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Black File  作者: 葱鮪命
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陰謀

 B.F.星3研究員、ペドロ・スウィフト(Pedro Swift)は走っていた。月明かりも、街頭すらない真っ暗な夜の道を。


 やがて、彼はとある公園へと辿り着いた。夜だからか人影すらない、静かな公園だ。


 ペドロはそんな公園のこんもりとした芝生の丘にスーツケースを投げ出すようにして、自分も一緒に倒れ込んだ。走ってきたからか酷く息が荒くなっている。しかし、彼は息を落ち着かせる暇もないように忙しなく服のポケットを探っている。そして、そこから掴み出した携帯電話にとある番号を打ち込む。


「頼む、頼むよぉ......」


 今にも泣き出しそうな声を出しながら、彼は電話の発信ボタンを押して耳に押し当てた。

 息は変わらず荒く、心做しか手も震えている。


 電話は四コール目に入ろうとしていた。コールを重ねる度に彼の目に焦りが出てくる。


「くっそ......!!!」


 彼が悔しそうに地面の芝生を拳で軽く打つ。苛立ちの混ざった声が、誰もいない公園に響く。


 そんな時だった。


「監獄から抜け出せたか」

「!!!」


 ペドロの心臓がドクン、と大きな音を立てた。彼が電話を持ったまま恐る恐る振り返る。彼の後ろには、男性が二人と女性が二人の、計四人の人間が立っていた。今の声の主は男性である。とても低く、威圧感のある声にペドロはまた違う意味で手が震えるのを感じる。


「その様子では、随分と走ってきたようだな」


 その男は、相変わらず低い声でそう言った。息が荒いペドロを面白がるように、その声に少しの弾みが加わる。だが、彼の目は全く笑っていなかった。ビー玉のような、美しくも冷たいその瞳に見つめられながら、ペドロは震える手を再び服のポケットに突っ込む。


 次に取り出されたのは、小瓶だった。中には小さなUSBメモリが入っていた。彼はそれを男の足元に放った。小瓶は芝生の上を音もなく転がり、男が履いていた革靴にコン、と当たると回転を止めた。


「命令された通り、ケニヨンさんは死んだ!」


 ペドロは男を見上げて言った。男から放たれる凄まじい負のオーラに声が勝手に震えるが、彼は続ける。


「ちゃんと情報だって盗み出してきた!!この通り、B.F.からも追放された!! 全てお前に言われた通りにした!!」


 ペドロは地面に座ったまま男を見上げて、まるで役者のように大きく腕を広げた。


「約束は!!? 約束の金は!!!」


 ペドロの必死な形相に、男は眉をピクリとも動かさない。だが、口を開いて、


「まあ、そう焦るな。きちんと代償は払う」


 と、ペドロに言うと、次に「マヌエル」と、彼の隣に立っていたもう一人の男に声をかける。マヌエルと呼ばれた男は身長190cmは優に超えるような大男だった。そんな彼の手には、彼の体と比べると小さく見える、黒のスーツケースがぶら下がっている。彼は数歩前に出てきて、それをペドロの前に置いた。そして再び元の位置に戻って行く。


 ペドロは目の前に置かれたスーツケースを乱雑に開いた。中にはスーツケースいっぱいの札束が入っている。手の震えは相変わらず続いていたが、焦りや恐怖で歪んでいたペドロの顔は途端に輝き出した。


 最初の男が、そんなペドロを見下ろして冷たく言う。


「報酬は払った。今日からお前は自由の身だ。好きにするがいい」

「ああ、ああ.....!!」


 ペドロは大きく二度頷き、スーツケースを閉じた。そして大事そうに抱えて、四つん這いになりながら、自分の後ろに転がっていた最初に持っていたスーツケースも持ってよろよろと立ち上がる。


 やがて、夜の闇にその姿を眩ませようと、歩き出そうとした。


 そんな彼の後ろから、女性の声がした。


「金に目を眩ませて先輩を毒殺するなんて。人間、やっぱり金なのかねえ」


 ペドロは歩き始めようとしていた足を止めて、ゆっくりと振り返った。その顔は真っ青だった。


 声の主は40代後半ほどの茶髪の女だった。真っ赤な唇が闇の中で三日月のように不気味に曲がるのが見える。女はニヤニヤと笑っていたのだ。そして、そのまま続ける。


「その先輩はその金とアンタの欲望だけで死んだんだ。きっと地獄行きの切符を握らせてくるに違いないだろうねえ」


 女の言葉はペドロの息を再び荒くさせていく。ペドロはスーツケースを持ったまま勢いよく振り返った。


「そんな......そんなの知るか!! 俺は言われたからやっただけだ! お前らが、永遠の自由を約束するからって......大金で、死ぬことも無く平和に暮らせる環境を用意してやるからって......!!」


 ペドロの頭に懐かしい笑顔が浮かぶ。彼が毒殺したケニヨン・マッカリース(Kenyon McAleese)である。ペドロはケニヨンのもとで何年か助手をしていた。だが、彼はそんな先輩を毒殺したのだ。理由は簡単。金を握らせられたからである。


 *****


 ペドロの家はお金が無かった。自分が生まれる前に両親が多額の借金を抱えてしまったことが原因であるらしい。ただ、頭だけは良かったペドロは何とか良い仕事に就こうと街中を転々とした。だが、どこも自分を雇ってはくれない。


 ペドロは人間関係を築くことが人より苦手だった。少しずつ心はすり減っていき、ついに心の病にまで陥ってしまう。


 そんな時に出会ったのが、今彼の目の前にいる男である。冷たい目は相変わらず前も今も変わらない。ペドロは病院の帰りに公園でぼんやりしていた。そんな時にその男に声をかけられたのだ。


 男の第一印象は、まず「傷」であった。男の右目の下に古傷のようなものがあったのだ。何かで切ったのか、引っかかれたのかは分からない。ただ、その傷のせいで妙に男が強そうに見えた。


 男はペドロに突然訊いてきた。


「辛いか?」


 ペドロは素直に驚いた。そんなことを初対面の人間に突然訊くだろうか。そして、確かに自分は今辛い状況の中にいる。病院での薬もこれで何度目か分からない。効いているのかすら分からない。


 最近鏡を見て、自分は随分とやつれたな、とさえ思ってしまった。

 自分は確かに辛いのだ。両親に心配をかけさせ、二人の負担を軽くしたいという気持ちだけはあるのに状況は悪くなるばかり。


「......辛い」


 ペドロは気づくと自然と呟いていた。

 そして、顔を覆う。


「楽になりたい......せめて、金さえあれば......」


 こんな願望、初対面の人間に言うことではないというのは自分も分かっている。だが、誰かに辛いと分かって欲しい。両親は勿論自分を理解してくれているが、身内ではどうしても心苦しい思いをしてしまうのだ。心配をかけたくないという一心で、自分は親にさえ辛いと漏らしたこともない。


 だからだろうか。親が見ていない場所で、自分はこうも感情を自然と出してしまうのは。今だって泣きたくないのに、自分は人と話すことが苦手だと言うのに、泣きながら自分の心の内を口から漏らしている。


「ならば、お前に良い仕事を与えよう」


 男の声が降ってきた。ペドロは顔を覆っていた手をゆっくりと避けて、彼を見上げた。男の顔がよく見えない。涙のせいだろうか。


「簡単に金を稼げる、猿でも出来る仕事だ」


 *****


 ペドロに与えられた仕事は、猿でもと言っている割には能力と時間を要するものだった。


 B.F.職員に混じって施設から情報を奪ってこい_____。


 理由は分からない。彼が何を企んでいるのか、どうして情報が必要なのか。


 男はペドロにUSBメモリを渡してきた。これに情報を入れて持ち帰ってくれば良いという話のようだ。そして、


「お前が助手入りをする職員をこれで殺してこい。そしてお前が毒殺をしたことにして、B.F.から出てくればいい。恐らく追放という形で外に出されるからな」


 ペドロが次に手渡されたのは、小瓶だった。半透明な液体が中に入っている。量は少なく、せいぜい小瓶の底を覆う程度だ。


「毒殺だって......? これ、毒なのか?」

「ああ、俺の会社で発明した無味無臭の強力な毒素だ。一滴口に入るだけで、数時間後には死に至る」


 ペドロは小瓶と男の顔を交互に見た。


 この男は一体何者だと言うのだろう。簡単な自己紹介では、男はとある会社の職員だということと、名前を教えてくれた。ただ、本当にそれだけである。


 B.F.という会社の存在も、ペドロは男から教えられて始めて知った。自分は今からそこの職員になって、情報を盗み、人を一人殺して再び此処に戻ってくるようだ。


 殺す必要があるのかと問うと、どうやらそのB.F.という会社は一度入るとクビになるか、基本的に定年退職するかでしか出ることが出来ないらしい。かなりブラックな気もするが、ペドロはこの仕事を引き受けるつもりではあった。


 と言うのもこの目の前の男は、ペドロが今言われた仕事を見事に果たした場合、一生困らないほどの大金を用意すると言ったのだ。


 大金_____。


 人間は醜い生き物であると、ペドロはつくづく思った。


 自分は殺人を犯すという仕事ですら、金によって引き受けようとしている。大金があれば両親の借金も返済できるし、自分もやりたいことが出来る。今のこの辛い状況が一気に変わるのだろう。そう思えば人間一人の命など天秤にかけるほどでもない。彼はそう思ったのだった。


「俺が用意する大金の額は、お前に永遠の自由を約束するだろう」


 男はそう言って初めて口元を歪めた。それはペドロが見たこともないほどに冷たい笑みだった。


 *****


「だからって、先輩の命をまさかこんなに軽々と差し出すなんてねえ」


 女は続けた。顔を青ざめさせるペドロを面白がるように声を弾ませて。


「やっぱり、B.F.職員というのは心が酷く荒んでいるのかねえ?」


 荒い呼吸を落ち着かせるために、ペドロは深呼吸する。


 大丈夫、大丈夫だ。きっと、ただからかっているだけだ。


 自分はこうして言われた仕事を見事に果たした。相手側もきっとこうも上手くいくとは思わなかったんだろう。


 きっとそうだ。だから、こうして相手の気分も上がってしまっているのだろう。


「もう、もういいだろ......」


 ペドロは小さく絞り出すように言った。


「なあ、頼むから一人にしてくれよ......」


 もう彼らとは話したくない。出来れば、一生。

 金はもう手に入ったのだ。もう自分に用はないはずなのだ。


 ペドロの言葉に、女は案外あっさり「ああ、そうだねえ」と笑った。


「一人にしてあげようか。ねえ、ベルナルド?」


 女があの男_____ベルナルドに目を向ける。


「ああ、そうだな」


 ベルナルドは頷いた。


 ペドロは今度こそはと、スーツケースを抱え直した。そして、踵を返し、次こそ夜の闇の中へと駆けて行った。


 *****


 ペドロの後ろ姿を、四人の男女は見つめていた。だが、少ししてベルナルドは一人の女性を振り返る。今の会話に一言も入っていない、ずっと無口だった若い女性である。長く伸ばした金髪が綺麗で、身長は低い。


「さあ仕事だ。お前の最初のな」


 ベルナルドは懐から拳銃を取り出した。それは金髪の女性へと差し出される。女性の顔はさっきのペドロに負けないほどに青ざめていた。そして、拳銃を受け取るのを躊躇している。


「どうした」


 ベルナルドが更に拳銃を突き出す。女性は渋々と言った様子で拳銃を受け取った。重い鉄の塊は、受け取った女性の顔を歪ませる。


「気持ちは乗らないだろうが、ここに居る誰もがそれを経験済みだ。お前も俺らと本当の仲間になりたいのなら、覚悟を決めなければならん」


 女は拳銃から目を離すことなく、感情のない声で、


「はい」


 と、今にも消え入りそうな声量でそう言った。


「やれ、彼奴を殺してこい。チェルシー」

「.......はい、ベルナルドさん」


 夜の街にひとつの銃声が響いた。


 *****


「全てはマニュアル通りでしたね」


 大きな会議室に男が二人、向き合うようにして座っていた。


 一人は、さっきのベルナルドという男、もう一人は銀髪の、30代前半ほどの男だった。その男の名前はキュルス・ガイラー(Cyrus Guyler)。彼の優しい瞳は、臆することなくベルナルドをまっすぐ見つめている。


「ああ、チェルシーは使えるな。彼女は人を殺めるということにまだ慣れてはいないものの、命令すればそれをきちんと実行する力がある。彼女の射撃の訓練はお前の担当でいいな?」


「ええ、お任せ下さい。素敵な射撃の名手に育て上げて差し上げます」


 キュルスは上品に微笑んだ。顔が整っている彼は微笑むだけでその場の雰囲気が甘くなる。勿論それはベルナルドには無効であるが、きっと此処に彼以外の人間が居れば、老若男女問わず彼の甘い笑みに見とれてしまうだろう。


 そんな彼の笑みを見て、ベルナルドは目を細めた。


「.......お前は、何故人を殺める道を選んだ」


 ベルナルドの低い声に乗せられた質問に、キュルスは上品な笑みを崩さずに答えた。


「兄を殺してでも監獄から連れ去るためです」


 優しい声にはそぐわない言葉が並んでもベルナルドは特に驚きもしなかった。ただ、小さく口を開く。


「そんなことか」

「そんなことです」


 ベルナルドはそれ以上追求しないようだった。ただ、くるりと椅子の向きを変えて、キュルスに背を向けた。キュルスはそれがもう何も言うことは無い、という合図だと分かり、ベルナルドに向かって頭を下げると自分の後ろにある扉に向かって行った。


 *****


 キュルスがその部屋から出ると、廊下の壁に女性がもたれ掛かるようにして立っているのが見えた。さっき銃を持ったあの金髪の若い女性である。手にはタブレットを持っていて、それを横持ちにして一心不乱に画面を見つめている。


「チェルシー? まだ起きていたのか」


 キュルスは彼女に近づいて行った。さっきのベルナルドに向けた上品な声と笑みとは変わって、妹に接する兄のような優しい声と表情である。


 チェルシーと呼ばれたその女性はキュルスに気づくと慌てて持たれていた壁から背中を起こして、


「お、お疲れ様です、キュルスさん.......!」


 と、深々頭を下げた。


「この度は射撃のご指導いただきありがとうございました!! おかげで今日、初めての仕事も成功に収めることが出来ました!!」


 頭を下げたままそんなことを言うチェルシーに、キュルスは少し驚いた様子で眉を上げた。しかし、くすくすと可笑しそうに笑い、


「そんなこと言わなくたっていいのに。その長いセリフ、もしかして仕事が終わる度に僕に言うつもりかい?」


「え、えっと」


 頭を上げたチェルシーの顔が真っ赤になるのでキュルスは更に笑った。そして、彼女の頭にぽん、と優しく手を置いた。


「初仕事お疲れ様。君なら出来ると信じていたんだ」

「キュルスさん......」


 チェルシーは俯き、されるがままになっている。


「さっきタブレットを見ていたけど、もしかして僕との訓練の様子を確認していたのかい?」


「は、はい......さっきの初仕事、ベルナルドさんにフォームを直すように言われたんです......まだ少し銃も重く感じてしまって......」


「なるほど。ならそんな君に取っておきのニュースがあるよ」


 キュルスが微笑むのをチェルシーは不思議そうに見上げた。


「ニュースですか......?」

「うん。さっきね、ベルナルドさんから直々に、僕は君の射撃訓練の指導者に任されたんだ。今日はもう疲れただろうから、明日から早速始めよう」


 キュルスの言葉にチェルシーは顔を輝かせた。


「は、はい.......! 足を引っ張らないように頑張ります.......!!!」


 二人は肩を並べて、会話を弾ませながら廊下を歩いて行った。


 *****


「B.F.内で毒殺ですか......」


 B.F.星5研究員ジェイス・クレイトン(Jace Clayton)はブライスの言った言葉を呟くようにして繰り返した。


「勿論のこと犯人と推測された、彼の助手であるペドロ・スウィフトは施設から追放した」


 そう低い声で告げるのはブライスである。


 此処は第二会議室。ジェイスとハンフリーは最近起こったB.F.のとある事件に意見聴取のために呼び出されていたのだ。


 二人の他に部屋にいるのは伝説の博士の三人、ブライス・カドガン(Brice Cadogan)、ナッシュ・フェネリー(Nash Fennelly)、ドワイト・ジェナー(Dwight Jenner)だ。


「でも......ペドロとケニヨンさんは仲が良かったような気がしたんですが......」

 ジェイスは小首を傾げて資料を見入っている。


「ベティに言わせれば、人間の裏表、らしいけれど」

 ナッシュが肩を竦める。


「裏の顔、ですか」

「なんだか怖いですね......。何か恨まれることでもしたということなんですかね?」


 ハンフリーとジェイスは難しい顔をしていた。二人とも、ケニヨンとペドロのペアとは、何度か合同実験を行ったこともあって面識はあった。オフィスが近いということもあり、よく遊びに行ったりもしていた。恐らくブライスが自分らを呼び出したのはそんな理由も含まれているはずだ。


「ケニヨンの遺体を解剖して見つかった毒は、かなり強いものだった。見たことも無い種類の毒でな。たった一滴で致死量に至るものだとベティは言っている」


 ブライスは資料を掴んで一部分を読み上げる。ますます変な話だ。そんなものを一体彼は何処から仕入れたというのだろう。


「何処から、そんな毒を持ってきたんですか」

 ジェイスの疑問を実際に口にしたのはハンフリーだった。


「問題はそれなんだよね」

 ドワイトが大きく頷く。


「B.F.では外部との接触を厳しく制限しているから、毒の入手方法が謎なんだよ」

「うん、何かの超常現象に作らせたとか......」

 ドワイトの隣でナッシュが顎に手を当てて考え込む。


「もしくは、最初から毒を持っていた......とかなんでしょうか」


 ハンフリーも眉を顰めている。


「だとしたら、ペドロとケニヨンさんはB.F.に入る前から面識があったということ......?」


 ジェイスがハンフリーに問う。ふむ、とドワイトが資料を見下ろした。


「経歴からして、二人に面識があったようには到底思えないけれど......」


 テーブルの上にはペドロとケニヨンの履歴書が置いてある。ケニヨンは此処に入る前、彼の父が経営する会社で四年間働いていたらしい。ペドロは鬱病を患っていたようで、色々な場所を転々としていたという。


 これだけ見ると、確かに面識があるようには見えない。


 ブライスが二枚の履歴書を見下ろして頷く。


「面識は無いだろうな。ケニヨンはペドロと10歳以上歳が離れている。彼が此処に入社した当時ペドロはまだ小学生の上、ペドロの自宅は此処近辺にはない。よって彼とペドロが此処に入る前からの知り合いだという可能性は低いな」


 ブライスの言葉にハンフリーが唸る。


「なら、やはり彼との関係を築く中で何らかのねじれがあったんですかね」

「そう考えるのが妥当だろうな」


「毒の入手方法だけれど、ベティの話によればB.F.にあるものじゃ、あの強力な毒素は作ることができないそうだよ」


 ナッシュはそう言って新しい資料を出してきた。ベティが纏めたもののようだ。


 真っ白の紙をびっしりと埋めつくす文字の上にマーカーが引かれていたり、情報を付け足すためか所々に付箋が貼ってあったりする。毒の成分を分析して、そこからB.F.にある薬品で同じ毒を作れないか実験を行ったようだ。


「ふむ、じゃあ恐らく外から持ってきたんだろうね」


 ドワイトが資料に目を通しながら頷く。「おそらくね」とナッシュも言った。


「入手するとしたら勝手に外に出たということですか?」


 ジェイスが目を丸くして問う。外に出るには基本的にエレベーターを使わなければならない。まだこの頃は鍵がかかっていないので、脱走を試みた職員が居た可能性もある。


「エレベーターは勝手に動くしね。きちんと見張りがいなければ、人が出ていっても気づかないだろう。彼処は夜遅くになると本当に誰も通らないし......」


 ドワイトが資料を机に置きながら、ふう、とため息をつく。


「外に出て毒を持ってきたとして、次に浮かぶ疑問は、一体どこから? ですよね。此処の施設の近隣には建物はありませんね」


 ジェイスは仮施設の外の風景を思い浮かべる。


 入社試験、それから合格してこの施設の地下へと入る時に見たきりの仮施設。この地下の施設の存在が一般人に気づかれないようにするために建てられたフェイクの建物である。

 近くに建物は建っておらず、公園のような真っ平らな地面にポツンと置かれるようにして建っているのだ。車で少し行けば街の中心部まではそう遠くない。


「毒を買ってくるにしても、ここら一帯にそんなものを取り扱う店はない。公に出ていないだけで、街中で密かにそれを売る専門の職業もあるのかもしれないがな。だが、そうにしろ誰かがペドロに毒を渡したということだ。考えるに、ペドロがただ人を殺したいがためにこの施設に入ったとは思えない。数年もこんな地下で我慢して暮らせるほどの報酬を用意されたのかもしれない」


 ブライスの淡々とした分析を聞いて、ジェイスもハンフリーも眉を上げた。


「それはつまり、計画的暗殺ということですか?」

「ああ、そうだ」

「ペドロは誰かと手を組んでいたと......」

「そうだな」


 でも、とドワイトが首を傾げる。


「ケニヨンを殺すことで何を得られるんだい? それだけならペドロに毒を渡した人間には何も得がないということになってしまうじゃないか」


「そんなの考えなくたって分かるじゃないかドワイト」


 ナッシュが厳しい顔をして机上の資料に目を落としている。


「ケニヨンがその毒の販売者に酷く恨まれていた、もしくは......」


 ナッシュは一呼吸おいた。


「誰かがこの隙にB.F.の情報を盗んでいる、とかね」


 ナッシュの言葉にジェイスもハンフリーもギョッとした様子で彼を見る。


「ちょ、ちょっと待ってください。前者はともかく後者って......」


「もちろん確定ではないよ」

 ナッシュが腕組をして、近くの壁に寄りかかる。


「でも、ベティも言っていたけれど、殺していたのはやはりペドロだった。そして、毒の入手先は不明。更には、彼はケニヨンが死んだ日はオフィスに行っていた。やがて彼は結局追放されて、B.F.の外に出た。それって、最初から......つまりはB.F.に入る前から計画していたことだとしたら妙にそれらしく聞こえないかい?」


 ナッシュの話にドワイトが「ふむ」と眉を寄せた。


「入社する前に誰かと手を組んでいた。毒は入社したときから持っていたとして、」


「それを長い時間所持し、ケニヨンの元で助手として働いて、情報集めとB.F.の状況を目に焼き付け、何か問題行為を起こすことで追放された、か」


 ブライスがドワイトに続いた。息ぴったりの解説にジェイスもハンフリーも何も言えなくなってしまう。


 もしその仮説が正しかったのなら、かなりの大事件である。というか、既に人が一人死んでいるのだから事件なことには変わりない。


「つまりペドロは追放されることを目的に入社してきたってことですか......?」


 ハンフリーが控えめに問う。


「今の考えではそうなるな」

 ブライスが頷いた。


 ジェイスはそんなに上手くいくものだろうか、と首を傾げた。暗殺計画だったとしても、また随分大胆だ。途中でバレたら追放だけではきっと終わらないだろうに。


「一体、そんな大胆な計画、誰が......」


 ジェイスが口に出す。


 ペドロ一人ではそんなに大胆な計画できるだろうか。誰かが裏で糸を引いているとしたら、一体それは誰なのだ。


「さあ、そこまではさすがに。それに今のも完全な推測だからね。確定するにはあまりに証拠不足だよ」


 そう言って肩を竦めたのはナッシュだった。


「ペドロはスパイだったっていうことになりますけど」


 ハンフリーが言うと、ブライスが「そうだな」と厳しい目をして資料を見下ろす。


「その理由から行くと、ペドロはケニヨンが持つ資料から何かしらの情報を抜き取って出ていった可能性がある」


「じゃあ、二人のオフィスを調べないと」

 ドワイトが言った。


「ああ、ケニヨンとペドロが調べてきた超常現象のデータが全て二人のオフィスに揃っていれば良いが、もしそうでなければペドロがスパイである可能性は高いな」


 何だか随分話が壮大になってきた。


 ジェイスはそう思いながら慌ただしく動き始めるブライス、ドワイト、ナッシュらをぼんやり眺めていた。


 *****


「スパイか......凄い話だな」


 ジェイスが会議室から出ると、一緒に出てきたハンフリーがため息混じりにそう言った。


「うん、でもどうしてペドロだったんだろう......そりゃまだ確定したわけじゃないけどさ......。彼を操っていた人も全く分からないし......まだまだ分からないことだらけだよね」


「......そうだな」


 二人はオフィスに戻っていく。


 彼らはまだ知らない。この事件を機に、少しずつあの悲劇へと近づいていることを。この事件はまだ序章に過ぎなかった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] どこかで見たような名前…と思ったら、殺人スプーンの犯人だった!BFに人員を潜り込ませていたという事実が恐ろしいですね。実際それで研究員が殺されてしまった。 やばめの組織がいるということだ…
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