嫉妬 後編
チェルシーに初めてそれらしい仕事ができたのは、彼女がB.F.に入って一ヶ月が経とうとしているときだった。相変わらずジミーの陰湿ないじめは続いており、チェルシーの心もどんよりとしていた。首を切ってからは彼も二度は同じことをされたくないのか、酒が入っていない時は比較的大人しい。
彼はどうやら新しい超常現象の実験を任されたようだ。報告書も書けるようになってきたので、チェルシーも助手として実験に参加できるだろう。
チェルシーにとって初めての実験だ。彼女は初めてつけるゴーグルや手袋に心が踊っていた。
ああ、自分もやっとそれらしいことができる。姉のように実験ができるのだ。
「おい」
「は、はい!」
ゴーグルのゴムの締め具合をチェルシーが確かめていると、後ろからジミーに呼ばれてチェルシーは振り返った。彼はやる気満々のチェルシーを冷めた目で見ていた。
「今日の実験はめんどくせーからお前一人でやれよな」
「......え?」
「何だよ、先輩がやる前にまず後輩が下見に行くんだろうが」
「しかし、今回の実験は必ず二人以上でやらないといけないものかと_____」
「黙れっ!!」
ジミーが持っていたゴーグルを掴むと、チェルシーの顔を目掛けて投げつけた。それはチェルシーの右目に当たる。
「お前は俺の命令だけ聞いていればいいんだ!! お前に指図される理由がどこにあんだよっ!!!」
痛みで片目を抑えているチェルシーに、ジミーはバインダーを押し付けてきた。チェルシーはいやいやそれを受け取る。
「ちゃんと俺の字でレポートも書けよ」
「それは......」
「何だよ、文句あんのかっ」
「......いいえ、ありません」
チェルシーは慌てて笑顔を作った。笑えば勝ちだ。ジミーは彼女の笑みを見ても、
「さっさと行けよ」
と冷たく言うだけであった。チェルシーはバインダーを胸に抱き、
「行ってきます」
そう言って扉を潜った。扉が閉まる直前、ジミーが小さく呟いた。
「もう戻って来んな、役立たずが」
*****
実験室というのは驚くほど広い。部屋ごとに広さは違うと聞くが、此処は自分の部屋よりも遥かに広い。此処で今から実験を行う。と言っても、今回の実験のことについてチェルシーは事前情報を何も持っていなかった。
押し付けられたバインダーにひとしきり目を通す。とある箱の超常現象のようだ。チェルシーは準備室の中から、実験室を覗く。実験室の真ん中に確かに箱らしきものが置いてある。ホログラムが施してある綺麗な箱である。あれが超常現象のようだ。そして、今回の実験はあの箱に入るというものらしい。
箱についての詳細はバインダーにはほとんど載っていなかった。ジミーの研究員ファイルにはきっと情報があるのだろうが、彼はそんなものを渡してくれるはずもなかった。
チェルシーはまず準備室でゴーグルと手袋をつけた。そして、恐る恐る実験室に入る。箱に近づくが、突然飛びついてきたり、噛み付いてくることはなさそうだ。
箱は静かに床に鎮座していた。大きさは、しゃがみ込めば大人一人入れそうなほどだ。蓋が被せてあり、ホログラムが全体に施してあるので見る角度によって色が変わって綺麗だった。
これが超常現象。
「何をしよう......」
箱に入る前に何か確認すべきことはあるだろうか。とりあえず、チェルシーは箱をノックしてみた。特に何も起こらない。しかし、触って気がついた。箱がほんのり暖かいのだ。まるで生きているみたいに、人肌に近い温度だとチェルシーは予想した。
チェルシーは次に箱を持ってみた。思っていたよりも重いが、持ち上がらないほどでもない。振った感じ中に何かが入っているわけではなさそうだ。
チェルシーは箱を床に置いて、続いて蓋を持ち上げてみた。中はやはり空っぽだった。白い箱にホログラムの紙を貼り付けただけのもののようだ。
これの何処が超常現象なのだ、とチェルシーが思った時だった。彼女はとんでもない衝動に駆られた。それは、この箱に入ってみたいというものだった。何を考えているんだ、と自分の心に言い聞かせるが、次の瞬間にはもう既に片足を箱の中に突っ込んでいた。
箱の中は暖かい。チェルシーは箱の中に体育座りして、そのまま蓋を被せた。真っ暗になったが、気にならないし、出たいとも思わなかった。
寧ろ暖かい壁に背を預け、襲いかかる睡魔に意識を徐々に奪われていった。
*****
ジミーは誰もいなくなった机にドカッと腰を下ろした。
今回の研究員も使い物にならなかった。不気味に笑うし、死のうとするし。今まで持ってきた助手の中では最も長かったとは思うが、自分は危うくクビになるところだったのだ。次はもっと使えるやつを連れてこなければ。
「はー......だっる」
ジミーは少しだけ整頓された部屋を見る。もう彼女は戻ってこないのだから、この部屋は再びゴミの山になるだろう。そんなの次の助手に掃除をさせればいい話なのだが。
ジミーは立ち上がり、酒を買うために食堂へと向かった。
廊下ですれ違う研究員たちはみんな忙しそうで、日々が充実しているように見えた。自分のようにダラダラと歩いている人間は一人もいない。常に目の前の仕事でいっぱいいっぱいのように見えた。
それがどうしようもなく腹が立つ。一人目に来た助手は良いサンドバックになったが、二人目の助手はすぐに逃げたから物足りなかった。三人目の助手は報告書を書く能力には長けていたが、実験でヘマをやらかすので早々にクビにした。
そして四人目の今回の助手は、何もかもダメだった。掃除くらいしかしない役立たずで、メンタルが強いのか弱いのかよく分からないやつだった。
あんな助手、戻ってこなくて正解である。むしろ、首をきちんと切って死んでいればよかったのだ。そうすれば彼女の給料が自分のものになった可能性もある。
食堂で酒を飲んで、ジミーは机に突っ伏す。酒を飲んでいる時だけが幸せだった。一杯目、二杯目と浴びるように飲んでいるうちに、彼はそのまま眠ってしまった。
*****
此処はどこだろう。
目を開くと、暖かい光で溢れていた。柔軟剤の優しい香りがして、この香りは記憶にある、と分かったところで思い出した。自分のベッドだ。B.F.のではない、自分の家のベッドである。そう、此処は自分の家だったのだ。しかし、変な話である。自分はB.F.に居たはずだ。
ああ、そうか、これは夢なのか。
妙に意識ははっきりとしていて、冷静だった。
チェルシーはベッドから降りて、部屋を出た。夢の割には家の隅々までが現実に近かった。一階へと降りていくと、父と母、そして姉のイザベルが朝食の席についていた。
「おはよう、お寝坊さん」
父が優しい笑みを浮かべてチェルシーの椅子を引いてくれる。チェルシーはそこに座った。朝ごはんはパンケーキのようだ。
一口大に切り分けて口に運ぶ。暖かくて、柔らかくて、チェルシーは久しぶりの味に涙が溢れた。自分が今夢の中にいるとしても、これは泣かずにはいられなかった。我慢していたものが溢れ出す。両親は驚いた様子で自分にどうしたのか、と尋ねてきたが、チェルシーはなんでもないと言って、パンケーキを詰められるだけ口に詰めた。幸せの味が口いっぱいに広がる。
両親は旅行について話していた。今度海に行くという話をしているようだ。長期休暇は大抵どの家も旅行に行く。ブランカ家も勿論例外ではない。旅行に行けない時は両親がお菓子や服をどっさり買ってきてくれる。
「海でゆったりバーベキューでもしましょう。チェルシー、新しい水着欲しいって言ってたわよね。この後見に行きましょうか」
「え......」
母の言葉にチェルシーは驚く。自分のために、親が行動してくれている。最近では全く見られなかったことだ。いつも優先されるのは姉のイザベルだというのに。
「いつも我慢させてしまっていたものね」
「そうだね、イザベルもいいかい?」
「......ええ」
ああ、何だか暖かい。今まで感じたことの無い暖かさだ。姉より自分を優先してくれることなんて、いつぶりだろう。
朝食をとり終えると、家族で旅行の準備を揃えるための買い物に出かけることになった。母とイザベル、チェルシーで服屋へ、父はキャンプ用具屋へと行った。
「ふふ、やっぱり似合うわねえ。顔が良いからかしら」
母はチェルシーに服の上から水着を合わせてそう言った。
「これ、これ着てみてもいい?」
「あら、いいわねえ。着てみましょう」
この夢ならば、イザベルが居ても自分のわがままは優先されるようだ。なんて気持ちがいいのだろう。チェルシーは幸せだった。イザベルはどんな顔をしているだろう、と彼女を見ると、彼女はそこに立っているだけで、目が合うと微笑むくらいだった。
*****
B.F.星2研究員のコナー・フォレット(Connor Follett)はナッシュと共に夜の施設警備を行っていた。
ミゲルが死んで屍のように毎日を過ごしていたコナー。このままではまずいと自分でもわかっており、コナーは何か自分に出来る仕事はないかとナッシュに聞いた。すると、実験や報告書などの重い仕事は任せられなかったが、職員が自室に戻った後でオフィスや食堂に鍵がかかっているかを確かめる警備員の作業があると教えてもらった。そんなものがあるのか、と驚いたが、どうやら伝説の博士三人組と、ある特定の職員で毎日交代して行っているものらしい。
確かにオフィスは夜になると鍵を締めなければならない決まりがある。それは、もしも資料や報告書が盗まれてしまえば、大変なことになるからである。勿論、エレベーターの扉は閉まっているので上に上がることはできないが、資料のひとつでも紛失すればもう一度書き直す必要がある。何日もかけて書くものだ、書き直すことがどれほど大変な作業かは想像できるだろう。
コナーは心の傷を癒すためにも体を動かす必要があると考えた。ナッシュもそれは賛成のようで、自分を連れて夜の見回りに連れていってくれたのだ。夜の施設は閑散としていて、一人では足がすくんでしまうかもしれない。コナーはナッシュの後ろをピタリとついていきながら、時折オフィスの扉を回して鍵がかかっているかを確かめた。
「よし、この階は終わりかな」
ナッシュが最後のオフィスの扉を回して、開かないことを確認すると次の階へと向かった。
「どうだい? 久しぶりに歩いたから少し疲れたかもね」
エレベーターの中でナッシュはそう言って、壁に背を預けながらコナーの顔を覗き込んだ。コナーは俯いて、
「平気っす」
と短く答えた。確かにミゲルの件からずっとベッドの上で過ごしていた。体がなまっているのか、歩き回るだけでも苦しい。
「そうかい、無理だけはしないようにね」
ナッシュがそう言って体を起こす。エレベーターの音だけが静かに響く。
コナーはぼんやりと考える。これからどうしようか、と。ミゲルが居なくなって、自分は誰とこの仕事をすればいいのだろう、と。
星4になったらペアを組むという約束はもう永遠に果たすことができなくなったのだ。自分はミゲル無しでこれから仕事ができるのだろうか。
エレベーターが会議室がある階についた。会議室はもちろん、食堂も鍵をかけなければならない。コナーはエレベーターから降りて、ナッシュに鍵を貰った。
「はい、これで食堂の方を見てきておくれ。僕は会議室を回っていくから」
「はい」
受け取ったのはマスターキーだ。伝説の博士しか持つことが出来ないものだ。きっとブライスかドワイトのものだろう。コナーは鍵を首からぶら下げて、暗い廊下を歩いていった。
食堂へと歩いていきながら、コナーは考えていた。そう言えばドワイトはあの件からすっかり元気が無くなった。彼の後ろに当たり前のようにいたミゲルが居なくなったことで、周りの研究員も何かを察したのか、彼に助手の話をするのは禁忌となった。
コナーは彼を心から恨んでいた。ミゲルをどうして連れてこなかったのか。彼をあんな洞窟に置き去りにして、彼は戻ってきた。骨折していたとか、他に生きている研究員を優先しようとしたとか、そんなことは関係ない。彼は自分の助手を捨てたのだ。のうのうと今も生きているのだ。それが許せなかった。
気づけば食堂についていた。電気はついていたが、がらりとしている。厨房から皿を洗う音がするのでシェフはまだ残っているようだ。シェフは裏口から出ていくため、コナーはこの大きな入口を施錠する必要がある。誰か研究員は残っていないだろうか、と見回してみると、誰かが机に突っ伏して眠っているのが見えた。白衣を着ているので研究員だろう。
ナッシュ以外の誰かと話すのは、今の心の状態では好ましくないのだろうが、コナーは意を決してその研究員に近づいて行った。
*****
ジミーは肩を叩かれて気づいた。食堂の中がいつの間にか静まり返っている。
「あのー......」
声が聞こえて体を起こすと、ぼんやりとした視界の中に誰かが立っていた。オレンジ色の髪の毛の研究員だ。前髪から覗く顔はまだ幼い。子供だった。
「此処で寝ていたら風邪を引きますよ」
彼は首からマスターキーをぶら下げていた。周りを見回してみると、食堂の中には自分と彼の二人くらいしか居なくなっていた。時計に目をやると、酒を飲み始めてから三、四時間は経っていたようだ。気づかないうちに眠っていたらしい。ジミーは大きく欠伸をして、ジョッキに残っていたビールを喉に流し込んだ。
「お前......」
「へ......?」
「お前誰だよ」
「あ、ああ......コナー・フォレットです......えっと......」
コナーという研究員は机の上に並べられたジョッキの量を見て、
「お酒はその辺にしておいた方がいいと思います......怒られますし、そろそろ此処も閉めたいんです」
マスターキーを顔の高さまで上げた。
何故こんな子供研究員がマスターキーなど持っているのだろう。だが、まだ酒を飲みたい、とジミーは思った。
何故こんなひ弱そうな研究員に、食堂から追い出されなければならないのだ。飲みたいものは飲みたいのだ。
「......そんなの知るかよ、もっと持ってこいよ」
ジョッキを突き出すと、コナーはぎょっとした様子で身を引いた。
「いやっ、でも......」
「何だよ、文句でもあんのかっ!」
呂律が上手く回らない。だが、子供は明らかに怖がっていた。怯えた顔をして一歩ずつ後ろに下がっている。
「お前になんで命令されねえといけねえんだよっ!! 俺に何か文句でもあんのかっ!!?」
怖がるのが面白くて、ジミーは更に大声を出す。子供は涙を浮かべていた。まるでチェルシーのようだ、と男は思った。
「あ、ありません、でもっ_____」
「なんだよっ」
ジミーは立ち上がり、ジョッキを投げつけようと腕を振り上げた。すると、その腕は誰かに掴まれた。
「いい加減にしなよ、君」
顔を上げてジミーは目を見開く。ナッシュである。何故彼がこんな場所に居るのだろう。
「騒がしいと思ってきてみたら、僕の助手に何をしようとしているんだい? なかなかやってくれるじゃないか」
「これは......」
ナッシュはジミーを鋭く睨みつける。
「此処はもう閉店時間を過ぎているんだ。客である君は出ていくべきじゃないかい?」
「っぐ、離せっ」
「待てナッシュ」
声がもうひとつ聞こえてきた。
「ブライス」
ナッシュがジミーの腕をぱっと離す。振り返らずとも誰が来たのかは分かった。ジミーはいよいよクビにされる未来が見え始めていた。八つ当たりと言わんばかりにコナーを睨みつける。
「ふざけんなよ、お前!! お前のせいでっ_____」
拳を振り上げると、コナーは頭を抱えてしゃがみ込んだ。そんな彼を守るようにナッシュが立ちはだかる。
そして、
「暴れるな。此処は格闘場じゃない」
ブライスがジミーの腕を掴んだ。暴れ出そうとするが、彼の力はナッシュよりも強かった。
「お前、チェルシーはどうしたんだ?」
ジミーはハッとしてブライスを見る。彼は冷たい目でジミーを見ていた。
「あいつは_____」
「お前には今日実験が入っていたはずだ。お前が使うはずだった実験室の鍵が貸したまま返ってきていない。これはどういうことだ?」
「あ......」
「チェルシーは何処に居る」
ブライスがぶつけてくる質問にジミーはひとつも答えられなかった。何故こんな仕打ちを受けなければならないのか。コナーを睨むが、彼はナッシュの背中に隠れていた。
「......知らねえ」
「そうか、だがお前はチェルシーのペアだろう」
「うるせえ、どうでもいいだろ、そんなこと」
「どうでもいいわけがない。ペアのことが何故分からない?」
矢継ぎ早に質問を投げてくるブライスにジミーはうんざりした。そして、ある選択に踏み出すことにした。嘲笑を交えて、彼を見る。
「......辞めてやるよ」
ブライスが怪訝そうに眉を顰めた。
「辞めてやるよこんな仕事。満足のいく部下も上司もできないなんてよ。こんな場所、ただの地獄だっ」
「......」
「なあ、くれるんだろっ!? そういう約束だもんなあ!!?」
ジミーがブライスに反対の手で掴みかかった。ブライスは彼の動きを瞬時に読んだのか、体を引くと、彼の足をはらった。ジミーの体制は簡単に崩れ、そのまま床に倒れる。ブライスは彼の動きを封じ込めるためか、彼の上に馬乗りになった。
「くれるとは、何だ?」
「とぼけんなよっ、金だよっ!! 俺らがどんな思いで此処に入って来たのかお前分かってんだろうなっ!? B.F.を出たら金を貰えるって、契約書に書いてあったろうがっ!! そうじゃなきゃこんな薄汚い死神共の巣になんかいられるかっ!!!」
「......」
静かに彼を見下ろすブライスを見て、ジミーは薄く笑った。
「お前のその石みたいな顔にはもううんざりなんだよ。お前についていくやつなんているとでも思ったか? みんなみんな金目当てなんだよっ!!」
「お前_____」
勝ち誇ったように言い放つジミーに、ナッシュが低い声を出して近づこうとした。
「ナッシュ」
ブライスがジミーから目を離さずに彼に忠告した。
「やめろ。それ以上近づいたら許さんぞ」
「......」
ナッシュは男を恨めしげに睨んで、一歩後ろに下がった。
「そうだな、ジミー。確かに俺とお前は契約をしている。此処を出れば高い給料を一括で貰えるということも、契約書には確かに書いている。だが、それは懸命に努力した研究員にのみ許されることだ」
「なっ......」
「お前のような、部下を侮辱する研究員に、ましてやその部下を放ったらかしにした挙句自殺にまで追い込んだお前に、やるものなどひとつもない」
ブライスは静かに彼に言った。
ジミーはブライスの胸ぐらを掴んで、自分の方へと引き寄せる。
「お前......お前、お前っ、お前っ!!! ふざけんなよっ!!!」
「ふざけているのはお前の方だ」
ブライスは暴れ出すジミーを押さえつけた。
「お前の望む給料は出してやる。だが覚えておけ。お前のような生き方ではこの先誰も味方になどならん。自分で自分の首を絞めるだけだ」
そこでようやくブライスはジミーの上から降りた。ジミーは少しの間、呆然として床に倒れていた。
「手続きはすぐに行う。荷物をまとめろ」
彼はジミーに背中を向けた。
「そしてもう、二度と俺らに顔を見せるな」
*****
チェルシーは両親に甘え続けた。
姉が今まで牛耳っていた我が家のアイドルの座は自分のものとなったのだ。姉はやはり邪魔者だ。此処に居ても何もしない。何も出来ない。家族のお荷物のような存在だ。どこかに行ってしまえばいいのに。
永遠にこの世界に居たい。あんな辛い現実に戻りたいなんて思わない。思うわけが無い。
「チェルシー、クッキー焼いたんだけれど、どう?」
「食べるっ」
リビングで雑誌を読んでいたチェルシーは雑誌を放り投げてキッチンに居た母親の背中に抱きついた。彼女のエプロンから暖かくて優しい匂いがする。チェルシーはそれをめいっぱい吸い込んだ。
なんて幸せなんだろう。
「チェルシーは甘えん坊よねえ」
「えへへっ」
そう、本当はこうして甘えていたかった。ずっと小さい頃から、今まで、姉よりも自分を優先して欲しかったのに_____。
バツン、と突然辺りが真っ暗になった。ブレーカーが落ちたような急な暗さにチェルシーは「え?」と声を出す。
「お母さん、お父さん」
暗闇に向かって声をかけるが誰に返事をしない。手や顔にまだ母の背中の感覚が残っている。さっきまで外は明るかった。停電になっても家の中は十分に明るいはずなのに。何も見えない。
「満足した?」
「ひっ......!?」
突然、後ろから氷のような冷たい声が聞こえてきた。振り返ると、イザベルがいた。暗くて姿は見えないはずなのに、何故か彼女は亡霊のようにぼんやりと辺りを照らして、静かにそこに佇んでいた。
「お姉ちゃん_____」
「楽しめたかしら」
「どういうこと? お姉ちゃん、何かしたの?」
「いいえ、見ていただけよ。ずーっと、あなたの幸せそうな顔を」
そのセリフには悪意がたっぷり含まれているようにチェルシーには感じられた。
「......どういうつもり?」
「何が?」
「私がお母さんやお父さんに可愛がられているのが嫌なんでしょっ! だからこんな意地悪するんでしょっ!?」
チェルシーは姉を鋭く睨みつける。
「いつも我慢してるのは私の方なのにっ......お姉ちゃんはいつも甘やかされてばっかりで、私がどんな思いでそれを見てきたか知らないくせにっ!!」
イザベルはチェルシーを黙って見つめていた。ビー玉のような冷たい目だった。そして、笑った。口が裂けたように、にっこりと。
「どうして怒るの?」
「......え?」
「私はあなたを一番に思っているわよ。あなたが居てこそのブランカ家。あなたがこの家で一番に愛されているのよ」
イザベルが目をそっと閉じた。
「甘えていいのよ、もっともっと。私なんか気にしなくていいのに」
イザベルが、目を開いた。
「ひっ......」
「ねえ、チェルシー」
彼女の目は真っ黒だった。目玉がない。それどころか、目があるべき場所は黒く塗りつぶされたようになっていた。あまりにも不気味なその姿にチェルシーは後ずさる。
「もっともっと楽しい夢を見たくない? 今度は邪魔をしないから。お母さんもお父さんも、みんなで。永遠の夢を見ましょうよ」
イザベルが近づいてくる。口が裂け、目は真っ黒で、腕を広げた姉が近づいてくる。
「いやっ......!!」
「愛しているわよ、チェルシー」
「やめてっ!!!」
*****
「!!」
チェルシーは目を開いた。そこには、知らない天井が広がっていた。一度行ったことのあるB.F.の医務室には見えない。
「大丈夫?」
優しい声が降ってくる。男の声だった。体を軽く起こすと、声の主であろう男が近くに立っていた。綺麗な銀色の髪の、白衣を着ていた男だった。
「あ、あの......」
「大丈夫、何もしないよ。どこか痛いところはある?」
「いいえ......」
チェルシーは辺りを見回す。病院だろうか。どうやらベッドに寝かされていたようだ。清潔な白いシーツが心地いい。
「此処は......?」
「そうだね。とりあえず順を追って説明するよ。でもまず、君の名前を聞いてもいいかな」
「......チェルシー・ブランカです」
「チェルシー......君はそのネームプレートからしてBlack Fileの研究員かな?」
「は、はい......」
「そっか、わかった。少し待っていてくれるかい? 眠っていても構わないから」
男が部屋から出ていく。チェルシーはそれをぼんやりと眺めていたが、やがてゆっくり体を倒した。
此処は何処だろう。自分はたしかジミーに命令されて実験を行っていたはずだ。そして変な夢を見て、気づいたら此処に居た。だが、ジミーは此処には居ないし、ブライスや、あの医務室の女医も来ない。
さっきの男はB.F.の研究員か何かだろうか。だとしたらブライスか誰かを呼びに行ったのだろうか。それならば、普通自分にB.F.の職員か確認するのはおかしな話では無いのか。そう言えばさっきの男は、胸に研究員が付けるネームプレートを付けていなかった。
チェルシーは考えているうちに眠たくなってきた。目を閉じると、眠気が襲ってくる。チェルシーはそのまま意識を手放した。
*****
キュルス・ガイラー(Cyrus Guyler)、本名キュルス・フェネリー(Cyrus Fennelly)はエスペラントから帰る途中、ふと路地裏に目を向けて、誰かが倒れているのを発見した。抱き起こすと、冬の冷たさで体が冷えきっている女性だった。
そして女性の胸につけているネームプレートにキュルスは目を見開いた。そこには「Black File」と書かれていた。彼女は白衣をまとっていた。間違いない、あそこの職員だ。
キュルスは電話を取り出してベルナルドにかけた。ベルナルドは有無を言わさず連れてこい、言った。キュルスは彼女を温めながら、応援の車を待った。
*****
次にチェルシーが目覚めると、遠くの方で誰かが会話をしている声が聞こえた。男二人だ。一人はさっきまで部屋にいた男。もう一人はかなり低い声の、知らない男だった。
会話まではぼんやりとした頭では分からない。
やがて、視界に二人の男性の顔が入ってきた。低い声の男はブライスではなかった。もう一人はあの銀髪の男だ。
銀髪の男の方は40になるかならないかほどに見えた。もう一人の男は黒髪で、こちらは50代に見える。目元に大きな傷があるのが特徴的だった。心配げな銀髪の男と比べて、無表情でチェルシーを見下ろしている。
「気づいたか」
「ええ、起きたようですね」
黒髪の男の言葉に、銀髪の男が頷いた。
「チェルシー、話はできそうか?」
「......はい」
「残念だが、まだ名前は名乗れん。お前が仲間につくかどうかに関わってくるからな」
「仲間......」
「怪しい人ではないから安心して。君が困っているならば助けたいんだ。お話を聞かせてくれるかな」
銀髪の男が優しく問う。チェルシーは少しだけ躊躇った。B.F.の情報は国家機密だと入社当時から耳にタコができるほど聞いてきた。
「安心して良い。仲間にならないからといってとって食ったりはせんし、B.F.職員たちに機密情報を漏らした、と話すようなこともしない」
黒髪の男が言う。今の彼の言い方だと、やはり此処はB.F.ではないようだ。自分はあの施設の外に出てきたのか、と驚いたが今の話を聞いてチェルシーは少しずつ話すことにした。
*****
三人の博士は集まって話をしていた。ブライス、ナッシュ、ドワイトである。
「とりあえず、ジミーはB.F.から追い出した、と」
今まで聞いた話をナッシュは簡潔にまとめる。食堂での件があってから一日が経過した。
「ああ、問題はチェルシーのことだ」
「チェルシー......たしか、イザベルの......」
「ああ、そうだな。だが、彼女は今行方不明の状態だ」
「彼女が実験しようとしていた超常現象って?」
ナッシュがブライスに問う。彼は机にある分厚いファイルから、何枚か紙を取り出した。文字がびっしりと書いてある。超常現象の事前情報を記載した資料のようだ。
「『夢見箱』といってな、中に入るとそいつが望む夢を見ることが出来る。チェルシーは恐らくそれに入ったんだろう。俺が箱を確認しに行った時、その超常現象はもうそこにはなかったがな」
「それは......消えちゃったってことかい?」
ナッシュが眉を顰める。彼の手から資料を受け取って軽く目を通してみるが、そんな能力がある超常現象だとは何処にも書いていないのだ。
「そうなる。あの超常現象はまだ隠れた能力を持っているかもしれん。発見された時はまだ、中の人間を消す能力を持っていることは知らなかった」
「じゃあ、チェルシーは何処に行ったんだろう」
ドワイトが首を傾げる。
「それはわからない。B.F.内を探したが見つからなかった。おまけに」
ブライスはため息をついた。
「今回新たな課題もできたな」
「ああ、」
ナッシュの顔が曇る。
「B.F.に入る研究員が金目当てってことか。でも、絶対に違うよブライス。こんな危険な仕事に金のために命をかけると思うかい?」
ナッシュの意見に賛成なのか、ドワイトも頷いた。
「私も思うよ。命を危険に晒してまでお金が欲しいとは思わない。そんなの、もっと安全に、他の方法で手に入るよ」
ジミーは言っていた。契約書に書いてあった、と。B.F.では契約書を書かされる。これはブライスと職員との契約と言うよりは、国と職員との契約なのだが、契約の内容は以下の通りである。
危険な超常現象を調べ、仕事を懸命に行った職員は退職するか辞職するかで、給料を一括で受け取ることが出来る。
今まで施設にいた分の生活費は、その給料から引かれているが、命懸けということもあってそれなりの大金が一人一人に用意されていることは間違いない。外に出れば一生暮らしていけるほどには用意されている。
だが、その給料を受け取るためにはいくつかの条件が準備されている。まず星4以上であること。そして、実験の回数をある一定数こなしていること、など。
大抵の星5研究員は今仕事を辞めてもこの先の人生で困ることは少ないだろう。
「みんながそんな思考回路じゃ此処は酷く殺伐とした空気が流れているだろうよ」
ナッシュがそう言って、資料を机の上にパサ、と置いた。
「うん、みんなそんなこと考えないで真剣に君の後ろをついてきているよ。大丈夫」
ドワイトも微笑んだ。二人の言葉にブライスは何か言いたげだったが、言葉を呑み込むと黙って机上の資料をかき集めた。
*****
チェルシーは話し終えた。姉の部屋で見つけた参考書からB.F.に興味が湧いて入社したこと、そこでジミーという男の助手になり、いじめられたこと。初めての実験を一人で行うよう強いられ、更にその超常現象の中で眠り、気づいたら此処に居たこと。
「そっか、それは辛かったね」
銀髪の男性が優しく言った。
「もう大丈夫だよ。此処にはそんな怖い人はいない」
「......はい」
「さて、だいたいはこんなものかな」
男がメモしていたノートをぱたんと閉じて、隣でさっきから黙っている黒髪の男に目をやる。男は小さく頷いた。
「最後にチェルシー、君はその施設に戻りたいと思うかい?」
「え......」
「Black Fileに戻りたいかい?」
「......いいえ」
チェルシーは首を横に振った。すると、銀髪の男が微笑む。
「じゃあ、決まりかな」
そして、椅子に座り直して、姿勢を整えた。それだけで絵になるほどの美しさだった。
「じゃあ自己紹介をしようか。僕の名前はキュルス・ガイラー。そして」
「ベルナルド・ウィンバリー(Bernard Wimberley)だ」
「君が外で倒れていたから、僕が君を此処まで運んできたんだよ」
「えっと、此処は......」
「此処はね、超常現象を調査する僕らのアジトだよ」
キュルスが優しい声で続ける。
「チェルシー。ようこそ、エスペラントへ」
*****
非政府組織エスペラント。簡単に説明すると、政府の力を借りずに自分たちで超常現象を調査する団体だ。まるでB.F.とは真逆の存在である。
職員の数は300人と少し。Black Fileと圧倒的に違うのは施設の雰囲気だった。娯楽が充実している彼らのアジトは、ショッピングモールのような造りになっており、職員たちが自分の時間を楽しんでいた。買い物をしたり、談笑をしたり。賑やかな施設の中はまるで研究所とは思えなかった。
「B.F.研究員からしたら新鮮かもしれないね。此処は職員のメンタルケアを重視した施設になっているんだ。危ない実験続きだと職員も精神的に参ってしまうだろう? だからこうして社内に娯楽施設を設けている」
キュルスはチェルシーに施設を歩きながら案内してくれた。本当にみんな楽しそうだ。どれもB.F.で見られない光景。あそこにいた時間は長くなかったが、こんなに明るい雰囲気の場所ではなかった。
フードコートでご飯を食べている職員や、本を読んでまったりしている職員、テレビゲームをしている職員や、トランプ、ボードゲームなどを楽しんでいる職員など......。
チェルシーは忙しなく顔を動かしている。
「危険な超常現象のときは無理をさせないようにしているんだ。君の上司のような人はいない」
「......」
何て素敵な会社だろう。もし、自分がB.F.ではなく、此処で働いていたら?
そうしたらもっと違う人生を歩めていたかもしれないのに。
だが、そんなこと今更考えてもどうしようもない。選んでしまったのは結局自分なのだから。なんて昔の自分は考えが浅はかだったのだろうか。
チェルシーは軽く唇を噛んだ。
「君には今日から此処で働いてもらいたいと思っているんだ」
「えっ......」
チェルシーは思わず足を止めた。キュルスも同じく足を止める。
「もちろん、強要はしない。ただ、B.F.のことをもっと聞かせて欲しいってベルナルドさんがね」
「でも私......仕事ができないんです。ジミーさんが言っていたことは理不尽でしたが、何も出来ないのは本当です」
「でもそれは、君が何も教えて貰っていないからだろう? チェルシーは才能が素晴らしいと思うよ」
キュルスの言葉にチェルシーは耳を疑った。
報告書も思うように書けず、掃除もほとんどできていなかったような自分に、一体なんの才能があるというのだろう。
「君の才能はベルナルドさんや僕で花咲かせてみせるよ。それに、考えてみて。君は今、野に放たれたんだ。このまま街をさ迷うよりは、行く宛てがある方がいいんじゃないのかい?」
「......」
確かにそうである。この研究所が一体何処なのかを、そして自分の家への帰り方を、チェルシーは何も知らなかった。
彼女は頷いた。
「じゃあ君にとって最初の仕事を早速与えようと思う」
どこに持っていたのか、キュルスがチェルシーに顔より少し大きいトランクケースを渡した。ずっしりと重く、受け取ったチェルシーは少しだけよろめく。
「簡単にすぐ終わる仕事さ。教えてあげるから、こっちに来てくれ」
*****
鉄の塊が放つ威力はチェルシーの想像を絶するものだった。
「見事だ」
ベルナルドが倒れた研究員を見下ろし、薄く笑った。チェルシーは荒くなった息で、彼の後ろ姿を目で追っていた。
「やるじゃない、新入りちゃん」
後ろから肩を抱かれて、花の香りがチェルシーを包む。
チェルシーに与えられた最初の仕事というのは、B.F.からペアの研究員を毒殺して逃げてきた男を殺すというものだった。チェルシーの放った弾丸は逃げようとしていた男の後頭部から入り、頭蓋骨をいとも簡単に破壊した。
「慣れるさ、最初はみんなそうなんだ」
震えるチェルシーの手に女性が自分の手を重ねた。
「そのうち人を殺すのが楽しくて仕方なくなってくるよ」
チェルシーの意識が徐々に失われていく。
自分は、人を殺してしまった。
*****
イザベルはオフィスでぼんやりしていた。あれから妹の姿をほとんど見ていない。
彼女はどうなったのだろう。B.F.を出る頃には少しくらい心を開いてくれているといいのだが。
「イザベル、実験に行くよ」
タロンがイザベルに声をかけた。
「はい」
イザベルは立ち上がる。
今は仕事優先だ。妹はしっかりしているから、きっと要らぬ心配だろう。
そんな彼女の元に、妹が行方不明になった、という伝言が届くのはそれから間もなくのことだった。
*****
チェルシーはエスペラントの職員として働くことが正式に決定した。どうやらあの男を殺せるかどうかで、自分をエスペラントに引入れるかどうかを決めたらしい。
エスペラントはB.F.よりも遥かに良い場所だ。それに、此処では自分は想像以上に必要とされているらしい。キュルスにも、ベルナルドにもだ。
待ち望んでいた情景が目の前で繰り広げられることにチェルシーは幸せを感じていた。
姉はあそこで辛い日々を送ればいい。自分は此処で頑張ろう。
さあ、今日も訓練だ。
「よ、よろしくお願いします!」
チェルシーは重い鉄の塊を構えて、引き金を引いた。