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Black File  作者: 葱鮪命
56/193

File032 〜死の歌声〜

「外部調査ですか......」


 ブライスに会議室に呼び出されていた、B.F.星3研究員マヤ・ピアソン(Maya Pearson)は、そう呟いた。


「少し遠いが、飛行機代は国から出る。他の研究員もつけるが、主な調査はカレブに引き受けてもらいたい」


 マヤの隣に座る星5研究員のカレブ・リンメル(Caleb Rimmell)は目が見えない、盲目の研究員である。だが、彼の得意とするのは研ぎ澄まされた聴覚を使うピアノ、そして嗅覚と味覚を使う味あてなどだ。


「飛行機に乗るほど遠いんですか」

 マヤはカレブの助手であるが、彼が外の世界を歩くという場面に遭遇したことは無い。施設の中は杖や、マヤに手を握られることで安全に過ごすことができているが、外となると当然不安な要素も多いのだ。


「ああ、向かうのはヨーロッパだ。カレブのことをよく理解している者でメンバーは固めた。また、そこ出身の研究員も同行させる。言語に関して心配はいらない」

「そうですか......」


 ヨーロッパ。マヤは行ったことがない。だが、そこ出身の研究員となると土地勘はあるだろうし、心配は半減した。が、本当に大丈夫だろうか。そもそもマヤは外部調査に初めて参加する。制度については日曜会議でよく聞いていたが、まさか自分たちが出る幕があるとは思っていなかったのだ。


 *****


 オフィスへと戻りながら、マヤはカレブと手を繋いでいた。カレブは杖をつきながら、ゆっくりと歩いていた。


「ヨーロッパ......一度行ってみたかったんだ」

 カレブののほほんとした声が降ってくる。


「クラシック音楽ってだいたいあっちが主流なんですよね」

「うん、それもそうだけど、美味しい食べ物が私を待っているからだよ」

「......」


 相変わらずの食いしん坊だ。彼の気を引くのはいつだって音楽か食べ物である。


「どんな超常現象なんでしょうね」

「ブライスさんが後で資料を送ってくれるようだよ」


 カレブは目が見えないということで、ブライスは点字で書き記した資料を別で送ってくれる。マヤも点字を覚えようとしているが、忙しすぎる日々の中ではまだ頭に入り切っていなかった。


 その日の昼過ぎに、資料が送られてきた。マヤの分もしっかり送られてきたので、二人はそれぞれ確認を行う。


「えっと......人魚、ですか」

「うん、そうみたいだ」


 送られてきた資料にはヨーロッパのとある入江で男性の行方不明事件が多発していることが書かれていた。その原因は海で溺れ死んだり、頭部やその他、体の一部が欠損しての出血多量だったりと様々だ。時折そんな遺体が浜に漂流しているようである。そしてそれは架空の生き物と呼ばれているあの人魚が引き起こしていることらしい。


「人魚って、あの半分人間で半分魚の女性ですよね......?」


 マヤは頭の中にある人魚のイメージを口に出して言ってみる。映画やアニメなどにはなっているが、マヤはもちろん本物など見たことない。


「うん。でも女性とは限らないよ。ギリシャ神話のポセイドンやその息子のトリトンは男性であり、人魚の姿をしていたとも言われる。人魚というのには様々な逸話があるんだ。中東地域で栄えたシュメール王朝ではアタルガティスという神様が半分女性、半分魚で絵に残っている。中世ヨーロッパでも人魚の絵というのは数多く残されていて、そこで乗組員を船から引きずり下ろす危険な存在とされていたそうだよ」


 カレブは資料を置いてペラペラとそう言った。


「やけに詳しいですね......?」


 マヤが首を傾げると、カレブははにかむ。


「こういう逸話を大学の時に研究していたからね。たくさんの文献を読んだんだよ」

「そうだったんですか」


 まさかこんな方面の知識もあるとは。彼の興味はどうやら音楽と食べ物だけではなかったようだ。


「昔話や神話が大好きでね、小さい頃によく母親にせがんで読み物を読んでもらったよ。大人になっても好きだったんだけれど、それが本当にあった話なのか、科学的に有り得る話なのか.......現実的なところで気になってしまってね」


 カレブが肩を竦める。


「それで......人魚は実在するんですか?」

 マヤは今一番気になっていることを聞いた。


「うーん、残念ながら居ないねえ。人魚をジュゴンなどの動物に見間違えたという説もあるし、魚の鱗がたくさん付いた人が浜辺に打ち上げられていた、なんていうのもあるようだから......それにそんなすごい存在が居たらビッグニュースだよ」


「ですよね......」


 そんなのが見つかったら浜辺には人魚を一目見ようと人が殺到するに違いない。写真や動画に残っていないのも、ほとんど人魚が居ないと言っているようなものである。


「でも、私たちはどこで働いていると思う?」

 カレブがニヤッといたずらっぽく笑った。


「ここは摩訶不思議なことを扱う会社だからねえ」


 *****


 飛行機の中でマヤは眼下にどこまでも広がる青色を見た。そう、海である。初めて見る空からの景色はマヤの心を鷲掴みにする。


「マヤ、海ばっかり見ているだろう。機内食でも......」

「カレブさん、あそこに島がありますよ......!!!!」


 マヤはカレブの言葉を遮るように、興奮した様子で話す。カレブは「そうだねえ」と相槌を打って機内食に手を伸ばす。


 久々の外にマヤはきっと楽しいのだろう。助手が楽しげれば当然ペアである自分も心が踊る。カレブは自然と頬が緩んでいた。


 そんな二人に同行するのは、星5研究員のモイセス・グルーバー(Moises Gruber)、その助手である星4研究員のレヴィ・メープル(Levi Maple)、そして独立している星4研究員のコナー・フォレット(Connor Follett)である。


「ヨーロッパですかあ」

 レヴィは飛行機から見える海を見下ろして、キョロキョロと落ち着かない様子だ。


「何だか意外でした。モイセスさんがこっち出身だったなんて」

 コナーは隣に座るモイセスを見る。モイセスはタブレットでお土産屋の情報を集めているようだ。コナーの言葉に顔を上げた。


「祖母がね。16まではこっちで過ごしていたんだよ」

「はー、すごいっすね」


「僕らは今回カレブさん達のサポートだと聞いたんですが、それだけでついてきちゃって良かったんですかね......」


 レヴィが送る視線の先にはマヤとカレブが居る。二人は通路を挟んだ二人がけの席に仲良く腰掛けている。と言っても、マヤは外の景色に夢中で、カレブは機内食に夢中なので、会話らしい会話も飛び交っていない。


「まあ、今回の超常現象はカレブさんの耳が必要なようだし......それに、僕らは舟に乗れないようだからね」

「舟?」

「舟っすか?」


 レヴィとコナーは顔を見合わせた。


 *****


「わあ......空が広いですね......」


 飛行機から降りてきて車で1時間ほど。海を見渡せる小さな町に着いた。青タイルを基調としたその町は、海と空によくマッチしていた。


「ホテルにチェックインしましたし......どうしましょうね?」

 モイセスが腕時計を見る。まだ予定の時間まではかなりある。


「人魚が現れるのは21時頃からでしたっけ」

 コナーが海の方をチラリと見ながら言った。観光客が多く、土産物屋や市場が繁盛していた。


「うん、月が出る夜にしか彼女らは水面近くまで上がってこないようだ」


 コナーの質問に頷いたのはカレブ。コナーはまだ半信半疑のようで、じとー、っとした目でカレブを見る。


「本当に人魚なんて居るんすか? 正直信じられないんすけど」


 まあ、と苦笑したのはモイセスだった。

「調査は調査だから、結果はどうであれ海には出ないといけないね」


 そう言って彼はもう一度時計を見る。ホテルに行ってもすることはなく、観光をすると言っても明日までこの町にいるので、明日の楽しみを先に潰すわけにもいかない。


 今が夕方なので、夕食を挟んで浜辺の散策をすれば丁度良い頃だろう。


「夕食はどこでとりましょうか?」

 モイセスがカレブに問う。答えたのはマヤだった。


「私たち、機内食を結構頂いたので_____」

 夕食はいりません、と彼女が丁重にお断りしようとしていると、


「この町の南端に美味しいレストランがあるんですよ。そこで皆で食べましょう!!」


 カレブがそう言ってニコリと笑った。


 *****


「よく食べるっすねえ」

 コナーが呆れ顔を向けた先には、パスタを頬張って幸せそうな顔を見せているカレブが居た。


「ちょっとカレブさん......皆さん見ています。そろそろその辺にしておいてください」

 マヤが恥ずかしげに隣のカレブに囁く。


「マヤも食べるかい?」

「そういうんじゃないです!!」

「仲がいいんですねえ」


 微笑ましげにモイセスがその様子を見ている。レヴィもまあまあ、とマヤを宥めていた。


 すっかり日は暮れて、五人が居るレストランは暗い。灯りは各机の上にある小さなランプと、壁の松明だけのようだ。青いタイルで涼し気な雰囲気もあるが、白い石が暖かい雰囲気も醸し出していて、カップルで来るにはバッチリの雰囲気の場所であった。言うまでもなく、旅行客はカップルが多い。


「ふう、満足」

 カレブがフォークを置いて、口元をナプキンで拭っている。彼の前には空っぽの大皿三枚も並んでいた。


「カレブさん、大食いっすね」


 カレブはこの中で一番華奢である。マヤの方が体格は良く、カレブは病的に細い。その体の何処に今の量のパスタが消えるというのだろう。カレブが美味しそうに料理を口に運んでいる間、マヤ以外の全員が興味深そうに彼を眺めていた。


 マヤはやっとフォークを置いたカレブに溜息をつき、

「すみません、皆さん」

 と謝った。


「いいんだよ、カレブさんが幸せそうで僕らも嬉しいよ」

 モイセスはマヤを励ますようにそう言うと、立ち上がった。


「では、浜辺に行ってみましょうか。舟の準備も済ませてあるようですし」


 *****


 五人は浜辺に向かった。夜の海は遠くの灯台の光を受けてところどころ輝いているものの、それ以外は黒い化け物のようだ。


「何だか怖いですね......」

 レヴィが怯えた顔をしてモイセスの背中に隠れている。


「でも、いい風だ。月も綺麗だし、今日は絶好の調査日だね」


 モイセスが空を見上げる。街灯が少ない町の空に瞬く星に混ざって、黄金に輝く月がぽっかりと浮かんでいた。


「人魚......出ますかねえ」


 コナーが月を見上げながら言う。


「さあ、やってみないことには分からないよ」


 モイセスは浜辺に置いてある木製の小舟に近づいた。人二人がやっと乗れるくらいの小さなものだ。中にはロープと、オール、黒い箱のようなものが置いてある。


 モイセスは海の上に舟を浮かべた。


「さ、どうぞ、カレブさん、マヤちゃん」

 モイセスはカレブを先に船に乗せて、続いてマヤを乗せる。


「結構揺れますね......」

 乗る時に転びそうになりながら、マヤは舟の中に腰を下ろす。


「うん、立ち上がらないようにね。そうそう、上手」


 マヤはオールを握った。今回舵をとるのはマヤである。目の前に座るカレブは大人しくマヤの方を向いていた。


「カレブさん、大丈夫ですか?」

「うん、平気だよ」


 マヤの問いにカレブはニコリと笑った。


「そうですか。一応借り物なので、さっき食べた分、酔って出さないでくださいね」

「あはは、大丈夫だよ」

「それでは、行ってきますね」


 マヤ達が乗った舟をモイセス、コナー、レヴィで夜の海に送り出す。ギコギコと、オールの音が浜辺から遠くなっていく。


「良い絵だねえ」


 モイセスはその様子を眺めながら目を細めた。


 *****


 マヤは舟に乗るのが初めてで、当然自分で漕いで進めるということも初体験だ。


 乗る前にモイセスが伝授してくれたが、上手く進めているだろうか。


 顔を上げてみると、浜からは見事に遠くなっていた。


 それにしても、モイセスは舟に乗った経験もあるのか、とマヤは驚いた。此方に住んでいて、祖母や父に教わったというのだ。


 今回のこの役は自分より彼の方が適任だったのではないかと思ったが、今回の超常現象を忘れてはならない。


「カレブさん......本当に大丈夫なんですか......?」


 マヤは船の上で揺られている彼に控えめに問う。


 今回の超常現象は男性にだけ効果を成すもの。ヨーロッパの人魚の特徴は、船の乗組員を美しい容姿と歌声で海に誘って船から引きずり下ろすというものだ。それは女性には効果がなく、男性だけがその魅力にとらわれてしまう。


 カレブはさっきから風に吹かれて気持ちよさそうにしているだけだ。正直自分の腕がつりそうなので変わって欲しいが彼にオールを渡したら船が全く進む未来が見えない。それにこれは助手の仕事。先輩にやらせる仕事ではない。


 マヤの問いに対してカレブはキョトンとしている。


「大丈夫って......何がだい?」


「人魚のことです。ブライスさんは多分、カレブさんが盲目であるためにこの超常現象を託したと思うんです」


「ふむ......確かにそうだね。ヨーロッパの人魚は資料に載っていた通り、姿で誘惑をしてくるようだし。私は目が見えないからいくら美しいと言えどもどうということは無いさ。でも、歌声はどうかな」


 試すように意味ありげな笑みを浮かべるカレブ。マヤは慌てて身を乗り出す。


「そうですよ、それです。カレブさん、音楽には人より敏感ですよね? それに誘われて海に落ちたりしませんよね?」


「あはは、落ちたとしてもマヤが助けてくれるんだろう?」


「そりゃ、まあ......先輩の緊急時に助けない助手なんて居ませんよ」


 マヤが乗り出していた身を戻して再び漕ぐのに集中する。カレブは「そうだねえ」と微笑んで、海の風と音を楽しんでいる。


 綺麗な人である。マヤは思った。カレブの独特の儚さは夜の海と、月が照らして幻想的になっている。きっと過去に彼のような人間がいたら、絵画か何かに残されていたのではないだろうか。人魚は、彼のことを海に連れていかないといいのだが。


 それにしても緊張感がない。彼が余裕綽々な態度を見せることは過去に何度もあった。どんなに過酷な環境下でさえ彼はまるで、暖かい陽の光が降り注ぐ野原でサンドイッチでも頬張っているかのようなほのぼのした表情をしている。今回はかなり危険な調査だというのに。おふざけで舟に乗っているのだとしたら今にでも舟を浜辺に戻したいところである。


「それにしても.......」


 カレブが口を開く。


「マヤと舟の上に二人きりなんて、ロマンチックだねえ」


 突然の言葉に彼女のオールを漕ぐ手が危うく止まりそうになった。彼女は頬を少しだけ赤く染めて、カレブを睨みつける。


「な、何を言い出すんですか突然!!」

「照れてる?」

「照れてません!! いい加減にしないと私、泳いで浜辺まで戻りますよ!!」

「それは悲しい」

「思ってもいないような声色ですよね!?」


 ごめんごめんと笑うカレブ。今日はやけに上機嫌である。さっきあれだけ美味しいものを食べたからだろう。


 マヤはため息をついた。


 *****


 やがて、彼女はオールを漕ぐ手を止めた。


 かなり岸から離れたが、どうだろうか。


 辺りを見回して、それらしい姿は無いか彼女は探してみた。が、そもそも月明かりが照らしているとは言え、夜の海は水の中までは見えづらい。魚影すらよく見えない。そもそも夜は岩の間などで休んでいるだろうから、泳いでいる魚というのはあまりいないだろうが。


「どうだい?」

 マヤがオールを止めたのでカレブは岸から離れたことを察したらしい。


「さあ......あとは待つだけだと思うんですが......寒くないですか? 寒くなったら戻ろうと思っているんですが......」


 カレブはひざ掛けを使用していない。マヤはオールを漕いでいたからか適度に体はポカポカしているが、ずっと乗って海風に当たり続けているカレブは体が冷えきっているかもしれない。


 しかしカレブはそんな風には見えなかった。微笑んでマヤの方を向く。


「ありがとう、マヤは優しいね」

 いつもの何倍も猫なで声を出して言う彼にマヤはじと、とした目を向けた。


「何なんですかさっきから。褒めてもおやつの量を増やしませんよ」

「......気づかないと思っていたんだけどね」

「さっきあんなに食べたのにまだ食べるつもりなんです?」

「まさか。でもおやつは別腹なんだけどなあ」


 どうやらおやつ目当てであれだけマヤに優しいだの、二人きりだの、喜ぶだろう言葉を投げてきたらしい。


 呆れてマヤがため息をついたその時だった。


 突然、どこかからか声が聞こえてきた。海面を滑るように、夜の闇の向こうから、透明な美しい声が聞こえてくる。


 マヤもカレブも口を閉ざし、その声の方向に顔を向ける。


 間違いない。人魚の歌声である。


 まさか本当に出てくるなんて。マヤは知らないうちに自分の胸がドキドキしていることに気づいた。


 伝説上の生き物だと思っていたが、B.F.に勤める以上、これは特別珍しいことでもない。だが、やはり驚いてしまうのも事実だ。


「これ_____」

「うん、良い歌声だね」


 カレブがうっとりした様子で聞き入っている。マヤはまずいと思って、


「カレブさん、しっかりしてください。なに聞き入ってるんですか。ちゃんと仕事してください」


 と、少し焦り気味に言った。


 すると、


「もちろん、仕事をせずには帰れないからね」


 カレブがゆっくりと目を開いた。青く美しいオッドアイがマヤを見る。もちろんその目は役目を果たしていない。だが、マヤは知っている。目を開くと彼はいつになく真剣なモードに切り替わることを。


「マヤ、人魚達は私たちに伝えたいことがあるようだ」

「伝えたいことですか?」


 歌声は今も続いている。柔らかく、ゆっくりとした歌だ。楽しげな声と言うよりは悲しげな声に聞こえるようにマヤには思えた。


 だが、彼女らは一向に姿を見せてはくれない。


 水の中には居るのだろうが、それにしても水中からこんなにクリアに音が耳に届くのは、凄いことだ。きっとこれも超常現象の性質のひとつであろう。


「そう、寂しいんだろう」

 カレブは頷いて言った。


「寂しい......?」

「うん、歌の中に何度もそれに似た単語が入っているよ」


 カレブの言葉にマヤは耳を澄ませてみるが、マヤにその言葉は分からない。此処の地方の言葉はモイセスしか知らないと思っていたのに、カレブもある程度知識はあるらしい。


 人魚が寂しいと思っている。


 マヤは思考を巡らす。


 神話や物語に出てくる人魚が人を海に引きずり込むのは寂しいから、誰かに一緒にいて欲しいという思いが込められていたりでもするのだろうか。大体は繁殖のため、だと資料には載っていたが、この超常現象の場合はまた違う可能性がある。


 だが、そんなことが分かったところでどうするというのだろう。人魚たちが寂しいと嘆いていたとしても、自分たちに彼女らの悲しみが癒せるわけではない。


 だが、


「一緒に歌ってみるのはどうだい?」

 カレブが提案した。


「......へ?」

 マヤは思わず聞き返す。カレブは背中に背負っていたケースをマヤに渡して、開くように言った。それはギターケースであった。


「歌うって......どういうことですか?」


「人魚たちとデュエットするってことさ」


「えっと......」


「歌を聞いている限り、彼女らは大人になると小さい頃から共に育ってきた兄弟や仲間とバラバラになって、再び新たな群れを作るために他の仲間を探すそうなんだ。でも、やっぱり元いた家族や仲間が気になってしまうみたいだね。その思いを歌にしているみたいなんだ」


 カレブの話にマヤはぽかんとしていた。今の歌声でそれだけの情報を得たのだと思うと、彼は凄い。異国の言葉などマヤはちっとも分からない。マヤが知らないところで勉強をしていたのかもしれない。


「それで、彼女らは寂しさを海に落ちた男性で紛らわそうとしているそうだ。でも、それが毎晩できるというわけではない。そうなると彼女らの心の支えは歌なんだよ。誰かに自分の思いを伝えることができるかもしれないしね」


 カレブは微笑んだ。


「彼女らが歌う大きな目的は男性を海に落とすことじゃない。共に歌って欲しいんだ、私たちに。舟の乗組員にね」


 マヤは驚いて目をぱちぱちさせる。


「私たちって.......私も、ですか......?」

「もちろんだよ」


 カレブがふふ、と笑った。


「大丈夫。音程は私が教えるし、彼女はどうやら私たちを襲う気はないようだよ」


 カレブに言われてマヤは戸惑いながらギターケースを開いた。中には立派なアコースティックギターが綺麗に入れられている。借り物なのか、それともカレブが持っているものなのかマヤには分からない。彼は楽器はピアノしか弾けないものだと思っていたが、まさかこれも弾けるというのか。


「カレブさん......ギター弾けるんですか?」

「うん、何度か弾いたことはあるんだけれど、マヤの前では初めてかもしれないね」


 貸して、と手を伸ばされてマヤは彼にギターを手渡す。彼は足を組むと、そこにギターを乗せてチューニングを始めた。儚げで、夜空に溶ける優しい音が舟の上から発せられる。


「言葉は此処のものにしようか。発音なんかは気にしなくていいから、とにかく楽しみながらやってみよう」


 こうして舟の上でカレブの歌のレッスンが始まった。


 *****


「マヤはいい声で歌うじゃないか」

 歌詞を一通り覚えたところでカレブは笑う。


「音を外しても笑わないんですね......」

 歌うことが得意ではないマヤは少しだけ恥ずかしげに俯く。


「当たり前じゃないか。音楽というのは音を楽しむものだ」

 カレブはそう言って鼻歌を歌いながら何度も同じ場所を練習している。マヤはそんな彼を見ながら微笑んだ。


 相変わらずこの先輩はなんでも出来る。歌も上手い、ピアノもギターも上手い。弾けない楽器など存在しないのではないかと思うほどだ。


 カレブが鼻歌を止めた。辺りに静けさが戻ってくる。


「さて、長らく待たせてしまったからね」


 マヤはハッとして舟の外を見た。美しい髪を水中になびかせて泳ぐ女性の姿が見える。一人でなく、五人、六人ほどだ。もちろん人間ではない。彼女らの腰から下は月明かりに輝く美しい鱗であった。


 カレブは目が見えていないはずなのに水中を泳ぐ彼女らを見下ろしている。


「さあ、始めようかマヤ」


 カレブがマヤの方を向く。その目はやはり美しい。


「海と陸のセレナーデを」


 *****


 セレナーデ。小夜曲と呼ばれるそれは名前の通り夜に演奏される曲である。元々は男性が女性を口説くための曲であり、今では野外で演奏される曲全般を指すようになった。


 船の上から人魚に歌うセレナーデはカレブが彼女らに少しでも顔を見せてはくれないだろうか、と頼む内容だった。あとから聞いたマヤは驚くと同時に呆れて言葉も出なかった。


「微かに聞こえてきましたよ。とても素敵な演奏でした」


 浜辺に戻るとモイセスがカレブのギターケースを持ってそう言った。


「人魚を口説こうとしていたってことですか?」

 レヴィが目を丸くする。カレブがそうなんだけれど、と言って首を傾げる。


「舟の上まで上がってきてくれるのを期待していたんだけど......なかなか一筋縄ではいかないものだね、彼女らは」


「まー......そりゃあ、そうっすよね」

 コナーが頷く隣でモイセスは真剣な顔で腕組をして考え込んでいる。


「人間と人魚では体温が違いすぎるみたいですしね。人間と人魚が触れ合ってしまうと人魚の方は体に火傷を負ってしまうそうなんです。もしかしたらそれを恐れて......」

「いや、モイセスさん、多分そういうことを言ってるんじゃないと思うっすよ」

「そうなのかい?」


 そんな会話から外れてマヤは暗闇がいっそう濃くなったように感じる夜の海に視線を投げる。


 カレブの歌声はそれはとても美しかった。もし彼が人魚で、それを海面で歌われたとしたらマヤは間違いなく魅了されて海に落ちてしまうだろう。むしろ彼の歌声は人魚を舟に引き上げてしまうのではないかと思うほどだった。


 ブライスはきっとカレブのあんな調査方法を期待してヨーロッパまで外部調査を派遣したのだろう。確かに、最初から心配などいらないほどカレブは落ち着いていた。


「マヤ、そろそろホテルに行こうって、モイセスさんが言っているよ」

 カレブが横にやってくる。


「気持ちいい音だね」

 海の音は夜だと少し怖く感じるが、マヤは隣にいる存在のおかげかそうは感じられない。


「手、繋ぎますか」

 マヤが問うとカレブは微笑んで頷く。二人の手が重なった。マヤは静かな海をもう一度見た。


 人魚に歌うセレナーデ。


 彼女らは海の底でどんな思いを持ち、乗組員を襲うのか。


 少なくともマヤは自分が人魚ならば間違いなくカレブに手を伸ばすだろう。


 今こうして手を繋ぐというのは、さっきモイセスが言っていたことからして、人魚ならば死に至るようなことだろう。それでも、とマヤは彼を握る手に力を込める。


 それでも、マヤはきっと手を伸ばす。


 それがたとえ禁じられた行為だとしても。指先が火傷しようとも。

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