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Black File  作者: 葱鮪命
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時空を超える飛行体

 エリゼ・ジンデル(Elyse Zindell)は大学に入って大きなショックを受けた。小学校で自分をいじめていた同級生が同じ時期にその大学へ入学をしていたのだ。


 彼らを下手に刺激しないよう、こそこそと大学生活を送ろうとしていた彼女だったが、そのいじめっ子らが彼女を放っておくわけがなかった。入学早々目をつけられ、来る日も来る日も追いかけ回されたのだ。しかも、小学校以来に仲間を増やして。


 大学生にもなっていじめなどあるものかと思いもしたが、大学生だからこそ誰も叱らなくなった歳になって、堂々とできるようになったのだろう。


 エリゼは憂鬱だった。大学をやめようかとも考えたが、これでは彼らの思う壷だ。いつか飽きて他のことに注意が向くような日が来るはずだ。そう信じて耐え抜くしかない。


 しかし、そんな辛い生活は一変した。


 それはある朝の出来事だった。いつも通りいじめグループに目をつけられたエリゼはキャンパスの外にて堂々とカバンの中身を地面に撒き散らされていた。カバンには昔友人から貰った大事なハンカチが入っていたが、それも地面に落ち、更には風によって飛ばされていってしまった。だが自分の荷物を拾うことで精一杯だった彼女はハンカチに気を取られている場合ではなかった。


 いじめっ子達が下品に自分を見て笑っている声が聞こえてくる。此処で泣いてしまえば更に笑いものにされることは過去の経験からよく分かっていた。彼らの大好物はそう言った感情を見ることだ。


 視線がチクチクと刺さる。だが誰も助けには来ない。関わりたくないのかもしれない。確かに、今回新たにグループに加わったのはがたいの良い男性だった。頭は良いのだろうが、言葉や態度は乱暴で、どうやら彼がグループの中心メンバーへとなったらしい。


 エリゼは教科書やペンケースを拾っていた。顔を上げて彼らと目を合わせるのが嫌なので、下を向き続けるしかないのだが、そうすると今にも涙が零れてきてしまいそうでならない。


 唇を噛んで震える手で物をかき集めていると、


「何してるの?」


 突然いじめっ子らが笑うのを止めた。エリゼは最初なぜ彼らが笑うのを止めたのか分からなかった。


 どうせまた何か良からぬことでも思いついて自分に聞かれないよう仲間内でコソコソとお喋りをしているのだろうと考えたが、違う。今聞こえてきた声が、あのいじめっ子らの中の者の声ではないと気づいたのだ。


 エリゼは驚いて顔を上げた。


 いじめっ子らと自分との間にいつの間にか人が立っていた。優しそうな横顔には、彼らに対する怒りが現れている。四つん這いで物を拾っているエリゼとそれを笑う彼らの構図は明らかにおかしいものだと気づいたのだろう。今まで声をかけてくれる者など一人も居なかったのに。


 ダークブラウンの髪色を持つ眼鏡をかけた青年だった。いじめっ子らが来ている様なチャラチャラした服装とは対象的な、素朴で清潔感のある服に身を包んでいた。普段はきっととても優しい人なのだろうが、正義感を感じる強い視線はいじめっ子達を後退させていく。


「見りゃわかるじゃん」

 リーダー格の彼が鼻で笑った。彼の場合青年を恐ろしいとは微塵も思っていないのだろう。リーダー格の男が四つん這いになったままのエリゼを指さした。


「人間でも四足歩行をするような奴が居るってさ、面白いじゃん」

「面白くないよ」


 同意を求めた彼に対して青年はキッパリとそう言った。その場の空気が瞬く間に凍りつくような発言だった。エリゼはこの空気が耐え難かった。


 次なる標的にされるのを恐れて、誰もが彼の言うことを受け入れてきたのだ。きっと彼の後ろにいるメンバーもそうだ。


 だが、青年は変わってしまった空気に臆することがなかった。むしろ「当然でしょう」というような堂々とした態度で彼を真っ向から見ている。


「なんでこんな事するんだい。此処は大学だ。勉強する所のはずだけれど」


 青年はリーダー格の男の後ろで固唾を飲んで見守っている他のいじめっ子達を睨みつけた。


「此処に一体何しに来ているんだい、君たち」


 いつの間にか誰もが足を止めていた。リーダー格の男と青年の間で明らかに壁が出来上がっていることを察したようだ。きっとその中ではいじめを目撃しても無視をしていたような人間も混ざっているだろう。やっと堂々と足を止めて見ることができる、とそう考えているのかもしれない。青年らを中心に人の壁が出来上がっていく。


「......つまんないな、お前」


 男は既に笑っていなかった。彼らのグループの中で、そろそろまずいぞ、という雰囲気が流れ始めている。誰か止めろよ、とグループの中から微かに声がしたが、積極的に前へ進み出る者は居ない。今までこんな空気になったことはなかったので、誰も止め方など分からなかった。もちろん、エリゼもである。固唾を飲んで見守るしかないのだ。


「だいたいさあ、お前何部? お前こそこんなとこで何してんだよ。もしかしてヒーローごっこでもするために此処にやって来たのか?」


 男が嘲笑して言う。周りの笑いを誘うつもりだったらしいが、誰一人として笑う者は居なかった。


「見た感じスポーツなんかやって無さそうだし、自分がどの立場にいるか分かって俺らに話しかけてきたのか? お前も四足歩行したいのか?」


「君たちは彼女を追ってこの大学に来たのかい? それだけのために? だったら止めておいた方がいい。自分のためになっていないよ。周りも不快だ」


 男の言葉に青年は冷静に返した。

 そしてエリゼを振り返ると、脇にしゃがみこんで落ちていたものを拾い上げる。エリゼはこの状況に驚いていたからか言葉すら出ず、彼から受けとった物を黙々とカバンに戻した。


「これ、落としたよね」

 青年は最後にエリゼに何かを渡してきた。それはハンカチだった。エリゼは目を丸くして彼を見る。彼は優しい笑みを浮かべていた。


「もう少しで道路まで飛ばされそうになっていたよ」

「ありがとう......」


 エリゼはそこでようやくその言葉が出てきた。顔を上げたついでに彼の後ろを見たが、いじめっ子達は誰一人としてその場を去っていて、居なかった。いつの間にか人だかりで出来ていたようで、一部始終を見ていた人達が安心した様子で散っていく。青年はパッと立ち上がって、エリゼに手を差し伸べた。


「ごめんね、目立つことは得意ではなくて......もう少し言ってやるべきだったかな」


 エリゼは彼の手を取った。


「いいえ、いいんです。ありがとうございました」

 エリゼは目を伏せた。目の前の彼が眩しすぎたのだ。


「ドワイト、お前本当のヒーローじゃん」


 人だかりの中に彼の友達が混ざっていたようだ。もう一人の青年が歩いて来てエリゼに笑いかけた。


「あんな奴ら気にしなくていいよ。なあ、ドワイト?」


「うん、そうだよ。そろそろ講義が始まるから、行かないと。じゃあ、またね」


 ドワイトと呼ばれた青年ともう一人の彼の友達は、校舎の中へと入っていった。エリゼはその様子を彼らが見えなくなるまでずっと目で追いかけていた。エリゼの手の中にはドワイトが拾ってくれたハンカチがある。


 こんな気持ちになったのは初めてだ。


 エリゼは初めて思った。この大学に来て良かった、と。


 彼女は恋をした。


 そして、そんな彼女らを見ていた人混みの中に、たまたまベルナルドが混ざっていただけの話である。彼は一部始終と、エリゼの彼への燃える気持ちを読み取っては頭の片隅に置いておいたのかもしれない。


 *****


 卒業間近というところで、エリゼはベルナルドという生徒に声をかけられた。


 もし自分に協力してくれたらあの男を自分のものにできるという甘い言葉だった。


 ドワイト・ジェナーを自分のものにできる。

 そのチャンスを与えられたのだ。


 エリゼは考えるよりも先に口が動いていた。


「やらせて」


 紛れもない恋心から始まった悲劇だと言っても過言ではない。彼女はベルナルドと手を組んだのだ。


 *****


 ベティはやっとのことで立ち上がった。彼女と揉め合った際に乱れた髪を手ぐしで整えて、彼女は綺麗な顔を歪ませる。


 なんて女とドワイトは付き合っているのだ。本当に好きなら相手を騙していいのだろうか。悪魔よりも恐ろしい、彼女は最低な人間だ。


 ドワイトもドワイトだ。あんな奴に踊らされるなど。


 一体どうしたらいいのか_____。


「ベティ? どうしたんだい?」


 ベティは弾かれたように振り返った。ドワイトが不思議そうな顔をして彼女を見ている。教授と話し込んできたようだが、それが終わったようだ。ベティは何も言えずに会議室に戻った。

 ドワイトはその様子を見て首を傾げる。


「わ、こんなに片付けてくれたんだね」

 彼は会議室に入って、綺麗になった棚を見て目を丸くする。そして、申し訳なさそうな顔をベティに向けた。


「ごめんよ、すぐに戻ってこようとは思っていたんだけど......話し込んでしまって」


「......」


 ベティは何も言わなかった。ドワイトは気づいていないのか、「そうだ」と携帯を取り出す。


「さっきブライスから連絡があって、施設のデザインが決まったそうだから後で送ってくれるって。一緒に確認しようよ」


「......」


「......ベティ?」


 全く喋らない彼女にようやく違和感を抱いたのかドワイトは携帯から顔を上げた。ベティは何もすることなく、黙って床を見つめていた。


「どうしたんだいベティ、体調でも悪いのかい?」


 心配げにドワイトが近づいてくる。が、ベティは彼が接近する前に口を開いた。


「......ねえ、あなたが付き合っている女だけど」


 ドワイトが足を止めた。キョトンとした顔で彼女を見ている。


「エリゼのこと?」

「............そう」


 ベティは言葉を選びながら文章を組み立てたが、どれもドワイトを苦しませる末路しか見えなかった。ドワイトには悲しんで欲しくなんてない。


「......良い子よね」


 ベティがそう言って、なるべく自然に笑ってみせる。


 本当なら彼の腕を掴むか、胸ぐらを掴んで言ってやりたかった。直ぐに彼女と別れろ、と。いつか真実を自ら知れば、彼はどんなにショックだろうか。自分が利用されて、仲間をも裏切る形になってしまえば、どうしたらいいのだ。


「そうだよ、優しい子だよ」


 ドワイトの顔がパッと輝いて、恥ずかしげに笑った。彼女のことを話す彼は幸せそうだった。


 ああ、どうして_____。


 ベティは頭を抱えたくなる。彼にこんな真実を伝えるには、あまりにも酷だった。


 *****


 ベティが悶々とした気持ちのまま、施設は完成した。場所はノースロップ・シティ(Northrop City)の郊外だ。


 地下に巨大な施設をこっそりと作るのは時間がかかるものだと思っていたのだが、案外早い完成となった。


 ただ、まだ点検作業などが残っているので移動するのは難しいらしい。だがもう大学には戻ってこない。


 研究室には最後の日に五人全員が集合した。


 リアーナは定期的に病院に通って腹の中にいる新しい命を感じている。ナッシュが何度も彼女を気にかけているのが、何とも微笑ましい光景だった。


 ブライスは国から送られてきた資料や専門家からもらった資料をどっさりと抱えていた。大半は施設に置いたが、まだまだ資料は送られてくるようだ。


 教授のマーロンは少しの間様子を見に来てくれるようだ。今は政府の人間とブライスらの間に立ってコンタクトをとっているが、いずれその役目はブライスへと引き継がれる予定である。


 肝心な会社の名前は『Black File』。未知の何かを研究するのだから、とリアーナが提案したのだ。他の案も沢山出ていたが、最終的にその名前に決まった。略してB.F.。こうして超常現象を研究する会社が出来上がった。


 リアーナはモデルの仕事、そして妊婦ということもあって、施設に来るのはまだまだ先になりそうだった。早くみんなと研究を行いたい、と指を咥えていたが、


「待っているから、焦らずにおいで」


 とドワイトに言われて嬉しそうに頷いていた。


 先に施設に移るのはリアーナ以外の四人である。ナッシュはリアーナを見守るということもあって、施設と病院を行ったり来たりすることになるだろうが、ブライスとドワイト、ベティは完全に地下にこもることになるだろう。


「この場所ともお別れかあ」

 リアーナは寂しげに会議室の中を見回した。全てが始まった場所と言っても過言ではない。数ヶ月間を此処で過ごした彼らにとっては名残惜しい以外の気持ちは存在しなかった。


「そうだねえ。写真でも取っておこうか」

 マーロンは最初からそのつもりだったのか首からカメラをぶら下げていた。


「君たちのおかげで私もとても楽しい時間が過ごせたよ。これからの活躍に期待しているね」


 *****


 会議室には名残惜しげにチームのメンバーが残っている。


 楽しげに語り合うメンバーの声を聞きながら、ベティは廊下で全開にした窓に寄りかかってタバコをふかしていた。基本的にはキャンパス内は全て禁煙なのだが、最後くらい、とベティは自分を許していた。


「もう此処とはお別れだね」

 隣にドワイトがやって来る。どうやらタバコをやめろとやんわり忠告に来たらしい。もちろんベティにやめる気などない。


「ブライスはタバコを吸わないだろう」


「そうよ」


「タバコ臭いって煙たがられるよ」


「でもあなたは今此処に居るじゃない」


「先生にバレたら大変だから止めに来たんだよ」


「共犯になればいい話じゃない」


 タバコのケースを差し出すベティ。ドワイトが苦笑した。


「B.F.では吸っちゃダメだよ」

「吸わないわよ」


 ベティはケースをしまう。白い煙が空へと上っていくのを二人は見ていた。静かな時間だ。ドワイトは特に煙たがる様子も見せないので、実は彼も影で吸っていたりして、そう思いながらベティはエリゼの事を思い出した。あの日以来彼と二人きりになるといつ話を切り出そうか、と考えてしまうのだ。


「......エリゼとは、どう?」


「......別れたんだ」


 少し間を置いて彼が答えた。


 ベティは目を丸くして彼を見る。彼は切なげな表情を浮かべて、外を眺めていた。


「どういうこと......?」


「どうもこうも、普通の友達に戻ったんだよ」


「何でよ?」


「うーん......」

 ドワイトは困ったように目を伏せる。


「......何だろう、それが、上手く言葉にできなくて困ってるんだよね。彼女のことが嫌いなわけでもないし、彼女に飽きたとか、そんなことは一切ないんだ」


「......別れる理由にならないじゃない」


「うん、そうなんだよね。私もそう思うよ」


 彼は微笑んで言った。


「彼女の目は何処か虚ろなんだ。遠くを見ているというか、何か違うものを見ているというか......私のことも見ていたけれど、それの他に惹かれるものがあったんじゃないかなあ」


「浮気ってこと?」

 ベティは眉を顰めて問う。


「ううん、そんなんじゃないよ」

 ドワイトは首を横に振ったが「でも」と続けた。


「苦しそうだったんだ、すごく。だから離れた方が良いと思ったんだよ。私のためにも、彼女のためにも」


 ベティは黙り込んだ。


 自分は最初から出る幕などなかった。ドワイトはドワイト自身できちんと彼女の異常さに気づけていたのだ。一体いつからかは分からない。彼女のためにも優しいドワイトなのだから、黙っていたのかもしれない。別れるという形でそれを遠回しに彼女に示唆したのだろう。


 相手も、そして自分も、彼は守っていた。


「......吸ってもいい?」

 ドワイトが手を差し出してくる。ベティはきょとんとして彼の手のひらを眺めていたが、自分の服のポケットに手を伸ばした。


「結局共犯じゃない」

 そしてその掌にケースを置く。


「ふふ、みたいだね」

 ドワイトがケースから一本取り出して、ベティはその先端にそっとライターを近づける。煙が二つ上り、天でひとつに交わった。


「......どう? 失恋の味は」


 意地悪く笑って、ベティはドワイトの顔を覗き込む。


「......苦いなあ」


 ドワイトが苦笑して、煙を吐いた。彼は煙でぼんやりとしている。煙が目にしみたのか、彼の目にキラキラと輝くものが見えたのはベティの見間違いではないだろう。


 *****


 事は着々と進んでいった。

 施設の完成に向けて準備と平行に行われていたのが、雇う研究員の選択だった。

 募集をかけると案外人は集まった。まさか最初からこんなに上手くいくものなのかと五人は素直に驚いた。やはり超常現象を調査する会社となるとそれなりに興味も湧いてくるようだ。


 五人は施設の中に研究室だけでなく、研究員が生活するスペースを設け、また一般人にわからないように、カモフラージュする用の仮施設という建物を建てた。大学を卒業してからは五人の集合場所はそことなった。


「未知の会社だって言うのに、危機感のない人達だね」

 ナッシュは募集をかけて集まった人達のリストを捲りながら言う。


「喜ぶべきことじゃない。それに、人が多い方が効率がいいって言っているのはナッシュでしょう?」


 そう言ってナッシュの肩をぽん、と叩くリアーナの腹はかなり大きくなっていた。性別は次の検診の時に分かるようで、さっきまで名前の案や将来についての話で盛り上がっていたところだった。


「皆は本当に外に出てこないの?」


 リアーナが問うと、ブライスが頷いた。


「まあ、一応国家機密の情報ということになっているからな。研究員も雇ったら、安易に外に出すわけにはいかないだろう」


「それってなかなか辛いわよ。たまには外に出してあげてもいいんじゃない?」


「それは後々国と相談して考えるかもしれないな」


 地下で生活をするというのは今まで経験のないことだ。五人の心は少なからず踊っていた。


 *****


 キーボードの音が混ざり合う。


 ブライスとナッシュは背中合わせに資料作りをしていた。リアーナは無事に子どもを産み、母子ともに健康だ。まだ地下には来られないので家で安静にしており、ナッシュが時折様子を見に行っている。


「はあ、それにしてもとんでもない仕事量だねえ」


 ナッシュは机に積み上がった紙の束を見てため息混じりにそう言った。


 どれも新しく入った新入社員の情報と、実際にこの施設で暮らして出てきたデメリットの解決案などだ。国に提出するものなので見落としは許されない。

 ベティもドワイトも、他の部屋で同様の仕事に追われているところだろう。


 だが、ベティの仕事はそれだけではない。彼女は女医としてもB.F.で働くことになったのである。


 まだまだ医者としての腕は未熟だが、彼女は医者になろうと心がけになった人物と再会を果たしたらしい。それがシャーロット・ホワイトリー(Charlotte Whiteley)である。彼女は医者を引退しようとしていたところをベティが是非と言って連れてきたのだ。


 ベティは昔シャーロットに治療を受けたことがあるようで、その経験から医者を目指すようになったという。


 言うまでもなく、その志となった人物のもとで助手として働けるのだから彼女はとても幸せそうだった。


 未だ地上に居るリアーナはというと、育児が一段落したらモデルの仕事に戻りつつ、研究員としても此方に通うようになるそうだ。ベティやシャーロットが居るから、きっと何があっても安心だろう。


「あんまり無理しないんだよブライス。君に倒れられたら困るよ」


 ナッシュは背中で仕事をする彼を振り返る。ブライスは慣れた様子でデスクトップに文字を刻んでいる。ナッシュの言葉に返事もしないので、集中しているようだ。ナッシュが小さくため息をついたところで、


「やあ二人とも」


 オフィスの扉が開いて、ドワイトが入ってきた。彼の手の中には文字がびっしりの紙が挟まったファイルがある。


「この前頼まれていた書類の作成が終わったよ。確認してもらってもいいかい?」

「ああ、僕がするよ」


 ナッシュはドワイトからファイルを受け取るために手を伸ばしたが、一足先にブライスが彼の手からそれを取り上げた。


「あっ」

「数字は合っているな」


 ブライスがブツブツ言いながら書類に目を通す横で、ナッシュは不満げにドワイトを見る。ドワイトも苦笑して肩を竦めた。


 *****


 ベティは次々と運ばれてくる怪我人の数に驚いた。皆怯えた顔をしていたり、ほとんどの感情が無になっていたり、心のケアも重視するべき状態だった。


「すごいわねえ、何があったの」

 シャーロットがてきぱきと動くのでベティも遅れないように彼女を手伝う。


 超常現象を調査するということは、思っていたよりも辛いことなのかもしれない_____。


 確かにこの領域は大学の終わりに少し齧っただけの自分たちからしたってかなり未知のものである。


 自分たちは案外とんでもない会社を立ち上げてしまったのだな、とベティは運ばれてくる患者の怯えた顔を見て目を伏せた。


 *****


 やがて仕事が一段落したところで、ブライスらは一度国の報告のために地上へと戻った。B.F.を経営してみてどのようなことが分かったか、どんな改善点があるかを国と検討し、解決できるように資金の提供などをお願いしに行く。


「金の無駄遣いだな」

 資料に目を通した男が鼻で笑いながらそう言った。ブライスは突き返される資料を受け取ろうとしたが、ナッシュが根気強くその案の説明をした。時折口調が強くなるのをドワイトがなだめ、ベティはその後ろで睨みつけるものなので国は仕方なくその案を呑んだ。


「君ってば返された資料受け取ったら帰るしかなくなるじゃないか。ああいうのは絶対に返されても受け取っちゃダメなんだよ」


 外に出て、ナッシュがやっと開放されたと言わんばかりにベンチに足を投げ出して座って、昼食のホットドックを口に詰めている。ドワイトが彼の足をそっと戻しながら、「ナッシュも少し言葉が強いと思うよ」と言った。


「マーロン先生は国に対して説明したって言ってたわよね。その時点で既に鼻で笑われてたんじゃないの?」

「文書001の話だけは真剣に聞いているようだったけどな」

「あの文書の内容だって考えれば同じく鼻で笑えるようなものじゃないか」

「ナッシュ」


 四人は昼食を取り終えても尚お互いの意見を言い合っていた。すると、


「あ、見て見て、パパだよ〜」


 風に乗って優しい声が聞こえてきて、皆の討論はピタリと止まった。ナッシュの目が一番に其方を向いた。


「リアーナ!」

 ベティがベンチから立ち上がる。


 知り合いの車に乗せられてきたのか、駐車場から歩いてくる久々の彼女を見て、ベティが彼女に駆け寄る。リアーナは胸にまだ小さな子供を抱えていた。


「その子がチャールズ君かい?」


 ドワイトも立ち上がる。リアーナは「そうです!」と誇らしげに言うと、ベティに彼を抱かせた。


 ナッシュと彼女の間に授かったのは男の子だった。まだまだ小さな体はベティの腕の中にすっぽりと収まっている。


「眠っているのか」

 ブライスも近づいてきて興味深そうに眺めていた。


「そうなの。車の中が心地よかったのかしら? ドワイトもどう?」

「私が抱っこしていいのかい?」


 ドワイトが目を丸くして自分を指す。


「落とさないでくれよ」


 ナッシュに軽く睨まれてドワイトが「う、うん」と緊張した面持ちでベティからチャールズを受け取る。軽いのに重たい。ずっしりとした温かみにドワイトは思わず言葉を失う。小さな命が腕の中で息をしていることに感動を覚えていた。


「......どう?」

 リアーナが彼の顔を覗き込む。


「すっごく可愛いよ」

 ドワイトが体を揺らしながら、微笑んだ。


「ドワイトったらお母さんみたい。ナッシュよりも父性溢れてる」

 ベティがチラリとナッシュを見やった。ナッシュがむす、とした顔で彼女を見る。


「目元がリアーナそっくりだな」

「鼻はナッシュかしら? きっと良い男に育つわよ」

「そうねえ」


 リアーナがくすくすと笑って、鞄から何かを取り出した。


「これが似合うようになって欲しいのよ」


 彼女が取り出したものはサングラスだった。ナッシュがそれを見て苦笑いする。


「まだ持ってたのかい」

「ええ、もちろん!」

「それは?」


 ドワイトがチャールズを揺らしながら問う。


「ナッシュと一緒に小さな新婚旅行をしてきたでしょう? その時にお土産屋さんで買ったものなのよ!」

「サングラスを?」

「そう!!」


 リアーナは腰に手を当てて誇らしげなポーズを取って見せた。


「何するのよ。ナッシュにでも付けさせるわけ?」

 ベティが眉を顰めて問うと、「違うわよー」とリアーナが首を横に振った。


「さっき言ったでしょう? この子にはこれが似合うようになってもらわないと」

「チャールズにかい?」

「ええ、ナッシュが言ってたのよ。自分の子供ならこれが似合って当然だ、って!」


 リアーナが声を低くして言う。ナッシュのモノマネをしているようだが、あまり似ていない。


「それを言っていたのはどちらかと言うと君の方だよ」

「でもきっと、これが似合うようになるわ!! それまでは、はい、あなたがつけるのよ!!」

 ナッシュはリアーナにサングラスを押し付けられている。


「こんなの地下じゃつけないよ」

「でも大事に持っているだけでもいいじゃない! チャールズが大人になったらそれを渡さないといけないんだから。私じゃきっと無くしちゃうわ」

「君なら有り得るね」


 ナッシュは仕方ないなあ、とそれを胸ポケットに差し込んだ。


「もう少しでモデルの仕事に復帰する予定なの。そうしたらこの子はベビーシッターさんに預けながら、仕事場で様子を見てもらうつもりよ」

「また海外に行くの? もう少しゆっくりしなさいよ」

 ベティが心配げに言うが、リアーナは「大丈夫よ!」と微笑んだ。


「今度の撮影は長いみたいだけれど、チャールズが飛行機に乗れるようになるまではまだお預けのお話なの。それまでは少しだけ休むことにするわ」


 リアーナはドワイトの腕から小さな我が子をそっと取り上げる。弱々しい泣き声が聞こえてきて、その場の雰囲気が更に柔らかくなった。


「可愛いわねえ。いいわね、ねえブライス?」

「......そうだな」


 誰がどう見ても幸せに包まれているこの光景に、どんな悲劇が待ち望んでいようか。それは誰も分からなかった。


 *****


「......リアーナとチャールズが......何ですか?」


 ナッシュは電話の向こうに問いかける。ブライスもドワイトもベティもその後ろを固唾を飲んで見守るしか無かった。


 ナッシュのもとに、リアーナの所属する事務所の人間から連絡があった。リアーナとチャールズが乗った飛行機が忽然と姿を消してしまったという。


「それは......」

 ナッシュは電話を耳に当ててその場に立ち尽くしている。数秒後の彼の手から受話器が滑り落ちた。やがて膝から力が抜けたかのように座り込む。ドワイトが彼に駆け寄った。


 リアーナとチャールズはそれから戻ってくることは無かった。

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