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Black File  作者: 葱鮪命
66/193

File037 〜世界一危険な蜘蛛〜

 これはまだラシュレイがノールズのもとへ来て少ししか経っていない頃の話である。


「明日実験が入ったよ!!」


 報告書の書き方練習をしているラシュレイの視界にノールズがぬっと入ってきた。


「実験ですか」

「そう! 一緒にやらない?」


 なんと、断ることも出来るのか。もちろん断る理由などないのだが。


「やります」


 彼にとっては初めての実験である。まだ一度もつけていないゴーグルと手袋がついに出番を果たす時がやってきた。


「最初だから緊張するだろうけど、俺がついているから大丈夫だよ!!」


 そう言ってノールズは胸をどん!! と叩いた。彼も彼で初めての助手と実験をするのだからワクワクしているのだろう。


「はい、よろしくお願いします」

 ラシュレイは礼儀正しく言った。


 だが、この時の彼はまだ知らない。人生初の実験が、まさかあんな大惨事になるなど。


 *****


 次の日、二人は初めて実験室に来ていた。病院のような白い部屋には何も無く、そのひとつ手前の小さな部屋にはパイプ椅子と内線用の電話がある。


 ラシュレイは初めての光景に落ち着かなかった。施設内研修の際に、準備室までは入ったことがあるが、研究員として実際に入るのは初である。どうやら此処で実験が行われるらしい。


 対象を探すと、実験室の中に白い台が置いてあり、その上に虫かごらしきものがあった。


「ゴーグル装着完了!! 手袋も良し!! ラシュレイは?」

「準備できてます」

「おお!! さすがは俺の助手!! では対象の確認を行います!」


 ノールズは脇に挟んでいたバインダーを手に取って読み上げる。


「今回の対象は蜘蛛さんです!! ラシュレイ触れる?」

「まあ......」


 虫は外で寝起きしていた時に身近な存在だった。蜘蛛などそこら中に居たので触るくらいならどうということはない。


「触れるなら問題ないね! じゃあ行こうか」


 ノールズは実験室の扉を開いた。扉の向こうから香ってくるのは消毒液のような香りである。そう言えば、毎回実験室は使ったら消毒をするようにと入社説明会でも言われたな、とラシュレイは思い出す。


「危険な蜘蛛なんですか」

「うん? ああ、毒はないらしいんだけど......なんかねえ、そいつが出す成分に問題があるらしいんだよねえ」

「成分ですか」


 毒以外ということは、ガスなどだろうか。超常現象として此処に運ばれてくるということは普通の蜘蛛とはやはり違う場所があるということだろう。


「まあまあ、心配しなくたって大丈夫だから!! 俺の背中に隠れていれば安全だしね!」


 ノールズが笑いながら台へと近づいていく。ラシュレイはその後ろをついて行く。


 台の上の虫かごには蜘蛛が入っていた。


 大きさはラシュレイが手のひらを開いたら指先から手首まで行くほどだ。街で見るものに比べるとかなりの大きさである。色は紫。いかにも毒々しい危険な雰囲気を醸し出していた。


「毒は無いんでしたよね」

 ラシュレイは念の為にもう一度確認する。


「うん、厄介なのは成分らしいから、噛まれたりすることはあっても死ぬわけじゃないんだろうけど......」


 曖昧な答えが返ってきたので、ラシュレイは若干不安になった。この超常現象は実験回数がまだ少ないそうで、情報は少ないのだ。


 ノールズはラシュレイの前で腰をかがめて蜘蛛を見つめていた。蜘蛛はピクリともせずにまるで置物のようにそこに居るだけだ。


「生きてるんですか?」

「多分.....弱っちゃったかなあ......触ってみよっか」

「え、大丈夫ですか」


 思わず身を引くラシュレイ。一回目の実験で死ぬなど笑えない。だがそんな彼を置いてノールズは虫かごの扉を開いた。


「おいでー、おいでー、蜘蛛ちゃーん」


 ノールズはそう言って虫かごの中に手を突っ込んでいる。なんて命知らずの先輩なんだ、とラシュレイが引いた目で彼を見ていると、


「お、乗った乗った!!」

 ノールズが嬉しそうに声を上げた。確かに彼の手のひらに蜘蛛が移動している。


「大丈夫ですか」

「うん、すっごく可愛いよ!! ラシュレイも見てみなよ!」

「はあ......」


 虫は平気だが可愛いと思ったことは無い。ラシュレイは引いていた身をノールズに近づけた。


 虫かごから出てきた彼の手には巨大な蜘蛛が乗っている。四つの目はそれぞれ色が違う。赤、紫、黄、白。こんな蜘蛛は見た事がない。ビーズをはめたような、ポップな色が体の毒々しさとフォルムに抜群に似合っておらず、絶妙に気持ち悪い。


 ノールズもノールズで、いくら手袋をつけているとはいえ、易々と手のひらにそんなにものを乗せていいのだろうか。


「こいつ何食べるんだろうなあ。大抵の蜘蛛は虫とかだけどさあ、こいつは此処に来て何も食べてないんだよ」


 ノールズの言葉にラシュレイは蜘蛛が入っていた虫かごを見てみる。確かにその中には蜘蛛が食べられそうな虫は見当たらない。だが環境は蜘蛛が居た場所に近づけようとしているのか、小さい木の枝や枯葉などが敷き詰められていた。


 ラシュレイはそんな虫かごの中を見て気づいたことがあった。


「蜘蛛って糸を吐くイメージですけど......この蜘蛛は糸を出さないんですかね」


 虫かごの中には蜘蛛の糸が一本も見当たらなかった。もしかしたら糸を出さない種類なのかもしれないが、ラシュレイは蜘蛛についてほとんど知識がない。


「ありゃ、ほんとだ〜。よく気づいたねえ、偉いぞお」


 頭を撫でられそうになったのでラシュレイはすかさず離れる。そんな蜘蛛を持っている手で触らないで欲しい。頭に蜘蛛が乗ったりでもしたらと考えるとゾッとする。


「確かにこいつ糸を吐かないなあ。環境が環境なのかな? それとも糸をもともと出さないとか_____」


 ノールズが蜘蛛を乗せた手を目の前に持ってきてよく観察しようとしていたその時だった。


 プシュッ。


 蜘蛛から突然白い煙が噴射された。それは多いなどという量ではない。みるみるうちに二人を包み込んでいく。


「うぎゃあああ!!!?」


 ノールズの叫び声が聞こえる。ラシュレイは「大丈夫ですか」とそう言おうとした。が、それは不可能だった。目の前が真っ白なだけではない。


「目に染みるうう......何この煙......げっほ、ごっほ」


 ノールズが酷くむせている。ラシュレイも一度咳をすると止まらなかった。自然と目から涙が溢れてくるほどの、酷い刺激臭だ。鼻から煙を吸い込むとたちまち目や喉に刺激が来る。学校の授業で嗅がされたアンモニアを何倍も強くしたような強烈な臭いである。ゴーグルをしていなかったら更に大変なことになっていたかもしれない。


 ラシュレイは立っていられずにその場にしゃがみ込んだ。床に四つん這いになって激しく咳き込む。煙は全く晴れず、煙の向こう側からノールズの咳き込む音も聞こえてくる。だが姿はほとんど見えない。着ているものが白衣というのもあって煙と同化しているのかもしれない。


 ラシュレイは姿勢を低くして気づいた。下に行けば行くほど息を吸うのが楽になる。火事の時と同じでこの煙は上に行くようだ。ラシュレイは伝えなければ、と息を吸う。が、


「げっほごほごほっ」

 やはり強烈な臭いはいくら息を吸うのが楽になったとはいえ彼に襲いかかってくる。


「ラシュレイ、大丈夫......げっほ」

「はい......ノールズさん、体制を低くしてください......そうすると呼吸が楽になります」

「まじ......!?」


 突然目の前にノールズの顔が現れた。彼の目は煙のせいか真っ赤になっていて涙が浮かんでいた。


「あっはは......いやあ、初っ端からすっごいの引いちゃったねえ。当たりだよこれは......ひい......」


 全く笑える状況ではないというのに、彼は楽しげだった。呼吸が少し楽になっている。少しずつ煙は晴れてきているようだ。


 だがラシュレイはあることに気づいた。


「......ノールズさん」

「んー?」

「......蜘蛛、どうしました?」


 ノールズの手のひらには蜘蛛が乗っていたはずである。だが、そんな彼の手のひらは今床に伏せられている。


 ノールズがそっと手のひらを浮かしてみたがその下には蜘蛛はいなかった。ならば、とノールズは逆側の手を浮かしてみる。


 そこにも蜘蛛は居ない。


 ノールズはぽかんとした顔をして少しの間手を見ていた。そして、その顔をラシュレイに向けた。


「......」


「......」


「......やば」


 その時、遠くで音がした。がちゃ、と扉が開く音だ。音の方向から考えるに準備室へと続く扉のようだ。


 誰かが入ってきたのだろうか。それにしては足音も声も聞こえない。


 続いて、再び遠くで音がした。また扉を開く音だった。しかし、その音は本当に小さい。おそらく、準備室から廊下へと続く扉が開いた音である。


 しかし、変な話だ。どうして扉が勝手に開くのだろう。しかも、その扉を開いた本人はまるで実験室から出ていったようである。


 そう、出ていったのだ。


 果たしてそんな馬鹿な話があるだろうか。まず誰が実験室から出ていくというのだ。この実験室に居たのは、ノールズ、ラシュレイのみ。いや、蜘蛛も居たわけだが_____。


「......ノールズさん」

 実験室の煙はだいぶ晴れていた。


「うん、俺も多分同じこと考えてると思うんだよねえ」


 二人は床に這いつくばったまま扉の方に目を向ける。煙が晴れて、よく見えた。扉は両方とも開かれていた。そして、廊下の方から、「ぎゃああ!!」と誰かの悲鳴が聞こえてきた。


「......ははあ〜、やっべ〜」


 ノールズがゆっくりと立ち上がる。ラシュレイもそれに続いた。


「......どうするんですか」


「体力に自身は?」


「はあ......ないわけではないですけど......」


「よ〜しっ、仕事だラシュレイ!! 走るぞ〜っ!!!!」


 ノールズが虫かごを持って実験室を飛び出した。ラシュレイもその後に続いた。


 *****


 廊下は思っていたよりも大惨事になっていた。実験室で撒き散らされたあの煙が廊下に充満しており、遠くの方が霞んで見える。廊下にいた研究員たちは皆激しく咳き込みながら蹲っていた。


「どこ行ったと思う!?」

「煙が強い方ですかね」


 ラシュレイは廊下を見回す。煙が濃いのは恐らくエレベーターの方向だろう。ノールズが「よし!!」と言って再び走り出した。


 エレベーターは既に動いていた。近くの研究員が煙に苦しみながらも衝撃の事実を教えてくれた。


「蜘蛛が自分でボタン押してエレベーターに乗ってたよ......会議室のある階に向かっているみたいだ」


「会議室っ......!!!」


 なにか不味いことでもあるのか、ノールズの顔が真っ青になる。情報を教えてくれた研究員もご愁傷さま、とでもいうように彼を見ていた。


「扉を開けたり、エレベーターを動かしたり......普通の蜘蛛ではないことが明らかになりましたね」


「うん、本当だよ...... とにかく会議室はまずいよラシュレイ、階段を使おう! 走るぞ!!」


「はい」


 *****


 二人は階段を登った。少しして会議室がある地下一階へとたどり着いた。ノールズが膝に手をついて息を整えている。


「大丈夫ですか」


「だ、だい、大丈夫......ラシュレイ......すごい、体力......てか、はあ、蜘蛛、蜘蛛はっ......?」


 ラシュレイは階段から出て廊下を覗く。自分たちの努力も虚しく、此処も既に煙が撒き散らされた後だった。


「ダメです。手遅れみたいです」


「やばいって!! ラシュレイ、第七会議室に向かって!!」


「第七会議室ですか?」


「そう!! そこで、めちゃくちゃ偉い人達が会議してんだよ!!!」


 ノールズは酷く咳き込んでいる。まだ走れそうにない。ラシュレイは眉を顰めつつも、分かりました、と頷いて虫かごを受け取った。


 第七会議室というとそこそこ大きいはずだ。会議室は全部で九部屋あり、数字が大きくなっていくにつれて部屋も広くなっていく。


「酷い臭いだな......」

 白衣の袖で鼻を覆いながらラシュレイは廊下を走る。慣れてきて、少しはマシになったが、後で色んな人から怒られそうだ。


 それにしてもノールズという研究員は体力がない。確かにエレベーターを使わずに階段を全力で登れば少しは息も上がるが_____自分が異常なのだろうか。


 そうこうしているうちにラシュレイは第七会議室に着いた。そして会議室の扉が開け放たれているのを見て嫌な予感を覚える。会議室の中に入ってそれは的中した。


 会議室の中は煙が充満していたのだ。中で会議をしていただろう研究員達がゲホゲホと盛大にむせている。


 ラシュレイは蜘蛛の姿を探したが、なんせこの煙である。手を伸ばせば自分の指先すら見えないのだ。蜘蛛など見つけられるはずもない。


「ラシュレイ、見つかった_____って、あああああ!!!」


 ようやく追いついたノールズ。酷い息切れだが大惨事になっていることを理解して顔を真っ青にして叫んでいる。


 そんな彼をラシュレイは冷静に振り返る。


「まだです。でも、煙の様子からまだ此処に居るか、そう遠くには行っていないと思います」


「だよね!? とりあえずこの部屋に居る_____って、居たあ!!!」


 ノールズが少し離れた床を指さした。あの巨大な蜘蛛が床を張っている。しかし、大きさは初めて見た時よりも随分と小さくなっていた。少し前までは片手を広げたくらいのサイズだったのが、今は親指程の大きさしかない。


「ちっさ!!!」

「ですね」

「よし、捕まえよう!! うりゃ!!」


 ノールズがドーム状に作った手で蜘蛛がいる辺りにその手を下ろすが、見事に避けられた。


「うわ!! 避けられた!! ラシュレイ!!」

「はい」


 ラシュレイは虫かごの扉を開いて蜘蛛めがけて下ろす。が、こちらも見事に失敗。まるで動きを予測しているようだ。楽しんでいるのか少し遠くまで行くと自分たちが動き出すのを待っている。


「ねえ、完全に遊ばれてるよね!!?」

「そう思います」

「くっそお......この虫いい!!!」


 ノールズがムキになって蜘蛛を追いかけていく。ラシュレイも虫かごを構えてその後ろを追った。


 蜘蛛はあまりにも早かった。完全にこちらをおちょくっているのか、テーブルに乗ったり、椅子に乗ったり、壁を這ったかと思ったら、他の職員向かって落ちてきたり。


「だああ!!! もうう!!! 大人しくしろおお!!!」


 ノールズも負けじとテーブルを飛び越えたり、椅子を倒したりして必死に蜘蛛を追いかける。そんな中、煙が晴れてきてラシュレイは会議室の全貌が見えてきた。もともと大きい会議室だとは思っていたが、それは大人数で会議をするためだった。今は誰もが必死に走り回るノールズとその後ろを追いかけるラシュレイをまるで変なものでも見るような目で見つめている。


 ラシュレイはいっせいに目線を浴びて恥ずかしくなった。これでは見世物である。さっさとノールズが蜘蛛を捕まえるか、蜘蛛が会議室から出て行ってくれるといいのだが、そいつはラシュレイの心を読んでいるかのように全く会議室から出ていく気配を見せない。


 そうして蜘蛛を捕まえようと会議室を走り始めて三分ほどが経過したときだった。マイクを通して低く怒りを含んだ声が聞こえてきた。


「ノールズ・ミラー」


「はいいい!!!」


 ノールズが突然びたっ!!と足を止めたので、その後ろを全速力でついて行っていたラシュレイはノールズの背中に衝突した。


「うわあ!!! ごめん、ラシュレイ、大丈夫?」

「はい......」


 思いっきり彼の背中に鼻をぶつけたが、そんなこと気にしている場合ではない。


「どうしてこんなことになっている?」


 低い声の正体はB.F.の最高責任者、ブライス・カドガン(Brice Cadogan)だった。新入社員研修会でラシュレイも知っている。最高責任者の名前が良く似合う男だった。


「あー......えーっと......」


 ノールズの顔は真っ青だった。今にも倒れるのではないかと思うほどに。


「なんか......逃げ出したみたいで......」


「確かあれはお前が引き受けた超常現象だったな。どうしてそれが逃げ出して我々の会議に潜り込んできているのだ」


「ええっと......」


 なるほど、これは確かに顔を青くするのもよくわかる。彼はなかなかに怖かった。低い声と表情がその場の空気を震わせている。


「助手ができたのなら責任感を持て」


「は、はい......」


「はあ......少し待ってろ。闇雲に追いかけ回したところで捕まるわけが無い。あの超常現象は知能がとても高いようだからな。他の奴らに協力を仰いだ方が手っ取り早いだろう」


「他の奴ら......?」


 ノールズが首を傾げる。


「ナッシュとドワイトだ。あいつらもまた違う場所で会議を行っている」


 *****


 幸か不幸か、蜘蛛はそのドワイトとナッシュが居る会議室に向かっていた。廊下に煙を撒き散らしながその場にいる研究員を苦しめている。後ろから追ってくる気配はない。あの金髪も黒髪も諦めたのだろうか。蜘蛛は八本の足を自由自在に操り、脅威のスピードで第四会議室へと向かっていた。


 廊下をいざ曲がろうとした時だった。


「君がブライスの言っている超常現象だな?」


 上から声が降ってきた。銀髪の長髪の白衣の男が服の袖で鼻を覆いながら見下ろしてくる。


「ドワイト、こっちに居たよ!!」

「本当かい!?」


 遠くからもう一人男が走ってくる。ダークブラウンの髪色の柔らかい顔をした男だった。


「この子かい? それにしても......とんでもない臭いだね」

「本当、過去最高クラスといっても過言ではないね。服に染み付いてないといいんだけれど......」


 銀髪の男が溜息をつき、そして、


「さあ、君は素直に虫かごに戻るべきだよ」


 と、蜘蛛に言い放つ。しかしもちろん、そんな簡単に戻ればこんな大事態にならないわけで。


「あ、こら、逃げるな!」

 ナッシュが蜘蛛を追いかける。ドワイトもそれを追う。


「ドワイト、準備はいいかい!?」

「うん、いつでもいいよ!!」


 突然、上から何かが降ってきて蜘蛛は足を止めた。次の瞬間、足から力が抜け、蜘蛛は胴体を床に着けた。ぴくぴくと足が痙攣して動けなくなる。


「ナッシュさん、ドワイトさん!!」


 ノールズとラシュレイが追いついた。ナッシュが蜘蛛を手に乗せて振り返る。


「ほら、捕まえたよ」


「え、え!? どうやって!? あんなに素早かったのに......」


「どうもこうも......君たち、蜘蛛にコーヒーを飲ませるとどうなるか知っているかい?」


 ナッシュが蜘蛛を虫かごに戻しながら問う。ぽかんとする二人を見て、ドワイトが説明をくれた。彼の手には空になったマグカップがあった。


「蜘蛛はカフェインを摂取すると酔っ払ってしまうんだよ。人間で言う、お酒を飲んだような状態になってしまうんだ。他にも柑橘系の匂いなんかも苦手で、蜘蛛を寄せ付けないから家の周りに撒く人なんかも居るんだよ」


「じゃ、じゃあ......コーヒーを用意していればこんな大惨事にはならずに済んだってことですか......」


 ノールズが拍子抜けし、まじまじと虫籠の中の蜘蛛を見る。大きさが格段に違くなったのは明らかに超常現象と言うべき能力だろうが、コーヒーで酔っ払うというのは普通の蜘蛛と変わらない性質のようだ。


「いかに実験の前の予備知識があるかどうかってところだね。さ、廊下は責任をもって君たちが掃除するんだよ」


「うう......はあい......」

「はい......」


 ノールズが肩を落とす横でラシュレイも頷いた。


 *****


 臭いは数日間、施設に留まり続けることになった。ノールズとラシュレイも全力を尽くしてみたが、広い施設に染み付いた臭いを一日で取り除く方が難しい。おかげで様々な研究員からバッシングを受けたが、そんな中ドワイトは時々仕事の合間を縫って手伝いに来てくれた。


「頑張ってるねえ、偉い偉い」


「うう......俺はもうダメですよドワイトさあん......心も鼻もボロボロです......」


 なんて情けない先輩なのだろう、とラシュレイは鼻をスンスン言わせているノールズを横目で見ていた。


「実験での予備知識は大事なんだよね。でも失敗から学ぶことができたじゃないか。良い経験をしたね」

「うう、ドワイトさあん......」


 優しい人だなあ、と思いながらラシュレイは濡らした布をブンブンと振り回す。これで幾分か臭いはマシになっていた。


「君がラシュレイ君だね」

「え、はい」


 ラシュレイはタオルを振り回すのを止める。


「すごく頼れる先輩なんだよ、ノールズ君は。彼の元に助手入りしたことはきっと君を良い方向に導いてくれるからね」


「......はい」


 蜘蛛の騒動でとんでもない先輩だとは思ったが、後にどれほどか分からないほどにお世話になることになるとは、この頃の彼はまだ微塵にも思わないのだった。

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