嫉妬 前編
チェルシー・ブランカ(Chelsey Blanca)は、いつだってうんざりしていた。両親は何かと自分と姉を比べたがる。頭の出来から顔の良さまで。姉はいつでも自分より上で、周りから期待の目を向けられていた。そして、その期待に沿ったことをきちんと行ってしまう。いとも簡単に、スマートにタスクをこなしていく。
だが、本人は褒められてもさほど嬉しそうではなかった。ただ聞き流すだけだった。昔からそういう人ではあったが、それがとても癪に障る。
が、自分はそんな姉よりひとつだけ優れている点があった。それは、人付き合いだった。クールで口下手な姉に比べて、自分は上手く相手の機嫌をとることができた。なんとかそこでやっていけたので、世渡りは自分の方が上手なのだという自信がチェルシーにはあった。
両親が姉のことを話し始めたら、上手く話を違う方向に持っていくことができたし、周りの人間の機嫌を自由自在に操ることもできた。これは自分の譲れない武器である。姉にはない、唯一の能力。
だから、これを使って分からせてやるのだ。世の中は頭の出来や顔の良さだけでないということを、彼女に思い知らせてやるのだ。あの綺麗な顔に泥を塗りたくってやるのだ。
*****
「え......出ていくの?」
ある日の夕食の席で、話を聞いたチェルシーは思わずそんなことを言った。
姉が家から出ていくようだ。就職先が決まったらしく、そこで住み込みで働くらしい。てっきり彼女は大学にでも行って、そこで自慢の頭の良さを披露してくるものだと思っていたのだが、どうやら違ったらしい。それに住み込みだなんて、家政婦か何かにでもなるのだろうか。姉がそんな仕事をできるような人間には到底思えない。
イザベルはチェルシーの斜め前の席で黙々と食事を進めている。自分のことが話題にあがっているというのだから、もっと自分から話を広げようとは思わないのだろうか。そこも、チェルシーが姉を気に入らない点であった。
「でも、本当に何処の会社で働くんだ?」
「そうよ。就職先が決まったって、ある日突然言い出すんだもの。せめて会社の名前くらいは教えてくれてもいいんじゃないかしら?」
なんと、まだ会社名も明かしていないのか。本当にどこに行くつもりなのだろう、この人は。スパイかなにか、裏組織で働くつもりなのだろうか。
「荷物はまとめたの?」
「寂しくなったら、いつでも帰ってくるんだよ」
チェルシーは目を伏せた。同じ空間にいると、両親は姉の方を優先して話す。確かに自分はまだ世に出ていないし、何か目立つようなこともしていない。今日に限って二人の関心を引くような話題も持っていない。
だが、姉がこの家を出ていくのだとしたら、最高ではないか。両親の関心は嫌でも自分へと向けられるはずだ。姉が今まで横取りしていたものを、全て自分に向けることができるのだ。
*****
食事が終わったチェルシーは二階にある自室に向かう途中、イザベルの部屋の扉が開いていることに気がついた。部屋には誰も居ない。主はきっとお風呂にでも入っているのだろう。
姉が出ていくというのは嬉しいが、チェルシーは両親と同じく、姉が務める予定の会社のことが気になっていた。
確かに此処一年程熱心に勉強している様子だった。テスト期間でなくても常に勉強していた姉だが、学校を卒業してもペンを手放そうとしなかったのだから、国家資格か何かを取るのだろうか、と軽く思っていたくらいだ。
チェルシーは何年かぶりに姉の部屋に足を踏み入れた。物欲が無いと言っても過言ではないほど、姉の部屋は家具が少なく閑散としている。服もどれも同じようなものばかりで、クローゼットもスカスカだった。
自分より部屋の広さが一回り小さいのは、昔自分のわがままで姉に泣きついて部屋を変えてもらったからだ。妹だから、という理由で狭い部屋にされたのが嫌で、わがままを言ったら、姉は嫌な顔ひとつせず今の部屋をチェルシーにくれたのだ。
昔は本当に仲が良かった。でも、今はどうしてこんなにも隔たりが出来てしまったのだろう。
簡単な事だ。大人になった、それだけ。嫉妬や様々な感情を覚えたのだ。だから相手の行動にいちいち腹を立てる。相手の行動に敏感になってしまう。
いや、これは本当に大人になったと言うべきか?
寧ろかえって子供っぽいのではないだろうか。
嫉妬をして、遠回しに嫌がらせをするなど、せめて中学生辺りで終わらしておくべきことなのではないのか。
自分は常に劣等感を抱いていた。姉にあって自分には無いものが多かった。周りの大人の反応によってそれはどんどん浮き彫りになっていく。好きだったことでさえ姉に負けたと分かった時は、絶望した。
小さい頃は純粋に彼女の背中を追っていた。が、もう追う気にすらならなかった。自分は姉と後ろ向きに歩くことにしたのだ。自分には「世渡り上手」という武器があるのだから。これさえ持っていれば、少なくともある程度の味方は作ることが出来るはずだ。
「......?」
チェルシーはイザベルの机の上にファイルが乗っているのを見つけた。珍しい、しまい忘れだろうか、と本棚を見てみるが、本棚は驚く程に空っぽだった。いつもは難しそうな本でぎっしりだったというのに。もう此処に戻ってくる予定は無いのかもしれない。
机上にあったファイルを開いてみて、チェルシーは目を疑った。そこには様々な資料のようなものが挟まっていた。書いてある単語はどれも現実離れしているように見えた。
言うなればオカルトだろう。
姉がこんなものに興味があるとは思えない。
しかし、ファイルの中身は全てその類のもので、ところどころ付箋やメモがあったり、マーカーが引かれてあったりと、熱心に勉強した跡があった。姉が勉強していたのはこれなのだろうか。それにしては奇妙である。こんなものを勉強して何をするつもりなのだろう。
と、チェルシーが最後のページまでペラペラとめくっていったときだった。白い封筒がファイルの最後に挟まっているのを発見した。蝋封で閉じられていたようで、封筒の隅には「イザベル・ブランカ様」と綺麗な字で書かれている。開封したあともあった。
チェルシーは恐る恐る封筒の中身を確認した。出てきたのは手紙だった。いや、合格通知書とでも言うべきだろうか。
「Black File......?」
聞いたこともないその名前にチェルシーは首を傾げた。だが、内容に目を通してみると、彼女はそこの入社試験に合格したらしい。
もしかして、彼女はこの会社に_____。
しかし、考えてみればあのファイルの中身と、この会社で行う仕事が全く検討もつかない。姉は何をしたいのだろう。そもそもオカルトなど根っから興味がなさそうだというのに。
その時、チェルシーは誰かが階段から上がってくる足音を聞いた。イザベルである。
彼女は慌てて手紙を封筒に戻して、元の位置に挟み、ファイルを置き直して部屋から出た。階段を降りようとして、姉とすれ違った。
「次はチェルシーが入るの?」
「......うん」
チェルシーは首肯が遅れた。驚いた。姉から話しかけてくるとは。しかし、それ以上話が弾むこともなく、二人は静かにすれ違った。姉は部屋へと戻っていく。気づかれてはいないようだ。
チェルシーはドキドキしながら階段を降りた。
*****
次の日、姉は家を出ていった。両親の見送りにも相変わらずのクールフェイスで対応している。背中には大きなリュックサックを背負っていた。徒歩で駅まで行くつもりらしい。誰かの力を借りようとしないのが何とも姉らしい。
「寂しくなるわね......」
イザベルの背中が見えなくなった辺りで、母親がしんみりとした表情を浮かべてそう言った。父親はそんな母親の肩を抱き、チェルシーの頭に大きな手を乗せる。
「でも、まだチェルシーが居るよ。チェルシー、なにか美味しいものを食べに行こうか」
「そうね、甘いものでも食べに行きましょうか」
「行きたい!!」
そう、このときを待っていたのだ。姉はやはり居なくなって正解だった。自分の予想していた通りの展開である。
*****
チェルシーはイザベルが居なくなった日々を堪能していた。両親は自分に尽くしてくれるし、そして何より嬉しかったのは部屋が増えたことだ。イザベルのものだった部屋は当たり前のように自分のものとなり、チェルシーは幸せだった。
姉がいないだけでこんなに快適に過ごせてしまうなんて。きっと姉は今、慣れない社会生活に翻弄されている頃だろう。それでいいのだ。それくらい厳しくしなければ。甘やかされたあの子にはそれがちょうどいいだろう。
*****
「漫画読もうかなー」
高校も長期休暇に入り、チェルシーは姉のものだった部屋で過ごしていた。家具も何もかも置き換えて、可愛い小物や壁紙で部屋を彩った。ただ、クローゼットの奥の方にはほとんど手をつけていなかった。物はこれから増えていくだろうし、空きがあるなら困ることはないだろう。
だが、クローゼットに何も置いていないというわけではない。扉を開けば、そこには高く積み上げられた漫画本が置いてあるのだ。棚に入り切らずに床に溢れているが、こんな場所は誰も見ないのでチェルシーはあまり掃除をすることがなかった。
だが、服は別である。クローゼットには今やチェルシーが持つワンピースやTシャツがかけられている。どれもそれなりの値段がつくもので、父にねだって買ってもらったのだ。服のセンスは姉よりも良かったが、姉は何を着てもさまになったのでそれが頭にくる。
漫画を何冊かピックアップしているとき、彼女はふとクローゼットの奥にある棚が気になった。クローゼットの奥には、大量の服に隠れるようにして小さな本棚が置いてある。姉の部屋を模様替えする時にあの本棚を動かそうか迷ったが、面倒だったので手をつかないでいたのだ。あのサイズであれば、今床に散らばっている漫画を収納出来るでは無いか、とチェルシーは服をかき分けて棚に近づいた。
それにしても暗い。もう夕方だからか、窓から入る光は弱くなってきている。チェルシーはクローゼットの中にある照明を付けた。そうすると、見えなかった棚の中身がよく確認できた。本棚には何冊か忘れられたように本が入っていた。どれも姉の謎の趣味であったオカルトや超常現象に関するものばかりだ。だが、その中にひとつ、際立って怪しいものがあった。
黒い革の表紙が紙の分厚い束を挟んでいる。開いてみると、参考書のようだ。いつか見た姉の机上にあったあのファイルを思い起こさせるような付箋とマーカーの数である。でも、中身はきちんとした参考書である。相変わらずオカルトチックな単語が並んでいるが、背表紙に細かく刻まれた文字をチェルシーは発見した。
「また、Black File......」
姉の手紙にも書いてあった、あの謎の会社の名前である。
チェルシーは持っていた漫画をまた積み直して、その黒革の参考書を持ってクローゼットから出た。そして、それを部屋のソファに寝転がって開いてみる。参考書の最初のページには、
「超常現象の調査を目的とした組織_____」
Black File。それは超常現象を調査し、世界を取り巻く環境問題などの大きな問題の改善策を見つけていく、政府公認の会社の名前であった。しかし、一般人には非公開の情報がほとんどで、その詳細を知るには政府の人間になるか、本社の職員になるしかないらしい。
チェルシーはそこでようやくイザベルが両親に、自分が務める会社の名前すら教えていなかった理由を知った。そもそも会社から名前を口にすることを禁じられていたのだ。
そして、イザベルはそこの研究員となったようだ。まさか、自分の姉が超常現象を調べる研究員だとは。まるでSF漫画の世界に入り込んだような感覚だ。
チェルシーは夢中になって参考書を読み耽った。
あの姉が何故こんな職種に惹かれたのかは分からない。だが、この仕事は決してつまらないものではないとチェルシーは思ったのだった。
*****
翌々年、チェルシーは高校を卒業してB.F.の試験を受けに言った。会場は全く知らない建物の二階だった。2、30人の男女がいっせいに紙にペンを走らせる。チェルシーも同じくしてペンを走らせる。姉も昔此処でこの試験を受けたのかと思うと、なんだか不思議な気持ちになった。
やがて、試験は終了した。
「結果は明後日の午後二時にご自宅に郵便で届きます。誰にも見られることのないように合否を確認してください。不合格だった場合はすぐ廃棄するようお願いします」
と、受験者はそんな忠告を受けた。本当に一般の目にはとまってはいけないらしい。厳しい上に変な会社だな、とチェルシーは思いながら建物を出た。
そして、二日後の午後。
「合格してる......!!」
あのとき姉の部屋で見たものと同じものがチェルシーにも届いたのだった。今日から自分はB.F.研究員だ。
高鳴る胸にチェルシーは封筒を押し当てた。
*****
「あら、凄いじゃない!!」
「立派だなあ、チェルシー!」
その日の夕方に就職先が決まった、と報告したチェルシーは、姉のように沢山褒めてもらうことが出来た。
「イザベルはどうしているのかしらねえ」
「うん、心配だね」
二人は姉がどこで働いているのか知らない。そして、自分が今からそこで働くということも。
*****
チェルシーは通知を受けてから一週間ほどしてB.F.の新入社員研修会に臨んだ。まだまだ若い研究員は先輩の研究員に説明を受けている。
チェルシーはマウラ・コックス(Maura Cox)という明るい性格の少女と仲良くなった。歳はマウラの方が二つ上で、偶然二人はルームメイトとなった。
「そっか、じゃあチェルシーはお姉さんが此処で働いているんだね?」
「そう、でも仲はあんまり良くないの」
チェルシーは苦笑した。会社にやってきたはいいが、姉の姿はまだ見ていない。だが、何処かには居るはずだ。気になっているわけではない。会わないなら会わないでいいのだから。
「私は一人っ子だから、お姉さんがいるチェルシーが羨ましいけどなあ」
「仲が良ければいいものなんだろうけれど、私はいらないかな」
こう本音を言うのはスッキリした。自分のことを何も知らないわけだから、何もかも隠さずに言うことが出来る。
チェルシーは姉についてマウラに沢山語った。両親に比べられることから、姉が何故此処に入ったのか知りたい、ということまで。マウラは自分のことを話すよりも聞くことの方が好きなようで、2二人はパズルのピースのようにピタリと相性良くハマった。
研修が終わる頃には、すっかり仲が深まっており、チェルシーはようやくこうした友達ができたことに安堵していた。
さて、研修が終われば、いよいよ自分がお世話になる研究員の元へと行って助手志願をしなければならない。皆施設内研修である程度目星はつけたのか、スタスタと歩いて行く。
しかし、チェルシーまだ完璧に決められていなかった。のんびりと班について行っているうちに、研修会は終わっていたのだ。
「マウラはもう決まった?」
隣の彼女はさっきからしきりに資料を捲っている。
「うん、私は少し気になる人が居るんだけど......チェルシーはどう?」
「私はまだ。早くしないとみんなに置いてかれちゃうかな」
「どうだろう、一人が持てる助手の数も限られてくるだろうし......先に行くのがいいかもしれないね」
チェルシーはソワソワしているマウラを立たせて、背中を押した。
「じゃあ早く行かなきゃ。マウラ、ほら、行ってきなよ」
「え!? う、うん、またあとでね、チェルシー!」
マウラはどうやら勇気が足りなかったようだ。チェルシーが背中を押すと、少し早足で、ほかの研究員に混ざって部屋を出ていった。チェルシーはその背中が見えなくなって、小さくため息をつく。慣れない環境に一日居たせいか、どっと疲れが出てしまった。
よろよろと、近くにあった休憩スペースに腰をかけて、貰った資料に適当に目を通す。
なんだか、思っていたよりも地味だなあ、とチェルシーは思っていた。もっとキラキラした、派手な仕事だと思っていたのだが、考えてみれば秘密を握る仕事なのだから世間の目につくことは少ないのかもしれない。しかし、それを分かっていて何故自分は此処に来たのだろう。
ああ、そうだ、姉が居るからだ。
なら、何故嫌いな姉が居る此処に来たのだろう。
何故......。
チェルシーは目を瞑って頭を壁にもたれさせた。何故、嫌いな姉に人生を左右されているのだろう。勝手についてきたのは自分だが、それでは納得がいかない。そもそも姉が居なければ、こんなことにはならなかったのに。
「......」
こんな場所で姉は何をしたかったのだろう。彼女の居なくなった後ならば、表舞台でいくらでもアイドルになれたはずなのに。何を望んで自分はこんな暗闇へとやって来たのだろう。
チェルシーが目を瞑って考えていると、
「大丈夫......ですか?」
声をかけられてチェルシーは慌てて目を開いて、体を起こした。目の前に若い男性研究員が立っていた。綺麗な顔の、優しそうな人だった。
「大丈夫です......」
「そうですか、良かったです」
男性が微笑んだが、あれ、とチェルシーの膝に置いてある資料の束を見下ろした。
「君、もしかして新入社員?」
「はい......チェルシーといいます」
「そっかそっか、俺はハロルド。星4だよ。よろしくね」
ハロルドはチェルシーの横に腰を下ろす。
「大変でしょ、一日目は。慣れないことだらけだもんね」
「はい......でも、自分から望んで入ったので、今更辞めることもできませんから」
言ってからしまった、と思った。これでは入ったことを後悔しているような人間として見られてしまう。自業自得じゃないか、と笑われてしまう。
そう思って彼女は慌てて次のセリフを考えたが、ハロルドは楽しげに声を出して笑った。何故彼が笑っているのか分からず、彼女はきょとん、とした。
「確かに、入ってから後悔するよなあ、此処って。怖い人しか居ないし、変な人ばっかりだし。かと思ったら、とんでもない美人さんに会えるし。意外となんとかなったなあ、俺は」
ハロルドは背中の壁に寄りかかって目を瞑る。その横顔が綺麗で、チェルシーは思わず息を呑む。
「あの......ハロルドさんはどうして此処に入ったんですか?」
「え? 俺?」
ハロルドが頭を浮かしてチェルシーを見る。「はい」とチェルシーが頷くと、頭を戻して、
「んー、そうだなあ」
と、頭に上で点滅する蛍光灯を見つめた。その瞳もまた綺麗だった。
「誰かに愛して欲しかったから......いや、誰かをとんでもなく好きになりたかったからかも」
「......?」
彼の寂しげな顔と、声色にチェルシーは首を傾げる。一体どんな意味だろうと考えていると、「って、忘れて忘れて」と彼が体を起こしてパッパッと手を振った。
「ひー、何か変なこと言っちゃったー。何かさ、ほら、そういうことだよ」
「愛されなかったってことですか......?」
控えめにチェルシーは問う。何か複雑な事情を抱えている人なのかもしれない。
「んー、まあ、そうなのかもねえ。愛されていなかったとは言えないんだろうけれど、俺がそんなに愛を感じられなかった。でもさ、此処には俺を誰かが必要としてくれて、誰かが嫌でも俺を見ていてくれて......それが心地いいんだろうねえ」
まるで他人事のようにハロルドが言う。廊下を行き交う人の雑踏が遠く聞こえた。チェルシーはすっかり彼の魅力に捕らわれていた。
「って、こんなしんみりする話を新入社員にするもんじゃないよな。ごめんなあ、なんか」
「いいえ、何となく私も分かります」
彼は何となく、自分と似ている気がした。両親には愛されていたんだろうが、姉に比べて自分は愛されていなかったように感じられたからだ。きっと彼も同じような経験をしてきたのだろう。
「そっかそっか、ま、タメになるかは分からないけどね」
ハロルドははにかむ。そして、立ち上がりながらポケットに手を突っ込んだ。出てきた手には飴玉が握られていた。それをチェルシーの手のひらにころん、と転がす。
「ゆっくり、ゆったりやってみれば案外できるもんだから。チェルシーならきっと何とかなるよ」
「ありがとうございます」
チェルシーも立ち上がりながら、彼に頭を下げる。
そう言えば、彼は最初星4だと言っていた。なら、自分を助手としてとってくれるのではないだろうか。独立していればの話なのだが_____。
「あの、ハロルドさん......」
「ん?」
ハロルドが身長を合わせてくれた。近くなる顔と声にチェルシーの胸が大きく高鳴る。
「私......」
その時だった。
「ハロルド、そこで何しているんだい?」
声が聞こえてきた。
「あ、タロン先生」
ハロルドがチェルシーから離れる。廊下の方に男性の研究員が立っていた。白髪の髪と、長く伸びた白い髭。研究員の中でもかなり歳がいっている。
「報告書をとってくるようにお願いしたはずだけれど?」
「すみません、ちょっと話に花が咲いてしまったみたいで」
「イザベルが嫉妬するかもしれないよ」
「マジですか!!!」
「そんなわけないだろう。ほら、さっさと取ってきなさい」
「はい! じゃ、またねチェルシー! 何かあればまた話そうな!!」
「......はい」
チェルシーは半分上の空だった。タロンと呼ばれた男性とハロルドが違う道を歩いて行く背中をチェルシーは交互に見た。
イザベル。
あの男性は確かにイザベルといった。
そして、それが姉の名前である。もちろん、姉である確信はない。イザベルという名前はきっと沢山あるだろう。
だが、チェルシーはそれが姉であるということがほとんど分かっていた。そして、ハロルドがタロンという男性の助手であるということも。イザベルとハロルドの関係については分からないが、きっと大事な関係なのだろう。
ああ、いい感じだなあ、と思ったのに。今までないほどの胸の高鳴りを覚えたのに。
だが、そのドキドキは一瞬にして、静かに崩壊してしまったような気がした。
*****
気づけば自分は周りと比べて遅れている人間となっていた。皆優秀な先輩に助手入りし、充実した日々を送っているようだ。マウラも第一志望だった研究員にとってもらえたらしく、幸せなオーラが彼女から溢れていた。喜ぶべきことだろうが、チェルシーは心の底から喜ぶことができなかった。
マウラが多くを語らない性格であったことが何よりもの救いであったというべきか、チェルシーはマウラの自慢話などを聞かされることはなく、二人の関係は以前と変わらなかった。もし多くを語られていたら、チェルシーは彼女と一切口をきかなくなったかもしれない。
「チェルシーは誰か気になる先輩は居ないの?」
「うーん......」
チェルシーはマウラとお菓子を囲んでいた。マウラも少しは気にしているようだ。だが、ハロルドの件から、チェルシーはますます前に進みにくくなっていた。
また姉の名前が出たらどうしよう。どこもかしこも姉で逃げ道が封じ込まれているような感覚だった。
自分が情けなくなってくる。まだ最初の段階で足踏みをしている状態の自分が。あれだけ勉強して、あれだけ両親を喜ばせていた過去の自分に謝りたくなる。
「......もう少し見て回りながら考えてみる」
彼女の強がりきれているのか自分でも分からない、弱々しい笑みを向けられたマウラは「そっか......」と小さく頷いた。
*****
チェルシーは焦り始めている。周りの同期は既に助手として仕事を始めているのだ。自分は仕事もせず、ただそこら辺をうろちょろしているだけの子供に過ぎない。
ああ、もう誰でもいいから拾ってくれないだろうか。
投げやりになってしまう自分に腹が立つが、もうそれくらいしかすることがない。
こんな姿を両親に見せたら、きっと悲しませてしまうだろう。
チェルシーは結局その日も誰にも話しかけずに、あのハロルドと話した休憩スペースへとやって来ていた。いつしか此処が自分の落ち着く場所になっていた。此処に来ればハロルドに会えるのではないか、と少しの希望を知らないうちに持っているのかもしれない。
ハロルドはあれから姿を見せない。実験で忙しいのだろうか。
ああ、もしくは。
姉にこんな妹がいるのだ、と暴露されているのではないか。
この前ハロルドと話した時、自分は彼に名前を明かしている。そのため、もしもハロルドがイザベルにそのことを話していたら、そういうことも考えられる。
「......はあ」
姉にもう少し優しく接していれば良かったのだろうか。考えてみれば避け始めたのは自分の方だ。彼女の話を初めて無視したとき、かなり大きな罪悪感があった。
だが、姉が話しかけなくなってきて、遂に目すら合わせることがなくなったときは、やってやった、というような感情へと変わっていた。
その時にはもう、仲良しなど呼べるような関係には戻れなかったのだ。
チェルシーは壁にもたれて目を瞑る。
姉と和解すればこんな惨めな思いをせずに済んだ。姉は自分に嫌気がさして、こんな会社に入ったのかもしれない。もし姉に優しく接していれば、自分は今頃地上で多くの人間と交わりをもっていたはず。
自分はこのまま此処で屍のように生きるのだろうか。もう地上の光を見ることもないまま。
後悔したって、もう遅いのに。今更になって、どうしてこんな気持ちになるんだろうか。
チェルシーが頭をもたれて悶々と考えていると、
「大丈夫かあー?」
上から声が降ってきて、チェルシーは目を開いた。少しの期待もしたが、ハロルドではなかった。黄ばんだヨレヨレの白衣とズボン、長い前髪から覗く瞳はギラギラと野獣の如く光を纏っている。
「......大丈夫です」
チェルシーは体を起こして、荷物をまとめた。
「ごめんなさい、すぐに退きます」
そう言って早足に立ち去ろうとした。が、
「ああ、待って待って」
突然手首を掴まれた。チェルシーは驚いて振り返る。男は顔に笑みを浮かべてチェルシーを見下ろしていた。まるで新しいおもちゃを見つけた子供のような、もしくは何かイタズラを企む子供のような、そんな顔だった。そしてそんな彼の口からはツンとするアルコールの臭いが漂ってきた。
チェルシーは嫌な予感がした。そして、それは見事に的中したのだ。
「お前って最近入った新入社員だろ。まだ誰にもとってもらってない奴がいるって聞いてたんだよ。それってお前のことだろ? なあ、俺の助手になれよ」
チェルシーは男に掴まれた手首が骨の軋むような変な音を立てていることに気がついた。痛くて顔を顰めるが、男は力を緩める気配すら見せない。意地でもイエスと答えて欲しいような威圧的なオーラだった。
恐怖で泣きそうになりながら、チェルシーは考える。もし此処でこの誘いを断ればどうなるだろうか。まず、この男は物凄く不機嫌になるだろう。下手したら殴られるかもしれない。この場所は人が少ないし、助けを呼ぶのは難しいかもしれない。
だが、しかし、この先このように誰かに自分から助手になれと言われることだあるだろうか。これは考えてみれば、チャンスなのだ。この状況を一変できるかもしれない。
「......」
「返事しろよ。腕折られたいのか」
いよいよ本格的に骨が軋みだす。このままでは本当にまずい。此処でもし、「彼」が来てくれたらいいのに。「何をしてるんだ」と目の前のこの男を一喝して、自分を助手にでも何でもしてくれればいいのに。彼の元でなら、自分はきっと幸せに仕事ができるのに。どうして、姉が、そんな状況を邪魔しているんだろう。
「......私......」
「なんだよ、もっとデカい声で喋れよ」
「助手に、助手になります」
チェルシーは痛みで額に滲んだ脂汗を感じながら、男を見上げてニコリと微笑んだ。
「そうか、じゃあ今日からよろしくな新人」
男が笑う。手首が開放された。酷く痺れている。チェルシーは手首を擦りながら、「これで正解なんだ」と自分に言い聞かせた。社会人の最初などきっとこんなものなのだろう。
しかし、自分の身にこれからどんなことが起こるのか、チェルシーはまだ理解していなかった。