忘れられた1日
ベティの口から出てきたのは、あまりにも現実離れした文章たちだった。科学的にありえない内容であるためか、ベティは始終眉を顰めていた。
「こんなところかしらね」
翻訳が終わったベティが髪の毛を指に巻き付けている。リアーナは彼女の言葉をしっかりメモしていた。そして、「すごい......」と言ってメモをした内容に何度も目を通している。
「もしかして、一瞬で何が書いてあったのか見ただけで分かったのかい?」
ドワイトが尋ねるとベティはふん、と鼻で笑った。
「そうみたいね。でも内容がへんてこりんな上にこんなことを真面目に考えようとしているのがアホくさいわ」
何処か小馬鹿にしたような彼女の態度に、ナッシュは始終ムスッとしている。一方でリアーナは、「すごいなあ......」「かっこいいなあ......」と素直な感想を述べていた。
「ベティは本当の天才なのね!! マーロン先生がベティを推薦した理由がよく分かったわ!!」
彼女はそう言って顔を輝かせている。
周りを全員敵に回すつもりだったのだろう。だが、あまりにもリアーナが褒めちぎるのでベティは面食らったようだ。どう反応したらいいのかわからないのか、目を伏せている。
確かにまだ文書の読解作業を始めて一週間と少しである。専門家でさえ根を上げた文書を、ベティという学生だけで読解してしまったようなものだ。マーロンが彼女をこのメンバーに入れたのは、彼女がこの天才的な頭脳を活かしてくれると思ったからに違いない。
「これから何かあったら、また来てくれる?」
リアーナはベティの手を取って問う。ベティは少しだけ照れた様子で、「......まあ、別にいいけれど」と小さく頷いた。
*****
それから数日後、五人はマーロンに呼ばれた。文書の内容に関して、彼もとても驚いたらしい。
「こんなに不思議な内容の文書は今まで読んだことがないな。国もきっと驚くだろうね」
彼はリアーナが書いたメモと文書を見比べている。
「それにしても、こんなにふざけた内容で本当に大丈夫なんですか? 国としてはもっと真面目な内容を期待していたんじゃないかと思うんですけれど」
ベティは椅子に手足を組んでどっかり座っていた。そんな彼女の手には今日も分厚い医学書があった。マーロンはそんな彼女に優しく微笑みを返す。
「そうだねえ。でも、とりあえずはこれで提出してみるよ。だけれど、君たちにはもう少ししてもらいたい仕事がある。この内容についての考察さ」
「......」
最も面倒くさそうな顔をしたのはベティだった。この作業が終わりさえすれば勉強に集中できると考えていたからだ。新たな仕事を持ってこられてはキリがない。
「もちろん、隙間時間でいいよ。勉強の合間にでも此処に来て数分間考えるだけでもいいさ。国はそこまでのことは求めていないだろうしね。これは私のわがままでもあるし」
マーロンはそう言って会議室の扉に向かう。
「じゃあ、また新たな発見を待っているよ。みんな」
彼が扉の向こうに消えてしまうと、ナッシュがため息をついた。
「......これは、僕らはもうこの文書から逃れられない宿命にあるんだろうね」
「でも私はこの会議室に来るの好きよ?」
リアーナが笑顔を浮かべている。
「皆で同じものを考えているのって、すっごく楽しいもの!」
こうして内容の考察作業へと移ることになった。季節は確実に冬の真ん中へと進んでいた。
*****
冬休みにあと一週間で入るというところで、ドワイトは文書の考察作業に必要なものを図書室で借りて、会議室に向かった。今日は講義が終わったら皆で集まる約束をしていたのだ。会議室の扉を開いたドワイトは思わず「えっ」と声を上げた。
そこにはベティが居た。まだ誰も会議室に一人、パイプ椅子に足を組んで医学の参考書を捲っている。ドワイトの視線に気づいたのか、
「......何よ」
と、ぎろりと睨んできた。ドワイトは「いや......」と慌てて目を逸らした。
読解は完了したのだから、てっきりもう来ないのではないかと考えていたのだ。だが、彼女はきちんとそこに居た。
しかも、一番に。いつもこの会議室に一番に入っていたのはブライスだったというのに。
「別に、私がいて早く作業が進むんなら此処に居た方が楽でいいでしょ」
彼女はツンとした顔でそう言った。ドワイトの頬が緩む。リアーナが彼女を褒めちぎったのが効いたようだ。彼女は自分たちに協力する姿勢を見せてくれたのだ。ドワイトは嬉しくて笑顔のまま鞄を下ろす。
「......何よ、にやにやして」
ベティが眉を顰めてドワイトを目で追う。
「何でもないよ。皆で頑張ろうね」
「もう少しで冬休みだけどね」
ベティは冷めた声で言って、参考書に目を落とした。
それから間もなくして、ブライスが入ってきた。やはり驚くべきことなのか、ベティを見て一瞬だけ動きを止めている。
「......ちょっと、アンタら失礼じゃない!? 本人がこうしてやる気を出して一番に来てやってるってのに!!」
ブライスを睨みつけるベティに、ドワイトは笑いを堪えながら「ごめんごめん」と謝る。
「やる気を出したのか」
ブライスがまだ疑っているのか、そう聞く。
「そうよっ! リアーナにあれだけ言われたんだもの、来ないわけにもいかないでしょ!」
まったく、とため息をついて彼女が参考書を閉じたところで、再び扉は開いた。ナッシュとリアーナだ。リアーナはベティが居ることに気づいて飛び跳ねて喜んだ。
「わあ、ベティ!! 来てくれるって信じていたのよ!!」
うさぎのように跳ねて彼女に近づくと手を取って上下にブンブン振っている。
「考察だかなんだか知らないけど、冬休み中には終わることなんでしょうね!!」
「それはわからないけど......でも来てくれたことは褒めるべきだな」
ナッシュが感心した様子で言った。ベティがキッと彼を睨みつける。
「アンタら三人サイッテーッ!」
彼女はリアーナ以外の三人に向かってべっと舌を出したのだった。
*****
文書の内容はこうだった。
全人類は、ある一日のことを覚えていない。その日は良い天気で、穏やかな日だった。それでも、人類は全員、その日が頭から抜け落ちているのだ。魔法使いがいるならば、その日だけを忘れる魔法をかけたのかもしれない。もしくは、宇宙の何かに手を加えて、時間という概念を狂わせたのかもしれない。誰もが皆、その日がまるで無かったかのように今日までの日々を過ごしている。
だが、私は知っている。その日が存在したことを。何故なら、私はその日に迷い込んだからだ。それは夢のような奇妙な体験だった。死んだ人間がまるで生きているかのように存在していた。そして天へと伸びる白い階段、暖かな陽の光。私は確かにその日を経験した。夢ではない。なのに、ベッドに入って目を覚ますと誰もそんな日は無かったという。そして、その奇妙な体験を得て、私は_____。
此処から下は破れていて分からないが、大まかな内容は人類が共通して記憶喪失をしている可能性があるというものだった。
「不思議な話よねえ」
リアーナは机に置かれた文書のレプリカを見て言う。本物の文書は場所をとるのでしまってある状態だ。
「人類が忘れている一日かあ」
「どうしてそこだけ記憶がないんだろう」
「さあ......テロとか?」
どう考えてもとても現実じみた話ではなかった。ブライスがオカルトチックだと言ったのも頷ける。
「テロなんて。そんなに規模の大きいテロがあると思う? だいたい全人類の記憶をいじって何するのよ」
ベティが医学書を片手に言う。
「たしかに。でも、この人は迷い込んだって言ってる。それってどういうことなのかしら。異世界に行ったってこと?」
「異世界......そう言えばよく聞くよね。小説やアニメの話にはなるけれど、何らかの儀式を成功させると異世界や裏世界に行ける、なんて」
ドワイトが言うと「ゲームでもあるね」とナッシュが頷いた。
「死んだ人が生きているかのように存在していた、ってあるけど......天国とかかしら」
「死後の世界に行ったってことかい?」
リアーナの言葉にドワイトが問う。
「天へ伸びる白い階段とか、暖かな陽の光とかって、どれもそう考えたらそれっぽく聞こえないかしら」
「まあ、確かにねえ。そうだとしても、この文章はやっぱり説得力に欠けるよ。自分が夢を見ていて、それを現実だと思い込んでいるような人かもしれないしね」
ナッシュが眉を顰めて文書のレプリカを見下ろす。
「でもそんな奇妙な体験談をわざわざ変な文字を使って綴るかしら」
ベティが医学書を完全に閉じる。
「見つけた誰かへの挑戦状とかなんじゃないかい? 面白半分でやっているのかも」
ナッシュは半分白け顔だ。
「だとしてもよくできた文章だと思うよ。この文を読解するのに色んな研究者を苦しめてきたんだから」
ドワイトが言う。
文字は未だに発音すら分からない。それに似た形のものはあるが、アルファベットと思っていた文字は実はアルファベットではなく、数字だと思っていたものも、数字という使われ方はされていないことが分かったのだ。
「詳しいことを知るには此処から下の部分が欲しいところだけど......」
ベティは途中で切れている文章を指でなぞっている。
「この先にどんな言葉が続いていようが、この話は物語だろう。考察と言ってもあまり役立ちそうな意見は出ないかもね」
ナッシュは口を曲げてそう言った。
*****
次の日、リアーナは図書室に来ていた。家に帰ってから彼女はある調べ物をしたのだ。あの文書に似た物語などは無いだろうか、と。それか体験談でもいい。正直あの文書だけでは全く話が前に進まないのだ。
「君も懲りないなあ」
ナッシュは仕方なしと言った様子でリアーナについてきていた。リアーナは似た内容の本を何冊かピックアップし、彼と分担して内容を確かめることにしたのだ。
「じゃあナッシュはこの本とこの本ね。私はこっちとこっち」
リアーナは四冊の本を持ってきて、ナッシュにそのうちの二冊を託す。二人は窓際の席に腰掛けて、似た場所はないかを探した。
冬の窓辺は寒いが、施設内は暖房がよく効いているので熱いくらいだ。寧ろ気分転換に外でも見られるようにとリアーナは敢えて窓辺を選んだのだった。
「しかしまあ、どれもぶっ飛んだ内容だな」
ナッシュはつまらなそうにページを捲っている。
「ナッシュってば飽きるの早すぎよ。文学部が本の一冊や二冊、読めずにどうするの」
リアーナは既に一冊目を読み終えた。気になる単語をピックアップしているが、直接あの文書に結びつくようなものはなかった。リアーナは続いてもう一冊の本を手に取る。
「分からないなあ。君はお人好しなんだよ。よく此処までやろうと思えるね」
早速二冊目を読み始めたリアーナをナッシュは頬杖をついて見守る。
「そりゃあもしかしたら世紀の大発見が出来るかもしれないのよ? それに、もしあの文書が本当にあった出来事だったとしたら、私たちはどこかの記憶が失われている状態にあるかもしれないの。それってとてもワクワクしない?」
「それはするけれど......でも、科学的に明らかに証明できそうにないじゃないか」
「今の技術ではね。でもこの先研究が進んで、あの文書が公に発表されたら、どう事がひっくり返るか分からないわ。私たちはそれを今最前線で体験できるんだから、こんなに貴重なことはないのよ、ナッシュ」
リアーナが楽しげに本に目を戻した。相変わらず何でも楽しみに変えてしまう人だなあ、とナッシュは口元を緩めた。
リアーナの良い所はきっとこういうところだ。ネガティブなことを言わず、周りも引っ張っていきながら自分が最も楽しんでしまうのだから、本当に凄い。
ナッシュは文字に目を戻そうとしたところで、遠くで人影が動いたのを見た。
顔を上げると、リアーナの遥か後ろの方にある勉強スペースに一人の女性がいるのが見えた。ベティだ。
だが、彼女の隣にちょうどある男性がやって来たようだ。ブライスだった。
ベティは何かブライスに言っているが、ブライスは構わずそこに座っている。仲が良いのか、それとも仲が悪いのか。だが、彼らは案外お似合いな二人なのかもしれない。
*****
次の日、再び五人は会議室に集まった。何やらリアーナが大きな発見をしたのだという。全員が集まって早々、彼女は鞄からあるものを取りだした。新聞記事がファイリングされている。
「じゃじゃーん」
「何それ」
ベティは今日も足を組み、膝の上に医学の参考書を乗せている。
「これは、昨日ナッシュと図書室で見つけたとある新聞記事です!」
「新聞記事?」
「最初は文書と似たような内容の本がないかを確かめていたんだけれど、なかなか進まないので新聞記事にしたのよ。そうしたらね、ほら、此処見て此処!!」
リアーナは新聞記事をみんなに見えるようにテーブルの真ん中に置いた。ドワイトらはそれを覗き込む。
「ベテラン精神科医が、精神崩壊状態で発見......?」
ベティが眉を顰めてそのトピックを読み上げる。
「何千もの患者を救ってきた精神科医がある日一時的に行方不明に。だが次の日に何事もなく戻ってくるが、話しかけても言葉が通じず、ずっと何かを訴えている様子だがその言葉は意味不明......って、これ五ヶ月前の記事じゃない」
「そうなの。結構最近の出来事なのよね」
リアーナは大きく頷いた。
「これと文書に何か関係が?」
「ドワイト、文書の言葉は何語だった?」
ナッシュが頬杖を突いて彼に問う。
「何語、と言えるものでもなかったね」
ドワイトが首を傾げた。
「って、この精神科医が話していた言葉とあの文書に書いてある言葉は一緒だと言いたいのかい?」
ドワイトは頭の中が繋がったらしい。ハッとした様子でリアーナとナッシュを見る。リアーナは満足気に頷いている。
「あの文書を書いたのはこの精神科医ってこと?」
ベティは相変わらず眉を顰めている。
「そうよ、そう! ナッシュと考察したのよ!」
「なるほど。確かに何となく文書と通じるところがあるような気がするね」
ドワイトが頷き返すと、「でもね」とリアーナが腕組をした。
「ひとつだけ気になることがあるの。あの文書は明らかに古そうだったじゃない。でもこの記事は最近のもので、時期が合わないんじゃないかって」
「言われてみれば......」
ドワイトは今は机上にない文書を頭の中で思い出す。文書は文字は何とか読むことができたが、かなり損傷が激しかったように思える。あの意味不明な文字たちからして相当昔に書かれたのかもしれないとも思わせられるような雰囲気があった。
「あの文書はきっと最近のものよ」
ベティが突然言った。
「文書? あの文書が?」
リアーナが目をキラキラさせて体を前のめりにした。ベティは、ええ、と頷く。
「だいたい、ずっと前のものだとしたら、紙に書いて土に埋めたところであんなに綺麗に残っているはずがないわ」
「確かに......」
土によっては異なるが、紙は土に埋めればやがて微生物によって分解される。だが、あの文書は紙で書かれているというのにああして形が残っていた。表面の文字も何とか読み取ることが出来た。
「一枚の紙を土に埋めたらどれくらいで土に還るのかな」
ドワイトがベティに問う。答えたのはブライスだった。
「生き物がいないなら二年は必要かもしれんな」
「二年......? それ以上は無いのかい?」
「四年くらいかな」
ナッシュが答える。
「場所と土の状況によるけれど」
と、ベティが付け加えた。
「短いのでどれくらいなの?」
リアーナがメモ用紙を取りだした。今の考えをまとめようとしているらしい。
「数週間ってところだな」
ブライスが短く答えた。リアーナが「数週間......」とメモ用紙に記す。
「そう考えたらあの文書が書かれた時代って......」
五人は顔を見合わせた。
紙は土に埋めれば分解される。それに時間はそこまでかからない。そうなるとあの文書を書いて土に埋めたとしてそこまで前ではないという可能性が出てきた。これならば新聞記事と近い日にあの文書が記されたという考え方も可能になる。
「でも、五ヶ月よ? それって、あの一日の記憶が私達も消されてるってことになるじゃない!」
リアーナは今にも飛び跳ねそうな程に興奮している。
「考え方ではそうなるわね」
ベティは納得がいっていないのか難しい顔をしている。
「文書は山の中で見つかったのよね?」
「ええ、そうよ!」
文書は此処から少し遠い山の中で見つかった。大きなショッピングモールを建てようとしていたようで、その工事の際に山を切り拓くことになったのだ。
「山の中なら微生物はたっぷり居るよ」
ドワイトが言うと、ナッシュも頷く。
「じゃあ埋められたのは最近だね」
「誰かがそんな山の中に文書を放置したってこと?」
ベティが髪をいじりながら問う。
「読めなくて諦めたのかもしれないわね。もしくは、作者が自分で捨てた、とかかしら」
「そんな事有り得る?」
考えれば考えるほど謎は深まっていくばかりだ。各々の頭の中で考えを巡らせているのか、会議室はしん、と静まり返ってしまった。外からサークルの活動や帰ろうとしている学生の声が聞こえてくる。
「......よしっ」
リアーナがパッと立ち上がったのでみんなの視線が彼女に集まった。
「冬休みに山に行くのはどう? 実際にどんな場所にあの文書が埋まっていたのか、見に行ってみるの!」
「冬に山に行くの?」
ベティはそんなに乗り気ではないようだ。リアーナは「そうだよ」と頷く。
「実際に見て発見できることもあるかもしれないでしょう? それにほら、親睦会みたいな感じでこの研究チームの仲をさらに深めるの!」
熱く語るリアーナにベティは「はあ」と曖昧な相槌を打つ。その隣でドワイトは目を輝かせていた。
「いいかもしれないね。ブライスとナッシュはどうするんだい?」
「僕は構わないよ」
ナッシュが頷く。ブライスも、
「まあ、調査ならば、それに協力する」
と頷く。リアーナは不満げに、
「調査じゃなくて......」
と眉を顰めるが、まあいいわ、とベティに視線を戻した。キラキラした目を向けられた彼女は深いため息をついた。
「わかったわよ」
「わああ!!! ありがとうベティ!!」
リアーナにはどうやら負けてしまうようだ。
*****
冬休みに入るまでに五人は様々な考察を繰り広げたが、それらしい進展はほとんどなかった。現地調査が一ヶ月後に決まり、それまで各々情報収集をすることになった。
「うーん......」
リアーナは会議室の中で一人、文書とにらめっこをしていた。考察は前に進まず、現地調査という方法になった。が、他に何か調べておくことはないだろうか、と彼女は頭を働かせていた。
資料を読み比べたり、読み返したりして一人唸っていると、会議室の扉が開いた。入ってきたのはベティだ。白いカーディガンと赤のスキニーパンツという格好をしている。モデルであるリアーナでさえ羨ましく思うほど、ベティは体型が良い。何を着てもきっと様になるだろう。
「ベティ、どうかした?」
冬休みに入るまで集まる予定は特にはないので、みんなサークル活動やバイトなどに明け暮れている。彼女も勉強に精を出すのかと思いきや、此処に顔を出すということはやはりこっちに興味が惹かれているのだろうか。
「別に。話し相手が欲しかっただけよ」
ベティは澄まし顔でリアーナの隣に並んだ。すると、ふわりと花の香りがした。
「新作のフレグランス!!」
モデルであるリアーナは化粧品や香水の類はもちろん詳しい。ベティは驚いた顔をしてリアーナを見る。
「ねえ、ベティって好きな人でもできたの?」
「え」
ベティが顔を背けた。心做しか耳が赤い。わかりやすい彼女の反応にリアーナはいたずらっぽい笑みを浮かべて、彼女の顔を覗き込む。
「どうしたの? やっぱり居るんでしょう」
「......いないわよ。あなたはどうなの」
「私? んー......そうねえ」
リアーナはふふ、と笑みが漏れた。そしてベティの顔の前にそっと自分の左手を差し出した。ベティの視界に映ったのは、薬指に輝く銀色のリングだった。ベティは目を丸くして彼女を見る。
「一昨日。大学から帰るときに」
「......あんな性格なのに?」
ベティが呆れ顔で言うと、リアーナは満面の笑みで頷いた。幸せなオーラがその表情から滲み出ている。
「でもすっごくいい人よ。お互い幸せになれる。今までの誰よりも、一緒に居て楽しいと思えるような人だから」
「......ふーん」
ベティは適当なファイルを手にして開いた。パラパラとページを捲りながら、「いいわね」と言った。リアーナはそんな彼女の顔を覗き込んで、
「ベティは? 居るんでしょう、好きな人」
「居たにしたってどうして教えないとならないの」
「ベティは素直じゃないから、相手に恋心が届きにくいと思うの。だから、お手伝いをしてあげたくて!」
「あなたそれ余計なお世話って言うのよ」
「ふふ、そっかあ」
リアーナは笑って、ベティの横で棚を眺める。膨大な量のファイルが棚に綺麗に収まっているのは、見ていて気持ちがいい。
「......どうして、好きな人が居るってわかったの?」
ベティがファイルをパタンと閉じた。一瞬だけ起こる風は彼女の髪の毛をふわりと揺らす。
「恋をしている女の子って凄く可愛くなるから。ベティは此処最近可愛さがグレードアップしているんだもの。服とかメイクとか、気をつけてるんでしょ?」
「......」
どうやら図星らしい。ベティはファイルを棚にしまった。
「好きかはまだわからない。あまり話さないし、恋とか根っから興味無さそうな人だし」
「でも、いつかは答えてくれると思うわよ? 一生懸命な女の子ってすっごく可愛いもの」
リアーナがベティの髪を耳にかけた。ベティが目を伏せる。その時だった。会議室の扉が開いて、ブライスが入ってきた。ベティの体がぴく、と反応したのをリアーナは見逃さなかった。
ブライスは何やら資料を取りに来たらしい。特に此方を気にすることなく、資料の棚に行くと熱心にファイルを読んでいる。
リアーナはベティの背中をぽん、と叩いて自分は会議室を出た。
たまたま集められた五人の中から恋が生まれるなんて素敵だなあ、と思いながら。
換気のために開け放たれた窓から、冬の澄み切った空気が流れ込んできて、彼女の黒髪を優しく揺らした。