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Black File  作者: 葱鮪命
49/193

File028 〜不足の一音〜

「カレブさん!! またクッキーをつまみ食いしましたね!!?」


 とあるオフィスで一人の女性研究員が、椅子に座る男性の前で腰に手を当てて怒っていた。

 黒髪で緩く後ろに団子を作り、20代前半のかなり若い研究員である。


 彼女の名前はマヤ・ピアソン(Maya Pearson)。星3のB.F.研究員だ。


「おやつの時間までどうして待てないんですか、全く......」


 マヤのデスクの上には空っぽになったクッキー缶が置いてある。缶の大きさは、マヤの顔がすっぽり収まるほどなので、一人で食べるには多すぎる量が入っていたことが伺える。


「ふむ......ちゃんと私が分からない場所に隠しておかないマヤもマヤじゃないか? 昨日と同じ場所に置いてあったよ。あれでは私に食べてください、と言っているようなものだ」


 彼女の目の前に座る男性がそう言って腕組している。綺麗なグレーの髪を持つその男性研究員は、マヤより随分年上のようだ。30代後半くらいに見えるが、その顔には子供のような、不満げな表情を浮かべていた。


 彼の目は閉じられており、だが顔の向きは立っているマヤの方を見上げている。


「分かっててやっているのなら、今度から買ってきませんよ」

「あ、ごめんなさい、もうやりません」

「もう......」


 男性の名前はカレブ・リンメル(Caleb Rimmell)。「盲目」の研究員である。というのも、彼は子供の頃に発症した病気で目が見えなくなっていた。不治の病で、その病気は片目に発症したとしてももう片方の目にも影響が出てしまうという厄介なものである。彼はそのためずっと瞼を閉じている状態だ。


 彼の助手であるマヤは、彼の病気のことをよく理解していた。彼が病気によって周りから差別的な扱いを受けていたことも、彼がどれほど前向きで心優しい人間なのかも。マヤはカレブの良き理解者であった。


 そんな彼女の頭を悩ませることがひとつ。


 カレブはかなりの甘党であった。何処にお菓子を隠そうがすぐに見つけだしてはマヤの許可無しに全て食べてしまうのだ。というのも彼は目が見えないぶん、鼻と耳が周りの人間よりかなり優れており、絶対音感を持っていたり、どのお菓子が目の前に並べられているかを一発で当てられたり、様々な能力に特化していた。


 マヤはおやつの時間にと、クッキーやチョコレートを最低三日分は食堂から買ってくるのだが、大抵買ってきたその日のうちに、その大半がカレブの腹の中に消えてしまうので困っていた。


「だいたい私は君よりも聴覚と嗅覚が敏感なんだから、私が居るような場所でお菓子を隠そうなんか思っちゃダメだよ。置いた時の音ですぐ分かる。それに、この部屋に入ってきた時点でまずマヤが何のお菓子を持っているのかさえ把握できるんだ」


「反省する気ゼロですよね?」


 得意気にそう言うカレブをマヤは睨みつけた。彼女の怒気を孕んだ声に流石に焦りを感じたのか、カレブは慌てて、


「いいや、反省してる!! 大いに反省しているよ!! 反省しすぎて、お腹が空いてくるくらいにね!!」


「カレブさーーーん??」


「ごめんなさい」


 カレブはしゅん、と身を縮こませる。


 困った先輩である。


 マヤはため息をついて、今日の予定を彼に手渡した。それは、点が並べられた紙で、点の部分はポコポコと膨れている。カレブはそれを指先で触っている。点字である。


「今日は事前から言っていた通り、午後から実験が入っていますからね」


「ふむふむ......私のピアノ技術が活かされる時が来たようだね?」


「そうですね」


 今回の超常現象を調査するにはカレブの優れた聴覚が必要である。彼は先程も説明したように絶対音感の持ち主でもあった。目が見えなくなる前、彼は有名なピアニストだったらしい。

 マヤは彼のピアノを一度だけ聞いたことがあった。彼のためにブライスがピアノをオフィスの前の廊下に置いてくれたのだ。彼はそれを一度弾いたきりである。


 彼のことをよく思わない人達が彼に「煩い」と言葉を投げたのだ。彼は仕方なくピアノを弾くのを止めて、オフィスに戻った。マヤは彼がピアノを自由に弾くことが出来る空間をどうにかして作れないものかと考えていたが、やっと今日のような超常現象に出会うことが出来たので内心とても喜んでいた。


 今回の超常現象はピアノを弾く、という条件があるものなのだ。


 *****


 午後、マヤはカレブの手を引きながら歩いていた。カレブと歩く時は、彼は基本的に右手にマヤの手を、左手には杖を持っている。周りの研究員も見慣れた様子であまり気にしていないようだ。


「マヤ、もしかして私のために今日の超常現象を引き受けてくれたのかい?」


「さあ、どうでしょうね。私はただ、パイプオルガンというものに興味があっただけですよ」


「ふむ、私も弾いたことが無いものでね。上手く弾けるかは少し不安なんだ」


 今回の超常現象はパイプオルガンという楽器を弾かなければならない。マヤは実物は見たことがないが、名前は聞いたことがあった。カレブも弾いたことはないそうだ。だが、そう言っているわりには不安そうな表情を一切見せずに、楽しげに口元を緩ませている。


 *****


 やがて、実験準備室へと辿り着いた。準備室で事前確認を済ませ、実験室へと続く扉にマヤは手をかけた。

 この先は空間が歪んでいて、教会へと続いているようだ。異空間はB.F.ではそこまで珍しい超常現象ではない。


「入ったら一定の条件を満たすまで出られないんだったね」


 カレブがマヤの後ろで確認のために彼女に問う。


「ええ、そうです。準備はよろしいですか? カレブさん」

「もちろん。とっくにできているよ」


 では、とマヤが扉を開いた。その奥は、大聖堂になっていた。地上でもないのに、両脇の壁にある巨大なステンドグラスからは暖かい陽の光が差し込んでくる。想像を絶する光景に、マヤは「わあ......」と感嘆の声をあげた。


「何だか空気がガラリと変わったねえ」

「ええ......」


 カレブも感じているらしい。マヤはカレブの手を引きながら教会の真ん中を歩いた。絶対に口には出さないが、新郎新婦になった気分だ。いや、年の差からしてバージンロードも有り得なくはないのだが。


 マヤとカレブが向かう先には、巨大なパイプオルガンが鎮座していた。黄金のパイプが天井を貫くように何本も伸びており、教会全体を荘厳な雰囲気へと誘っている。


 パイプオルガンは少し段になったステージの上にあり、ステージには両脇から上がれるようになっていた。マヤはそこを、カレブが転ばないように慎重に手を引いて上って行った。


「気をつけてくださいね」

「うん、ありがとう、マヤ」


 やがて二人は階段を登りきって、パイプオルガンの前に立った。マヤは圧倒されて言葉も出ない。こんなに巨大な楽器が存在していたことに驚いた。それと同時に、これがピアノと同じ感覚で弾けるものなのだろうか、と不安にもなっていた。


 この超常現象は一定の条件をクリアしなければ此処に一生閉じ込められることになる。果たしてカレブは条件を満たせるのだろうか。今回に関しては、マヤは見守ることしか出来ないのだ。


「素敵な音色を響かせてくれる予感がするよ」

 カレブはパイプオルガンの鍵盤を優しく撫でた。まるで孫の頭を撫でるおじいさんのように。


「......いけそうですか?」

「ふむ......やってみないと分からないからね」


 カレブがそう言った時だった。


 急にその場の空気を震わせるような大きな音が鳴り出した。それは目の前のパイプオルガンから発せられるものだった。あまりにも大きな音にマヤはびくりと体を震わせる。しかし、カレブは驚くことも無く、耳を済ませて穏やかな表情でその音色を楽しんでいた。


 曲名は分からないが、パイプオルガンがひとりでに弾き始めた曲をマヤは聞いたことがあった。クラシックに疎い彼女が聞いたことがあるのだから、かなり有名なものであるようだ。決して明るい曲調ではない。マヤは音楽の知識はないが、この曲が持つ異様な存在感に少しの恐怖さえ感じていた。


 四分行くか、行かないかくらいだろうか、曲が終わった。いつの間にか張り詰めていた緊張の糸がプツンと切れたような気がした。


「......ふむ」


 隣を見ると、カレブは微笑んでいた。


「素敵な演奏だった。小フーガだね」

「小フーガ?」

「そう、バッハの小フーガト短調」


 カレブがにこりと笑う。少しだけ覗く青い目はその役目を果たしているように、パイプオルガンを見上げている。

 相変わらず綺麗な目だな、とマヤは密かに思った。


「フーガというのはね、最初に提示された音に対して他の声部が後を追いかけるようにして一つ一つ加わっていきながら展開する音楽のことだよ。バッハのフーガは数学的に、緻密に作られた音の追いかけっこを楽しむ、バロックの名曲なんだ」


 カレブがゆっくりと説明をくれた。


 確かに、同じフレーズが少しずつ重ねられていき、少しずつ音が増えていっていったのが印象的な曲であった。

 バロックというものに関しては、マヤにはよく分からなかったが、クラシックの知識がない彼女でさえ知るのだから名曲であるという点は頷ける。


 それにしても、彼は本当に音楽に関して知識があるな、とマヤは思った。以前、音大は出ていないと言っていたが、きっと自分の耳をかなり使い込んできたのだろう。


「この超常現象の特性ですが、このオルガンが奏でる曲の中で何処かの音が一音だけ抜けているんです。それを補って正しいものを再度弾くというのが此処から出られる条件です」


 マヤは自分で説明しておいて、本当にそんなことできるのか、と不安になってきた。


 まず、普通に考えてかなり無茶な条件である。


 今、奏でられた小フーガという曲が今回、与えられた曲であった。今の小フーガは、恐らく何処かの音がひとつ抜けていたのだろう。それを補って、次にカレブが完璧な小フーガを弾かなければならない。


 マヤは、もし自分がピアノを弾けたとしてもそんなことは絶対にできないだろう、と思った。


 そもそも小フーガという曲を弾けなければ、今回の超常現象は調査することすら出来なくなる。カレブはピアノはとても上手だが、果たして小フーガというものを弾けるのだろうか_____そこが問題であった。


 その曲を知っているだけではダメなのだ。

 弾けなければ、マヤたちは一生此処から出られない。


「出来そう......ですか?」


 不安になってカレブの顔を覗き込むマヤ。カレブは、ふむ、とオルガンの方に顔を向けながら、


「もちろん、できない仕事はしないよ」


 と、微笑んだ。


 *****


 カレブはまず椅子に座って、軽く鍵盤を叩いてみた。大きな音が大聖堂の隅々まで響き渡る。


「うん、とっても良い感じだ」


 指慣らしを終えたらしいカレブは、マヤを振り返る。


「やりますか?」

「うん、やってみる」


 カレブは姿勢を正し、椅子に座り直した。膝の上に置いてある手は軽く拳を作って。楽譜の無い譜面台を見つめるように、彼はまっすぐ前を見つめていた。指に目を落としたところで、彼にはその指が見えていない。


 忘れそうになるが、彼は盲目である。


 マヤはハラハラしながら彼を見ていたが、彼が鍵盤に指を置いた瞬間、それは安心へと変わった。


 彼の顔がさっきの、のほほんとしたものではなく、何か神聖な儀式を始める者のような、真剣そのものになる。その場の空気も一変し、緩くたゆんでいた糸が両端から引っ張られてピン、と張るように、空気に重みが加わる。


 マヤは息を呑んだ。さっきまでの雰囲気は何処へ行ったというのだろう。彼の背中が一回りも二回りも大きく見える。


 そして、彼が最初の音を奏でた。厳粛な空気を震わせる高くも低くもない一音。それに続くように二音目、三音目が奏でられていく。ひとつひとつの音を大事に、鍵盤ひとつひとつに愛を込めるように、彼は音を作り出していく。


 彼の目が見えていないことが不思議に感じられる。彼の奏でる音楽はさっき聞いたものと同じ、バッハの小フーガであるが、一音も違わないように思える。絶対音感というものを持つ彼の頭の中には正確な楽譜が描かれているのだろうか。


 マヤは彼の背中を見つめながら、ぼんやりと彼と出会った頃を思い出していた。


 *****


 彼と初めて会ったのは、マヤがB.F.に入社したその日であった。


 新入社員の施設内研修を終えて夕食を食べに行こうと食堂に向かっていた時だった。自販機や小さいテーブルが数個置いてある小さな休憩スペースの前を通り過ぎようとした時、物陰から男性の怒号が聞こえてきたのだ。


「ったく、邪魔なんだよ、さっさと失せろ!!」


 それは中年の男性研究員の声だった。マヤは驚いて足を止めた。


「なあ、アンタさ、周りに迷惑かけてんのわからねえのか? その杖みたいなやつ振り回してさあ、他の人が怪我しちゃったらどうすんの?」


 次に聞こえてきたのはさっきの声より若い男性研究員の声だった。


「此処にお前の居場所なんてねえんだよ!!」

「目が見えないやつが部屋から出るな!!」


 マヤは堪らずに飛び出した。


 昔から正義感は人一倍強い方で、弱いものいじめなどの一方的な暴力は見過ごせなかった。


 マヤの視界に入ってきたのは、自販機の前で仁王立ちする二人の研究員だった。茶髪の男性と金髪の男性である。ニヤニヤと顔に悪い笑みを浮かべて、床を見下ろしている。


 二人の視線の先には、床に転んでいる一人の男性職員が居た。彼の近くには白い杖が転がっており、男性職員はそれを拾おうと手をさ迷わせているところだった。立っている男二人はその光景を面白がるようにして眺めていた。


 マヤは瞬間的に、これはいじめだと判断し、直ぐに倒れている男性職員を守るように立った。


「何をしているんですか!!」


 突然のマヤの登場に驚いた2二人の男性職員は目を丸くしてマヤを見ていた。


「何だあ?お前」

「こいつの助手か?」

「盲目に助手なんかつくかよ。せいぜい看護師がいいところだろ」

「それかママか?」


 二人はギャハハと下品に笑っている。マヤはキッと二人を睨みつけた。


「人をいじめることがどれほど醜いことか分かっているんですか!! あなた方は人をこうして貶すことでしか満足を得られないような方々なんですか!!?」


 マヤの言葉は金髪の職員が顔色を変えた。


「何だとてめえ。もういっぺん言ってみろ!!」

「やめろよ、こいつはまだ低レベルの職員だ。ほら、今日入ってきた新入社員」


 茶髪の研究員が金髪の研究員の肩に手を置く。


「はあ......? お前、俺らが誰だか分かっていてそんな口利いてるんだろうな」


 今にも襲いかかってきそうな男の声色にもマヤは一切動じなかった。


「今会ったばかりなのに知るはずもありません。そもそもあなた方みたいな人の心もない人間に私は今まで一度も会ったことはありません」


 マヤが冷静に、彼らに向かって堂々と言った。金髪の男も茶髪の男も、今度は二人とも目の端を吊り上げた。


「こいつっ......!!!」


「お前は社会のルールが分かっていないのか? 先輩に対してそんな口を利くべきだと思ってるのか?」


「そもそも人間として有るまじき言動をとる方は、たとえ先輩だろうと私は関係ありません。先輩なら先輩らしく、それらしい態度で社会に立つべきだと思います!!」


「この小娘......!!」


 限界に達したらしい金髪の男が拳を振り上げた。マヤはまずい、と思って後ろで倒れている研究員を庇おうとした。しかし、その拳はいつまで経ってもマヤに降ってくることは無かった。マヤは驚いて顔を上げる。


「研究員内での暴動は見過ごせん」


 低い声が遥か上の方から降ってくる。


「ブライスさん......!!!」

 彼らの顔色が瞬時に変わった。声が震えて、顔は青ざめている。


「聞いていれば、一人の研究員を一方的にいじめていた挙句、後輩へ暴力を振るおうとしたようだな」

「ち、違います!! それはこの小娘が......!!!」

「人として出来ていない奴は此処に居ないはずだ」


 ブライスが二人を睨みつけた。


「散れ」

「っ......!!」


 二人の研究員は体の向きをくるりと変えて、早足でその場を去っていった。マヤは後ろで倒れている研究員が立ち上がるのを手伝った。そしてそれが終わるとブライスに深くお辞儀をした。


「あの......ありがとうございました!!」


「何がだ」


「助けてくださったことです。私一人では二人の攻撃となると庇いきれませんでした」


「カレブを守ってくれたことを感謝する。あいつらは少し乱暴な奴らでな」


「カレブ......?」


 マヤが首を傾げると、ブライスはああ、と頷いた。


「お前が守ってくれた研究員だ」


 マヤが振り返ると、男性職員が立ち上がり杖を手に持っていた。どうやら杖は体を支えるために使用しているものでは無いらしい。


「カレブ」

「はい、今日も助けてくださいましたね、ブライスさん。ありがとうございます」

「俺も、部下が迷惑をかけてすまなかった。きつく注意をしておく」

「ありがとうございます」


 カレブと呼ばれた男が頭を下げると、ブライスはその場を後にした。マヤは彼の閉じた瞼と杖を見て、目の見えない人なのだろうと予想した。


「あの......何処かに行く途中でしたか?」

「ええ、オフィスに戻ろうとしていて......」

「お手伝いしますよ。またさっきの方々が来たら大変ですし......何処のオフィスですか?」


 これがカレブとマヤの初めての出会いだった。


 気の強い少女は盲目の彼を放っておけず、彼の助手に志願をしたのだ。


 *****


 彼の指がオルガンの鍵盤の上でなめらかに滑っている。本当に綺麗な人だな、とマヤは彼を眺めながら思った。それは彼が持つ独特の儚さであった。


 今にも消えてしまいそうなくらい透明感のある存在。お菓子を勝手に食うようにはとても思えないほど綺麗な存在。


 彼の瞼の奥の瞳をマヤは何度か見た事がある。彼の目は左右色が異なる青色のオッドアイである。マヤは初めて彼のその目を見た時に思わず呼吸を忘れた。宝石箱を開けた時のような、あの感覚。吸い込まれるような青色に、マヤは心を奪われてしまった。


 彼は病気からオッドアイになってしまったようだ。


 病気というのは、悪いことばかりではないのか_____。


 マヤがそう思ったのを汲み取ってか、カレブは以前、彼女に次のことを教えてくれた。


「病気に悪いことなんて極わずかだよ。私の場合、目が悪くて不便だけれど、その分嗅覚も聴覚も限界まで研ぎ澄ますことができる」


 カレブはそんなことを言った。


「だからお菓子が人より美味しく感じるのかもね」


 そしてお菓子に手を出そうとしたのをマヤは呆れて止めさせたのだった。


 *****


 小フーガは最後の章に突入しようとしている。自分だけの演奏会が終わってしまう。彼の音色をもう少し聞いていたかった。


 やがて、彼は鍵盤から指を離した。


「んー......どうだろ?」

「どうでしょうね......」


 その時、遥か後ろの方で扉が開く音がした。どうやら条件を満たすことが出来たようだ。


「開いたようですよ」

「おお、良かった」


 カレブは嬉しそうに椅子から立ち上がると、マヤと手を繋いで再び教会のあの一本道を通る。


「マヤと手を繋げるのもいつまでだろうねえ」


 ふと、カレブがそんなことを言った。


「何ですか急に。まだそんなこと言う時でもないでしょう」


「君もいつか独立したら私は一人になってしまうんじゃないかと思ってね。オルガンを弾いている時、ふとそんなことを思ったんだ」


「そんなこと考えながら弾いていたんですか......」


 マヤは呆れ顔を向ける。そして、彼を握る手にしっかりと力を入れた。


「私はどこにも行きませんよ。少なくとも、カレブさんがお菓子を勝手に食べないような歳になるまでは」

「おや、私ってまだそんなに若いかい?」

「調子に乗らないでください」


 マヤはため息をついた。

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