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Black File  作者: 葱鮪命
45/193

一触即発-4

 ブライスは車を走らせながら口を開く。


「とにかく、可能性は高いということだ。外部調査で今まで襲われなかったことが不思議なくらいだな」


 外部調査に出ていたノールズ達の班が行方不明になった。超常現象に巻き込まれた可能性も十分にあるが、それ以上にブライスは、犯人像がぼんやりと頭に浮かんでいた。それは超常現象でも何でもない。自分たちと同じように超常現象を調べる会社である、非政府組織エスペラントであった。


「ノールズやイザベル達がエスペラントに誘拐されたということですか?」

 ジェイスの顔に不安が混じる。


「考えられる点はいくつもある」

「でも......」

 ナッシュが後部座席から身を乗り出した。


「エスペラントなんて組織、最後に名前を聞いたのはジェイスとハンフリー、僕で受け持ったあのクローン人間以来だよ」


 ナッシュとジェイス、ハンフリーはB.F.で保護したソニアとニコラスというクローン人間の実験を行った三人であった。その時にソニア達を調べる上でエスペラントという会社の存在が明らかになったのだ。彼らはそこで造られ、そこからやって来たという話でエスペラントに関してもクローン人間に関しても話は終わってしまい、そもそもまずエスペラントという名前自体彼らの中では薄まっていた。


「今頃になって動き出して......一体何が目的なんだろう」

 ナッシュが乗り出していた体を下げて後部座席の背もたれに預ける。


「それを早急に調べなければならない。今までの期間は準備期間だったと考えるのが妥当だな」


「何かを企んでいるってことですよね......」


「何も企んでいなければ誘拐などしないだろうしな。もし仮に誘拐だとして、身代金を要求してくるわけではなさそうだ」


 車がゆっくりと速度を落として止まる。信号に差し掛かったのだ。少しずつ夜も深まってきて、いよいよ電気なしでは辺りが見えないくらいになってきた。


「彼らが欲しいもの、か」

 ナッシュが口に手を当てて考え込んでいる。その隣でドワイトが口を開く。


「B.F.にある情報かな......。でも、それを使って何をしようとしているんだろう......?」


 車内が不気味な沈黙に包まれる。それぞれが不安な面持ちで外を見ている。


 ノールズが誘拐されていたのだとしたら_____。

 きっと、彼は正義感が強い子だから、みんなを守ろうと前線に立つようなことをし始めるに違いない。


 ジェイスは外の闇を見ながらそう思った。


 ノールズのことを何年も見てきたのだから、彼がどういう行動をどんな時にとるかは自分も把握している。だが、それが命取りになっていないか、ジェイスはとても心配だった。


 もうB.F.の人間じゃない自分がそんな心配をするのもどうかと思うが_____。


「......戻ったら緊急会議を行う。さっきリディアに電話をして、会場設営をしておくように頼んだ」


「もしかして」


 ドワイトが眉を上げた。


「皆で探しに行くのかい?」


「警察が動けば当然人目も引くからな。職員らで探すしかないだろう。エスペラントのアジトは、ソニアとニコラスが見つかった山である可能性が高い。今から研究員らを連れてそこまで行って、ノールズらを助けに行く」


 ブライスは厳しい顔で真っ直ぐ前を見つめながらそう言った。


 *****


 B.Fの仮施設前に着いて、ブライスは車を降りた。


「会議に出るのは俺だけで構わない。ドワイト、ナッシュ、ジェイスは先に山に迎え。怪しまれないように外から眺めるだけでいい。くれぐれも気をつけろ」


「うん、わかったよ」

「了解」


 二人が頷く中、ジェイスだけは戸惑った表情を浮かべてブライスを見ていた。


 自分はもうB.F.研究員じゃないのだ。そんな自分がこの事件に足を突っ込んでもいいのだろうか?


 自分はこの事件をたまたま見つけただけの人間であって、ほとんど部外者の位置にいるのだが。


「えっと......俺も行っていいんですか......? もうB.F.職員じゃないのに......」


 ジェイスが自分を指さして問うと、


「逆に君が元助手を放って帰るような子にも思えないけれどね」


 と、ナッシュが笑った。


 確かに、そうである。自分の助手が危険な状況にいるのを放っておく先輩など聞いた事があるだろうか。


 確かに自分はB.F.職員という場所からは抜けてしまったが、ノールズの先輩だったという過去は変わらないのだ。


 いつになっても彼は自分の助手で、相棒だ。

 だったら、助けに行くべきだ。


「......すみません、引き止めてしまいました」


 ジェイスはブライスに向かって小さく頭を下げた。そして、真剣な顔で彼に言った。


「俺も全力で探します」

「ああ、そうしろ」


 ブライスはそれだけ言うと仮施設へと向かって行った。その背中が闇の中に消えてしまうと、さて、と言ってナッシュがハンドルを握るために運転席へと移動してきた。


「選手交代だね。ドワイト、僕の研究員ファイルを取ってくれるかい?」

「うん」


 ドワイトがナッシュにファイルを手渡す。分厚いファイルには、これまで彼が貯めてきたであろう資料がどっさりと入っていた。ナッシュが電気をつけて、それを開いた。三人でファイルを覗き込みながらソニアとニコラスの資料を探し出す。


「あった、これだよ」


 ナッシュが指さしたのは、確かに彼らの情報だった。写真もついていて、ジェイスは懐かしいな、と目を細める。


 ナッシュとハンフリー、そして自分の三人で、無限に増えていくソニアとニコラスを、ぜえぜえ言いながら調査・研究していったのだ。


 だが、そんな日々が楽しくて幸せだったことには間違いない。

 だってあの頃には_____まだ皆生きていたのだ。


「ロートン山の山道で見つかったんだっけ......ここからだと一時間はかかるね」

「行ってみるかい? そこにエスペラントのアジトがあるかもしれないんだろう」

「そうだね」


 ナッシュは頷き、ジェイスにファイルを預ける。どっしりとした重さにジェイスは思わず「うっ」と潰れた声を出す。ナッシュがそれを聞いて笑った。


「何だいジェイス、職員辞めたら少し根性が足りないんじゃないかい? これよりもっと重いものが僕のオフィスに何冊もあるよ」

「そ、そうっすか......」


 早くファイルを避けたい。だが、先輩のドワイトに預けるわけにもいかない。ジェイスは目的地に着くまで頑張ることにした。


 やがて車の中の電気をナッシュが消し、車は動き出す。ジェイスはファイルを膝に置きながら思った。


 もし、自分がB.F.に戻りたいなどと言い出したら_____どんな反応をされるだろうか。


 *****


 ノールズらはどうにかして天井に手が届かないだろうかと思考を練っていたが、ゾーイらの監視もあってそれはなかなか実行に移せなかった。


「はあ......お腹空いた」

「呑気ね」

「いやいや、ちゃんと考えてるからね!?」


 床に寝転がっていたノールズは体を半分起こしてイザベルに言うも、イザベルは全く聞いていない様子でカーラを振り返る。


「カーラは大丈夫?」

「は、はい......」


 そう答える彼女は全く大丈夫に見えない。


「それで......どうするんですか......」

 キエラも疲れたのか足を投げ出して座っていた。


「うーん......俺らは外部調査に出ていることになっているから、皆も探していない可能性もあるわけだし......やっぱり自力で出るしかないのかなあ......」


 ゾーイに聞こえないようにノールズは声を顰める。


「ま、そもそもその方法が全く見つからないから今困ってるんだけど。ねえ、イザベル?」


 ノールズは反動をつけて体を起こし、彼女に問う。


「......」


 が、彼女は返事をしなかった。何やら一点を見つめてぼんやりしている。


「イザベル?」

「あ、ええ......そうね」


 遅れて首肯する彼女にキエラもノールズも首を傾げる。


「どうしたんですか?」

「珍しいねえ、大丈夫?」

「何よ、考え事していただけ」

「あ、俺と結婚_____」

「ないわね」

「酷いね!!」


 イザベルはやはりいつもより何処か雰囲気が違う。そんな彼女に違和感を抱きつつも、ノールズは話を戻す。


「電話......何とかしてかけられないかなー......」

「って言ってもノールズさん、B.F.の電話番号覚えてますか?」


 ラシュレイの質問にノールズは「うう......」と項垂れる。


 どんな案を出しても実行できずに消えていってしまう。そもそもこんな何もない狭い牢屋に入れられた時点で、出来ることなどほとんど無いのだ。


 ノールズもどかしく思いながら、結局、


「明日まで待つしかないかー......」


 とため息をついたのだった。


「明日ですか......」

 キエラがキョロキョロと辺りを見回している。時計を探しているのだろうが、この辺には見当たらない。今が何時かも分からない。ノールズもキエラも途中で気絶させられてしまったので、完全に時間の感覚が狂ってしまっていた。


「うん、外部調査が終わって、俺らがB.F.に帰るのって明日の夕方っていう予定だったでしょ? 俺らがいつまでも帰ってこなかったら皆不思議に思って探しに来てくれると思うんだよねえ」


「明日の夕方ですか......」

「長いですね」


「でも、これくらいしかもう思い浮かばないよ......」


 ノールズは電話をちらりと見る。あれにさえ手が届けば状況は一変するかもしれない。B.F.の電話番号は暗記していないが、家にかけるか警察にさえかければ、助けに来て貰えるのかもしれないのだ。


「でも、ブライスさんや、ドワイトさん、ナッシュさん達は、私たちがエスペラントに誘拐されていると思うかしら」


「いやあ、それはどうだろ......」


 そうである。明日の外部調査終了時間にノールズ達が戻って来ず、それにB.F.職員が気づいて何かあったのだと察することが出来る。


 だが、探すと言っても彼らにある情報は数少ない。ラシュレイが落とした携帯電話が何かの手がかりとなって、エスペラントに誘拐されたと結びつく可能性は本当に低いだろう。そうなると、救出されるのはきっとまだまだ先になってしまう。


 自分たちの命が散るのが先か、それともB.F.研究員達が自分たちを助けに来るのが先か_____。


 少なくとも、可能性を天秤にかけると、極端に傾いているのは誰がどう考えても明らかなのだが。


「今、何時なんでしょうね......」

 キエラはまだ時計を探していたようだ。もしかしたらお腹が空いたのかもしれない。こんな緊迫した状況にずっと居て、出るための方法を懸命に考えていれば誰だって腹が減る。


「腕時計も外されちゃったもんなあ......はあ」


 ノールズは何かないかとポケットを探ったが、結局何も見つからなかった。


 *****


 ブライスは大会議室に職員たちを集めた。収集した職員は日曜会議にいつも参加しているメンバーである。緊急会議を開くと必ずこのメンバー集まることになっているのだ。そうすることで彼らの下で助手を行っている研究員にも情報が渡り、効率よく情報が行き渡る。


 簡潔にエスペラントの説明をし、そこに外部調査に出ていたノールズらが誘拐され、閉じ込められている可能性があるということをブライスが伝えると、皆不安げな顔を見せた。


「今から我々で彼らを探すことにする。既にドワイトとナッシュをエスペラントの施設に向かわせた。警察を使って捜査をしないのは一般人に勘づかれないためだ」


 ブライスは低い声で続ける。


「今から、指名したものは急いで地上に出る準備をしろ。指名しなかったものはB.F.で待機。いつも通り仕事を行ってもらって構わないが、いつ応援を呼ぶかは分からない。全員、外に出る準備はしておけ。いいな」


「はい」


 *****


 ナッシュらは一時間かけて、ソニアとニコラスが見つかった山の近くまで来ていた。暗い中聳える山は不気味な雰囲気に包まれている。


「此処ですか?」

「そうみたいだね」


 ナッシュがジェイスの問いに対して頷く。


 山道には人間は愚か動物もいない。そもそもこんな山に建物など建っているのだろうか、とジェイスが不審に思いながら山を眺めていると、後部座席のドワイトが山に入る道を黙って指さした。黒いバンが山奥へと姿を消していくのが見える。


「へえ......? 怪しいったらありゃしないねえ」

 ナッシュの目が鋭くなった。


「あ、あの、歩いて行くんですか」

 ジェイスは今すぐにでも外に出て追いかけたいのか、車の扉に手をかける。


「早とちりしないよ、ジェイス」

 ナッシュが彼の手を掴んだ。


「うん、ブライスにも十分気をつけるよう言われたからね」

 ドワイトはジェイスの膝からナッシュのファイルを取り上げて、それを後ろへと移動する。


「そうですけど......」


 ジェイスはもう一度山を見た。この暗さではあの黒い車を山中で追いかけるのは困難なのではないだろうか。そもそもこの山に入っていくということは、あの車は高確率でエスペラントのものだろう。ジェイスは早く自分の助手の安否を確認したかった。


「取りあえずブライスに電話だね。突入すると言っても彼からの指示はいるだろうし」


 ナッシュが携帯電話を取り出して操作している。


「もし仮に突入するとして、武器はあるんですか?」


 ジェイスは自分が戦力になるかがとても心配だった。赤い箱で経験を積んだとはいえ、何年もブランクがあるので上手く動けるかは分からない。銃だって勿論持っていない。こっちが素手でも、あっちは銃を持っている可能性は十分にある。


「任せてよ」

「大丈夫、ちゃんと持っているよ」


 彼らはコートに隠れて普段は見えない、ズボンのベルト部分を軽く叩いた。拳銃をそこに忍ばせているようだ。


「勿論、これを使うのは最悪の事態のみだ」

「普通に撃ったら殺人の罪で私たちが捕まるからね」


 ジェイスは自分も何か持っていなかっただろうか、とポケットを探してみたが、そこには当たり前のように何も無い。それを見たドワイトが優しく微笑んだ。


「ジェイス君はついてくるだけでいいさ。怪我をすると大変だ。何しろ、側にいてくれるだけで心強いからね」


「はい......」


 頷くジェイスの隣でナッシュは電話をかけていた。相手はブライスである。


 *****


 ブライスは電話を受けた。どうやらナッシュらが山に到着し、その山に黒いバンが入っていったようだ。エスペラントのものに違いない、とブライスはほとんど確信していた。


「分かった、先に入っていろ。此方も直ぐに向かう」


 電話を切ってブライスは後ろで指示を待っているリディアに向かって施設内放送をかけるように言った。彼女が元気よく返事をして部屋を出ていくと、彼は手元の資料を片付け始める。


「......ベルナルド」


 彼は小さくそう呟いた。


 *****


 ブライスから山に入るように言われたナッシュ達は車から降りて山に向かっていた。


「夜の山は怖いね。人間もそうだけれど、動物に襲われたらたまったもんじゃないよ」


 自分の前でナッシュが懐中電灯で足元を照らしながらそんなことを言っているのがジェイスには聞こえた。


「ジェイス君、足元気をつけて」

 ジェイスを挟んで後ろ側にはドワイトが続く。


 あまりにも暗いのでナッシュの懐中電灯はその役割をほとんど果たせていない。暗闇に目が慣れるまで、ジェイスは何度か転びかけた。


「こんな森の中に本当に建物なんか建っているんですかね......」

「さあ、分からないね」

 答えたのはナッシュだった。


「でも、ソニアとニコラスは此処で発見されたんだ。何も無いなんてことはないんじゃないかな」


 ジェイスは彼らを調べた時のことを思い出していた。


 あの時はまだ四人全員が揃っていた。ハンフリーもパーカーもヴィムだって。みんな揃って食堂で飯を食い、実験に明け暮れる日々がどれほど幸せだったことか。今はもうその幸せはない。


 三人は冷たい石の下で眠り、自分はその石を見ることすら無くなった。施設を出てきてB.F.研究員を辞めたからである。ノールズという、まだ星4になったばかりだった助手を置いて。


 一人になった途端、ジェイスは途方に暮れた。これほど孤独なものなのか、と新しくなった自分の家で驚いた。きっと、パーカーを失ったヴィムが言っていた、誰もいないオフィスに戻る寂しさ、というのはこういうことを言いたかったのだな、とジェイスはだいぶ遅れてから気がついた。


 それまで自分は何て幸せだったことだろうか。仲良しの三人の同期に囲まれ、可愛い助手まで出来た。きっと、人生一生分の幸せを自分は一瞬で使い切ってしまったのだろう。そうでなければ、B.F.から出たあとにこれだけ寂しい思いをするはずがない。


 やはり、自分はB.F.に戻りたい_____。


 ジェイスが物思いに耽っていると、


「隠れろ!」


 突然、懐中電灯の明かりがパッと消えた。ジェイスは驚いて立ち止まる。すると、腕を強く引かれてジェイスは道の外側へと倒れ込んだ。


「いたっ」

 慌てて腕を出したが、それも虚しく、ジェイスはゴロンと土の上に倒れる。腕を引っ張ったのはナッシュのようだ。


「な、なんですか_____」

 流石になんの前触れもなく腕を引っ張られたら誰だって受身を取れない、とジェイスは色々不満を彼にぶつけようとすると、


「静かに」

 ナッシュの声がすぐ近くで聞こえた。ドワイトも近くにいるようだが、息を殺して暗闇に完全に溶け込んでいるかのように気配がない。


 一体何なんだ、とジェイスが思っていた時だった。山を外から眺めていた時に見かけたあの黒いバンが、三人が隠れている場所の前を通って行った。眩しいライトの光にジェイスは顔を覆おうとするが、その手はナッシュとドワイトによって抑えられる。


 やがてバンはジェイス達がやって来た山道を下って行った。車の光が完全に見えなくなったところで、ナッシュの声が聞こえた。


「さっきのと同じ車だったかい?」

「そうだね。ナンバープレートまでは把握していなかったけど.....形は同じに見えたよ」


 そこでナッシュが懐中電灯をそっと付けた。


「さっきの車って......もう戻ってきたんですか?」

「視察と考えるべきなんだろうね。相手も僕らを警戒しているんだろうさ」


 ナッシュが立ち上がる。ドワイトも立ち上がると、ジェイスに手を貸してくれた。


「急いだ方が良さそうだな」

「うん、そうだね、行こう」


 服のホコリを払い落とし、三人は再び暗い山道を登って行った。


 *****


 ノールズらは未だに動けなかった。結局待たなければならないという考えに至ってから、皆考えることも疲れてさっきから黙り込んでしまっている。


 そんな中、ノールズはずっと疑問に思っていることがあって、一人モヤモヤしていた。それは、イザベルのことであった。暇つぶしにもなるだろうか、とノールズはイザベルに問う。


「ねえ、イザベルってさ、此処の職員の誰かと知り合い?」


「何でよ」


 あまり機嫌が良くなさそうである。確かにこんな場所に閉じ込められて機嫌が良い人間など居ないだろうが、彼女は此処に来た始めの時よりも随分表情が深刻になっているのだ。


「いや、だってほら、さっき俺らエスペラントの職員に質問されたでしょ? そんでイザベルさ、あの人たちが部屋から出ていく時に、物凄く睨みつけてたから」


「......別に普通の反応だと思うけれど」


 イザベルは怪訝そうにノールズを見た。


「まあ、そりゃ......怒るのはごもっともだけどさ、何かイザベル、怒っているっていうよりかは驚いてるに近かったよね」

「......そうかしら」


 イザベルはノールズから顔を逸らし、外で待機しているゾーイらに目を向けた。


「別に、知り合いに顔が似ていた人がいただけよ」


「知り合い?」


「そう。昔B.F.で働いていた子なんだけれど、ある実験を受け持って帰らぬ人となった研究員ね。でもそんな子此処に居るはずないもの。きっと何かの見間違いよ」


 イザベルは淡々と話していく。


「......女の子?」

 ノールズは眉を顰める。思い当たる人間が一人だけ居たのだ。


「そうね」

 イザベルが小さく頷いた。ノールズはそれで確信したらしく、大きく目を見開いた。


「イザベル、それって_____」


 その時、電話の音がけたたましく鳴った。ノールズもイザベルも弾かれたように其方を見る。ゾーイの横にある壁掛けの電話だ。ゾーイは壁に寄りかかっていた体を起こして、電話をとった。


「はい、ゾーイ・フロストです。はい、特に大きな動きはありません」


 ゾーイは電話を耳に当てたまま此方を振り返る。イザベルもノールズもゾーイを睨みつけていた。少しの期待もしたが、おそらく仲間内の連絡だろう。


「はい......ええ、わかりました。では、直ぐに連れて参ります」


 ゾーイが受話器を置いた。そして、残りの仲間二人に何やら小声で指示を出している。しかし、此方には内容までは聞こえてこなかった。


 ノールズもイザベルも、牢屋の中に居る全員が嫌な予感を覚えた。

 イザベルはカーラの手を掴み、牢屋の奥へと連れて行く。キエラもイザベルに続いて牢屋の奥へと避難した。ノールズはラシュレイと軽く目配せをし、扉の前で待機した。


 ゾーイらが扉を開く。


「そこを退けろ」

「嫌だ」


 ゾーイの言葉にノールズは声を低くして答えた。ゾーイは目を細めた。


「退かなければどうなるか分かっているのか」

「分かっている。退けたらどうなるのか想像もつく。だから退かない」

「そうか」


 ゾーイは諦めたのか、そのまま壁へと戻って最初と同じように寄りかかった。そして、まだ扉の前の待機している男たちに向かって、


「そいつらにはもう用がないらしい。黒髪の女以外殺しても構わん」

「了解」


 男らが頷き、武器を構えた時だった。


「やめてください!!」


 イザベルの手を振り払って、カーラがノールズとラシュレイの前に飛び出してきたのだ。カーラは両腕を大きく広げた。


「そんなことさせません!! 私がついて行って全て解決するのでしたら、どうぞ連れて行ってください!」


「カーラ!」

「やめなさい、戻って!!」


 イザベルとノールズの鋭い声が飛ぶがそれには耳も貸さずに、カーラは自分よりも遥かに背の高い目の前の男たちを睨みつけている。


「でも......どうか、ノールズさん達には、危害を加えないでください」


 カーラの声が震えた。とてつもなく怖いに違いない。いつかのあの、両親を殺した男の冷たい目と顔が、目の前の男と重なった。


「やめてカーラ!」


 キエラが叫んだ。しかしそれでもカーラは振り返らなかった。


 自分のせいでノールズ達が此処に連れてこられてしまったのだとしたら、責任をもって彼らを守らなければならない。守られてばかりでは、いられない。


「......そうか」


 ゾーイが壁から背を離してツカツカとカーラの前までやって来る。


「話の分かる奴だな。仕事が楽になって助かる。おい、こいつを出してやれ」


 男がカーラの手を掴もうと腕を伸ばしてくる。その手をノールズが掴んだ。彼はカーラの肩をもう片方の手で掴み、自分の方へと引き寄せる。


「そんなことはさせない!! いい加減に_____」


 男が持っていた拳銃の持ち手が彼の頭に落とされる。


「ノールズさん!」


 ラシュレイが崩れるノールズを受け止めた。ノールズの下敷きになる前に男がカーラの腕を乱暴に引っ張って牢屋から引きずり出す。


「き、危害は加えないでくださいと......!!」

 カーラは自分の腕を掴む男を睨みつけたが、男は何も答えない。その代わり、カーラの後ろから声が降ってきた。ゾーイである。


「邪魔をしようとしてきたから眠らせただけだ。殺してはいない」


 カーラは少しずつ牢屋から離されて行く。


「待ちなさい!!」

 イザベルが走って来たが、もう一人の男が牢屋の扉を閉めて鍵をかけてしまった。


「カーラ!」


 キエラがガラス越しに張り付くようにして彼女を見る。カーラも今すぐにでも其方に行きたいと思った。結局自分は、彼らを苦しませているじゃないか。


「開けなさい!!」

「カーラを返して!」


 牢屋の中でイザベルとキエラがそう言ったのを聞いて、ゾーイは煩わしそうに舌打ちをした。


「うるさい奴らめ。おい、眠らせておけ」

「しかし、ベルナルドさんには_____」

「眠らせるだけなら構わんだろ。寧ろ殺してもいいと命令も来ているんだ」


 男は「わかりました」と頷いて、壁にある機械を操作しだした。カーラはハッとしてその男を止めようと足を動かしたが、もう一方の男が腕を掴んでいて、体が動かない。たった一人で、しかも片腕を掴まれているだけだと言うのに凄い力である。


 だがこのままではまずい。あの男は一体何をしようとしているのか。今行動を起こせるのは牢屋の外にいる自分だけだ。カーラは動けない分、この部屋の中で最も位が高いであろうゾーイに向かって叫ぶように言った。


「あの方を止めてください! ノールズさん達には危害を加えないでくださいと言ったはずです!」


 しかし、ゾーイはカーラの言葉に反応すら示さなかった。ただ、動物のように喚いている牢屋の中を冷ややかな目で見ているだけだ。


 そして、男が操作をし終えたようだ。男の指がボタンを押した瞬間、ノールズらが居る部屋が白い煙で一瞬にして包まれた。みるみるうちに見えなくなっていく牢屋の内部に、カーラは「そんな」と声を漏らす。へたん、と床に膝をついて、呆然と牢屋の中を眺めている。


 さっきまで騒がしかったのがまるで嘘のように、牢屋の中は静かになっていた。


 カーラが座り込んだので、彼女の腕を握っていた男が力を緩めた。カーラはその隙をついて、男の腕から抜け出し、四つん這いで牢屋へと近づいた。ガラスの向こうはまだ煙が晴れない白い世界が続いている。最もガラスに近い位置に居た、キエラの赤茶色の髪が確認できた時、彼女の目にじわりと涙が浮かんだ。


 自分のせいで、仲間がここまで苦しんでいる。自分が皆を此処に連れてきてしまったのだ。何故自分は他人に迷惑をかけることしかできないのだろう。ドワイトにもきっと沢山心配をかけているだろう。


 ぽたぽたと次から次へと雫が落ちて床を濡らした。カーラの頭の中を嫌な想像ばかりがぐるぐると巡る。


「酷いです......」


 やっと絞り出した声が、掠れていた。


 男が再びカーラの腕を掴もうと手を伸ばしてくるが、カーラはその手を振り払った。そして、冷たい目で自分を見下ろしているゾーイを見上げる。


「酷いですよ、こんなのっ!! 約束と違います!!」


 ゾーイが嘲笑した。

「何が約束だ。どうなるか考えた上であの金髪共の前に出てきたんだろう? 誰も傷つけたくなければ、ずっと牢屋の奥でガタガタと震えていれば良かったのだ」


 カーラが目を見開いた。ドクドクと鼓動が速くなっていく。彼の言葉がナイフのように彼女の胸に突き刺さっていく。絶望に顔を歪めるカーラを見て、ゾーイは目を細めた。


「うるさい奴らを黙らすのは、当然のことだろう?」


「っ!!! 皆さんは私を守ってくれようとしていたんです!! なのに_____」


 その時、カーラは後頭部に衝撃を覚えた。一気に視界が狭まり、右頬の冷たいものを感じた。目が完全に閉じてしまう直前に見たのは横になった世界だった。カーラはそこで自分が殴られたのだと気づいた。しかし、彼女の意識は呆気なく、深い闇の中へと落ちていった。


 *****


 ブライスは仮施設の隣にある大きな車庫に来ていた。後ろにはコナーやバレットペア、ビクターペア、リディア、モイセス・グルーバー(Moises Gruber)、レヴィ・メープル(Levi Maple)ペア、そしてその他星4以上の研究員が数人居る。


「これって車庫だったんですね......」


 ブライス以外の職員は初めて入るのだろう。コナーが車庫の闇の中に佇む巨大なトラックを眺めながら言った。車庫の中には巨大なコンテナトラックが二台と、外部調査や国への資料を届けに行く時に使用する大小様々な自動車が揃っている。この車は全て国から貸し出されているものだ。この巨大なコンテナトラックは、超常現象を運ぶ際に使うものだが、伝説の博士で唯一これを運転できるのはブライスだけである。


「車で山に向かってもらう。俺はお前らが出て少ししたら出る。車の免許を持っていて、尚且つ大型トラックを運転出来るやつは、この中でもモイセスだけだな」


 ブライスはモイセスを見た。

「はい、久しぶり過ぎて感覚を思い出せるかどうか分かりませんけど......」


「え......ブライスさん、俺らはどうしたらいいんすか? この人数をモイセスさんが運転する車に乗せるって......」


 コナーがまさか、とでも言うように後ろに停まっているトラックを指さした。車庫で一際大きいコンテナトラックだ。


「ああ、そうだ。お前らには荷台に乗ってもらう」

 ブライスは大きく頷いた。


 *****


「ぎゃあああ!!! ちょ、無理ですよ!! こんなの、怖すぎますって!!」


 トラックの荷台は真っ暗で中には段ボールが積まれている。あれの中身はほとんど武器だ。戦闘に対応できるように職員らで地下の大倉庫から持ってきたものである。


 ブライスが選んだ職員は全員星4以上だ。つまり、赤い箱を経験してきた者達なのだ。星4以上の職員など他に沢山いるが、今回ブライスが指名したこの十数人の研究員たちはその経験者になかでも優秀だったり、長いこと経験を積んできたものである。


「早く乗れ。仲間の命がかかっているんだ」


 ブライスは腕組をして、コンテナに乗るのを渋っているバレットを見る。


「こんな暗くて超揺れる場所やばいですって!! 俺、辞退します!!」


「うるせえ乗れ」


 先にコンテナの中に乗っていたエズラがバレットの首根っこを掴む。


「嫌だああ!! 俺は行かない!! 俺は暗い場所が小さい頃から大の苦手だったんだよ!! 暗所恐怖症なの!! 電気の光少しでも無いと寝られない子供だったんだよ!」


「今は大人だろ」


 ビクターが彼の右腕をホールドする。


「そうそう、日々の超常現象に比べたら何も無い暗闇なんて怖くないよ!! 私たちがついてるもんね!!」


 ケルシーはビクターが掴んでいないもう一方の腕を笑顔でホールドした。三人にがっちり掴まれたバレットはもう逃げ場がない。まだ乗っていない研究員たちに半泣きで助けを求める。


「あああ!!! 嫌だ、嫌だああ!!! モイセスさん、レヴィ、助けてええええ!!!!」


「俺は呼ばないのか」

「コナーさああああん!!!」


 名前を呼ばれたコナーは満足気に頷いて、レヴィとリディア、そして他の研究員が乗ったのを確認して扉に手をかける。


「いやいや、ちょっと、何無視してるんですか!!?」

「うるさい!! 響くから止めろ!!」


 バレットの叫び声とビクターの怒鳴り声でコンテナの中は凄い騒ぎである。


「荷台で宜しいんですか?」


 リディアにそう聞いたのはモイセスだった。

 リディアはモイセスよりもB.F.に入ったのが早い。そのためモイセスはイザベルやノールズに対しても敬語で話しかける。


「うん!! 皆で暗いところってワクワクするから!! コナーは来ないの?」

「遠慮しときますね」


 中の騒ぎを聞いてコナーはにっこり笑って断った。


「分かりました、なるべく安全運転を心がけますね」

「はーい! お願いね!!」


 バタン、と扉は完全に閉じた。


「帰りの車は用意しておく。小さなバスだが、運転できるな」


 ブライスがモイセスを振り返った。モイセスは「はい」と頷くと、彼の隣のコナーが


「ブライスさん、モイセスさんは今からこんなにでかいトラックを運転するんすよ? 小さなバスなんて、聞くまでもないじゃないですか」


 と、首を傾げた。ブライスは少し眉を顰めた。


「分かっている。確認しただけだ」


「大丈夫です」

 モイセスが微笑んで頷いた。


「荷台とは小窓を開けば会話が出来るようになっている。後ろの奴はお前の指示通りに動かしてもらって構わない」


「うーん、それはリディアさんにお願いすることにしますね」


 モイセスは苦笑して、やがてコナーと共にトラックへと乗り込んだ。巨大なトラックの助手席などコナーは乗るのが初めてで、いつの間にか心が踊っていた。モイセスが隣でシートベルトを締めている。


「じゃあ、頼んだ。俺も直ぐに追いかける」

 ブライスが運転席のモイセスに言って、トラックから離れた。


「はい、行ってきます!」


 モイセスはエンジンをかけてトラックを前進させる。ブライスはそれを車庫の中で見守る。巨大なトラックは、間もなく、暗い闇夜に溶けるようにして消えていった。


 *****


 ドワイトらは暗く、気を抜けば木の根っこに足を取られそうな山道を慎重に進んで行っていた。


「見えてきたよ」

 先頭のナッシュが囁いたのを聞いて、ジェイスは地面から顔を上げる。そこには、こんな鬱蒼とした森には明らかに不似合いな、怪しすぎるほどに白い建物が立っていた。窓は少なく、ライトアップもされていない。静かに、森の中に隠れるように建てたのだろうが、その建物からは異様な雰囲気が漂ってくる。これが、エスペラントの研究施設なのか。


 三人は少しの間呆然としてその建物を眺めていた。すると、ナッシュがその建物の扉の前を指さした。


「見てみなよ二人とも。まだ新しい足跡がある」


 扉の前には、目を凝らすと確かに何人もの人間が通ったであろう足跡が見えた。


「あんなに沢山.....中でパーティーでもやっているのかな? それならもう少しライトアップすればいいのにね」


 ナッシュは冗談交じりにそう言ったが、その目は全く笑っていない。


「凄い建物だね」

 後ろからドワイトの声がした。


「ああ、ほんとに。こんな森に中に真っ白い建物だなんて。気味が悪いよ」

「ふむ.....入口は彼処だけなのかな」


 そう、三人の問題はどうやってこの施設に入って行くかである。意味がわからない場所の上、侵入者を快く出迎えてくれるような雰囲気にも到底見えない。


 ドワイトは施設をじっくりと眺めた。扉の横にはタッチパネルがある。きっと暗号か何かを入れなければ、入れて貰えないという造りであろう。防犯カメラも、施設の周りに無いとは言えない。もしかしたら既に木々に括りつけてあって、自分たちを監視している可能性もある。


 それに、あの扉は自動ドアである。頑丈な素材で出来ているに違いない。自分たち三人では到底開けないだろう。かなり機械に強い会社のようだ。正面突破をするにしたって、あの足跡の人数には太刀打ちできない。


「窓は何処にあるんだろう」

 建物の上の方には小窓がついているが、この施設の特徴といえば圧倒的な窓の少なさだった。あれでは外の光を取り込むということは考えていないのだろう。できるだけ中の電気が漏れないようにしているのかもしれない。


「さあ、さすがにあの小窓からは入れないね。裏側に回ってみようか」


 ナッシュの提案にドワイトは「そうだね」と頷く。建物の裏側に周りながら、ジェイスは大きな建物に圧倒されて言葉も出なかった。


 こんな森の中に、堂々と立っているこの施設は、確かに人目につかないように森の中ではあるが、B.F.よりも遥かに目立つ造りである。


 B.F.は政府公認ということになっているが、一般人が実験などに巻き込まれないようにということで、地下に実験施設がある。


 なのにエスペラントは、地上にこれだけ巨大な建物を建てている。


 余程目立ちたがりか、それとも自分の実験に自信があるのか_____。


 だが、彼らが造っていたのは法律で禁止されているクローン人間であった。そんな違法なものを造ってこれだけ隠す気が無いのを見ると、彼らは本当に超常現象を研究しているだけの団体には思えない。


 やがて三人は建物の裏側へと回ることが出来た。建物の裏側には大きな窓がついていた。そして、そこから眩しいほど明るく、暖かい光が漏れ出している。暗闇に目が慣れていたジェイスは思わず顔の前に手をやった。


「食堂か......」


 ナッシュが呟いた。ジェイスもゆっくりと顔の前の手を避けてみる。確かに、そこは食堂になっていた。何百もの、白衣を着た男女がそこで食事をしている。テレビやらカードゲームやら、様々な娯楽を楽しんでいる者もいて、楽しそうな雰囲気が此処まで伝わってきた。


「僕らの研究所とはまるで雰囲気が違うねえ」


 茂みに隠れながら、ナッシュがそう言って目を細めた。


「此処......本当にエスペラントなんですか? 何だか想像していたのと全然違いました」


 ジェイスが言うと、ドワイトも頷いた。


「うん、此処に本当にノールズ君たちが居るのか、不安になってくるね」


 エスペラントはクローン人間を造るような会社である。三人は、もっと怖い雰囲気があるのだと勝手に解釈していたが、目に入ってきたのはB.F.の食堂のような暖かい雰囲気である。明らかに表から見た時とは雰囲気が違う。違法のものを造る会社が持つ雰囲気ではなかった。


「でも、油断禁物だよ」


 ナッシュが食堂の様子を注意深く観察しながら短く言った。ジェイスも改めて、しっかりとそこに居る職員たちを観察する。


 職員らは談笑しながら食べる手を止めない。食堂の壁には大きなテレビがかけてあって、そこには普通の番組が映っている。更にはテレビゲームまでもが存在しているようだった。


 ジェイスは何だか、知らない世界に迷い込んだような感覚に陥った。それくらい、この風景のどれもが新鮮に感じたのだ。


「......人を拐っているとは思えない雰囲気だな」


 ナッシュが声を低くしてそう言った。ジェイスも「そうですね......」と小さく頷く。


「さて、どうする? 窓はあったけれど、此処から入るとしたら目立ちすぎるんじゃないかい?」

 ナッシュがドワイトとジェイスを振り返る。


「まあ、確かに......」

「見たところ窓は此処くらいしか無いし......ブライスらに連絡でもしてみるかい?」


 ドワイトの言葉にナッシュが「そうしようか」と頷き、コートのポケットから携帯電話を取り出したその時だった。


「待ってください」


 ジェイスが挙手をした。彼の反対の手は地面を指している。


「何か......臭いませんか?」

「そう言われてみれば......」


 ドワイトがくんくん、と鼻を鳴らす。嗅いだことの無い臭いである。人工的な甘い香り、とでも言うのだろうか。それにしてもこの森の中の臭いにしては明らかに不自然である。


「......これって、吸入麻酔薬じゃないか?」

 ナッシュが鼻をコートの袖で覆った。


「へ......? 麻酔薬?」

「要するに睡眠ガスだよ。医療で全身麻酔ってあるだろう? あれに使用されるものだよ」


 ナッシュの言葉にドワイトが説明を加えた。その説明を聞いたジェイスの顔がサーっと青くなっていく。彼は慌てて鼻と口を塞いだ。こんな場所で眠らされたら溜まったものじゃない。


「まさか......俺らがバレたんじゃ......」


 そんなジェイスを見て、ナッシュが首を横に振った。


「残念ながらこの量では人を眠らせるには少なすぎるかな。でも......地面からガスが出てくるなんて、そんな変な話あるかい」


「えっと......睡眠ガスを使う実験でもしていたんですかね......」


 ジェイスが眉を寄せて首を傾げた横で、ドワイトが難しい顔をして地面を見つめていた。


「ねえ......これってもしかして、ノールズ君達に使っているんじゃないかな」

「え!!」

「なるほど、確かにね.....可能性はあるな」

「ちょっと待ってください! それやばいじゃないですか! 此処、スコップか何かで掘れません!?」


 思わず声を大きくしてしまうジェイスに、ナッシュは「静かに」と注意をする。ジェイスは慌てて口をつぐんだ。ドワイトはさっきと変わらない難しい顔をして地面を見つめたままである。


「掘ると言っても、スコップか......ブライスらに持ってくるように頼んでみた方がいいかな」


「分かった、僕が電話してみるよ。二人は周りを見張っていてくれ」

 ナッシュが少し離れた場所に行って携帯電話を操作し出す。


 ナッシュが電話をしている間、ドワイトとジェイスは睡眠ガスがでてきた地面を観察していた。


「何処の施設でも実験は地下でやっているんですか?」


 もしこれが、ノールズらにではなく、実験で使っているというガスならば、実験室はB.F.のように地下にあるということだろうか。


「どうだろうね......一般人が巻き込まれたら大変だし、私たちは地下でやってはいるけれど......。B.F.はエスペラントと違って政府公認の会社だからある程度許されているけれど、エスペラントのような非政府の場合だと、尚更地上ではできないだろうね」


 ドワイトが厳しい顔をして地面を撫でている。


「人を拐っておいて眠らすだなんて、一体何を考えているんだか......」

「ノールズ達、痛いことされてないといいんですけど......」

「うん、そうだね」


 ジェイスの言葉にドワイトは優しく笑ったがその目には静かな怒りが含まれているように、ジェイスには思えた。

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