イザベル、仕事全部引受けるし」
ノールズが苦笑すると、キエラは首をブンブンと横に振った。
「で、でもおかげで充実した日々を過ごせていますし! イザベルさんには何処までも着いていくつもりですから!」
まさか、此処まで先輩を敬っていたとは。羨ましい限りだ。自分の助手も、こんな可愛げがあればいいのに、とノールズは思った。
そりゃ、こんなに可愛い助手を溺愛しないわけがないだろう。
自分の助手は、結局一番可愛いのだ。
「キエラは今日何を食べるの?」
「今日はフルーツサンドにします! 最近フレッシュなものを食べていなかったので」
「おー、いいね」
ノールズ達が並んでいる列はサンドイッチなどのパンの列だ。手軽に食べられるという利点があるためにこの列が最も長い。
「ノールズさんは食堂で食べるんですか?」
「んー? そう思っていたんだけどね......全然座れる未来が見えないんだよなあ」
相変わらず満席だ。
やはりオフィスで食べるしかないだろうか。立ち食いは見苦しいだろう。
「その......ノールズさん」
「んー?」
食堂を見回していたノールズがキエラに視線を戻す。彼はノールズを見上げていたが、その視線の先は少しズレている。彼はノールズの頬を見つめているようだ。
「前々から気になっていたんですけど、ノールズさんの頬に貼ってあるその湿布って一体何なんですか?」
「ああ、これ?」
ノールズが自分の右頬を触る。彼の右頬には拳サイズほどの湿布が貼ってある。キエラが初めてノールズと会ってから随分経つが、彼が全く湿布を外さないのを怪訝に思ったようだ。
これだけ長い期間貼っているとなると怪我をしているわけではなさそうだ。イザベルも特別彼に「その頬どうしたの」と聞くこともないので、きっと自分が此処に入る随分前から頬に貼っていたのだろう、とキエラは思ったのだった。
ノールズは確かにこの湿布を何年も付けている。新しいものに貼り替えるのは、決まって人が周りに居ない時だけである。
実はノールズはその体にひとつ、超常現象を「飼っていた」。
「んー、まあ、話してもいいかなあ。列もまだ長いしね」
ノールズは列の前方を見るが、全く動く気配も見せない。
暇つぶしにはちょうどいいだろう、とノールズは語り始めた。彼の頬にある湿布の謎を。
*****
当時、星2だったノールズは、当たり前だがB.F.に入ってまだ日が浅かった。朝から晩まで報告書の製作練習、研究員としての実績を残そうと施設を走り回っていた。
これはそんな頃の話である。
「報告書、またぺけだらけ......」
テストの答案が返された時のような絶望感が彼を包み込む。彼が上に提出した報告書には、赤い文字がずらりと並んでいた。
ノールズは報告書を持ったままため息をつく。
「はあ、これで何度目だろ〜......やっぱり俺、素質無いのかなあ」
ノールズの報告書は、当時も今もあまり大差ない。数えていたらキリが無いほどの訂正箇所。これは星2全員に平等に与えられた試練なのか、それとも自分にだけ与えられた試練なのか......。
少なくとも上はとことん厳しい。
「おーっす、やってるー?」
突然、静かだったオフィスにまるで居酒屋に入って来たような陽気な声が飛び込んでくる。
扉が開いて現れたのは、黒髪を小さく後ろで束ねた男性だった。金色のピアスや鎖型のネックレスを身につけ、チャラチャラとした、研究員らしくない雰囲気を漂わせている。
「ジェイスさん......」
男の名前はジェイス・クレイトン(Jace Clayton)。ノールズの先輩だ。ノールズは彼の元で助手として働いている。
ジェイスはノールズが持っている報告書を覗き込むと苦笑した。
「はは〜、やっぱりペケ付けられてんなあ? 言ったろー、説明は此処。特徴は此処に書くって」
「うう......そう、なんですけど......」
肩を落とすノールズの頭をジェイスはガシガシと乱暴に撫でる。
「そう落ち込むなって。寧ろお前ほど修正入るのは珍しいっつーか、あんま居ないからさ。胸張ってこうぜ!」
「いや、そういう問題ですか?」
思わず突っ込むノールズ。
ジェイスは変わった人だ。話の中心がぶれているというか......実験や会議中はそんなことは無いのだが。
「お! そーだノールズ!」
「はい! なんですか」
「今日18時から実験入ってるから、宜しくな!」
18時とはまた急である。さすがにそういう話は昨日のうちにして欲しかったが、と、ノールズは時計を見る。
「......」
ノールズの目には時計の針がどう考えても18時を指しているようにしか見えない。
彼は後ろのジェイスを振り返る。ジェイスは自分の机で夕食なのか、大好物のアップルパイの包みを開いていた。その横顔は眩しいほどに輝いている。
「......ジェイスさん?」
「んむ? ほおひは?」
「もう、もう18時です!」
ジェイスが「ほ?」と首をかしげ、おもむろに時計を見上げる。もぐもぐとアップルパイを咀嚼しながら。
「......」
「......」
二人はしばし見つめ合う。
「やべえな!」
ジェイスがニコッと笑った。
*****
何とか実験室にたどり着いた。廊下を全力疾走したがためにノールズもジェイスも息切れが酷い。
準備室に入ると、そこにはパイプ椅子に座った一人の男性がいた。服装からして、此処の職員ではないようだ。
息切れして入ってきた二人の男を見て、怪訝な顔をしている。
「こんばんは!!」
「こ、こんばんは」
ジェイスの元気の良い挨拶に圧倒されて、男は小さく返す。
「いやあ、すみませんね、遅れてしまって!」
「い、いいや、いいんですが......あなたが担当の研究員のお方でしょうか?」
「はい! 俺が研究員です!!」
自信満々に大きく頷くジェイスを見て、男はそうですか、と小さく呟く。そして、自分の服の袖を突然捲り始めた。
そこに現れたのは男の人の腕を飲み込む黒い痣のようなものだった。手首から肘にかけてかなり大きく、痛々しい。
ノールズは顔を顰めて、痣をジェイスの後ろから恐る恐る眺めていた。
「数日前からこの痣が現れて......ど、どうしたらいいんでしょうか」
「痣かあ......」
ジェイスが真剣な顔で男の腕を見つめている。
「転んだり、ぶつけたりしました?」
「いいえ......」
「んー、じゃあ、そこだけ強く圧力がかかっていたとか」
「ないです......」
ふーむ、とジェイスが唸る。
すると男が、
「この痣、変なんです」
と、口を開く。
「変?」
はい、と男は頷く。
「大きさ自体は変わっていないのですが、形が日に日に変化するんです。痣が初めてできた日は、こんな形じゃありませんでした......」
痣が動く。そんな事有り得るのか。ノールズ首を傾げる。
「へえ! レアな痣じゃないですか!」
「何言ってるんですか」
楽しそうにそう言うジェイスの後ろで、ノールズ思わず言う。
男はノールズに助けを求めるように彼を見る。
ノールズは男が気の毒に思え、
「取り敢えずちゃんと見てみましょうよ、ジェイスさん」
と、ジェイスに言った。
「うん、そうだなっ」
返事はいいのだが。
ジェイスは男性の腕を持って、まじまじと顔を近づける。
「んー、見た感じ普通の痣ですけどねえ。押してみた感じ、痛みはありますか?」
「いいえ。ああ、でも違和感があります。何だか自分の皮膚に感じないというか......。感覚が無いというか」
「ほー? じゃあ、今俺が触っている感覚もないんですね?」
「はい、なんだか麻酔されているみたいで......正直気持ち悪いです」
「ふむ、新たな病気とかかなあ」
「病気ですか!?」
医者でもないのに病気を疑うのはどうかと思うが、とノールズは思う。
果たして本当に何なのだろう。どう見ても普通の痣にしか見えない。形が今のところ変わっているようにも見えないので、なんとも言えない。
「もっとちゃんと調べてみたいけれどな〜......うーん」
男性の腕に穴が空くほど見つめるジェイス。
その時だった。
「!!?」
三人は息を呑む。
痣が消えたのだ。一瞬で。
男の腕は何事も無かったかのように元通りになっていた。痣があった痕跡など全くない。他の場所の肌と同じ色に戻っているのだ。
「え......ええ!!?」
「すっご〜、消えちゃったよ。俺って名医かも」
ジェイスも目を丸くしている。
「そう、なんですかね」
ノールズは適当な相槌を打ちつつ、手元のバインダーに痣が消えたことを記入した。
不思議な超常現象ではあったが、消えたのなら全て解決したということでいいのだろうか。男の体調が悪くなったり、様子がおかしくなったりしているわけではない。
「消えたということは、肌の感覚は元通りですか?」
ノールズが問う。
「は、はい」
「じゃあ良かった! あとは誘導員の指示に従ってお帰りください!」
ジェイスが立ち上がる。
「はい、ありがとうございました!」
男は嬉しそうに部屋から出ていった。
この後、おそらく記憶処理をされるのだろう。一応、此処での出来事は一般人に知られてはならないのだから。
部屋を出て、ジェイスとノールズはオフィスへと戻る。
「それにしても、不思議な超常現象でしたね」
ノールズが口を開く。
「ほんとほんと、何だったんだろうねえ? ま、消えたんならいいじゃん! アップルパイ食おうぜえ!」
「俺の分ありますか!」
「当たり前だろ!」
「よっし!」
*****
ノールズは部屋に戻って報告書の作成を行っていた。ジェイスは部屋にはいない。報告書にペンを走らせていると、
「うわああ!!ノールズー!!!」
突如部屋にジェイスが飛び込んできた。その顔は真っ青だ。
ノールズは驚いて、椅子からビクッと飛び上がる。
「ど、どうしたんですか!?」
「見てこれ!! これこれ!!!」
ジェイスが仮眠用のベッドに腰を下ろすと、ズボンの裾を捲りあげた。彼の白い足の膝小僧に黒い痣があった。それは形こそ違うが、明らかにあの男性が腕に持っていたものと同じように見えた。
「え、何で!?」
「ふお〜! すっげ〜、これすげーよノールズ! ほんとに感覚ない!!」
彼は顔面蒼白だったのが嘘かのように、興奮した様子で、ぺたぺたと痣を触っている。
「何で楽しげなんですか! どうにかしないと......!」
ノールズがデスクにある白紙の用紙を掴んだ。
「とりあえずスケッチして、それからどうにかしましょう!」
ジェイスの前に座って、ノールズは痣を紙に描き写し始める。
「動かないでくださいね!」
「ノールズ〜、かっこよく描いてよ〜?」
「描くのは膝です!!」
「......」
痣はあの男性の腕で見た時よりも大きくはなかった。形が違うので、そう思えるだけだろうか。面積は等しいかもしれない。
ノールズは真剣に写しているというのに、ジェイスはその間暇なのか、近くにあったルービックキューブを手に取るとそれで遊び始めている。自由すぎる行動はいつもの事なのでノールズは気にしない。
「......なあ、ノールズ?」
もう少しで描き終わるというところでジェイスが口を開いた。
「なんですか」
「その痣さあ、俺の推測なんだけれどね?」
「はい」
「多分ねえ」
ノールズが眉を顰めて、彼の次の言葉を待つ。
「ずっと見てると伝染ると思うんだ〜」
「......え?」
次の瞬間だった。痣が彼の膝から跡形もなく消え去ったのだ。
「あ、ほらほら、見た?」
ジェイスが膝小僧をぺたぺたと触る。感覚も全て元通りになり、彼は固まるノールズを見下ろしてニッと笑った。
「消えた......」
唖然として、何も無くなった彼の膝小僧を見る。
確かに、ジェイスはあの男性の痣をずっと見た。それはもう穴が空くのでは無いかと思うくらいに。
そしてあの時、痣は瞬時に消えた。もしジェイスの仮説が正しければ、あの時ジェイスはあの男性の痣をずっと見つめすぎたから、彼から痣が伝染ってしまったということになる。
そしてノールズは今、ジェイスの膝小僧にある痣を凝視して絵を描いていた。つまり、見つめすぎた。そうなると、痣が消えたということは_____。
ノールズが絶望してジェイスを見上げた時だった。
「っぷ」
ジェイスが突然吹き出したのだ。
「......へ?」
ノールズは訳もわからず間の抜けた声が出る。
「っく、くくっ、はは、あはははは!!! おまっ、ちょっ、やば! それ、それっ......あっははは!!!」
足をバタバタさせて、背中を反って彼が大爆笑し始めたのだ。ノールズはぽかんとして狂ったように笑い転げる目の前の先輩を見上げる。
痣が消えると笑いが止まらなくなるような作用でもあるのだろうか?
いいや、あの男性は痣が消えた時笑っていなかった。自分達の視界から外れた時に笑い出したという可能性もあるが_____何それ怖い。
と、頭の中でぐるぐる色んなことを考え、混乱しているノールズに、一通り笑い終えたらしいジェイスが目尻の涙を拭きながら言った。
「はー......鏡見てきなよ、鏡。ひー、腹いてえ」
ノールズは自分のデスクにある手鏡を掴んだ。嫌な予感がして、まさかと思った頃には、もう既に鏡に自分の顔が映り込んでいた。
ノールズの右頬に、あの痣が。
「ぎゃあああ!!!!」
今世紀一番の悲鳴を上げるノールズを見て、またジェイスが腹を抱えて笑いだした。
「いやいやいやいや!! 笑ってる場合ですか!! これどうするんですか!!? 俺、俺、こんな姿誰にも見せられないですよ!!!」
ノールズが鏡をもう一度確認するが、そこにはやはり、右頬に大きな痣を持つノールズの顔があった。
「俺の顔があ......」
半べそのノールズを見てジェイスは少しだけ気の毒に思ったのか、笑うのを止めて倒れかけていた体を起こす。
「んー、お前さ、単体実験ってやったことあるっけ?」
「いいえ......まだありませんけど......」
「そんじゃあ、それ、単体実験の実験対象にしてみたらどう? まだ謎が多い超常現象だし、お前にとって良い機会になるんじゃないかな」
「ええ!! じゃあ俺このままですか!!?」
「だって他の人に伝染したところで何のメリットもないしねえ?」
「ちょ、ちょ、いやいや、困りますよ! 顔ですよ!? か、おっ!!」
泣き付くノールズの背中をトントンと撫で、ジェイスは「そうだ!」と立ち上がる。
「湿布でも貼ろう! 人目につかない場所で貼り変えれば、痣は誰にも伝染らないからさ!」
ジェイスはオフィスの棚にある救急箱をがさごそと探り、拳サイズの湿布を持ってノールズの右頬にぺたん、と貼っつけた。
「うう、うう......」
「まあまあ、いい経験じゃない! 自分の体で超常現象飼うなんてさ!!」
全く励ましにもならないらしく、ノールズは泣きそうな顔で鏡を見て湿布をぺたぺたと触っている。
「俺の顔が......超常現象の住処に......」
*****
「なるほど、そんな過去が......」
全て聞き終えたキエラがノールズを見上げて呟いた。
「そっ! 皆が恥ずかしい思いをしないように俺が身を呈して皆のことを守ってあげてるんだよ!!」
腰に手を当てて、ノールズは得意げに胸を張る。
「痣が消えないって私に泣きついてきたのにね」
隣の列からぼそっと声が聞こえてきた。
「イザベルっ!?」
「イ、イザベルさん!」
金髪のショートボブの研究員、イザベル・ブランカ(Isabelle Blanca)がいつの間にか隣の列に並んでいた。隣はパスタやドリアなどの列だ。
「ちょ、イザベル! 後輩の前でそんなことバラすか普通!!」
「なるほど、ノールズさんですもんね」
「ラシュレイ!!?」
イザベルの後ろからひょっこり顔を出したのはノールズの助手であるラシュレイ・フェバリット(Lashley Favorite)。
「おま、いつの間に......!! 部屋で報告書書いてるんじゃ_____」
「静かだったので書き終わりました」
「おお、流石、仕事が早い_____って違う違う!! イザベルが今言ってたこと嘘だからね!? 泣きついてないからね!?」
「どうですかね、ノールズさんですからね」
ラシュレイが首を傾げる。
「もー、せっかく良い話してたのにー! 後輩2人に醜態晒すことになっただろうがー!」
ノールズの叫びは食堂の喧騒にほとんど掻き消されてしまった。