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Black File  作者: 葱鮪命
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File024 〜終末世界〜 前編

「でさー、ノールズには困ったもんだよー。あんなに直されて返ってくる報告書もなかなか無いからね」


 B.F.星5研究員ジェイス・クレイトン(Jace Clayton)は同期のハンフリー・プレスコット(Humphrey Prescott)、ヴィム・フランツ(Vim Franz)と夕食を食べていた。


 ひとつ空いた席にも、きちんとコップを用意している。


「それは、お前が甘やかしすぎなだけなんじゃないのか」


 うんうん、と頷くジェイスにハンフリーは呆れた顔を向ける。


「いやあ、そんなことあるかもなんだけれどね?」

「あるのかよ」


 ノールズというのは、ジェイスの助手であるノールズ・ミラー(Knolles Miller)のことである。


 ジェイスは彼をこれでもかというくらいに溺愛していた。それはジェイス本人も認めていた。自分の後ろをトコトコ着いてくる助手というのは、とてつもなく可愛いものなのだ。


「ノールズは本当に一生懸命でさ、応援したくなっちゃうんだよねえ」


「何でもかんでもやってたら将来自立出来なくなっちまうぞ」


 ハンフリーの言葉にジェイスは、そうなんだよねえ、と頷く。報告書の訂正も、上目遣いでお願いされたら引き受けてしまうジェイスである。それを続けていれば、ノールズも研究員として自立できなくなってしまう。


「でも、離れすぎたら今度は俺が辛いし......」


 どうしよう、と頭を抱えるジェイスを見て、ヴィムが首を傾げた。


「そんなに可愛いのかー、助手ってのは」

「そりゃあそうだよ!」

「ヴィムは助手をとったことがないんだったな」


 ハンフリーの言葉にヴィムが頷く。


「俺の相棒はパーカーだけだったからなー」


 ヴィムは何気ない様子で、一つ空いている席にチラリと目をやった。


 空気がガラリと変わったのは言うまでもない。ジェイスとハンフリーは顔を見合わせて、言葉に困ってしまった。


 彼らの同期である、パーカー・アダムズ(Parker Adams)が亡くなって半年が経とうとしている。彼はヴィムの相棒であった。パーカーの存在はこの三人にとって大きすぎるものであった。ヴィムの面倒を見てくれたり、三人を引っ張っていってくれたりと、まるで兄のような存在だったのであった。


 パーカーが亡くなってから、ヴィムは独立した。助手をとる気はないようで、いつも食事以外は一人で過ごしているらしい。


「あー、でも、ノールズみたいな手のかかる奴なら、育てがいがありそうだし、助手にとってもいいかな」


 ジェイスとハンフリーの気まずそうな顔に気づいたのか、ヴィムはそんなことを言った。それをトリガーにハンフリーが苦笑した。


「何だそれ、お前が手のかかる弟みたいなものなのにか?」

「はー!?」


 ヴィムはきっと寂しいんだろうな_____。


 ジェイスは思った。ヴィムはオフィスに戻れば一人なのだ。自分には考えられない。ノールズが居なくなる未来も、ハンフリーとヴィムが居なくなる未来も。


 扉を開けたら誰もいない。昨日は居たのに_____。

 そんなことになったらと思うと胸が張り裂けそうになった。


 ハンフリーとヴィムは仲良さげに話をしている。ハンフリーはパーカーが居ないヴィムを遠回しに心配しているのだろう。昔から素直じゃない彼の優しさには、ジェイスも何度も助けられてきたのだ。


 *****


 ハンフリーは食堂からオフィスに戻って報告書を整理していた。オフィスに戻れば彼も一人である。ジェイスはノールズを助手にとっているので一緒には居られないし、昔はハンフリーも助手をとっていたがその助手も独立をしている。ヴィムの状況とは訳が違うのだ。


 報告書を纏めながら、ハンフリーは案を考える。ヴィムはパーカーが亡くなってから、無理して笑っているのではないかと思うほどの引き攣った笑いを見せることが多くなった。今日だってヴィム自身の発言で重くなった場の空気を慌てて取り繕おうとしていたのが見え見えだったのだ。

 ヴィムにとっても自分らにとっても、パーカーの死で傷ついた心を癒すための、何かしら良い薬が必要だろう。


 パーカーの死を引き摺ることは、死んだ彼だって本望では無いはずだ。


 そんなことを考えているときだった。


『ハンフリー・プレスコット、ヴィム・フランツは第一会議室に来ること』


 施設内放送がオフィス内に響き渡った。ハンフリーは怪訝な顔をしてスピーカーを見上げる。


「俺とヴィム? 一体なんだ」


 整理していた報告書を一旦机に置いて、ハンフリーはすぐオフィスを出た。ヴィムとは廊下で合流し、二人で第一会議室に向かうことになった。


「やっべー、俺なんかしたっけ」


 ヴィムは心当たりが無いようだ。それはハンフリーだって同じである。


 *****


 会議室に着くと、ブライスとナッシュが居た。


「やあ、よく来たね」

「まあ......呼ばれたら来ますけれど......」


 ナッシュの微笑みに対してハンフリーが怪訝に返す。


「新しい超常現象の調査依頼をしたい」

「ですよね」


 ブライスの一言にヴィムが頷いた。


「確認だ。お前ら二人とも、助手はとっていないな?」


 ブライスの言葉にハンフリーもヴィムも頷いた。


「は、はい」

「とってません」


 ハンフリーはこの質問を知っている。嫌な予感しかしない。


 この質問は、裏を返せば助手が居ないから_____。


「今回二人に頼みたい超常現象は、かなり危険なものだ」


 と、いうことになる。


 *****


「パラレルワールド......?」

「そうだ」


 首を傾げる二人の前には、いくつか資料が並んでいる。ただ、読んでみても、どれも漠然とした情報しか載っておらず、まだはっきりとした調査がされていないものなんだろう、とハンフリーは推測した。


「大きな超常現象だ。おそらく、俺らが住むこの世界とは異なる、もうひとつの世界だろうな」


「はあー......そんなものが本当に存在するんですね」


 ヴィムが資料を見ながら言った。


 パラレルワールドというものを、ハンフリーは昔本で読んだことがあった。とある世界、ハンフリーらが住むこの世界などから分岐して、それに並行して存在する別世界のことだ。平行世界、並行宇宙などとも言われている。


 例えば、ハンフリーがさっきのこの放送で呼ばれても此処に来なかった、という世界や、ヴィムと合流せずに一人でこの会議室に来る、という世界が存在している、という話だ。簡単に言えば、似たようなもうひとつの世界、ということになる。


「と、言ってもそれだけでは到底片付けられん」

「と言うと......?」


 ハンフリーの言葉に、ブライスが資料のひとつを指さした。そこには、見たこともないような生き物のイラストが載っていた。人間のような見た目をしているが、体は赤黒い肌で覆われており、手は普通の人間よりも異様に長い。鋭い爪を持っており、かなりおどろおどろしい見た目をしていた。


「その世界は、人類の代わりにこいつらが繁栄している。というよりかは、人類はとっくの昔にこいつらに滅ぼされてしまったような世界だ」


「なんか映画みたいですね」


 ヴィムが言った。


 確かに、いくら自分たちが現実離れした超常現象を調べようともこんなに大きくて変わったものは初めてかもしれない。


「パラレルワールドということは、有り得たかもしれない世界線ということですか?」


「ああ、そうだ。何処かの実験所から未知の生命体が逃げ出したとか、何かの動物が突然変異を遂げたとか、様々な推測は出来る。我々は何人か調査隊を派遣したが、戻ってきたやつは居ない」


 ブライスは厳しい顔をして続けた。


「カメラを持たせて映像を共有しようとしても、何も映らない。音声は少し残るが、途中でノイズが入って何も聞こえなくなる。この資料はその僅かな音声の情報から作成したものだ。その世界のことは、そこに行った者にしか分からない」


「それで俺らを呼んだと......」


 ヴィムの言葉にブライスは「そうだ」と頷く。


 ハンフリーは、いよいよか、と思った。あの質問で始まり、命を散らしてきた研究員は、此処で長いこと働いてたくさん見てきた。どうやら自分とヴィムにも死期が近いようである。


 ブライスは基本的に、助手がいる研究員には危険な超常現象を任せるようなことをしない。その研究員が死んだりでもしたら、その助手を育てる人が居なくなるからである。星4以上になっても独立をしない研究員が多いのはそんな理由もあるからだ。


 今回のこのメンツならばジェイスが入っていてもおかしくはないが、彼にはノールズという助手が居るのだから推薦はしなかったのだろう。


「強制はしない。パーカーの傷が癒えないのは俺も知っている」


 黙り込む二人を見てブライスは付け加えた。彼の表情は悲しげで、ハンフリーは更に何も言えなくなってしまった。


 パーカーの死に最も影響した人間は、ブライスと言えばブライスである。彼の命令によりパーカーは「化け物」と呼ばれていた大蛇の超常現象の世話係を任されて、帰らぬ人となったのだから。


 ただ、ハンフリーもヴィムもブライスを責めるわけにはいかなかった。何故ならブライスは、パーカーにしっかり「生きる」という選択肢も与えていたからだ。彼はいくらでも逃げ道を持っていた。そしてパーカーは自ら死を選んだ。


 ハンフリーが黙ったままでいると、隣に立っていたヴィムが口を開いた。


「わかりました」


 ハンフリーはぎょっとして隣を見る。


「ヴィム......?」


 ヴィムはいつになく真剣な顔でブライスに目線を送っている。


「俺、行きます」

「ちょ、ちょっと待てお前......どうしたんだよ!?」


 ハンフリーが問うと、ヴィムは眉を顰めて、


「はあー? 何が」

 と、怪訝そうに返した。


「いや、何がって......」


 ハンフリーは口を噤む。


 死ぬというのに、こんなに簡単に返事をしていいのだろうか。こいつは何か、企んでいるんじゃ_____。


 あまりにも早く返事をするヴィムにハンフリーは酷く混乱していた。


 命に関わることだというのに、冷静にも程がある。


「で? ハンフリーはどうするんだよ」

「え......」

「行くのか? 行かないのか?」


 ヴィムは無表情だった。今まで見たこともないほど冷静な彼に、ハンフリーは軽い恐怖を覚える。そして、目を伏せた。そんなに簡単に決められるものではない。


 自分らは死にに行くということだ。

 例え生きる見込みがあったにしても、戻ってきた人間がいないのなら、同じことである。


「......そんなの......」


 ハンフリーが困っているのを見て、ブライスが口を開いた。


「もう一度言うが、強制はしない。お前がやりたくなければ断ることができる。ヴィムもだ。命に関わることをそう淡々と決めるな」


 ブライスも内心、ヴィムの即決に驚いているようである。ハンフリーは彼の言葉に項垂れた。


「......すみません、もう少し、考えさせてください」


 ハンフリーは項垂れたまま言った。顔すら上げられない。隣のヴィムの顔が見られない。初めてかもしれない。彼の心が全く読めないことは。


 やがて二人は会議室を後にした。


 *****


 オフィスに戻ることになったが、二人は無言だった。


 ハンフリーの隣を歩くヴィムはさっきから黙り込んでいる。沈黙を先に破ったのはハンフリーだった。


「......本気、なんだろうな」


 ハンフリーの言葉にヴィムは足を止めた。ハンフリーも足を止める。ヴィムは無表情でハンフリーを見ていた。


「あの状況で冗談なんか言うわけないだろ」


 平然として彼は言った。さっきから何故こんなにも冷静なんだろうか。あまりにも落ち着いているヴィムに、ハンフリーは何かが切れるのを感じた。


「だからってあんなに簡単に決めていい事でもなかっただろ! 下手したら死ぬんだぞ!!!」


 気づいたら怒鳴っていた。ヴィムはそんな彼に眉ひとつ動かさず、反論もせずに突っ立ったままである。


 ハンフリーは更に何かを言おうとしたが、もう頭の中には言葉が浮かばなかった。


 困ってしまって黙り込むハンフリーを見てヴィムは、場所を変えよう、と短く言ってハンフリーの服の袖を掴んだ。そのまま彼に引っ張られ、ハンフリーはエレベーターに乗り込んだ。


 *****


 辿り着いたのは第五実験室。此処でパーカーは亡くなった。今は立ち入り禁止の看板がぶら下がっており、ハンフリーはあの事件以来入っていない。


 しかし、ヴィムは何の抵抗もなく扉を開けるとズカズカと中へと足を踏み入れていく。


「お、おい......いいのか?」

「うん」


 ヴィムが部屋に中から手招きをするのでハンフリーは恐る恐る部屋の中へと足を踏み入れる。そして、絶句した。


 第五実験室は、実験室の中では唯一、二階構造になっている場所だ。その一階部分に、綺麗に磨かれた石が置いてあったのだ。その石の足元には、造花ではあるが花が添えられていた。


 少なくとも、彼が死んだ約半年前まではあんなものは置かれていなかった。


 呆然と立ち尽くすハンフリーの隣で、ヴィムが口を開く。


「ブライスさんが特別に作ってくれたんだよ。パーカーには思い出の場所で眠ってもらいたいって、俺があの人にお願いしたんだ」


「お前が......?」


 二人は階段を降りて石へと近づいた。確かに、そこには「パーカー・アダムズ」と「ハガード」と名前が掘ってあった。ハガードというのはパーカーを食い殺した蛇の名前である。名付け親はパーカーで、彼によく懐いていたようだ。


「毎晩眠る前に、よく此処に来るんだ。言ってなかったっけか?」


「聞いてねえよ! この墓のこと、ジェイスも知らないんじゃねえのかっ!?」


「まあ......知らないと思うけど」


「何でそんな大事なこと黙ってるんだよお前は!」


 ハンフリーはヴィムの肩を掴み、強引に自分の方へと振り向かせた。力が入ってしまうのは、さっきから言動がよく分からない彼に苛立ちを覚えているからだろう。


 今日の彼は変だ。


 パーカーを失ってから元気がなくなったのは、ハンフリーもジェイスも分かってはいたが、それとは比べ物にならないほどに変である。恐らく、変になったのは、ブライスにあの呼び出しをされてからだ。


 しかし、ヴィムの顔を見てハンフリーは言葉を失った。彼は今まで見たこともないほどに寂しげな表情を浮かべていたのだ。


「ヴィム_____」


 ハンフリーが呼ぶと、ヴィムは無理に口角を上げて見せた。笑おうとしているようだ。


「大事なこと......そうだよなあ、お前らがパーカーのこと忘れるわけがないもんな......」


「当たり前だろ! あいつは此処に入ったときからずっと俺らと一緒に居たんだぞ! 忘れることなんて出来るかよ!!」


「だよなあ......そうだよな......」


 ヴィムの目にじわりと涙が浮かんだ。それは、瞬く間に目から溢れてぽたぽたと墓石へと落ちていく。


「俺さあ......辛くて......パーカーが居ないオフィスに帰んの......パーカーって、俺の兄貴みたいなもんだったからさっ......死んだとき......もう、信じられなかったんだよなあ......」


 ヴィムは泣き笑いの表情を浮かべて墓石を見下ろす。


「最初は許せなかった......ブライスさんのこと......。こっそり殺してやろうか、って思ってたもん、俺......いや、今も思ってるんだけどな......」


「......」


「でもさあ、パーカーがそんなの許すわけないじゃん.....? あいつ、人一倍正義感強くて、母親のために命かけるような人間なんだからさ、もし俺が人を殺したりなんかしたら、俺の事、嫌いになっちゃうよなあ、って......」


「......」


 ヴィムの衝撃の告白に声も出ず、ハンフリーはただ耳を傾けることしか出来なかった。


「殺すんじゃなくて、死ぬまで一生恨んでやろう、って思った。墓に入るまで、一生。バカみたいじゃね? ......何も変わんないってのに」


「ヴィム_____」


「でもな」


 ヴィムはハンフリーの呼び掛けを遮るように言い、墓に縋るようにしてしゃがみ込んだ。そして、震えた声で続ける。


「分かってんだ。死んだ人間は、何をしても死んだままだって。戻ってこないって。分かってんだよ、俺......。そんなの、ずっと昔から分かってる」


「......」


「あいつに会いたい......もう一度でいいから......俺、パーカーに会いたいよ......だからさ......だったらさ......」


 ヴィムはハンフリーを見上げた。弱々しい笑みを顔に貼り付けて。


「だったら......俺だって死ぬしかないじゃんか」

「ヴィム」

「死んだら、あいつと一緒に居られるんだ。一生、永遠に、離れずに一緒に居られる」

「ヴィム!!」


 ハンフリーは堪らなくなって、彼の肩を掴んだ。が、何も言葉などは浮かばず、彼と一緒に墓石の前にしゃがみこんでいた。


 パーカーなら、この時何と声をかけるだろう。此処までとは行かなくとも、きっと精神が最も幼いヴィムを相棒としていたパーカーは、彼への正しい接し方を心得ていたはずだ。彼なら、何と言うんだ。分からない。怖い。自分は何を言えばいいんだ。


「本当に......本当に、死にたいか?」

「......ああ」


 ハンフリーはパーカーの肩を掴み、項垂れる彼の視界に入ろうと更に腰を屈めた。


「パーカーが、そんなことで会いに来て喜ぶとでも思ってんのか?」

「......」


 ヴィムは何も言わなかった。ハンフリーから目を逸らし、墓石を見つめている。それでもハンフリーは続けた。


「お前の考えを全否定するつもりなんてない。でも、もう少し考えてみろよ。お前は_____」


「もう十分に考えたっ!!!」

「!!」


 ヴィムは勢いよくハンフリーの腕を振り払い、立ち上がった。そしてハンフリーを鋭く睨みつけた。涙で真っ赤になった鼻と目。震えた唇。ハンフリーは口を閉じた。


「考えた末の答えだってのに、何なんだよっ!!! お前に俺の何がわかんだ!! パーカーの一番近くにいた俺の気持ちなんて、分かってないくせにっ!!!!」


「......」


「俺は、俺は一人でも行ってやるっ......。帰って来れないって? そんなの関係あるかよ! 死にたい人間がする任務だ。死んだところで誰が何を言うんだ?」


 ヴィムは吐き捨てるように言って、鼻で笑った。それでも声は震えている。


 ハンフリーは立ち上がった。そんな彼の肩を、ヴィムは出口の方向に向かって強く押した。ハンフリーは軽くよろめいて、驚いて彼を見る。


「もう、もういいよ」

 ヴィムは薄く笑って、言った。


「出てけ」


 短く彼が言葉を吐いた。


「......ヴィム」

「出てけっ!!!」

「......」


 ハンフリーは唇を噛む。そして、黙って振り返り、部屋を出ていった。


 *****


 ハンフリーが出ていき、ヴィム一人になった部屋はとても静かになった。聞こえるのは荒いヴィムの息遣いだけである。彼はハンフリーが出ていった扉をしばらく睨んでいたが、やがて墓石を振り返った。知らぬ間に足で蹴散らしてしまった造花を丁寧に元に戻し、涙で濡れた石の表面を白衣の袖で拭う。


「......煩くして、ごめんなぁ......」


 しかし、拭ったばかりの墓石は再び濡れた。ヴィムの目から大粒の涙が溢れてくる。それは、留まることなく、嗚咽へと変わる。その嗚咽は長い間部屋の中に響いていた。


 *****


 ハンフリーはオフィスに戻る気にもなれず、廊下のベンチで項垂れていた。心臓に鎖でもかけられたかのように重苦しく、立ち上がる気になど到底なれなかった。


 自分は、何か間違ったことを言っただろうか。


 確かに、ヴィムはパーカーが居なくなって悲しいだろう。寂しいのだろう。自分には想像ができないほどの悲しみに、溺れている。


 しかし、それが死んでいい理由になるのだろうか。死ぬとどうなるのか、死ぬとはどういうことなのか、彼は軽々しく考えすぎなのではないだろうか。


 だが、それを彼に伝えるには、自分の言葉はあまりにも足りなかった。死のうとしている人間に対して気が動転してしまったんだろう。もっと慎重な言い方があったはずだ。自分は、それが出来ずに彼を傷つけてしまった。


 パーカーなら、どうしたのだろう。


「......くそ」


 ハンフリーは白衣を握りしめて吐き捨てるように呟いた。


 いつまでもパーカーに甘えている自分には腹が立って仕方がない。しっかりしなければ。


 でも、どうやって_____。


 終わることの無い自問自答をしているときだった。


「ハンフリー君?」

「......?」


 名前を呼ばれて、ハンフリーは顔を上げた。自分の前に、いつの間にかドワイトが立っている。実験終わりなのか、頭にはゴーグルを着けている。


「あ......こんばんは......」


 ハンフリーが慌てて立ち上がろうとすると、手で制された。座ったままでいい、という意味らしい。


「こんばんは。 どうしたんだい、こんなところで」

「いいえ、別に......」


 ハンフリーは彼から目を逸らした。ドワイトは声と表情、オーラでさえ優しすぎる。彼の優しさに、ハンフリーは自然と涙が出そうになっていることに気づいて慌てて顔を伏せた。


 すると、缶コーヒーが視界の中に入ってきた。ドワイトが、自分に差し出してくれているようだ。


「......え?」


 ハンフリーは驚いて顔を上げる。ドワイトが優しい笑みを浮かべて自分を見下ろしている。


「実験で疲れていてね。一杯付き合ってくれるかい?」


 ハンフリーは思わず受け取ってしまった。買ったばかりなのかまだ暖かい。彼は白衣のポケットからもう一本同じものを取り出すと自分の隣に座ってそれを開けた。


 誰かに買ったものだろうに、自分が貰ってもいいのだろうか戸惑っていると、彼は飲み口に口を近づけながら言った。


「何か悩んでいるなら、吐き出した方が身のためだよ。小さなこの世界では、ストレスは厄介な存在だ」


 その言葉にハンフリーはじわりと視界が滲んだ。そして、ぽつりぽつりと話し始めた。さっきの出来事を、一から全て。


 *****


「そっか、そんなことがあったんだね」


 空になったコーヒー缶を大事そうに両手で包み込んでドワイトは呟く。


「......ヴィムは、俺のこと嫌ってるんですかね」


 子供のようなことを言うハンフリーに、ドワイトは優しく微笑む。


「そんなことはないさ。彼にとってかなりショックな出来事だったのは変わりないけど......君達は私から見ても羨ましいくらいに仲良しだからね」


「そうですか......」


「君とヴィム君だけで抱える問題じゃないよ、パーカー君の件は。ジェイス君の意見も取り入れるべきだし、私ももう一度、ナッシュやブライスと話し合ってみる。命の重さというものを、もう一度でいいから考えてみようね。一緒に」


「......はい............」


 *****


 ドワイトと別れたハンフリーは夕食を食べるために食堂へと向かった。ヴィムの姿を探したが、彼は居なかった。


 仕方なくカウンターに並んでオーダーをしていると、少し先にジェイスとノールズの姿が見えた。


 ハンフリーは夕食を受け取ってすぐに二人を追った。


「ジェイス......!!」

「ん? おお、どうしたのハンフリー」


 ジェイスが振り返る。彼の後ろからは、ひょこっと彼の助手であるノールズが顔を出した。


「ちょっと、いいか......」


 ハンフリーの真剣な表情と声色にジェイスは何かを感じたのか、小さく頷く。


「ノールズ、ちょっと先に食べてて」

「はーい」


 トコトコと人の波を縫って消えていくノールズの背中を見送って二人で近くの空いている席についた。


「どうしたのさ、深刻な顔して。てか、ヴィムは? 二人とも居ないから、ノールズと飯食べようとしていたからね、俺」


 ジェイスは夕食に買ったらしいナゲットを摘んで口に放り込んだ。


「ああ、ごめんな......。その、ヴィムのことで少し......」


 ハンフリーが此処まで意気消沈しているのも珍しいからかジェイスは眉を顰めた。


「いいよ、話して」


 *****


 話し終えた頃には目に涙を溜めていた。ジェイスは「なるほどなー」と言いながら自分のナゲットを食べ終わったからかハンフリーが買ったスパゲティを勝手にフォークに巻いて口に運んでいた。


「俺はヴィムの意見にも一理あるな。パーカーが大好きだもん、彼奴」


「でも死ぬってのは_____」


「そりゃあ俺も引っかかるさ。大事な友人もう一人亡くしちゃ立ち直れないかもしれないし、俺」


 次はセットのサラダにも手を出し始めた。聞いているのだろうか、とハンフリーは不安になる。


 というか、何故コイツは勝手に人の飯を食べているのか。


「......やっぱり......そうだよな............」


「パーカーが居なくなったのは、俺からしたら命なくなったようなもんだよ。相棒だったヴィムなら尚更」


「......ああ」


 ジェイスはサラダのコーンをフォークで集めながら続ける。


「俺は、俺はね、結局ヴィムが一番満足できる、後悔のない方法を選択させるべきだと思う」


「......後悔」


「そ、死ぬなら死ぬで後悔させたくない。生きるなら生きるで、ちゃんとパーカーの死と向き合うべきでしょ」


 確かに、そうだ。今のヴィムは上手くパーカーに死と向き合いきれておらず、寧ろ自分も死んで彼と同じ世界へ行きたいと考えている。


「ヴィムともう一度話してみよっか。それであいつの答えを改めて聞く。俺も今度は一緒に聞くから。な、ハンフリー」


 ジェイスはニッとと笑う。ハンフリーはその顔を見た途端、さっきまで自分の心臓にかけられていた鎖が少しだけ解けたような気がした。


「ああ、ありがとな......ジェイス」

「ところでこのスパゲティ絶品だな!! 今度三人で山盛り頼もうぜ!!?」

「......お前な」


 *****


 夕食をとり終えた二人はヴィムの元に向かった。彼は相変わらずパーカーの墓の前から動く気配を見せなかった。それどころか、泣き疲れてしまったのかパーカーの墓に突っ伏すようにして眠っている。


「あーあー、こんなところで寝たら風邪引くでしょうが」


 ジェイスが苦笑した。そして、彼の前にある墓石を見る。


「これかあ......話してたのは」

「ああ」


 やはりジェイスもこの墓の存在を知らなかったようだ。

 ヴィムが恐れているのはハンフリーとジェイスがパーカーの死に無関心になること。彼の中ではまだパーカーは生きている。それは、自分らも同じだ。


「ごめんなあ、一人で抱え込ませて」


 ジェイスは優しく、墓石に縋るような体制で眠っているヴィムの赤い髪を撫でた。

 ハンフリーはそれを見ながら、少しだけ驚いていた。


 彼は随分大人になったよな気がする。前まで自分の後ろばかり着いてきていたのに、くだらないことをして笑い転げていたのに。


 いつの間にか心が成長しているような......。


 パーカーの代わりになったつもりなのだろうか。いいや、違う。彼は、ノールズという助手を持って、色々学んでいるのだ。


 人を傷つけない方法、仲間とどう向き合っていくのか。ハンフリーは、自分はいつもジェイスがふざけて場の雰囲気を和ませるという役割を担っているだけだと思っていた。


 だが、実は彼が最も周りを見ていて、行動する力があるのだ。


「......ジェイス。ヴィム、起こすか」

「ん、そうだな、おーい、ヴィムくーん」


「ん......あれ......なんで居るんだよ、お前ら......」


 ヴィムは眠そうに目を擦っていたが、ハンフリーを見ると気まずそうに目を逸らした。ハンフリーはそんなヴィムの前に跪く。


「なあ、ヴィム。さっきの話の続き......話し合わないか。今回はジェイスも一緒だ」

「............ああ」


 *****


 ハンフリー、ジェイス、ヴィムの三人は、死との向き合い方、結局どうしたいか、答えを出すことにした。


「それで、ヴィムはパーカーのところに行きたいから任務に出るんだな」

「ああ......」


 ジェイスの質問に対してヴィムは頷いた。眠りから覚めたばかりだからなのか、それとも話の内容に関係しているのか、声に元気が無い。


 ヴィムが頷くのを見て、ジェイスは微笑んだ。


「うん、分かった。ヴィムならきっと、パーカーに会えるよ」


 ヴィムはそんなこと言われるとは思っていなかったのか、顔に戸惑いが見られた。


「いいのか、ほんとに」


「うん、会えないのは寂しいけど......ちょっとだけのお別れだし、何よりヴィムの一番の方法を選ぶから」


「......ありがと」


 うん、とジェイスは頷くと、ハンフリーを振り返った。


「それで......ハンフリーは答え出そう?」


 ハンフリーは悩んでいた。勿論、自分が任務に行くかどうかである。


 死にたいわけではない。ただ、ヴィムに一人で行かせるのは少し心もとない。何より、パーカーに会えるのではないかという淡い希望が胸にある。天国と言う場所が実在するのなら、という話にはなってくるのだが。


 ヴィムはきっと天国を信じているから、あんなことを言ったのだ。死んで会えないのなら、自分からブライスの調査依頼を受け持とうだなんて思わないはずだ。


 一方でハンフリーは一つ気になっていることがあった。ジェイスのことである。パーカーの件で傷口も塞がっていないというのに、この状態でヴィムが居なくなったら......彼はどうなってしまうのだろうか。


 少なくとも、自分なら耐えられないな、とハンフリーは思った。


「......あと一日、考えてもいいか」


 ハンフリーの言葉にジェイスは大きく頷いた。


「勿論、じっくり考えて。ハンフリーが自分で出した答えなら、俺は反対しないよ」


 *****


 その日、部屋に戻ってからハンフリーは悶々と考えていた。

 今回の超常現象は確実に死んでしまうものだ。


 死_____。


 人間が最も恐れる状況だ。その向こうに行った者は誰一人として帰ってこない。パーカーもその一人で、そこに居る。ヴィムはそこに行こうとしている。


 一人でも、である。


「......」


 *****


 三人の研究員が第一会議室ではなく、ブライスとナッシュのオフィスに集まって話すことはあまり無いことである。小さなオフィスは大人の男性三人ではかなり狭くなってしまう。


「そうか、ハンフリーがそんなことを......」


 ドワイトからハンフリーの言っていた話を聞いたナッシュは、神妙な顔つきで床に視線を落とす。


「パーカーの事件以来、ブライスは任務も慎重に任せるようになったよね」


 ナッシュの言葉はブライスに向けられた。彼はパソコンに背を向けてコーヒーの入ったマグカップを持って椅子に腰掛けていた。


「パーカーの死は俺にとって、かなり大きかったからな。職員の命を粗末に扱っていたこと。職員の意志を尊重せずに無理強いしたこと。生きるための逃げ道を作ってあげなければ俺はただの自分の意思に従わないやつを殺しているだけになる」


 ブライスの言葉に、ドワイトは眉を顰める。


「......今回の任務、先延ばしにすることは出来ないのかい?」


「そうはいかん」

 ブライスは厳しい顔をして首を横に振った。


「ひとつひとつの超常現象は早急に処理していくべきだ。終末世界......あいつに何も知らない、普通の人間が入ってしまえば、かなり危険だ。あの超常現象は色々な場所に現れるようだしな。今回は我々の施設の地下に出た。このチャンスを逃すわけにはいかない」


 ブライスは、溜息をつく。


「......どう綺麗事を言おうが、俺は人殺しには変わりないがな」


「ブライス......」


 ドワイトが彼の名前を呼んだが、どうもその先が続かなかった。


 職員の死とは新しい超常現象を調査する上でやむを得ない代償だ。しかし、精神的な攻撃が彼らに暗い影を落としている。どうかしたくても、どうすることも出来ないのだ。


「ヴィムはパーカーに会いたがっているんだね」


 重くなったオフィスの空気を変えようとナッシュはドワイトに聞く。ドワイトは微笑んだ。


「うん、そうなんだよ。彼らの仲の良さが伝わってくると思わないかい?」


「うん。仲間に会いに行くために命をかける......凄いなあ、彼」

 ナッシュが苦笑するとドワイトも頷く。


「ハンフリー君だって、仲間のことについて親身になって考えてくれているんだ。彼も凄いよね」


「勇敢な奴らだな」


 ブライスが独り言のように呟いた。ナッシュとドワイトはブライスの顔色を伺う。


 ブライスは怒っているわけではない。自分を責めている。


 命が予想だにしない方法で一瞬にして飛ぶ世界を纏める人間はそれなりの精神力を持っていなければ勤まらない。


 ブライスはとにかく真面目で仲間の死にはきちんと弔いの意を示しつつも、深くは干渉しないように気をつけていた。


 だが、パーカーの件でその心が揺らぎ始めているのだ。


 今まで死んだ職員の数は計り知れない。


 彼はこっそり職員の墓を作ったし、毎日のようにそこに花を手向けに行っているのを二人はよく知っている。


 ブライスは優しすぎて、時折その優しさが彼の首を締めているのだ。


 ドワイトもナッシュも、ブライスが壊れてしまわないか心配だった。彼の背負っているものを分けて背負おうとしても彼はなかなかその荷物を二人に預けようとはしない。自分は押し潰されそうになっているというのに、涼しい顔をしているのだ。


 優しさ故の頑固さをドワイトとナッシュはよく理解していた。


「......ブライス、少し歩いてきたらどうだい? あまり抱えすぎるのは良くないことだよ」


 ナッシュが言うと、ブライスは首を横に振った。


「いいや、大丈夫だ」


「何が大丈夫なんだか......そうやって硬い顔ばかりしていると石になるよ」


 ナッシュの冗談を聞いているのか聞いていないのか、彼はパソコンに体の向きを変えてしまった。


 *****


 ハンフリーは次の日、朝食の席でヴィムとジェイスに自分の決心を打ち明けた。


「俺も行く」


 短くそう言った。


 ジェイスは「そっか」と呟くだけであとは何も言わなかった。昨日言っていた、「自分で出した答えなら反対はしない」ということは徹底して守るようだ。


「本当にいいのか」


 ヴィムはハンフリーの決断に少し驚いているようだった。ハンフリーは涼しい顔をして、「ああ」と頷く。そして、ジェイスを見た。


「寧ろそれを聞くのはジェイスの方だ。お前こそ大丈夫なのかよ、ジェイス」


 ジェイスはイチゴジャムを塗ったトーストを口に頬張っている。咀嚼を繰り返したあと、それを飲み込んで、


「もちろん、二人が決めたことなんだから。俺に止める権利はないよ」


 と、キッパリ言った。ハンフリーとヴィムは顔を見合わせた。双方戸惑っていた。


 本当にジェイスはそう思っているのだろうか。


 自分たちにとっては良い選択だったとしても、周りの人間にどんな思いを背負わせているのか、ハンフリーはじわじわと実感していた。


「その代わり、あっちで俺のこと待っていてくれよ? パーカーにもよろしく伝えておいてよ」


 ジェイスの言葉に、ヴィムもハンフリーも同時に頷いた。


「もちろん」

「ああ、任せろ」


 *****


 それから翌日、ハンフリーとヴィムは地下室へと続くエレベーターの前でジェイスと最後の挨拶を交わしていた。そんな三人を見守るのはブライス、ナッシュ、ドワイトだ。


「元気でやれよ」

 ハンフリーがジェイスの肩を軽く叩いた。ジェイスは呆れたように笑った。


「はいはい、お節介なお母さんはパーカー一人で十分ですよ」

「......お前なあ」


 ハンフリーも、小さく笑う。

 こんなにあっさりしていると寧ろ此方が拍子抜けしてしまう。


「二人とも」

 ドワイトが、ハンフリーとヴィムの肩を優しく抱き寄せた。


「ありがとう。君達なら心配は要らなそうだね」


「本当なら共に行きたいんだがな。申し訳ない」


 ブライスが床に視線を落としたのを見て、ヴィムが笑った。


「何謝っているんですか、ブライスさん。俺らがブライスさん達の役に立てるならもう何も望まないです。寧ろこっちが感謝してもしきれないですよ」


 ヴィムは笑ったまま続ける。


「俺、ブライスさんの元で働くことが出来て良かったです」


 その言葉にどんな意味があるのか。裏があるのか、それとも彼の純粋な気持ちなのか。此処に居る誰もが知らないし、知ろうとも思わなかった。


「そろそろ行きますね」


 ハンフリーが言って、ドワイトの腕からするりと抜けた。ヴィムもそれに続く。そして、二人はジェイスの方を向いた。


 彼は微笑んでいる。が、かなり無理をしているようにハンフリーには見えた。


 どんな顔をすればいいのか分からないのだろう。曖昧な笑みを浮かべて寂しさを悟られないようにしているのか、精一杯に笑おうとしている。


 何年も共にしてきたハンフリーには、それがよく分かった。


「行ってらっしゃい」


 ジェイスが言った。


「ああ、行ってくる」

「またな、ジェイス!!」


 二人はエレベーターに乗り込んだ。背中には大きなリュックサックを背負っている。中にはカメラや無線、そして武器が入っている。死しか待たないあちらの世界で見るものを資料として撮るためのものだ。


 武器はほとんど役に立たないだろう。今まで「終末世界」に挑んで行った研究員だって大量の武器を背負って行ったが、誰一人として戻ってこなかったのだから。


 エレベーターの扉が閉まろうとしている。永遠に近い別れを分かって見送る辛さに、ジェイスは堪らず扉に駆け寄った。


「待ってろよ!! 絶対だからな!!!」


 扉が閉まるか閉まらないかのところでジェイスは言った。僅かな隙間から二人がぐっと親指を立てるのが見えた。それを最後に二人の姿は視界から消えてしまった。


 これで、自分は_____。


「......ジェイス」


 ナッシュの声が後ろから聞こえてきた。が、ジェイスは目から溢れそうな滴を堪えるのに必死だった。


「......すみません、ちょっと......先にオフィスに戻っていますね」


 ジェイスは逃げるように早足でエレベーターを後にした。


 *****


 エレベーターの中は起動音以外に何も聞こえなかった。


 ハンフリーが隣を見ると、ヴィムは少し上を見上げている。数字がだんだんと地下へと近づいていくのを見ているようだ。


「なあ、ハンフリー」


 突然、ヴィムが口を開いた。ハンフリーは「何だ?」と返す。ヴィムは数字から目を逸らして、ハンフリーを見た。


「着いてきてくれたの、何で?」


 真っ直ぐな目は、ハンフリーを捉えていた。ハンフリーは、ヴィムと入れ替わるようにして数字を見上げた。


「別に、深い意味は、ない。俺だってパーカーに会いたいし、ブライスさんが頼んでくるんだから、この超常現象は相当危険なものなんだろうから......もう犠牲者を出さないためにも、少しでも俺らが力を尽くせた方がいいだろ」


「......そりゃ、そうだけどさ......」


 ヴィムはその先から言葉が続かないらしく、黙り込んだ。きっと、彼が本当に聞きたかった答えはそれではなかったのだろう。


 _____ジェイスを置いてきて良かったのか?


 二人が心残りなのは彼だけだ。ハンフリーの頭には、まだ彼の無理した笑いが引っかかっていた。ジェイスを、自分たちは置いてきてしまったのだ。


「俺らの我儘をアイツは許してくれたんだ」


 ハンフリーは数字から目を逸らし、ヴィムの方を向いた。

 ヴィムは、もう数字を見ていなかった。ハンフリーの方も向いていなかった。ただ、じっと扉を見つめていた。


「全力でやることやろう」


 ハンフリーの言葉に、ヴィムは少ししてから「そうだな」と頷いた。

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