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Black File  作者: 葱鮪命
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File034 〜とある植物園〜

 今日も明日も明後日も、このオフィスに笑い声が響くことは無い。あの嗄れた優しい声も、あの元気な声だって。残された自分は目の前の仕事を片付けるのみ。


 B.F.星5研究員イザベル・ブランカ(Isabelle Blanca)は今日もパソコンの前で仕事をしていた。彼女の横と背後にはデスクがある。それらは誰も使っていない。


 星5になって数ヶ月が経つ。イザベルはひとりぼっちだ。


 彼女の視界の端にある写真立ては、意味ありげに伏せられ、彼女の頭の上には、何故か実験でもないというのにゴーグルが鈍く輝いている。そしてそのゴーグルはノールズが持っているものよりも劣化が激しいように思える。


 彼女は孤立した。決して望んででは無い。ただ、彼女の一番の理解者は、このオフィスに戻ってくることはなかった。


 *****


 イザベルが星5の試験を受ける数日前のこと。イザベルを育てている研究員である星5のタロン・ホフマン(Talon Hoffman)が新しい超常現象の情報を持ってきた。もちろん、イザベルは星5の試験のためにしっかりと勉強する必要があり、実験に参加することはできない。


「ふむ、明日の夕方にするつもりなんだけれど、ハロルドだけついてきてもらおうかな。イザベルは試験勉強に集中してね」

「はい、先生」


 イザベルは頷く。彼女の横ではイザベルの兄弟子にあたるハロルド・グリント(Harold Grint)がうう、と涙を流している。


「イザベルと実験ができないなんて......俺は何を見ていればいいんですか先生!!」

「対象を観察するんだよ。というか、いっつも実験でイザベルばっかり見ていたって言うのかい」

「だって、こんな美人ですよ!! 意識せずとも視界には入っちゃいますよ!!」


 なあ、イザベル!? と肩を抱かれるのをタロンが止める。


「とにかくイザベルは試験があるんだからそっちに集中してもらわないと。ハロルド、邪魔しないよ」

「ううー、イザベル、俺はいつでもお前のことを思ってるからな!!」


 *****


 次の日の夕方、タロンはハロルドを連れて実験準備室へと入った。二人でゴーグルや手袋をつけて準備を行う。


「今日の超常現象はどんなものなんですか?」


 ハロルドがゴーグルを頭につけながら問う。


「それが私もよく分かっていないんだよ。空間を歪めて異空間を作るってことくらいしかね」

「はあ......異空間ですか」


 ハロルドは準備室の向こう側をチラリと見る。此処から見たならただの実験室だが、きっと扉を開けばそこは見たことも無い世界が広がっているのだろう。


 準備を終えた二人が扉の前に立つ。ドアノブに手をかけるのはハロルドだ。


「行きますよ、先生」

「うん、いいよ」


 ガチャ、と扉が開いた。二人の目に飛び込んできたのは、森だった。いや、よく見ると森ではない。ガラス張りのドーム型の天井から陽の光が差し込み、その下であらゆる種類の植物たちが無数に腕を伸ばしているのだ。


 二人は少しの間呆然と立ち尽くしていた。まさか、こんな光景が広がっているとはタロンもハロルドも想像していなかった。


「これは......」

「植物園かな」


 タロンの言葉にハロルドは気づいた。植物たちは皆、柵の内側にしか生えておらず、道らしき砂が四方八方に続いている。更には柵の前に植物の特徴や名前が書かれているだろうパネルがいくつも設置してあった。


「凄い......」

「とりあえず行ってみようか」


 タロンがポケットからカメラを取り出す。そして二人は緑の空間へと歩を進めて行った。


 *****


 パネルのひとつひとつの説明は読んでいるだけでかなりの情報が頭に詰め込まれていくようだった。読み切れないぶんはカメラに収めたり、植物の写真をとったりしながら二人は奥へと進んでいく。


「何だか勉強になる超常現象ですね」


 パネルを読んでいたハロルドが言う。タロンも頷く。


「きっと此処に書いてあることは嘘偽りではないんだろう。植物の知識をどっさり持って帰れるかもしれないね」


 柵の内側に生えているものはどれも季節がばらばらで、熱帯にしか生えないものや、亜寒帯を中心に生えるものなど、普通は共に育つことがないものであった。だが、それが共に生えていることに違和感を覚えることはなく、情報だけがポンポンと頭に放り込まれていくようだ。


 二人はしばらくの間植物園を楽しんだ。時折鳥のさえずりが聞こえてくるので、生き物も居るのかもしれない。だが、姿は見えないのでこれも超常現象の能力なのだろうか。


 それにしても穏やかな超常現象だ、とタロンは思った。B.F.で見ることが少ない緑をこれだけお目にかかれる機会はやはり超常現象ならではだろう。日頃仕事で疲れていた目や耳が植物の緑と鳥のさえずりで癒されていく。


 イザベルが試験でなければ、彼女もぜひ連れてきたかった。


「先生、こっちにでっかい花がありますよ!! ちょっと見に来てくださいよー!!」


 ハロルドが子供のように顔を輝かせて此方に手を振っている。知らないうちに彼だけ随分先に進んでいたらしい。タロンは「はいはい」と笑って彼の方に向かう。


 _____せめて写真をいっぱい撮って、イザベルに見せてあげよう。


 *****


「イザベル!! どうしよう!! 全然わかんないよっ!!」


 食堂でイザベルが昼食をとりながら試験勉強をしていると、隣の席に座ってきたのはノールズとリディアだった。


 リディアがトレーを置いてイザベルに泣きついてくる。


「イザベルはいつも勉強してて偉いよー!! さすがは私のルームメイトっ!!」


「それは関係ないでしょう」


 イザベルはチラリと自分の腕時計を見る。今頃タロンとハロルドは超常現象を調べている頃だろう。


 一人のオフィスに戻るのは少しだけ寂しく感じるイザベルである。


 今日は食堂で勉強したいが、席に座りたい人は沢山いるのだ。だから食べ終わったらすぐに戻らなければ。


「そういや、タロン先生とハロルドさんは?」


 サンドイッチを頬張っていたノールズが問う。


「新しい超常現象がやってきたようだから、調査しに行ったわ」

「珍しいね? イザベルが二人についていかないなんて」


 ノールズは目を丸くしているが、イザベルは無表情で、


「試験も近いんだから当たり前よ。それにタロン先生からは試験勉強を優先するように言われているから」


 と言った。


「おおー、さすがはイザベル!!」

 リディアが大きく頷いている。


「星5かあ......なんだか実感湧かないやー」


 ノールズはサンドイッチの最後の一口を口に入れると感慨深そうにそう言った。


 彼は星4になった瞬間にジェイスと突然の別れになった。故にほとんど一人で試験勉強を行ってきたのだ。時折ドワイトやナッシュ、タロンなどに聞いていたが、やはり寂しくないわけではないのだろう。


 この前星5になったらすぐに助手をとりたいと意気込んでいたが、いつもジェイスの後ろをぴょこぴょこついていっていた彼が今は一人なのだと考えると、イザベルは少しだけ気の毒に思えた。


 *****


 タロンとハロルドは植物園を一周した。今日は軽い調査で、明日になったら本格的に実験を開始するつもりである。明後日はイザベルの試験当日なのだから、彼女に応援の言葉を投げるためにもそろそろ調査を切り上げても良い頃だろう。


「さ、ハロルド。今日はもう戻ろうか」


 小川に居る魚の種類が書かれたパネルを熱心に読んでいたハロルドにタロンが声をかける。


「えー、でもまだ読み足りないですよー」


 ハロルドは残念そうな顔でタロンを見る。


「明日も来るんだから今日は戻ろうよ。それにオフィスでイザベルが待っているよ」

「はっ!! そうでしたっ!!!」


 途端顔を変えて此方にやって来た。単純すぎてタロンが拍子抜けしそうになったが、そういうところは子供らしくて可愛らしい。


 二人は肩を並べて植物園から出たのだった。


 *****


 二人が出て行った扉を静かに見つめる女性がいた。その女性は無表情で、扉を凝視している。


 そして、何事もなかったかのように扉に背を向けると、緑の森の中をゆっくり歩いて行った。


 *****


 イザベルがノートにペンを走らせていると、背後の扉が開いた。イザベルはペンを置いて立ち上がる。


 すると、


「イーザーベールー!!」


 圧迫感。思わず声が出そうになるが、どうやらハロルドである。


「一日俺に会えなくて寂しかったろ!? 寂しかったよな!!?」


 耳元でそう言われたイザベルは控えめに頷く。するとさっきよりも強く抱きしめられた。


「あーー!! やっぱ俺お前好きい!」

「こらこらハロルド、イザベルを離してあげなさい」


 タロンが遅れてオフィスに戻ってくる。渋々ハロルドがイザベルから離れた。


「おかえりなさい、タロン先生、ハロルドさん」

「ただいま、イザベル。試験勉強は順調かい?」

「はい」

「それは良かった。いよいよ明後日だね。イザベルならきっと大丈夫さ」


 タロンの大きな手がイザベルの頭に乗せられる。イザベルは恥ずかしくて目を伏せた。


「あー、先生ずるい! 俺も、俺もやりたいです!!」

「君は撫でるどころか抱きつくじゃないか」

「そーですけどっ!!」


 さっきまでの静けさが嘘だったかのような賑やかさ。イザベルはこの賑やかさが嫌いではない。寧ろ安心するし、こうして二人が此処に居てくれると勉強も捗るような気がするのだ。


 *****


 次の日、イザベルはタロンとハロルドを見送った。今日も昨日と同様、超常現象の調査らしいが、今日は様々な実験も行うようだ。


「イザベル、良い子で待ってるんだぞ!!」

「寧ろそれを言うのは君の方だよハロルド。イザベルのことばかり考えていないでしっかり対象を見るんだよ」

「大丈夫ですよ、先生!!」


 ハロルドは胸をどん、と叩き、そしてイザベルの頭をぽんぽん、と撫でた。


「じゃ、また!」

「はい、気をつけてください」

「うん、勿論だよ。イザベルも勉強頑張ってね」

「はい」


 オフィスの扉が閉まった。静かになった部屋の中をイザベルは振り返る。昨日はこの静かなオフィスが何故か落ち着かなくて食堂に行ったのだが、今日も同じことをしたらさすがに迷惑だろう。


 今日はテイクアウトにしよう。


 そう考えながらイザベルはデスクへと戻って行った。


 *****


 タロンとハロルドは植物園の中に入った。植物のパネルや生えている場所を調べる。特に変わった様子はない。入る度に配置や文字が変わるという仮説を立てたが、どうやらそれは違ったらしい。


「一つ目の仮説の答えは出たね」


 バインダーにペンを走らせるタロン。ハロルドは言うと、何やら地面をじっと見つめている。


「ハロルド? どうかしたのかい?」

「あ、先生......なんか、足跡が......」

「足跡?」


 ハロルドが地面を指さすのでタロンもそこに目をやる。すると、違和感に気づいた。昨日、自分たちがつけたであろう足跡が細かい砂の上に付いているが、その他にも知らない足跡がチラホラとあるのだ。


「これ、誰のです?」

「ふむ......もしかしたら空間が移動して色々な人をこの植物園に迷い込ませているのかもしれないね」

「はあ......そうなんですかねえ」


 ハロルドはしゃがんで足跡の大きさを測ってみる。自分よりは足のサイズは小さい。タロンは自分よりは大きいので自分たちのでは無いとすぐ分かる。


 他にも子供のような足跡だったり、女性のハイヒールらしき足跡だったりと、園を回っていく中で様々な足跡を見つけた。


「先生、昨日撮った写真あります?」

「写真? ああ、あるよ」


 タロンは昨日カメラで撮った写真をポケットから何枚か取り出す。ハロルドはそれを受け取って熱心に同じ箇所を見比べている。


「なにか分かりそうかい?」

「うーん......何となく、生えてる植物が増えているような気がするんですよー」

「おや、それなら最初の仮説は間違っていないんじゃないかな」

「はい、恐らく」


 写真と同じ場所に目を向けると、確かに写真にはない新しい植物がいくつか生えている。巨大な木ではなく、小さな花だったり、中くらいの草だったり。他にも昨日はいなかった魚や鳥の声、注意深く見てみると昨日と異なる場所は沢山あった。


 *****


「ふむ......毎日生えるものが変わる......というよりかは、増える、って感じかな」


 一通り園を回った二人は自分の考えをまとめるために立ち止まる。


「写真撮っておいて良かったですね。これがなかったら気づかなかったですよ」

「そうだね」


 今日はカメラを持ってきていなかったので新たに増えたパネルの説明は短くまとめてバインダーに記した。


「はー、それにしても、のどかですね」


 ペンを走らせるタロンの横で、天井から降ってくる陽の光にハロルドはそう言った。


「うん、不思議な超常現象だ」

「イザベルと此処でデートでもできたらなあ」

「君はまた......本当にイザベルが好きなんだねえ」

「そりゃ、あんな可愛い子ですもん!!」


 二人でそんな会話をしていると、突然遠くから何かが聞こえてきた。砂を踏む、ジャリジャリという音だ。ハロルドとタロンは黙って、目線だけを交わせる。


 誰かが近づいてきている。


 二人の間に緊張が走った。やがて足音の主が緑色の壁の向こうから姿を表した。それは綺麗な女性であった。ブロンドの髪が綺麗にカールを巻いており、顔には優しい表情を浮かべている。


 想像していた以上に普通の人間だったのでハロルドは拍子抜けしてしまった。


「えっと......」


 彼が何か言おうと口を開いたその時だった。


「スサナ_____」


 隣のタロンがまるで幽霊でも見たかのような顔をしていることにハロルドは気づいた。彼と面識のある人間なのか、と思ったが、この実験室を今日使うのはハロルドとタロンのみである。


 さっきまで確かに人など居なかった。もしかしたら広すぎる園の中でたまたま合わなかっただけかもしれないが。ただ、服装からしてB.F.職員ではない。明らかに白衣やゴーグルを身につけていない。


「スサナ、って......?」


 ハロルドはタロン見上げて問う。


「......」


 ハロルドの声が聞こえているのか聞こえていないのか、タロンはまるで石になってしかったかのように呆然と立ち尽くしている。こんな彼をハロルドは今まで一度も見たことがない。


「......私の、奥さんだよ」


 ハロルドが目を見開いた。


「え、だって、先生の奥さんって......」


 目の前の女性を気にして、ハロルドは声を潜める。前に聞いたことがあった。タロンはB.F.にやってくる前に大学で教授をしていたが、妻が病気になって教授を辞め、妻に付きっきりの生活を送っていた。だが、彼女が間もなくして病死して、彼はB.F.にやって来たのだという。


 そう、彼女は死んでいる。なら、目の前の彼女はいったい誰なのだ。


「......」


 一番困惑しているのはタロンである。さっきから目の前の女性から目が離せなくなってしまっている。


「......先生?」


 ハロルドが不安になって彼を呼ぶ。


「......私は夢を見ていると思うかい? ハロルド」


 タロンの声は少しだけ震えていた。ハロルドはハッとして彼の右腕を掴む。


「先生、先生いけません。これはきっと超常現象の能力ですよ。死んだ人間が生き返るわけありません」


 ハロルドは彼を引き寄せて耳元でそう言った。


「先生、正気に戻ってください!」


 それでも、タロンはまだ彼女を見て呆然と立ち尽くしている。


「先生!!」

 ハロルドが彼を揺すり始めたその時だった。


「植物園の案内人をしております、スサナと申します」


 女性が上品に微笑んだ。ハロルドは思わず口を開いて彼女の話に聞き入る。


「ハロルド・グリントさん、タロン・ホフマンさんですね。私が園内をご案内します。どうぞよろしくお願いします」


 ツアーガイドでもするかのように、彼女は恭しく礼をすると、踵を返して歩き始めた。そして、操られているようにタロンがその後ろをついていこうとするのでハロルドは慌てて彼の横につく。


「先生!! 先生ってば!!」


 二人は緑の楽園の中の奥深くへと歩を進めて行った。


 *****


 緑の世界はさっきとは違い、ハロルドの目には不気味に映った。それは目の前を歩くあの女性が原因だろう。


 死んだはずのタロンの妻が今自分たちを案内している。植物園の案内人と称して。


 案内と言ってもさっきから前を黙々と言っても一定の距離を空けて自分たちの前を歩いているだけだが。


 そして更にはタロンの様子がさっきから変だ。まるで前を歩く女性が本当に自分の妻だと思い込んでいるかのように、彼女の後ろをただただついて行っている。いや、ガイドの後ろを着いていくだけの観光客とでも言うのだろうか。彼女を妻と認識しているのならば、彼女と肩を並べて歩くくらいはするだろう。


 たしかに、彼女はスサナと名乗った。タロンの妻の名前もスサナで偶然にしては話ができすぎている。が、容姿も同じと言うとやはりタロンの妻なのだろうか。変だとは思わないのだろうか。死んだはずの人間があたかも生きているかのように自分たちの前で動いている。


 ハロルドは彼女が不気味に思えて仕方がなかった。さっきから背中に流れる汗が冷たく、この植物園を包む静寂が自分たちを元の場所には戻させまいと言っているかのような感覚に陥る。


 このままではまずい。どうなるかは分からない。だがきっと、異常な状況であることには変わりなかった。


 ハロルドはそう思ってタロンの白衣を強く引っ張った。


「帰りましょう、先生。イザベルが心配しています。イザベルがオフィスで待ってますよ」


 しかしタロンは聞こえていないのか前に進もうとする。ハロルドはタロンの前に急ぎ足で回り込んだ。そして彼の前を後ろ向きで歩く。


「先生_____」


 ハロルドは絶句した。タロンの目に光などなかった。どこを見ているのかも分からないほど焦点が定まっていない。明らかに様子が変だ。


「先生!! しっかり!!」

 タロンはハロルドを押し退いてでも前に進もうとしている。


 円形の巨大な温室の中をさっきから三人はぐるぐると回っているだけだ。女性は相変わらず追いつけるか追いつけないかくらいのスピードで二人の前を歩いている。さっきから一切口を開かない。案内人と言っても植物の名前を教えてくれたり、特徴を教えてくれたりするわけではないらしい。


「ちょっと待ってください!!」

 ハロルドはタロンから離れて、女性に小走りで近づく。女性は振り返らずに足を動かしている。


「先生をどうするつもりなんですか!? あなたは何者なんですか!!」


 彼女は振り向かない。ハロルドは彼女の肩を掴み、乱暴に此方を向かせようとした。


「うぐっ」

 突然、後ろから強くど突かれた。あまりにも急な出来事にハロルドは体制を崩し、砂の上に転がった。ゆっくり顔を上げると、


「......先生」


 タロンが冷たい目でハロルドを見下ろしていた。


 *****


 イザベルはさっきから時計を気にしている。もう17時になる。夕方には帰ってくるはずの二人はまだオフィスに戻ってこなかった。


 実験と言っても、実験室は使用時間が限られており、夕方には戻ってくることが確定しているのだから、もう帰ってきてもおかしくはない頃だ。


 イザベルは集中しようとペンを握るが、視線はやはり何度も時計に向けられてしまう。


 何かあったのだろうか_____。


 二人は優秀な職員だ。タロンはもちろん、ハロルドだって。だが、新しい超常現象など分からないことだらけである。予期せぬ事態に巻き込まれている可能性だって大いに考えられる。


 イザベルはペンを置いた。


 やはり迎えに行こうか_____。


 いや、タロンには試験勉強に励むように言われたのに、命令外のことをするのは果たしてどうなのだろうか。だが、もし二人が戻ってこなかったら。


 立ち上がるか立ち上がらないか、イザベルは迷っていた。もし試験勉強を投げ出したら、明日の試験はどうなるのだ。だが、二人が戻ってこない方がよっぽど怖いことだ。


 そんなことでぐるぐると彼女が思考をめぐらせているときだった。


「イザベル!!!」


 突然、オフィスの扉を開いてハロルドが飛び込んできた。イザベルは思わず立ち上がる。


「ハロルドさん_____」


 どうやら必死に走ってきたらしい。額に汗が光っており、息も荒い。真っ直ぐ立つのも難しいのか膝に手をつくと体を折って呼吸を整えていた。


 そんな彼が顔を上げる。その表情は何やら焦り気味で、今にも泣き出してしまいそうにイザベルには見えた。


 イザベルはそこで違和感に気づく。いつもなら彼と共に飛んでくる嗄れた声がしない。そう、タロンが居ないのだ。息を整え終えたのか、膝から手を離して体を起こしたハロルドをイザベルは困惑した表情で見上げるしかない。


「ごめん」

 ハロルドが目を細めて、そう言った。イザベルは何も分からない。ただ彼の次の言葉を静かに待つのみである。


「今日も一日中一人にさせてごめんな。寂しかったな」


 謝罪の意味が分かった。彼はイザベルが二人が戻ってこなくて心配しているのを知っているようだ。もしかしたら自分の表情に現れていたのかもしれない。


 イザベルはそこで、ようやく今この場に居ない人物の名を口にした。


「タロン先生は......」


 ハロルドが小さく唇を噛んだ。彼の目はイザベルの顔を見つめている。イザベルは分からなかった。彼の表情から何があったのかを想像しようとしたが、その想像はどれもありえないものである。


 自分たちが大好きな先生が、彼が、戻ってこないなんてことは無い。彼はいつだってこのオフィスで優しい笑みを投げてくれる。優しい言葉をかけてくれる。時に厳しく、そして我が子のように愛情を注いでくれる。


「イザベル......」

 次の瞬間、イザベルはハロルドの腕の中にいた。走ってきた彼の体は汗ばんでいる。まだ胸が少しだけ早い鼓動を刻んでいる。そして、彼の手はイザベルの金髪を優しく撫でた。


「大丈夫だ」

 彼の声が頭の上でした。


「先生は必ず戻ってきてくれるよ。俺、今から連れてくるよ」

 優しい声だが、それは震えていた。


「ごめんな......ほんとごめん......ちょっとだけ待っててくれ。明日、いや、明後日には......もう少しかかるかもしれないけどさ、先生は絶対に帰ってくる」

「......」


 イザベルは悟った。彼の表情も、震えた声も、言葉の隙間の長い時間が、タロンはもう戻ってこないことを彼女に示唆していた。


 いったい彼の身に何があったのだ。死んだのだろうか。はたまた、行方不明になったのか。いや、そんなはずはない。ハロルドは言っている。戻ってくると。絶対と。


 ハロルドの腕に力が加わった。


「合格発表、見に行けないかもしれない。でもさ、お前ならきっと大丈夫だよ。俺ら先生の助手なんだ。俺が辿った道をイザベルが辿れないはずがない。先生から教わったことめいっぱい出してくるといいよ」


「......はい」


 イザベルの声は小さかった。頭が何も追いつかないのだ。タロンがもし戻ってこなかったら、とそんなことを考えてしまう自分もいる。そして、そんな恐怖の次に湧き上がってくるのは、


 このままハロルドまで戻ってこなくなってしまったらどうするのか、という不安だった。


 二人が戻ってこなかったら、自分はどうこのオフィスで過ごせばいいというのだろうか。


 信じたくないことだが、ありえないことではない。あのタロンがこうして共にオフィスに戻ってこないということは、恐ろしい超常現象を彼らは相手にしていることを示している。タロンのような優秀な研究員が苦戦するなど、イザベルには信じられないことである。


 すっかり黙り込んでしまい、二人の間の空気は重くなった。


 ハロルドは小さな彼女の肩を抱きしめて、何かないのかと考える。時間が無い。ハロルドの葛藤は、自分だけ行くか、それとも彼女も連れていくか、であった。


 後者は許されない選択であると彼は理解している。それでも、自分が戻ってこられなくなったとき、イザベルはひとりぼっちでどんな思いをして生きていくのだ。タロンが居なくなったこのオフィスで過ごすなど自分ならきっと耐えられない。彼女にそんな辛い思いをさせてしまうことなどハロルドにはできない。


 自分だけで行くというのは、それもまた怖い選択である。もうタロンに自分の言葉は届くことは無い。彼はあの園の住人となった。ハロルドにはひとつだけ分かったことがある。


 あの植物園にある植物は、全て元々人間であったことだ。


 一日経過して思ったことは、植物たちが数を増やしていることだった。減ることは無い。増えるだけ。植物園の案内人と称してその人物に最も近しい人間が化けて、出てくる。そして甘い言葉で誘って、植物にしてしまう。あれはそうやってできた場所だ。


 実験室から此処までの道のりでハロルドが必死に出して考えた仮説である。タロンは今頃_____。


「ハロルドさん」

 イザベルが小さくか細い声で自分を呼んだ。


「行かないでください」


 ハロルドは目を見開いた。今までわがままなど言ったことがない彼女の、ハロルドが初めて聞くわがままであった。


「......私も連れて行ってください」


 イザベルは自分に額を押し付ける。その肩は震えていた。ハロルドは、ああ、と目を細める。自分は何を弱気になっているのだろうか。こんなに可愛い子にこれだけの思いをさせて、男としてかっこ悪い。


 ハロルドはそっとイザベルの髪に口を埋める。もう自分しか彼女を守れない。


 タロンが戻ってこないなどまだ決まったことではない。まだ間に合うだろう。きっと、また三人でこのオフィスで仕事が出来る。だって、今日の朝までそうだったじゃないか。


 揺れ出す視界をハロルドは目を瞑って遮断した。


「いいかあ、イザベル? 俺はイザベルがこのオフィスで待ってくれたら凄く力になると思うんだ。自分が強くなったように思える。そしたら、タロン先生を取り戻してくることがきっとできる」


 ハロルドは彼女の肩から片腕を外して、自分の頭の上にあるゴーグルをそっと外した。


「此処で待っててくれ。約束する。絶対にまた会えるからさ」


 ゆっくりと目を開いて、彼女から離れた。そして、イザベルの手に今自分の頭から取ったゴーグルを握らせる。イザベルは目を丸くしてゴーグルを見つめていた。


「これ......ハロルドさんの、ですか?」

 イザベルは顔を上げて彼を見る。泣き出しそうな彼の顔が目に焼き付く。その頭にはさっきまでつけていたゴーグルがなかった。


「うん、俺が戻ってくるまでどうか預かってて欲しいんだ。きっと取りに来るから。それに、お守り」


 ハロルドはもう一度イザベルを抱きしめる。


「明日、しっかりやれよ」

「......はい」


 イザベルは息が詰まりそうになりながら、彼の腕の中で頷いた。


「またな、イザベル。先生を取り戻してくるな」

「............はい」


 ハロルドはイザベルから離れるとオフィスを出て行った。イザベルが何か言う間も与えずに、扉はすぐに閉まった。


 イザベルは自分の手に残されたゴーグルを見下ろす。使い古されたものだからか、レンズやゴムに傷が見える。イザベルはそれを頭につけた。ゴムの位置を調整しなければ緩くて落ちてきてしまいそうだったが、それでも、それは自分を強くしてくれるような気がした。


 *****


 次の日、試験を受けてイザベルは見事に星5に昇格することができた。同期のノールズとリディアも合格し、三人で合格発表も見た。合格を喜ぶ先輩とその助手で部屋は溢れかえる中、タロンとハロルドはいつまでもそこに姿を表さなかった。


「イザベル、それって」

 ノールズが指さしたのは彼女が今頭につけているゴーグルだった。


「......お守り」

 イザベルが短く答えるとノールズが息を呑んだのが分かった。


「おめでとう、二人とも」


 二人で黙り込んでいるとドワイトが優しい笑みで近づいてきた。イザベルの頭につけているゴーグルを見て目を細める。


「......ドワイトさん」


 イザベルは彼を見上げた。ドワイトはあの後ブライスと共に植物園がある実験室へ行ったが、時間が経ったためか植物園は実験室から姿を消していた。


「......待つしかない」

 ドワイトが悲しげに微笑む。


「ちゃんとまた会えるよ。イザベルならね」


 ドワイトの言葉が、ハロルドの言葉に重なって聞こえた時、イザベルは耐えられなかった。唇を噛んで我慢していたが、目の奥がじんわりと熱くなり、ぽたぽたと床にシミを作る。


 イザベルには分かっていた。二人はもう戻ってこないのだ。永遠にあのオフィスには、タロンとハロルドは帰ってこない。


 ノールズがイザベルの背中を優しく撫でる。ドワイトはそんな二人の頭を優しく撫でていた。


 *****


 植物園の中に一人の人物が立っている。黒いモヤのような、人とは言い難い見た目をしている。それは、できたばかりの小さな木を見つめていた。


 ガチャ。


 遠くで扉が開く音がした。


「何だここ......。植物園......?」


 モヤは姿を変えた。それは、幼い子供の姿をしていた。


「お父さん、今行くね」


 次の案内人の姿である。

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[良い点] うええええ。゜(゜´Д`゜)゜。 イザベルがいつも着けてるゴーグルに そんな悲しいエピソードがあったなんて どんなに経験を積んだ先達でも 心の奥底にある大事なものをチラつかされたら そ…
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