忍び寄る影
冬休みの間に一度集まることになった。山に行く時に持っていかなければならないものや、日時、天候の確認、そしてリアーナからもう一つ提案があるらしい。
その日は冬休みということもあってか、ブライスが会議室に来るのが遅かった。
「珍しいねえ」
リアーナはいつまでも開かない扉を見つめて言う。ブライスが遅れてくることなど今までほとんど無かった。
「どうせ図書室で本選びでもしてて、時間に気づいていないだけでしょ」
ベティはそう言ってリアーナからもらったファッション誌に目を通していた。ベティはファッションに興味を持ち始めたらしく、最近だとリアーナと共に服を買いに行った。今日はその時に選んだ白いニットとキャメルのコートを着て学校に来ていた。
ブライスとも少しずつ距離を縮めているようだ。最近では講義が終わったら一緒に図書室で勉強をするくらいの仲にまで発展したらしい。
それからリアーナがナッシュに結婚を申し込まれた話はチームの全員には明かされていた。近々同棲を始めるらしく、明るい話題が会議室には溢れていた。
「リアーナ、それで提案ってなんだい?」
ドワイトがファイルに新しく手に入った資料を丁寧に挟みながら彼女に問う。
「うーん、ブライスも来なそうだし、先に話しても構わないかしら、ナッシュ?」
リアーナは隣で頬杖を突いているナッシュに問う。
「まあ、君がしたいようにすればいいと思うけれど」
リアーナはナッシュの言葉にもう一度扉を見るが、やはり扉は開く気配を見せない。仕方ないのでリアーナは話し始めることにした。
「この前紹介した新聞記事があったでしょう?」
「ああ、あの精神科医が異世界に行ったという話だね」
ドワイトが頷く。
それは少し前にリアーナとナッシュが図書室で見つけてきた新聞記事のことである。精神科医の男性が行方不明になり、無事に帰って来たのはいいものの、何故か支離滅裂な言動をするようになったというものであった。
「そうそう、それで司書の人と相談してその新聞を作った会社の人に連絡をとってみたの。もしかしたら、その精神科医と話す機会が作れるかもしれないでしょう?」
「なるほど。でも大丈夫なの? その精神科医が意味のわからない言葉を話すから皆言葉が通じないってまいってるんでしょう」
ベティは腕組をしてリアーナに問う。想定済みの質問なのか、リアーナは大きく頷く。
「もちろん、それはわかってるわ! でも、もしその精神科医が本当にあの文書の著者なら? 文書を見せてみたら、何かいいヒントを貰えるかもしれないわ!!」
「それで、その精神科医と会わせて貰えるようになったわけ?」
「それが、その先生が今居るのは精神病院なんだって。出版社の人がお願いしたら、遠隔でお話させて貰えるかもしれないって言ってたわ」
「精神科医が精神病院に入院してるの?」
ベティは眉を顰めている。
「うん、そうみたい。結構拘束が激しいみたいで......話ができるかは分からないけれど、出版社には行ってみるわ。その新聞を作ったときの資料とかまだ残ってるみたいだし」
「じゃあ、冬休みは山に行くついでに出版社にも行くんだね?」
ドワイトが簡潔にまとめた。
「そう、そういうこと! ただ、人数に制限をかけられてしまったの。二人までなんだって」
「少ないわね」
「そうなのよ! だから、行きたい人が居るか聞きたかったんだけれど......」
リアーナはチラリと扉の方を見る。やはりブライスはまだ来ていない。これにはナッシュもさすがに不思議に思ったのか、
「本当に遅いね。ブライスが約束をすっぽかす日が来るとは」
と立ち上がる。
「僕が迎えに行こうか」
「そうね。様子を見てきた方がいいのかも」
リアーナも頷いたところで、
「......すまん」
会議室の扉が開いて、ブライスが入ってきた。だが、彼が部屋に入ってくるや否や皆思わず声を上げた。
「ブライス!?」
「どうしたの!?」
彼は傷だらけだった。
*****
「転んだだけだ」
「嘘よ。転んだだけでこんなに怪我まみれになるわけないわ」
ブライスの怪我をベティが手当している。さすが医学部というべきなのか、テキパキと事を済ませていく。
「それで、何があったんだいブライス。慣れないスケートボードで此処まで来ようとしたなら、その怪我は頷けるよ」
ナッシュが冗談を交えてそう言うが、ブライスは黙っていた。
彼は転んだらまず一番に傷がつきそうな肘や膝には何もついていなかった。むしろ頬、脛などに打撲の痕や泥、草がついていた。背中やズボンにもそれらしきものが付着していることから、転んだわけではなさそうだ。
「誰かにいじめられたの?」
リアーナは心配そうにブライスを見ている。
「いや、転んだだけだ」
ブライスは頑なにそう言い張る。
「そんなわけないでしょ」
ベティは軽くブライスを睨んだ。彼女の見事な手当てによってあっという間に応急処置は済んだらしい。絆創膏などのゴミをくしゃくしゃに丸めながらベティは口を開いた。
「人に蹴られたでしょ。背中の泥の付き方は明らかにそうよ」
「......」
「研究チームなんだから隠し事は無しよ」
「......」
ブライスがため息をつく。そして、床に置いていた肩掛けバッグを開き始めた。ブライスは講義がない日はリュックではなく、軽いこのバッグで来るのだ。
「これを狙われた」
ブライスが見せてきたのは、リアーナが書いた文書の内容のメモのレプリカだった。
「狙われた? 盗られそうになったってことかい?」
ドワイトが眉を顰める。
「そうだ」
「一体誰に......」
「ベルナルドというやつだ。どうも彼奴はこの部屋に夜な夜な忍び込んで資料を漁っていたらしい」
「えっ!?」
全員の表情が固まる。五人がこの文書に携わる際、マーロンからは口外しないように言われていたのだ。だが、まさか此処に無断で侵入されているとは。
「そう言えば、最近は鍵を開けていたっけ」
ナッシュが腕組をして厳しい顔を作っている。
「ええ、冬休みにも入ったし、皆で時間を決めて集まることもほとんど無かったから......」
冬休み前までは鍵をブライスが管理していたが、冬休みに入り、それぞれ好きな時間にこの会議室に来ていたこともあって、ずっと鍵は開きっぱなしだった。たしかに中に誰もいない時に容易く入れてしまうだろう。
「でも......どうしてそんなの盗もうとするんだろう?」
リアーナが首を傾げるとナッシュも「そうだよ」と頷く。
「僕らでさえまだ謎が多い文書なのに。普通の生徒からしたら尚分からないじゃないか」
「だが、文書の存在は確実に彼奴に知られていて、こうして手を出してまで欲しいものだ。俺を襲ってきた時は他の仲間も連れていた」
「ただのいじめっ子集団じゃないか......」
ナッシュが頭を搔いた。
国が関わる重要な資料を勝手に見られたとなると、まずいことだ。
「どうするの?」
リアーナは不安げに皆の顔を順番に見る。
「仕方ないけど、マーロン先生には相談した方が良さそうだね。その生徒のことを見つけて注意してくれるかもしれない」
ドワイトが提案する。
「そうね......でも、どうしよう。もし色々な情報が外に漏れだしていたら......」
「彼らが何か知っているのなら聞きたいけれど、生憎それもできないしな......」
五人は顔を見合わせる。これ以上侵入されて情報を盗まれるのは何としても阻止しなければならない。
こうして五人で話し合って決めたのは、冬休みの山と出版社に行く計画に人数制限を設けることだった。行くのはリアーナとナッシュとなり、その他三人は残って会議室の見張りをすることになったのである。
*****
ドワイトらは冬休みの間を会議室で過ごした。朝から夜まで勉強をしたり、読書をしたり、とにかく会議室に誰も居なくなるという状態は作らないようにした。
「ナッシュたちが何か進展に繋がるものを持ってきてくれるといいんだけれどね」
ドワイトは昼食であるサンドイッチの包みを開きながら言う。
正直これ以上時間をかけているわけにもいかない。冬休みが終われば新学期が始まるが、自分たちは卒業だ。もう既に学校に来ていない生徒もいる中、自分たちはこうして文書のために学校に来ている状態だ。
「そうね。ま、ゆっくり旅でもさせてあげればいいんじゃない? 新婚旅行ってことで」
ベティがそう言って一足先に昼食であるサラダサンドを食べ終わった。そして隣でパソコンを使って調べ物をしているブライスに椅子を寄せた。
「ねえブライス、今度カフェに行かない? いい感じのお店を見つけたのよ」
彼女はブライスにぞっこんのようだ。ブライスは涼しい顔をしているが、彼女はリアーナに背中を押されたのが効いたらしい。毎日のようにブライスに様々な方法でアタックをしかけている。
それにしてもあんな美人に近寄られて顔色ひとつ変えないブライスは本当にすごい、とドワイトは見る度に感心していた。
*****
「ドワイトは好きな人いないわけ?」
ブライスがトイレに立つと、暇を持て余したらしい。ベティが聞いてきた。ドワイトはえっ、と声を漏らす。
「あなたからそういう話まったく聞かないんだけれど?」
「そうだね......」
大学に入ってからそれらしい出会いというものもない。勉強に精を出し、友達と絡む機会を自分から作ろうとしなかったのが原因かもしれない。
「意外よね。あなたモテそうなのに」
「まさか」
ドワイトが苦笑した。
「ブライスやナッシュとは違うよ。誰かにときめきを感じたことは今まで一度もないね。あるかもしれないけれど、ときめきと言えるほどのものではなかったのかもしれない」
「はあ? 何よそれ。ドワイトは顔良いんだからちょっとは自分から行けばすぐ可愛い子見つかるわよ」
「でも......」
「恋ってのは突然やって来るもんなの。アンタ鈍感だから素通りしてそうだけど」
「ううん......たぶん」
自分の過去を思い返してドワイトは曖昧に返す。恋をする、好きな人ができるとはどんな感覚なのだろうか。
「人付き合いが好きじゃないのかもしれない。争いごととか、衝突するのをなるだけ避けたいんだ」
「まあ、分からなくもないけど......性格上アンタより先に結婚したナッシュの方が不思議に思えてくるわ」
ベティが何やら不満げに言うと、ブライスが戻ってきた。
「ちょっとブライス聞きなさいよ!!! ドワイトったら!!」
ブライスはまったく耳を貸さないようだが、ベティは一方的に口を動かしていた。彼女の印象というのは最初に比べてずっと変わった。が、あれだけ静かだった彼女をこれだけのおしゃべりに変えてしまうリアーナもリアーナである。
調査とはいえ、ナッシュと仲良くやっているといいのだが......。
そう思いながらドワイトはベティとブライスの様子を眺めていた。
*****
「なるほどね。精神科医の人に文書を見せたら、やっぱり反応があったんだ」
『うん、そう。ただ、それだけで終わってしまったの。色々な言葉を話していたけれど、何処の国の言葉でもなかったみたいだし、ヒントと言えるヒントもその人からは聞き出せなかったわ』
会議室にてドワイトはリアーナから電話で情報を得ていた。
山に行った帰りに、ナッシュとリアーナは例の新聞の出版社にて文書の作者と思われる精神科医と画面越しに会うことができたようだ。だが、得られた情報は極端に少なく、ただひとつ言えるのは精神科医はやはり文書のことを知っているということであった。
「その新聞記事を書いた人とは会えたんでしょう。なんて言ってたのよ」
「いくつか資料を貰ったって言ってた。今夜ホテルでナッシュと確認をするって」
「まあ、精神科医の方は少なくとも文書には関わっているな」
電話を切ったあとで三人は話をしていた。
「何語なんだろう......精神科医が話している言語って」
「さあね。色んな国の言語をまぜこぜにしたって感じよね。使い方もバラバラだけれど......アルファベットも数字も、ギリシャ文字のようなものもあった。でもあとひとつ、分からない文字があの文書には書いてあったわね」
文書にあった文字を分類すると全部で五種類に分けることができた。そのうちの四種類は見たことがある文字だが、残りの一種類に関しては未だに何語かは掴めていない。だが、ベティの超人的な観察眼のおかげで解読はできたのだった。さて、残る一種類の文字だが、世界にある言語であの形のものは存在していない。似たものはあっても何処か異なる箇所が必ず出てきてしまうのだ。
「まあ、まだ見つかってない言葉として考えるならそれもありだけれど、考察ではあの文書が書かれたのはつい最近のこと。書いた人があの精神科医である可能性が高い。まあ、あの精神科医の言っている言葉がその言語って考えるのが妥当かしら」
ベティは両手で頬杖をついて言った。
「考察するにはまだ情報不足と言ったところか。出版社から貰ってきた資料にかけるしかなさそうだな。山の方はどうだったんだ」
ブライスはドワイトに問う。
「ああうん、土を調べてみたけれど、何処にでもある普通の腐葉土だったって」
「ま、森だしね。腐葉土ってことは紙の分解に時間はかからないわね」
「うん。他にも、土は地主に頼んで採取したって言っていたよ。その土地のことは既に文書を見つけた人が調査し尽くしたって地主は言っていたみたいだけれど......」
「文書の下の部分が埋まってたりは?」
「それも調べたって。どれだけ探しても下の部分は見つからなかったみたいだよ」
文書は上の部分しかない状態だ。下の部分もなければ解読に成功したとはいえ、中身を考えるのが困難だ。どのくらい下があるのかは分からないが、文が途中で区切れていることが分かったので、少なくとも文章はまだ続いている。
「で? リアーナたちはきっと真っ直ぐには帰ってこないでしょうからね。どうせ二人でいろいろ寄り道しながら帰ってくるんでしょ」
「さすがだね、ベティ。そうみたいだ」
リアーナは電話を切る間際にもう少し二人で旅行を楽しむと言っていた。彼女はモデルということもあって、冬休みの終わりは仕事で忙しいそうだ。二人でゆっくり出来る時間が欲しかったのかもしれない。ドワイトは快く承諾した。
「早く挙式しないかしら。お互い忙しくなったら大変なのに」
「そうだねえ」
ベティがしきりにブライスに視線を送っているが、ブライスは気づいてすらいない。ノートパソコンに何か打ち込んでいた。
*****
その日は結局、日が暮れるまで特別なにも進めずに過ごした。
「そろそろ帰らないとね」
ドワイトがそう言って散らかった机の上を片付け始める。
「ブライス、帰りにご飯食べて行きましょうよ」
「ドワイトはどうするんだ?」
ドワイトは「えっ」と二人の方を見た。ベティには物凄い目で睨まれている。察しろ、と言わんばかりの圧に負けてドワイトは苦笑いした。
「また今度誘ってよ。今日は早く帰らないとならないんだ」
そう言ってコートを羽織り、足早に会議室を後にしようとした。扉を開くと、
「あ......」
会議室前の廊下に知らない女性が立っているのが視界に入った。ドワイトの足が止まる。少し前にブライスが言っていた、ベルナルドという生徒のことが頭をよぎったが、今日は文書に関する話をほとんどしなかったので、盗み聞きをしていたというわけではなさそうだ。
「......えっと......どうかしたの?」
ドワイトは慎重に問う。彼女には悪いが、ベルナルドと手を組んでいるという可能性を捨てるわけにもいかない。
しかし彼女は、
「す、すみません。あの......これ、落としましたか?」
と、ドワイトに何かを差し出してきた。それはハンカチだった。たしかにドワイトが使っているものだ。
「もしかして、これを届けるために......?」
目を丸くしてハンカチを受け取るドワイトに、彼女は「はい」と頷いた。
自分が最後にトイレに行ったのは三時間も前である。そこからずっと此処にこうして立っていたということだろうか。
「落としてしまった瞬間を見てすぐ拾ったんですが......先に此処に入られてしまったので。此処ってその......一般生徒は立ち入り禁止ですもんね」
彼女がチラリとドワイトの後ろに目をやる。一般生徒と言われればドワイトも一般生徒だが、文書に携わっているかどうか、ということを基準にしてだろう。たしかに扉にはベルナルドの案件があってから、立ち入り禁止という札を下げていた。
「うん、でももしかしてずっと待っていたんじゃないかい?」
「は、はい。でも良かったです。届けることができたので」
彼女はにこりと微笑んだ。それだけでその場の空気が柔らかくなるような、優しい笑顔だった。ドワイトの思考が止まりかける。すると、
「あらー?」
後ろからベティが顔を覗かせた。出入口で立ち止まっているドワイトに違和感を持ったのか様子を見に来たようだ。
「あらららららら〜?」
ベティはニヤニヤと笑ってドワイトの顔を見上げてくる。
「あ、こんばんは」
女性がベティに慌てて挨拶する。
「ごめんなさいねえ、邪魔しちゃ悪いわよねえ。ブライス、行くわよー」
後ろでしまい忘れたものはないか確認していた最中だったブライスだが、ベティに腕を引かれて無理やり廊下に連れ出されている。そのままベティに強引に引きずられて行った。
「じゃあねえ、ドワイト。よかったわねえ」
意味ありげな笑みを投げるベティだったが、ドワイトはハッとして頭を振る。ハンカチを返されたくらいでこんなに浮かれた気持ちになるのはあまりにも幼稚である。
振り返ると、まだ会議室の電気がついていた。扉の鍵も開いている。ブライスが途中で連れていかれてしまったからだろう。
「鍵、締めないと。ハンカチありがとう。今度何かお礼をするよ」
「いえ、そんな! 私は届けただけですから。お気になさらないでください」
丁寧にそう言う彼女だが、自分がこの扉から出てくるまで待っていたとなると、お礼をしないのも気が引ける。電気を消し、鍵を締めてからドワイトは彼女と廊下を歩く。
「お礼はさせて。長い廊下で待たせてしまったし、何もしないのは悪いよ」
ドワイトが言うと、彼女は「じゃあ......」と恥ずかしげに笑った。
*****
リアーナとナッシュが帰ってきた。土産をどっさり買ってきた彼女らは、どうやら楽しむことができたようだ。
「これじゃあ何しに行ったんだか分からないわね......」
机の上を覆い尽くす土産を見てベティが呆れ顔で言った。
「でもちゃんと土の採取はしてきたし、やることはやって来たのよ!! それに、今回は大きな収穫物もあったんだから!」
リアーナはそう言って自分のリュックサックから何かを取り出して机に置いた。それは分厚い図鑑のような本だった。
「これは?」
「超常現象図鑑!!」
リアーナが胸を張って答える。
「超常現象?」
「そう!」
「例の会社に行った時に担当者がオカルト好きだったみたいでね、特別に譲ってくれたんだよ。ただ、書いていることは子供だましって感じだけれど」
ナッシュは土産を袋に小分けにしながら説明を加える。
「でもね、ほら、このページを見て!」
リアーナは付箋を貼っていたページを開いて三人に見せた。そこには、
「記憶の改変?」
ドワイトが太字で書いてある部分を読み上げる。
「人の記憶を書き換えてしまう超常現象があるってこと?」
「そうそう。それってさ、文書の内容と似ているでしょう?」
「まあ、確かにね......」
文書の内容は、全人類がある一日のことを忘れてしまっているというものだった。だが、こんな現実味のない超常現象を信じられるほど、此処に居る人間は夢を見ていない。
「でもさ、実際に有名なものはいっぱいあるんだから! ほら、これとか!」
リアーナが皆の訝しげな顔を見て慌ててページを捲る。
「UFO、エイリアン......雪男!!」
「超常現象っていうか、それ未確認生物でしょ」
ベティは半目でリアーナを見る。
「でも夢のあることよ! それに、無いってどうやって証明できるの? いないとは限らないじゃない! 文書の内容だってそうよ!!」
「まあ、そうだけれど......あるという証明も出来ないわよ」
ベティは腕組をして図鑑に目を落とす。医学という分野を勉強する彼女は、そういったスピリチュアルな話題は信用ないのかもしれない。
「うう......でも、楽しいじゃない......こういうの......」
なかなか信じてくれないのが悲しいのか、リアーナがしょんぼりと肩を落とす。それを見たドワイトが慌ててフォローに入った。
「そうだね。夢があって面白いことだよ。証明できていないということは、まだ答えがないんだからどっちも考えられるってことだね」
「そう、そうなのよ!!」
フォローが上手くいったようだ。リアーナの顔がぱあっと輝いた。
「新聞会社で出会った方がね、あの精神科医はとっても凄腕の先生だったって言っていたの。冷静沈着だけれど、患者にはとても優しくてどんな患者でも対応するような人だったんですって。でも、行方不明になってから様子がおかしくなって......それでも、あの先生は何かに一生懸命で、私たちに伝えたいことがあるんだって言ってたわ。先生は病院に入院するまで色々な書き物をしていたんだけれど、どの書き物も不明な言語で書かれているから読めずに家族の人が捨てちゃったって言ってたの」
「不明な言語......それって文書の......」
「やっぱり文書を書いたのはその精神科医だろうね。話が出来ないのは残念だけれど......でもほとんど確定したんじゃないかな」
「彼がなんと言っているかまで分かればなあ」
五人は黙り込んだ。ナッシュが袋に土産を分ける音だけが聞こえるくらいだ。
「やっぱりあるんだよ、その超常現象_____記憶の改変。優秀な人が行方不明になっただけで自分の言葉を忘れるなんて変なことあると思う? 画面越しとは言え、会って演技にも思えなかったし......私たち、やっぱり記憶が消されているのかも」
「規模の大きな話だなあ」
ナッシュがリアーナの言葉に苦笑する。
「でも、ナッシュだって昨日の夜一緒に考えてくれたでしょう? この巨大な超常現象を解決出来たら、この世の全てが分かるかもしれないわよ。魔法も、天国も、神様も、宇宙も......」
この旅は彼女にとってかなり収穫があるものだったらしい。たしかに、彼女の言葉にこの場にいる全員の心が引き込まれ始めていた。案外自分たちは奥深い研究を任されたのだ。そして自分たちは、それを紐解く権利がある。
「......超常現象か」
ブライスがボソリと呟いた。
「少しでもこの文書の解決に役立つために、この類の書類が収集できればいいんだがな」
「マーロン先生に相談してみるかい?」
ドワイトが提案すると、ブライスが頷いた。
「ああ、それがいい」
「よかったあ、ブライスもちょっとは興味が出てきたのね」
リアーナが嬉しそうな笑みを浮かべている。ブライスは目を伏せて、
「まあ、答えを出したくなるのが俺の分野だからな」
小さく言った。
*****
冬休みも終盤に差し掛かってきた頃、ドワイトは例のハンカチ少女と仲を深めていた。彼女の名前はエリゼ・ジンデル(Elyse Zindell)といった。花の精のような可愛らしい声と顔を持つ彼女は、すっかりドワイトに懐いていた。なかなか前に踏み出さないドワイトをエリゼがぐんぐん引っ張っていくのだった。
ベティはやっとドワイトにも大事にできる人ができたと喜んでいた。リアーナもおめでとう、と声をかけてくれた。
その日は早めに研究を切り上げて、ドワイトは彼女と街中のレストランへ来ていた。最初は緊張していたドワイトも、彼女が自分の中で気を休めることの出来る存在になっていたことで、少しずつ自分を出せるようになっていた。
「ドワイト、今度水族館にでも行かない?」
「水族館かあ、いいかもしれないね」
ドワイトはエリゼの提案に頷いて、運ばれてきた料理を口にする。
「ドワイトは研究は進んでいるの?」
「うん? ああ、一段落したから、今度先生と色々話すことになっているよ」
ドワイトは文書についてエリゼに詳しいことは話さなかったが、大まかなことはぼかしながら伝えていた。
彼女は「そうなんだ」と花のような笑顔を見せる。よく笑う子で、頬にできるえくぼが可愛らしい。ドワイトも自然と笑顔になる。
「実はね」
エリゼは身を乗り出した。顔はキラキラと輝いている。
「私の友達に考古学をとっている人がいるの。実験のお手伝いになればと思うんだけれど......」
「考古学?」
考古学に強い人間は残念ながら文書の研究チームに居ない。皆専門外の分野なので手探りで情報を集めている状態だ。もしチームにその分野に特化した人間がいればどれほど心強いだろうか。
だが、忘れてはならない。このことを口外してはならないのだ。どんなヒントが欲しくても、自分たちでどうにかしなければならない。
「ごめんね。手を借りたいのは山々なんだけれど、先生にも釘を刺されているんだ」
「そう......」
エリゼの顔がしゅん、とするのでドワイトは慌てて、
「提案はしてみるよ。ありがとう、エリゼ」
「ううん、いいのよ。頑張っているドワイトが、私は好きよ」
エリゼはそう言って微笑む。ドワイトもはにかんで笑った。
*****
マーロンの提案は以下の通りだった。
研究を深く掘り下げるために、専用の施設を建てるのはどうだろうか_____。
「施設ですか」
「会社なんて手もあるよ。皆が職員を雇って、様々な場所に向かわせて現地で超常現象の情報を集めたり、実験を行って特徴を調べたり......国も文書のためなら協力するって話にはなっているんだ。君たちの活躍にとても期待しているんだね」
「もうそんなところにまで話が進展しているんですか?」
ナッシュが眉を顰めて問う。
「そうなんだよ。こんなに優秀な人材を卒業させて、他の企業に取られるのが惜しいってね。私も国と同意見だ。最終的に決めるのは君たちだけれどね」
卒業してしまえば、こういった研究室を自分たちで借りて研究を行う必要がある。この前のリアーナの熱弁のおかげで全員の心は決まっていた。
「超常現象を調べる会社ってことですか?」
リアーナの目はキラキラしている。
「そうなるね」
「そんな会社聞いたことがないよ」
ナッシュが頭を振った。マーロンは苦笑する。
「たしかに、あまりないかもね。でも無いからこそ面白い会社になるじゃないか。国の協力のもと会社を作るから、ほとんどは国が負担してくれるしね。リアーナなんて、そっちの分野に興味を持ち始めたんだってね?」
マーロンの目はリアーナに向く。
「はい! この前の旅行で色々な収穫もあって、もっと知りたいと思っているんです!」
リアーナが大きく頷く。
「皆はどうかな?」
マーロンが他の四人を順番に見た。
「......まあ、中途半端に終わらせたくはないですよね。こうして時間をかけて考えてきたものだし」
ベティは研究を進める上で増えていったファイルをチラリと見やる。
「他の超常現象も見つかるかもしれないね」
ドワイトも微笑んだ。
「それがあの文書の答えに繋がるものなら、悪くない選択肢だな」
ブライスも同意見のようだ。マーロンはニコニコと嬉しげに「そっかあ」と言う。
「君たちがやる気のある生徒で良かったよ。きっと素晴らしい結果が見えてくるね」
こうして全員の卒業後の進路が決まった。五人は研究員として会社を立ち上げることになったのだ。
*****
冬の終わりは見えてきていた。ベティは会議室の片付けをしていた。既に国に超常現象を調査する会社を立ち上げるという話はマーロンを通して話してあるので、あとはデザインなどを決めたり、細かい決め事を考えるたりする必要があった。
進路は決まったので時間はできた。それぞれ残りの学校生活を楽しむそうだ。ただリアーナはモデルの仕事が忙しくなって来ており、海外を飛び回っている。
彼女の腹には新たな命が芽生えていた。ナッシュとの間に子どもを授かったのだ。まだ動けるうちにモデルの仕事をするそうだが、一段落着いたらゆっくり休むのだろう。
「はあ、にっしても多いわね」
ベティは分厚いファイルをダンボールに詰めながらため息をついた。新たに出来上がる会社で、研究に使うものは持っていかなければならない。ブライスとナッシュは家に帰省しており、ドワイトはバイトの合間を縫って片付けを手伝いに来てくれていた。
「ほんと、こういう力仕事を女性一人に任せるなんて、何て優しくない人達なのかしら」
重いダンボールに体力も徐々に奪われて、彼女の口から愚痴が零れる。ファイルでいっぱいになったダンボールを部屋の隅に移動し、まだ棚にファイルがあるのでダンボールを新しく組み立てて同じことを繰り返す必要がある。
そんなことをしているうちに昼になった。ドワイトは何やら教授に呼ばれてから戻ってきていない。そろそろ自分だけで作業が終わってしまいそうだ。
「はあ、ったく、飲み物でも持ってくれば良かったわ」
冬とはいえ、暖房が効いている室内での作業は体が汗ばんでしまう。ベティは今日に限って飲み物を持っていなかったことに気づいて、仕方なく買いに行くことにした。財布を持って部屋を出ようとすると、
「ひゃあ!!?」
扉の目の前に立っていた人物に危うくぶつかりそうになってしまった。そこに立っていたのはドワイトのガールフレンドであるエリゼだった。
「あら」
ベティは慌てて体制を整える。
「怪我は?」
「へ、平気です」
エリゼは持っていたカバンを床に落としてしまったようだ。中に入っていたファイルや教科書が床に散らばっている。
「あー、ごめんなさい......あなたを怪我させたらドワイトに怒られるわね」
ベティが苦笑して腰を屈めてファイルを拾い上げる。いや、拾いあげようとした。ベティの表情が固まった。エリゼがハッとした様子で、ベティが拾い上げようとしたファイルを横取りするように手に掴む。
「すみません」
エリゼはカバンに次々と教科書やファイルを詰め込んでいく。ベティは半目で彼女を見上げる。実際には睨みつけていた。
「......アンタ」
ベティの声が低くなる。エリゼは慌てて頭を下げてその場を立ち去ろうとする。ベティはそれを許さず、彼女の手首を素早く掴んだ。
「やめてっ」
エリゼが叫ぶ。
「ねえ、さっきのファイル、もう一度見せてもらえるかしら!?」
エリゼは手を振り払おうとしたが、片手にカバンを持っているので動きにくいようだ。ベティはそこを狙って、彼女を両手で押さえつけた。
「離してっ」
「アンタ、ベルナルドに何か指示されてるんでしょっ!! 何よさっきのファイル!! あの内容って、文書のやつでしょう!?」
ベティが見た彼女のファイルの中には、リアーナのメモを始め、文書のレプリカやその他考察で使ったメモが入っていた。
「やめてよっ」
「アンタ、スパイね!? ドワイトに漬け込んで情報を搾り取っていたんでしょ!!」
「そんな事しないわっ!!」
「そうじゃなきゃ、あのファイルは何よっ!!」
ベティが彼女を握る手に力を込めた。エリゼが「痛い」と叫ぶ。
「私の友達使って情報を盗んだっていうのね!!」
「やめてよっ!!」
エリゼがベティを体で押した。ベティが床に倒れる。エリゼは、はあはあ、と肩で息をし、カバンを胸に抱いた。
「......ドワイトのことは本当に好きよ」
エリゼが下を向いて言った。蚊の鳴くような声だった。
「でも、仕方ないの。逆らえないの。彼には言わないで、お願い。私、本当に彼が好きだから」
エリゼはそれだけ言い残すと、ハイヒールをカツカツ言わせて廊下を歩いて行く。ベティは少しの間立ち上がることができなかった。ただ呆然と彼女の後ろ姿を目で追っていた。