一触即発-5
カーラは薄目を開いた。頭がぼんやりしていて、視界も何だか霧がかかったように、輪郭がぼやけている。だが、時間が経つに連れてカーラは少しずつ意識がはっきりとしてきた。
この場所を自分は知っている。ノールズらと最初に連れてこられた、二階構造になっている広い部屋だ。大きなモニターに、倒れた自分の姿がでかでかと映し出されているのを見て、カーラは弾かれたようにして起き上がった。
頭の後ろがズキズキと傷んだ。何で殴られたのかは分からないが、コブになっているようだ。
「よく眠れたようだな」
突然、男の声が降ってきて、カーラはハッとそちらに目をやる。二階部分のモニター前に、いつの間にかあのベルナルドだとかいう男が立っている。
「君のような人材を、我々は長い間探していた」
ベルナルドは、さっきノールズらと居た時とは明らかに違う、甘さを含んだ笑みをカーラに向けた。
「......どういうことか、一から説明していただけますか」
カーラは冷静を装った。本当は今にでも泣き出したいほどに、叫びたいほどに怖いが、もう此処に自分を守ってくれる人など居ない。
チラリと周りを見てみるが、特に見張りらしき人も見当たらない。自分のような如何にも弱々しい子供に見張りなど要らないと感じたのだろうか。
「ああ、そうだな。そもそも君を此処に連れてきたのは、全てを話すつもりだからだ。怖がらずに聞いてくれたまえ。今からする話は、素晴らしい内容なんだ」
ベルナルドが笑みを浮かべたままそう言う。カーラは眉を顰めて彼を見上げた。余程自信があるのだろうが、これから一体彼は何を話し出すというのだろう。
「我々が目指すのは勿論、全ての人々が共存できる世界だ。つまりは、世界平和だな。君らB.F.も、実験の末にその内容で様々な環境問題を解決するという目標を掲げているだろう? それと同じで、エスペラントも世界を救うための実験に日々没頭している」
ベルナルドが声のトーンをいくらか上げて、説明を始めた。
「今の地球に渦巻いている問題は、様々だ。貧困、紛争、温暖化......我々はその問題を解決するにはそもそも、人間の思考そのものを大きく変えていく必要があるのではないか、と考えた」
カーラは何も言わずに彼の話に耳を傾ける。
「勿論、全てをいっぺんに解決することは不可能に等しい。ひとつの改善策を提案し、実行したとして、それは何かの問題に矛盾し、またそれを解決するとなるといたちごっこもいいところだ」
コツ、コツ、と音が鳴り始めた。ベルナルドがゆっくりと二階のフロアを歩き始めたのだ。大きな部屋にはその音が、彼の言葉と共に反響する。
「だがな、人間の脳を根本的に変えてしまったのならどうだ? 痛みや苦しみと言った、人間のネガティブな部分を全てとっぱらってしまえば、この世からそんな問題綺麗さっぱり無くなるんじゃないか」
あまりにも突飛な考えにカーラは何も言えなかった。首肯もせず、二階部分を歩き回るベルナルドをじっと見つめる。
しかし、彼は突然ピタリと歩みを止めた。
「だが、脳の改造というのはとても難しいことだ。分かるだろう? 脳に手を出して、何かといじってしまうとだな、人間の体は耐えられないのだよ。つまり、死んでしまう。我々はそれで何人もの人間を犠牲にしてきた。研究によって人が死ぬ度、どうしたものかと我々は首を捻った。だが、そこでふと、ひとつの考えを思いついた」
ベルナルドが、カーラをゆっくり振り返る。
「人間の脳の改造を、そもそも人間が行うということ事態が間違っているのだ。我々が欲しいのは、苦痛を無くすやり方だ。我々の脳では突飛なアイデアを生み出すのにはどうしても限界があった。だから、我々は人間に助けを求めるのではなく、他のものに知恵を借りることにしたのだよ」
「......他のもの?」
カーラは怪訝に思った。
人間よりも更に知能がある動物が、この地球上に果たして存在しているというのだろうか。確かに、頭のいい動物ならカーラも沢山知っている。だが、人間のように独自の言語を持ち、こうして自論を展開できる生き物をカーラは他に知らない。
困惑しているカーラを面白そうにベルナルドは見つめて、
「地球外生命体だ」
と、短く答えた。
カーラは目を見開いて彼を見上げた。だが、その反応は予想していたらしい。彼は笑って見せた。
「馬鹿げた話であると思うのも当然だ。しかしな、君はまだ生まれていないだろうが、20年以上前に明らかに人間の手で書かれたものでは無い文書が見つかった。我々はその半分を独自の調査で土の中から掘り出したのだ。そして、一部の解読に成功している」
文書と聞いて、カーラはまさかと思った。カーラの知る文書などあれしかない。
「カーラ君もB.F.職員ならば知っているだろう? 文書001の名を」
「!」
やはり、そうであった。文書001_____B.F.の歴史の全ての始まりでもある。20年以上前に発見されたそれは、政府がとある大学の研究チームに読解を依頼し、その読解が完了すると、B.F.が設立されて今に至るということはカーラも入社試験の時に少しだけ勉強している。そして、その研究チームが、カーラの先輩であるドワイト達である、ということもカーラは知っている。
しかし、その内容は公開されておらず、現在知るのは国の上層部の人間か、文書の読解に携わった者だけである。B.F.職員の大半はきっと名前しか知らないだろう。だが、そんな文書を何故この男は、非政府でありながら知っているというのだろう_____。
確かに、文書001は半分しか土から見つかっていないという。もう半分は未だ地球のどこかに埋まっているというが、さっきのベルナルドの話では彼がその半分を見つけたということになる。
「文書001に書かれていたことは実に興味深かった。地球外生命体の高度な知恵はきっと我々の世界に希望の光をもたらすことだろう。そう考えて俺はこのエスペラントで、宇宙における様々な謎や超常現象を調べ始めたのだ」
「......しかし、それでは私が呼ばれた理由が分かりません」
カーラがそう言うと、ベルナルドは薄く笑った。
「ああ、そうだな。では、今我々が進めているプロジェクトの話に入ろうか。 我々は高度な知恵を借りて世界の共存を切に願っている。そして、それに必要がある宇宙の探索に用意せねばならない物は何かと考えた。まず宇宙に行くためには、カーラ君、何が必要だと思うかね」
「ロケット......ですか」
「ああ、そうだ。まあ勿論、一般の団体に借りるというわけにはいかない。我々の頭が狂ってるとでも思われたら溜まったもんじゃないからな。我々は知恵を集結させて、エスペラント専用のロケットを作った。搭乗できるのはたった一人だ」
「たった一人?」
ロケットというものは少なくとも三、四人で乗り込むイメージがあったカーラは、思わず聞き返す。
「そうだ。やがて、我々は地球外生命体のひとつとの会話に成功した。その時に知恵を貸してくれと頼んだらだな、まず彼らは言った」
ベルナルドが微笑む。
「人間の脳というものの解析がそもそも必要である、とな。 地球外生命体から見ても人間の脳はやはり少し難しいらしい。我々はそこで、一人の研究員を彼らの元に送った。成人の男性だ。ロケット内で眠らせて、彼らの元に安全に届けた。が、彼らは酷く怒っていた。何故か? どうやら彼らは、人間の男女、そして子供と大人の脳を比較して実験を行いたい、というのだ」
「......」
カーラは何も言えなくなっていた。
「子供を使いたいのは、何やらどんな過程を経て大人の脳みそになるのかという実験を行いたいかららしい。案外人間じみた研究を行う奴らだとは思わんか? だがな、彼らの喋り方はそれは素晴らしく聡明で、知識を多く含んでいるようだった。宇宙の大部分の謎についてもきちんと理解しているようだった」
ベルナルドが少しだけ間を置いた。
「既に成人の女性、そして男児をあちら側に送り込んだ。残るは女児だけだ。まあつまりは、地球外生命体の実験の道具に君を推薦したわけだな」
「そんなの......私でないといけない理由にはなりません!」
カーラの声が震える。この目の前の男は、確かに人間の言葉を喋ってはいるが、なぜだかとても怖い。彼の纏うオーラそのものが、感じたことも無い不気味さを孕んでいるのだ。
「そもそも......私ほどの子供なら世の中に五万といるはずです! なのに......どうして私が......」
目に涙を溜めるカーラを見下ろして、ベルナルドは、ふむと顎髭を撫でた。
「確かに君のような女児は世の中に溢れかえっているな。だが、B.F.研究員で、尚且つそんな幼さと言ったらどうだ?」
カーラがぱちぱちと瞬きをすると、涙が彼女の頬の輪郭をなぞって床に落ちた。
「最初はエスペラントから若い女性研究員でも送ろうかと悩んだのだがな。残念ながらエスペラントではカーラ君ほど幼い歳の研究員は雇っていない」
もちろん、とベルナルドが続けた。
「君の歳の女性が必要だということもあるがな、もうひとつは、我々がB.F.の持つ情報を得たいからだ。超常現象の基礎を調べてきた歴史は、エスペラントよりもB.F.の方が長い。だからこそ、超常現象のエキスパートである、君らの知識を借りたのだ」
「借りたんじゃないです!!」
カーラは弾かれたように前のめりになって声を張り上げた。
「あれは盗んだと言うんです!」
カーラはベルナルドを睨んで続ける。
「あなた達は私たちを自分たちの実験のために利用しようとしています! 公平な取引もせず、一方的に情報を盗んでいるだけです!!」
すると、カーラの言葉にベルナルドは鼻で笑った。この場の雰囲気が一気に冷たくなったようにカーラは感じた。
「公平に、だと。笑わせてくれるじゃないか。君らが今味方につけているのは政府だ。我々が泥沼の底から自力で這い上がってきたというのに、君らはのうのうと彼らの力を借りているだろう。これの何処に公平という言葉が当てはまる」
「......」
「やはり君を選んで正解だった。君は浅はかで、脳みそもきっと綺麗だろうからな」
嫌味たっぷりのその言葉にカーラは床に視線を落とした。
自分はどうやら、今の話を聞く限り、地球の外に飛ばされてしまうそうだ。突飛な話であるが、彼の落ち着いた様子を見てカーラは堪らなく不安になったのだった。
*****
「いやー、モイセスさんって大型車両の免許持ってたんですね」
車高が高く、夜の街を遠くまで見渡せるトラック。コナーは運転席のモイセスに向かってふと、そんなことを言った。ハンドルを真剣な顔で握っていたモイセスの表情が緩む。
「B.F.に入る前に運搬業をしていからね。久しぶりすぎてだいぶ緊張しているけれど」
「へえ、運搬業っすか」
コナーが目を丸くして、彼を見る。外の僅かな明かりは彼の顔をぼんやりと照らしている。
「俺も......バイトのひとつでもしていれば、人との付き合い方をもう少し直せたんすかねえ」
コナーがモイセスから目を逸らして、外を見ると今度はチラッとモイセスが此方を見た。
「コナー君はそんなことを気にしているの?」
コナーの口から「ふはっ」と笑い声が漏れた。
「まあ、下積み時代にナッシュさんに結構ガミガミ言われましたから」
コナーはナッシュの元で仕事を覚えてきた。が、ひとつの事件が起きた後は仕事にも手がつかなくなった。毎日オフィスに顔を出さず、ベッドで朝から晩まで膝を抱えて横になっていた。ナッシュはそんな自分の仕事復帰を急かすようなことはしなかった。ただ黙って、自室に毎日三回は顔を出し、その度に何か食べるものを置いていってくれた。
コナーは少しずつ彼のおかげで元気を取り戻したが、仕事に戻る頃には、共にB.F.に入社した同期は星5の位置まで行ってしまっていた。今自分と同じ場所にいる星4世代は、ほとんど知らない、そもそも事件があった頃にはまだ入社すらしていなかった人もいる。
自分はかなりの遅れを取ったのだと、コナーは酷く焦りを覚えた。が、焦っても仕方が無いと、ナッシュは自分に簡単な仕事からさせてくれた。
思えば、あの事件以来ナッシュが自分にガミガミ言うことはほとんど無くなっていた。コナーがそれに耐えられる心の状態でなかったことを知っていたのだろう。まあ、コナーがナッシュに怒られる理由はほとんど10割コナーの悪戯のせいだったので、事件後はそもそも怒る理由などほとんど無かったのだろうが。
振り返ってみれば随分優しい先輩なのだな、とコナーは夜の闇を見つめながら思った。
モイセスは優しく笑って、口を開いた。
「そっか。人付き合いほど難しいものはないよね。その人その人の気分次第で一日の心の距離も微妙に変わってくるしさ。実を言うと僕は嫌気がさして此処に逃げてきたんだよ」
「此処って......B.F.っすか?」
コナーは驚いて彼を見る。
「そうだよ。僕にとって、人の顔色を伺って生きるのは辛すぎたんだね。羽が伸ばせる場所が欲しくなったんだ」
「でも、なんで_____B.F.だって多い人数の会議とかあったりするわけですし......意外と人の顔見て生活しているような気もするんですけどね」
「僕にとっては、だよ。皆基本的に親切だし、同じ状況下で平等な仕事を行っている。前の職場だと、誰かが金持ちだとか、誰が仕事下手だとか、色々陰口が飛び交っていたりしてね。思ってるんなら直接本人に言えばいいのに。僕は人間のそういうところが嫌いでね。ある日、自分の悪口を偶然聞いてしまったことがあった。もうあの時の心境と言ったら、それはそれは最悪だったな」
モイセスが苦笑した。
「その場からとてつもなく逃げ出したくなった。寧ろ、この世界から、逃げたいと思った。僕のことを誰も知らない、誰も不公平なラベルをつけない、そんな場所に行きたいなって」
モイセスの横顔は、周りに街頭が無くなったのでほとんど暗闇で見えなくなってしまった。コナーは何も言えなくなって、彼から目を逸らした。
景色が遅くも早く見ないスピードで後ろに過ぎ去っていく。10年近くハンドルを握っていないのだから、かなり緊張しているのがそのスピードから伺えた。
あと2、30分はかかるだろう。ノールズらは無事だろうか。そもそも、何故彼らは誘拐されてしまったのか。
コナーは頭に中で自問自答をして、すっかり黙り込んでしまった。
車内が静かになる。
コンテナの中から時折話し声らしき音が漏れるが、トラックのエンジン音でそれは掻き消され、コナーとモイセスの耳にはほとんど届かない。
トラックは深い闇の中を前へ前へと進んで行った。
*****
ノールズらが目を覚ましたのは、カーラが連れて行かれてから30分経つか経たないかの時だった。最初に目を覚ましたキエラは、カーラが居なくなった部屋を見回して、顔を青ざめさせた。
「イザベルさん、ノールズさん、ラシュレイさん!! 起きてください!」
ゆさゆさと三人の体を順番に揺らしながら、最後にキエラは、牢屋の外で見張りをしている一人の男を睨んだ。
「カーラを返してください! 彼女は何処に居るんですか!」
「ああ、あの女か。ベルナルドさんと話している。お前らが今度あいつと再会できるのは、そうだな......天国に昇ってからだ」
男が目を細める。笑っているようだった。
キエラが呆然として彼を見ていると、
「............どういう意味か説明しろよ」
突然、後ろから低い声がしたので驚いてそちらを振り返った。そこにはノールズが居て、男を鋭く睨んでいた。
「カーラは返してくれるんだろうな」
「無理に決まっている」
ノールズの質問に被せるようにして男が食い気味に言った。
「あいつは時期に地球を離れる予定だ」
「......?」
キエラもノールズも目を見開いて男を見る。
地球を離れる、とはどういうことか。全くもってその意味が理解できない。エスペラントが彼女を利用しようとしているのは知っているが、その彼女が何故地球を離れるのか。
「宇宙に行くってこと......?」
「そうなる」
男が大きく頷いた。
「......意味がわからないな。もっとちゃんと説明しろ」
ノールズが低い声で説明を促すが、今度は男は首を横に振った。
「残念だったな。お前らに教えられるのはこれだけだ。詳細は直接ベルナルドさんにでも聞けばいい。ま、お前らが彼に会うことももう無いだろうが。何故ならお前らは、死を待つのみの囚人に過ぎないのだからな」
男は楽しげに武器を持ち上げてみせた。
*****
「はああ......もう何だっていいから入っちゃわないかい? 待ちくたびれたよ」
茂みの裏からため息混じりのそんな声がする。外で待ち続けてかなり経過してしまった。ブライスはもう既に応援を出したとは思うが、何せB.F.から此処まで一時間ほどかかる。それだけ人の目につかないようこの施設を建てたということになるが、ナッシュは茂みに隠れて息を潜めるだけのことに退屈さを感じていた。
「そうだね......確かにもう腰が痛くなってきたかな」
ドワイトも苦笑する。しかしもちろん、此処から中に入るわけにはいかない。食堂には引き続き人が多くて、声は聞こえなくても楽しげに会話に弾みを持たせていることが伺える。
「もう少しの辛抱だよ、ナッシュ」
「分かってはいるけれど、早くして欲しいね」
「ジェイス君は平気? ごめんね、巻き込ませてしまって」
ドワイトは自分らと同様隣で隠れているジェイスに微笑む。ジェイスは最初と変わらない顔で施設を睨むように観察を続けている。
彼からしたら大事な助手の緊急事態だ。
ドワイトは、彼が元助手をこんなに気にかけてくれることが嬉しかった。正直、彼はもうB.F.に関わるのも嫌だろうと思っていたからだ。
ジェイスがB.F.を突然抜けた原因は、彼のある決心からだった。大事な人の最期にこれ以上関与したくないと思ったのだろう。
彼はパーカーを始めとしてヴィムとハンフリーという同期を一気に亡くした。一人残った彼には大切な助手が居た。それがノールズだった。彼は星4になるまで何とかノールズを育て上げ、彼が星4になった瞬間、B.F.から出ていった。
もうかなり前の話になる。どこで何をしているのか何も分からなかったというのに、こんな状況で再会を果たすことができたと言うのは、何だか複雑な心境だ、とドワイトは思った。
「平気ですよ」
ジェイスは短く答えた。
すると、
「何だかジェイス、前よりも丸くなったよね」
と、ナッシュがそんなことを言った。ジェイスはキョトンとしている。
「太ったってことですか?」
「いや、角が取れたって言うか。恋人でもできたのかい?」
ニヤニヤと笑って問うナッシュにジェイスは、まさか、と笑いながら答えた。
ドワイトは二人の会話を聞きながら、ぼんやりと考える。
ジェイスは今何処に住んでいるのだろうか。
ラシュレイの携帯が仮施設の前に落ちていたのを拾ったというのだから、もしかしたらそこまで遠くに住んでいないのかもしれない。
彼を迎えに行ったときも、ホテルには自分の足で行ったようだった。
指輪も見た感じつけていないし、特別太った感じもしない。
しかし彼は、B.F.を抜ける最後よりも明らかに顔色が優れていた。もちろん、最も彼が生き生きしていたのは、あの同期達といる時だったのだが。
「そういうナッシュさんは恋人居るんですか?」
「おお? なかなか上司に痛いこと聞いてくるじゃないか。いつからそんな口が達者になったんだい?」
「あ、すみません」
B.F.から抜けて彼の心が休まったのなら、それは上司として嬉しい限りだ。でも彼が居ないとやはり寂しく思うのはドワイトらよりもノールズだろう。
彼がジェイスを見たらどんな顔をするのだろう。早く会わせてあげたい。
そのためにも、早く彼らをこの監獄から助け出してやらねば。
*****
カーラはプロジェクトについて詳しく聞いていた。
「君の命で全ての人間が幸福になるのなら、素晴らしいことだとは思わないか?」
さっきからベルナルドはそんなことを言っていた。カーラはなんだか時間が経つに連れて頭がぼんやりとしてきていた。頭が、考えることを放棄したかのように、重たく、霧がかかったような感じである。
「小さな命が大きな結果を生み出す。つまり君はとても必要とされている存在だ。どうだ? 乗りたくなって来ただろう」
「......」
「前に送り込んだ男は、それはもう嬉しそうにロケットに乗り込んだ。その次に送り込んだ男児や、女性だってそうだ。自分の命が何万何億の人間の幸せの土台となるのだからな」
「......」
カーラは床に座った状態で、階段の先で楽しげに腕を広げて熱弁する男を見上げていた。
自分のこの命は一度失われかけている。それは家に強盗が入った時である。母親も父親もその時に殺されてしまった。自分に残されたものは何も無い。唯一生きていられたのは自分だけだったと言うだけで、あとは何も残らなかった。
母親と父親はこんな仕事をさせるために自分を生かしてくれたというのだろうか。だとしたら、この仕事は快く引き受けるべきなのだろうか。
人類の幸福のため必要なのが、こんな私の、こんな小さな命なら_____。
カーラの目には、ほとんど光が無くなっていた。
*****
「遅すぎるよ!!」
「もー、しょうがないじゃないですか。 こんな山道、暗すぎて何処を歩いたらいいのか分からないんですもん!」
ナッシュがため息をついてそう言ったのは、応援部隊の到着が思ったより遅かったからである。リディアらはこの暗さに山道で何度か道を誤ってしまったようだ。
熱くなるナッシュとリディアの間に、ドワイトが「まあまあ」と入り込む。
「それで、どうしようか」
「正面突破かい?」
「死ななければいいですけど」
ナッシュがニヤニヤ笑って、武器を受け取ったのを見てジェイスは顔を顰めた。
それを見たリディアが「えっ」と目を丸くさせる。彼女はまるで幽霊でも見たかのような顔でジェイスを見ていた。
「どうしてここに_____」
「まあ、説明は面倒だから、この救出劇が終わった後にでも聞いてくれ」
ナッシュが手をヒラヒラさせてそう言った。
さて、すぐ逃げられるように山道の麓で待機している大型トラックにはバレットとレヴィ、エズラ、コナーが残っている。他の研究員らも含め、リディア、ケルシー、ビクター、モイセスはこっちまでスコップやら武器やらを運んできたのだ。
ドワイトとリディア、モイセスはスコップで地下を掘る組に、ナッシュ、ジェイス、ケルシー、ビクター、そしてその他の研究員は正面から強行突破することになった。
「いいかい皆」
ナッシュが早速、自分の班の研究員らを近くに集めて声を潜めている。
「ノールズ達を探すことだけを考えるんだ。足はなるべく止めてはダメだよ。死にたくなかったらね」
「不安しかないんですけど......」
ナッシュが銃を持ち直したのを見てジェイスは顔を引き攣らせる。
「僕が先頭を行くってだけ感謝することだね。ブライスが来るまでは耐え抜くよ」
「はい! 頑張りましょう!!」
ケルシーが銃を持って大きく頷く。他の研究員らも「おお!」と気合いを入れている中、
「......ドワイトさん、そっち行きたいです」
ビクターがやる気に満ちた強行突破チームの人間についていけないのか、ドワイトを振り返って助けを求める。
「ま、まあ......すぐに合流するよ。私達も此処を掘ってノールズ君らがいる場所に辿り着く見込みはないからね」
「お互い頑張ろう!」
苦笑するドワイトの隣でリディアが拳を振り上げた。
「じゃ、また後で」
穴掘りチームと強行突破チームが素早く別れる。大勢いた人間が居なくなってしまったことで、かなり静かになった。
「此処を掘るんですか?」
リディアが地面の一部を指さす。
「うん。睡眠ガスらしきものが、この地面からさっき上がっていたんだよ。多分、ノールズ君らはこの下にいるんじゃないかなっていう考えなんだけど......」
「睡眠ガスですか......かなり怖いですね」
モイセスが眉を顰める。
「ノールズさん達がいる場所って、スコップで掘れるくらいの高さにあるんですかね......」
「それは掘ってみないとだね。もしいつまでもそれらしいものが見当たらなかったら、また方法を考えるしかないよ」
ドワイトが肩を竦める。
「早速掘りましょう!!」
リディアが地面にスコップを突き立てる。
「そうだね。じゃあ、やるよ、モイセス」
「は、はい」
三人はスコップで穴を掘り始めた。
*****
ノールズとキエラは先に起きたものの、ラシュレイとイザベルはなかなか眠りから覚めない。
「うーん、困ったなあ」
一通り声をかけて起こそうと心がけてみたものの、二人とも全く起きる気配がない。
「ど、どうしましょう......イザベルさんが目覚めなかったら......」
キエラが今にも泣き出しそうな顔で声を震わせる。
「まあ......俺らが起きたから大丈夫だとは思うんだけど......」
そう言うノールズも不安だった。カーラも連れていかれてしまい、仲間も二人眠っている状態だ。動こうにも動けないし、そもそも此処を出ることすら出来ない。
カーラは大丈夫だろうか。痛いことをされていないといいのだが_____。
ノールズが完全に黙り込んでいると、沈黙に不安が爆発したのか、キエラがついに泣き出した。
「もう、もう無理ですよう......皆死んじゃうかもしれないですようう......」
彼の目からは大粒の涙が溢れて、彼は子供のように顔をくしゃくしゃにしている。
「わわ、ちょ、ちょっとちょっと、泣かないでよー......大丈夫だってば。諦めるには早すぎるでしょ? きっとそろそろ助けも来るってば!」
「うわあぁぁあん......」
全く聞いていないようだ。
確かに不安ではある。
明日になるまで待てばブライスらも自分たちが戻ってこないことを不思議に思って探しに来てくれるだろうと思ってはいるのだが_____そもそもいつ命が飛ぶか分からないこの場所でそれを待ち続けるということ事態とてつもなく怖く、精神的にも辛いのだ。
キエラはこの中でカーラの次に幼い。
怖くなって泣き出してしまうのも分かる。
ノールズはどうにか眠っているラシュレイとイザベルを起こそうと試みるが、やはり二人は目を開かない。
「ううん......仕事で疲れてるのかなあ......」
「イザベルさんには、この前もまた僕が紛失した報告書を書かせてしまったから......」
「あー、そうかあ......」
相変わらず自分の助手だけは溺愛して止まない彼女にノールズは苦笑する。
「大丈夫、大丈夫。きっと今頃、勘の良いヒーロー達が外でバタバタしてるよ」
そうであって欲しいと願いながら、ノールズは彼の綺麗な赤茶色の髪に手を乗せた。キエラはクシクシと涙を袖で拭き取る。
きっと自分もこれくらいの歳だったら、泣いていただろう。そう思えば、この子は此処までよく泣かずに耐えてきた。イザベルの助手になると、やはりかなり心も鍛えられるのだろう。
ノールズがそう思いながら彼の髪を撫でている時だった。突然、
ガンッ!!!
固いものに何かを叩きつけるような音が天井から降ってきた。ノールズもキエラもビクッと肩を竦ませて、顔を見合わせる。
「何の、音ですか......?」
キエラが問うが、ノールズは「さあ......」と首を傾げる。すると再び、ガンッ!! と音が降ってきた。ノールズは今度は分かった。天井にあるあの蓋の部分が大きく凹んでいる。
まさか、何か新しい兵器でも入れて、今度こそ自分たちを殺そうとているのか_____。
ノールズはそう思ってキエラの肩を掴んで天井の蓋の下から避難させた。その間にも天井の蓋は何度も何度も叩かれたようにボコボコに歪んでいく。それが20秒ほど続いた時だった。
バキャッ!!!
「!!!!」
天井の蓋が床に落ちてきて、大きな音を立てたのだ。ノールズ達を牢屋の外で見張っていた兵士がポカンとして此方を見ている。彼の仕業では無いのか、とノールズが怪訝に思っていると、
「はあ〜、つっかれたあー」
「土まみれになっちゃいましたね......」
穴から三人の人物が降りてくる。
「リディア!? モイセス!! ドワイトさん!!!!!」
ノールズが立ち上がってドワイトに飛びつく。ドワイトはノールズをしっかりと受け止める。
「遅くなってごめんよ、皆!! 怪我はないかい!?」
「ああ......ええっと......」
ノールズが何と答えようか迷っていると、
「イザベル!? ちょっと、しっかりしてよ!!」
リディアが後ろでイザベルを起こそうとする声が聞こえてきた。ドワイトはラシュレイの様子を確認して、頷いた。
「睡眠ガスを吸わされたようだからね。大丈夫、きっと目を覚ますよ」
それを聞いたキエラがホッと胸を撫で下ろす。
「お前ら......!!」
見張りのエスペラント兵がドワイトらを見て電話に走る。
「わわ、連絡回されちゃいますよ!!」
イザベルの様子を確認していたリディアがドワイトを振り返る。
「モイセス! 武器を此方へ!」
「は、はい!」
モイセスが背中に背負っていた長銃をドワイトに渡す。ドワイトはそれを牢屋の外にあるキー部分に向けて放った。すると、エラー音がけたたましく鳴り響く。鍵が壊れたようだが、あのままでは扉は開かない。リディアが立ち上がって次にノールズを見る。
「ノールズ!! 行くよ!!」
リディアが走り始めて助走をつけた。それを理解したノールズも彼女に加わる。二人は片足を軸にして体を反転させると、扉に向かって強烈な回し蹴りを食らわした。メキッという音と共に、扉が凹む。そのままノールズが更に扉に向かって突進すると、呆気なく扉は外れた。
「開きました!!」
「さあ皆、牢屋から出るんだ!」
「くっそ!!」
電話をかけようとしていた男が受話器を放り投げ、部屋から出ていく。ノールズはラシュレイを、モイセスはイザベルを背負って全員は牢屋から出た。
「いったー......どんだけ硬いのこれー......」
リディアが外れた扉を見て顔を顰めている。
「特殊な素材のようだね。エスペラントが自分たちで開発したものなのかもしれない」
ドワイトが冷静にそう言う。ノールズは土埃に守れた三人を見て泣きそうになった。
助けはまだまだ来ないと思っていた。
なのに、これだけ早く来てくれるとは......。
「外で車を待機させているんだ。と言っても、道はわかるかい?」
「は、はい......何とか......」
ドワイトは牢屋から抜け出した面子を見回して不思議そうな顔をする。
「カーラは何処だい?」
「えっと......」
「実は......」
ノールズは、キエラと共にカーラが連れていかれた事を三人に軽く説明した。
「それ_____」
話を聞いていたリディアの顔が歪む。ドワイトも深刻な表情でノールズの話に耳を傾けていた。
「早く助けに行かないとまずいですよ、ドワイトさん!!」
リディアがドワイトを見上げる。
「うん......そうだね。ノールズ君達は、危険だから、やっぱり一緒に行動しよう。二人を担いでいる子達は走れそうかい?」
「大丈夫です!」
「はい!」
ノールズとモイセスが同時に頷く。
「よし、行こう!」
ドワイトらは、さっきのエスペラント兵を追いかけるようにして走り出した。