File035 〜空腹の水〜
その時、ドロシー・ベッセマー(Dorothy Bessemer)はB.F.星4研究員だった。彼女は星4から同期のレオ・アークライト(Leo Arkwright)とペアを組もうと思っており、最近先輩から独立をしたところだった。
その日、ドロシーはレオと共に放送によって会議室に呼び出された。自分が何かしただろうかと不安になるドロシーであるが、自分の他にレオも呼ばれたので不思議に思っていた。廊下でレオと合流し、二人は共に会議室に向かう。
「ペアを組むのを反対されるとかかな」
ドロシーが声のトーンを落として問う。入社した当時からレオとは気が合うので、いつか独立してペアを組むというのが大きな夢だったのだ。
レオは冷静だった。
「何かの超常現象を任されるんだろ。独立したわけだし、変なもん押し付けられるのも納得だな」
変なものと言われれば超常現象全般を意味するが、それはその中でも危険なものだ。下手をすれば死に至るようなものであり、今までたくさんの研究員が命を落としてきたことは此処で働く上で植え付けられていく残酷な現実であった。
二人は会議室に着いた。ドロシーとレオはチラリと目線を交わらせる。
此処まで来たのだから中に入らないわけにはいかない。
レオがノックすると、中からナッシュの声が聞こえた。
「いいよ、入っておいで」
レオが扉を開いた。ドロシーは部屋の中を見回す。そこに居たのはブライス、ナッシュ、そして星5研究員のジェイス・クレイトン(Jace Clayton)とハンフリー・プレスコット(Humphrey Prescott)であった。考えていたメンバーの他にジェイスとハンフリーが居たので、ドロシーもレオも目を丸くする。
「まあ、座って」
ナッシュが空いている二つの席を指したので、ドロシーとレオはそこに恐る恐る腰を下ろした。
「忙しい時にすまないな」
ブライスがそう言って資料を差し出してきた。
「大丈夫です」
レオが答えて資料を受け取る。資料には知らない研究員の名前が書いてあった。
「ニコラス・ファラー(Nicolas Farar)と......ソニア・クーガン(Sonia Coogan)?」
ドロシーがその名前を読み上げる。
「ああそうだ。そいつらは最近保護したクローン人間だ」
「クローン人間......?」
レオが資料から顔を上げてぎょっとした様子でブライスを見る。
「驚くのも無理ない。知っているだろうがこの国ではクローン人間は禁止されている。だが、実際にそいつらはある施設で作られた奴らなんだ」
レオがぽかん、としている横でドロシーは資料を捲ってみる。
数ヶ月前にある山道で保護した四体のクローン人間をB.F.で保護し、ナッシュ、ジェイス、ハンフリーで様々な実験を行ったという。行った実験の内容も書いてある。
「その子たちは国のルールからすると違法な存在なんだけれど、どちらも本物の人間のようでね。まあ、モデルになった人がいるってことだけどさ、分裂するっていう特殊な能力を除けば僕らとは変わらないただのヒトなんだ」
ナッシュが説明をくれる。が、ドロシーには分からないことがある。
「でも、私たちが此処に呼ばれた理由っていうのは......」
すると、レオがハッと息を呑んだのが分かった。
「まさか......」
ブライスが頷く。
「お前らにニコラスとソニアのペアになってほしい。今日はその許可をもらおうと思ってお前たちを此処に呼んだ」
「ペア......」
ドロシーがレオを見る。レオはブライスを真っ直ぐ見ていた。
「それは、どうして俺たちなんでしょうか」
「大きな理由はない。お前たちが断ったらまた違う者に頼もうと思っている。ニコラスとソニアは普通の人間と変わらない。そうなると何も無い部屋に閉じ込めるのは倫理上良くないと考えて、この四人で出した案が、二人を普通の研究員のように扱うということだった」
ブライスは淡々と言う。
「断っても構わない。今日中に答えを出せとも言わん」
「......」
レオもドロシーも黙り込んだ。
クローン人間。
普通の人間とは変わらないと言われても二人には全く想像もつかない。どんな目的で作られたのかも分からない者たちとオフィスで共に仕事をするということは、かなり危険なことなのではないだろうか。
だが、ブライスもそれを分かって自分たちに頼んでいるのだろう。実験だって何度も繰り返されたという証拠が二人の手元の資料にはあるのだ。その上でニコラスとソニアを普通の研究員として働かせるのだ。
二人が固まってしまったのを見て、ジェイスが動いた。ナッシュに何やら耳打ちしている。それを受けてナッシュが「いいね」と頷く。
そして、
「ねえ、二人とも。もし良ければニコラスとソニアに会いに行ってみないかい? 実際に会って見た方が答えも出やすいと思うんだ」
「会いたいです」
ドロシーが頷く。確かに会いに行けば心も決まるだろう。ナッシュが「決まりだね」とポケットから鍵を取りだした。セーフティールームの鍵である。
「一緒に行こう」
こうして二人はニコラスとソニアを見に行くことになった。
*****
ニコラスとソニアは本当に普通の人間と同じ見た目をしていた。男のクローンはニコラス、そして女のクローンはソニアだ。
ガラスの向こう側、二人は家具がほとんどない部屋の中で静かに身を寄せあって座っていた。レオとドロシーがガラスに近づくと、ソニアの方は興味を示したらしく、立ち上がって近づいてくる。
「かわいい......」
ソニアは綺麗な艶のある黒髪のクローン人間だった。モデルになった女性もきっととても美人だったのだろう。
「本当にクローン人間なんですか......」
レオは興味深そうにニコラスを見ている。ニコラスはおずおずとガラスに近づいてくる。
「ああ、そうだ」
「意思もきちんとあるんだよ。食事はしないし、睡眠も取らないんだけど......分裂はしなくなったから、もうセーフティールームは必要ないだろうね」
ナッシュがニコラスに向かって手招きをする。ニコラスは軽く走ってやって来た。彼は熱心にレオを見つめている。
「喋るんですか?」
「うん、喋るよ。ただ口数は少ないかな」
答えたのはジェイスだった。
「正直言うとあんまり人間らしさがないんだよね。ロボットみたいなカクカクした話し方するんだ」
「ロボット......」
ガラスの向こうの二人は全くそんなふうには見えない。ドロシーもレオも二人に夢中だった。
「どうだい?」
ナッシュが二人の顔を覗き込む。レオの心もドロシーの心も決まった。きっとこの特別な二人がもたらす生活は、昨日まで予想していた新たな研究員生活よりも輝いているように思えたのだ。
二人は同時に頷いて、
「ペアになりたいです」
「ペアになります!」
と、ナッシュの方を向いた。彼がふふ、と笑った。
「ありがとう、君たちならそう言ってくれるような気がしたよ。それじゃあ、ハンフリー、ジェイス、あとはお願いしてもいいかい?」
「はい」
「わかりました!」
*****
数日後、ドロシーとレオは小さな実験室を借りて二人と初めて対話をした。実験室に連れてこられたのは、万が一のことがあった場合を考えてだという。それを聞いて少しだけ怖い気がしたが、ガラスの向こうではジェイスとハンフリーが見守ってくれている。
「えっと、私はドロシー・ベッセマーといいます。よろしくね」
ドロシーはニコラスとソニアに向かって微笑んだ。ニコラスもソニアも表情がない。
「俺はレオ・アークライトだ」
レオも自己紹介をしたが、二人とも反応は全くない。不安になってジェイスを見るドロシーだが、ジェイスは特に問題は無いのか優しく微笑みを返してくる。
すると、
「私はソニア・クーガン」
ロボットのような無機質な声が聞こえてきて、ハッとドロシーは彼女らに視線を移す。続いて、
「僕はニコラス・ファラーです」
ニコラスが言った。こちらも冷たい声だった。
だがドロシーは動じずにしっかりと笑顔で対応する。
「今日からね、私たちはペアを組むんだよ。私はソニアと、レオはニコラスと」
「ペアですか」
「そう、ペアって......分かるかな」
ドロシーが問うと、ソニアもニコラスも頷いた。
「この施設で言えば、博士と助手、または同じ階級の人間同士がタッグを組むことです」
二人の声が完全に、ピタリと重なった。これにはドロシーもレオも、ジェイスもハンフリーも驚いた。合わせている様子ではなかった。だが、本当に綺麗に一言一句違うことなく同じことを言ったのだ。
ドロシーの頭の中にはロボットが思い浮かんでいた。ロボットならば同じ言葉が頭にプログラミングされているだろう。
もしそうなら。
ドロシーは目の前の二人に対して失礼な考えを持っていることに気づいて慌てて頭を振った。こんなこと考えていては彼女らのペアは勤まらないだろう。ナッシュやブライスをガッカリさせるわけにはいかない。
「そう、すごい、その通りだよ!」
ドロシーは慌てて笑顔を作って二人に明るい声で言った。
「二人はペアを組んでも構わないと思ってくれているかな」
「はい」
またもや二人の声が重なった。ドロシーは「そっか」と微笑んで、レオを見る。
「じゃあ、決まりだ。これからよろしく」
レオは特に表情も変えずに手を差し出した。ドロシーはドキドキしながらそれを見守る。ニコラスは自然と手を出して彼の手を握った。ぎこちなさはあったが、何とか人間らしさも感じられたのでドロシーもほっとした。
こうして二人は互いにクローン人間の助手ができた。
*****
ドロシーはオフィスにやってきたソニアに様々なことを教えた。が、彼女はそのほとんどをまるで前に一度教えてもらったかのようにできてしまった。
例えば、ソニアに報告書の書き方を教えたとすると、彼女はドロシーに言われた以上のことをして返すのだ。報告書を書き終わり、これをブライスかナッシュに提出しに行こうとする。判を貰いに行こうとする。そして最後、教えたはずもない棚のファイルを取り出してそこに閉じようとする。
まるでロボットだった。最初からドロシーのオフィスの構図が頭に入れられているかのような。それでもドロシーはしっかりソニアを人間として扱った。
仕事に関して教えることは無いだろう。そうなればやはり気になるのは無機質な声と変わらない表情だった。
「ねえ、ソーニア!」
ドロシーは時々後ろから彼女の肩を掴んで驚かせようとした。が、彼女はまゆひとつ動かさず、「はい」と言うだけであった。
「そういう時は驚いてくれると嬉しいんだけどなあ」
ドロシーがわざと悲しそうな顔をすると、ソニアはそれを真似した。
「えー、そう! 可愛い顔!!」
ドロシーはすぐにソニアを褒めた。それから表情のパターンを彼女に教えていくと、彼女はそれを上手く使うようになっていった。更には、
「私はソニア・クーガン」
「うんうん、じゃあ、好きな物は?」
「オレンジジュース」
「わー、私も好き!! 好きな色は!?」
「赤。綺麗だから」
「いいね!!」
ソニアの声色に少しずつ変化が現れていった。ドロシーがもともと声のトーンを変えることが多いからか、彼女もそれを聞いて学んで行ったようだ。気づけば、普通の研究員として何ら変わらない一人の女性が出来上がっていた。
ドロシーはソニアと会話を楽しむことができるようにもなってきており、やっとペアとして彼女と楽しい日々を送れることを嬉しく思っていた。
*****
レオとドロシーは時々夕食を共にした。二人のその時の話題は決まってソニアとニコラスについてだった。
最初のうちは少なからずロボットのようだと感じていて、それを口にしていた二人だったものの、最近ではそんなことも無くなり、人間らしい行動が増えてきたと話すことが多くなった。
ニコラスも順調にペアとして成長してきているようだ。二人で情報を共有するこの時間は大切な休憩時間でもあった。やはり助手を育てる以上の仕事を二人は任せられて心身ともに疲れていた。だから、二人でこうして肩を寄せあってその日の二人の成長を伝え合うのだ。
「何だか、雛に飛び方や狩の仕方を教える親鳥になった気分だな」
レオは時々そんなことを言った。ドロシーも共感して頷いた。
「でも、少なからず私たちの努力は報われている気がする。だって、最初と最近の彼女を比べたら絶対に別人だもん」
「うん、俺もそう思う」
ニコラスのことを考えているのかレオは遠くを見ていた。
「お前とペアは組めなくなったけど、俺らは多分、それ以上の選択をしたよな」
レオの目が此方を向く。ドロシーは微笑んだ。
「うん、きっとそう。私たちなら大丈夫だよ。いつか四人で合同実験しよう」
「ああ」
レオといつかペアを組むという夢は叶わなかったが、きっとその夢を叶える以上に大切なものができたのだ。その夢はまたこれからでも叶えられるし、今はソニアを育てることに集中するべきだろう。
ドロシーはそう考えて夕食のトレーを片付けようと立ち上がろうとした。すると、レオが思い出したかのように、
「俺、今度ニコラスと実験をするんだ」
「え、そうなの?」
まだソニアと実験をしたことがなかったドロシーは目を丸くして、立ち上がりかけていた体を椅子に戻す。
「うん、そんなに危ない超常現象じゃないし、少しでもニコラスが表に出る機会を増やすために、俺がブライスさんにお願いして仕事を持ってきてもらったんだ」
「凄いじゃん!! それで、いつ実験?」
「明日の昼から。資料は今日の夜送るって言ってたから、そろそろオフィスに届いてるはずなんだよな」
「そっかそっかあ。いいね、楽しんできなよ。ニコラスにもソニアにも、まだまだ隠された力があるかもしれないね!」
「ああ、そうだな」
レオの声は弾んでいた。彼と実験できるのが楽しみなのだろう。生き生きとしている彼の顔を見てドロシーはホッとした。彼もこの選択が誤りではなかったことをしっかり分かっている。
「じゃあまた、明日の夜、此処でね」
「ああ、またな」
ドロシーは今度こそ立ち上がった。胸に温かいものが溢れているのを感じながら。
*****
レオの訃報が届いたのは彼が実験をすると言っていたその日の夜だった。レオがやってくるのを食堂で待っていたドロシーの元にジェイスがやって来たのだ。ドロシーは持っていたトマトジュースのカップを床に落とした。それは彼女の白衣に赤色の染みを付けた。
彼女はジェイスに連れられて、実験室ではなく、この施設の最も奥深く、九階にある大倉庫にやって来た。大倉庫は実験で使われなくなったものや、普段は使わないものをしまっておく、迷路のような巨大な倉庫だ。
ジェイスが彼女を連れてきたのは、そこまで奥ではない、壁際の通路だった。そこには既にハンフリー、ナッシュ、ブライス、ニコラス、そしてソニアが居て、五人の前には、
「レオ......」
水に濡れた彼の亡骸が横たわっていた。
*****
ニコラスの話はこうだった。
二人は大倉庫に時折現れる謎の水路の超常現象を調査するために此処に来ていたらしい。その日もやはり水路はあり、レオは調査のために水路の中に入ったそうだ。中で様々な発見もし、写真も何枚か撮ることが出来た。ニコラスはその時、外で万が一の時のために彼を待っていたそうだ。
だが、突然大きな音がした。
ニコラスの話によれば、水路には落下防止のために金網の重い鉄の板がかけられていたらしい。水路に入る時にニコラスとレオとでその金網を動かしたそうだが、あまりにも重くて持ち上げるのも一苦労だったという。
そして、大きな音の正体というのは、金網がひとりでに元の位置に戻った音だった。ニコラスは急いで金網を持ち上げようとしたが、もちろん二人で動かしたのだから一人で動くはずもない。レオも戻ってきて金網を中から押し上げようとしたらしい。が、それは叶わなかった。
金網が降りた瞬間、彼は足がつかなくなった、と叫んだという。超常現象の能力なのか、それは今のところ分からない。が、彼は瞬く間に水に飲み込まれた。ニコラスは呆然と、彼が水に沈むのを見ているしかなかったという。
*****
ドロシーはレオの亡骸に顔を埋めて泣いていた。ナッシュとブライスがレオを運ぶための担架を持ってきている間、ジェイスもハンフリーも少し離れた場所で待っていてくれた。
レオが死んでしまえば自分はどうしたらいいのか。
ドロシーは亡骸に顔を埋めたままこれからの未来を考える。自分一人でニコラスとソニアに何もかも教えることなどできるのだろうか。
「ドロシー」
ニコラスが小さくドロシーを呼んだ。ドロシーは顔を上げた。ニコラスが自分を見下ろしていた。その目は冷たく、やはり人間らしくはなかった。
「ごめん」
ニコラスの口がそう動いた。その言葉もトーンもレオそっくりで、ドロシーは更に泣き出した。そして、ニコラスの手を引くと彼の頭を抱き寄せた。
「いいの、いいんだよ」
震える声で何度も彼に言った。ニコラスはされるがまま、黙ってドロシーの腕の中にいた。
そんな様子をソニアはじっと見ていた。いや、正確にはドロシーが着ている白衣を見つめていた。ドロシーの白衣には、食堂で彼女がレオの訃報を聞いた際に落としたトマトジュースの染みが付いている。ソニアはそれを見つめていた。
見つめて、言った。
「綺麗」