File022 〜忘却ティータイム〜
「はあー」
B.F.星4研究員、バレット・ルーカス(Barrett Lucas)は大きくため息をついた。
「報告書、溜まりすぎだよなあ。俺、もう......現実逃避に走ろうかな」
此処最近は仕事も多く、十分な休みが取れていない。
B.F.職員に過労死している人間が居ないことは、奇跡と言っていいのではないだろうか。
そう思うのは、バレットの隣を歩くエズラ・マクギニス(Ezra McGinnis)。星4研究員で、バレットのペアであり、同期である。
「仕事が終わったら、パーッと美味いもんでも食おうぜ」
エズラも疲れていることには変わりないが、仕事を後回しにするわけには行かない。後に回せば回すほど、此処では仕事は溜まるばかりだ。
「んー......外部調査がありゃあ、ちょっとはやる気になるんだけどなあ」
「まあ、気持ちは分からなくもない」
比較的最近追加されたB.F.の新制度、外部調査は、名前の通り外に出て、時には泊まり込みで調査を行うというものだ。
バレットとエズラはまだ一回しか経験していない。
と言っても、その一回目のときはベティと名乗る女性に、エレベーターに勝手に乗られ、B.F.への侵入を許してしまったのだが。
あの事件の時は本当に焦ったエズラだったが、何故かその後ブライスに何度か謝られたのを思い出す。
結局詳細はよくわからないまま終わった事件だったが、彼女はブライスと知り合いだったようだ。
「んー......なあ、エズラ」
「あ? 何だよ」
急にバレットが足を止めて、エズラの白衣を後ろからクイッと引っ張ったのでエズラも足を止めた。
振り返ると、彼はある扉を見つめていた。
「何だよ」
バレットが黙っているのでエズラがもう一度問うと、いやあ、と声が返ってくる。
「こんなところに扉なんてあったっけと思ってさ」
「はあ?」
エズラはバレットの視線の先にある扉を見る。此処は研究員らのオフィスがある階。そのため数え切れないほどの扉があるのはエズラも知っているが......。
そう言えば、確かに此処に扉なんてあっただろうか。
扉の見た目は周りのものと何ら変わらない。気づかなければ気づかないで、そのまま通り過ぎて行ってしまいそうな気さえする。
「確かに、妙だな」
最近できたのだろうか。
とは言え、毎日此処は通っている。ならば、工事をしていれば明らかに目にはつくはずだ。
「んー? ......あ、わかったあ」
扉に穴が空くほど見つめていたバレットがポン、と手を打つ。
「これは、秘密の娯楽部屋!!」
「疲れすぎて頭逝ったのかお前は」
軽くコツン、とバレットの頭を叩いたエズラは、改めて扉を見た。
それにしても本当に何なのだろう。違和感はあるが、普通の部屋に続いているとしか思えない。
その先は誰かのオフィスになっているのか?
それとも、バレットが言うように本当に娯楽部屋なのか。
「......入ってみる?」
エズラの気持ちを汲み取ったのか、バレットが顔を輝かせてエズラの顔を覗き込んでくる。
「はあ......いいのか? 勝手に......」
「さあ、いいんじゃね? てか、気になったらとことん調べるのがこの俺の性格なんで!!」
ガチャ。
「あっ、こら」
バレットはエズラが止めようとしたのにも関わらず、勢いよくドアノブを回して扉を開いた。
「え......誰......?」
と、同時にバレットの困惑したような声が聞こえてきて、エズラも扉の向こうを覗き込む。
そこは白い部屋だった。壁も床も全て真っ白。
実験室のようにも見えるが、こんな場所にあるわけがない。
部屋の真ん中には丸いテーブル一つと、椅子が三脚置いてあり、その一脚に優しそうな男性の老人が此方を見て、ニコニコと笑いながら腰をかけていた。
これにはエズラも困惑してポカン、と口を空けたまま突っ立っている。
「こんにちは」
男性が優しい声で入口で固まる二人に挨拶をする。
そして、
「お茶でも飲んでいきませんか?」
と、聞いてきた。
見ると、テーブルの上にはティーポットとカップが置いてあり、お茶菓子らしきクッキーの匂いが二人がいる場所まで漂ってくる。
更に、テーブルの上にはティーセットの他に、チェスやオセロといったゲームまで広げてあった。
「えー......っと」
エズラがやっと声を絞り出すと、男性は紅茶を注ぎながら、
「美味しいマフィンやケーキもあるよ」
と、言う。
隣のバレットが甘い単語にゴクリと喉を震わしたのが分かった。
「エズラー......なんか、美味しそう.....」
「......でも、明らかに変だろ。何でこんな場所でおじいさんがお茶会開いてんだよ」
男性に聞こえないようにエズラは声を潜めて言うが、心の中で葛藤していた。疲れきった体を誘う甘い香りや、暖かい紅茶の誘惑。怪しいとは思いながらも足は部屋の中へと向かい始める。
「......ちょっとだけだから、いいよな?」
バレットがエズラを見る。エズラは、小さく頷いた。
「......ああ」
誘惑に完全に負けた二人は、部屋に入ると椅子に腰掛けた。男性は最初よりも嬉しそうに、ニコニコと笑っている。
「食べたいものはあるかい?」
男性の問いに対して、バレットがすかさず、
「パンケーキ!!!」
と、叫んだ。勿論、テーブルの何処を見てもパンケーキなど見当たらない。
「そんなもんあるのかよ......?」
エズラがバレットに問うと、
「もちろん、ありますとも。あなたも何かリクエストをどうぞ」
と、男性はエズラに優しく微笑んだ。
エズラは不審に思いながらも、じゃあ、と恥ずかしげに口を開く。
「俺も......パンケーキを......」
「ふふ、はい」
すると、その時だった。
焼きたてのパンケーキが何の前触れもなく、テーブルの上に現れたのだ。男性が何処から取り出したわけでもない。本当に突然。魔法のように。
白いプレートの上に重ねられた狐色のパンケーキの上から、溶けかかったバターとメープルシロップが滴っている。パンケーキ一枚一枚が分厚く、まるで焼きたてかのようにホカホカと湯気を立てていた。
「......信じらんねえ」
エズラは思わず声を漏らす。目の前で起きていることが信じられない。バレットはエズラの隣で子供のように顔を輝かせている。
「お、おじさん何者!? 魔法使いなの!?」
「さあ、どうだろうねえ」
男性は相変わらずの優しい笑みを浮かべながら問う。
「二人とも、チェスはできるかい? ぜひとも私のお相手をしていただきたい」
「チェスかあ......エズラ、出来るー?」
バレットがフォークとナイフでパンケーキを切り分けながらエズラに問う。
「まあ、少しなら......。相手になるかは分からないですけど......」
エズラが肩を竦めると男性は嬉しそうに大きく頷く。
「いいんだよ。思い出しながらやってみよう」
*****
男性はエズラの忘れかけていたチェスの知識を思い出させながらゆっくりとゲームを進めてくれた。久しぶりのゆったりとした時間。
バレットにもルールを教えてあげ、いつの間にか二人は、時間を忘れて夢中になっていた。
気づけば部屋に入って三時間が経過していた。それに気づいたのはエズラだ。腕時計に目を落として思わず「え?」と声を出してしまったほどだ。
全く時間が進んでいる感覚が無かったのだ。寧ろ、腕時計の方が壊れているのではないかと疑うほどに。
オセロに夢中になっているバレットに時計を見せると、バレットも目を丸くしていた。
「まだ一時間も経っていない気でいたのに」
「ああ。ただ、もう行かねーと」
此処で遊び続けるわけにはいかない。自分たちには仕事があるのだから。バレットは席を立つのを躊躇したが、エズラに促されて決心したように立ち上がる。
「おじさん、俺らもう行かなきゃ」
「おや、そんなに経っていたかい?」
「ああ、残念だけど」
エズラとバレットの分の紅茶を淹れようとしてくれていたらしい男性が残念そうに笑う。
「そうかあ、仕方ないよね。またいつでも来てくれたまえ」
「絶対に来るよ!」
「また来ます」
二人は部屋を出た。
此処数年間には無かった楽しい一時だったが、結局最後まで彼が何者だったのかは、分からなかったエズラであった。
*****
ノールズは報告書を届けてきたその帰りに、その扉に出会った。
エズラ、バレットのように、彼もその扉に違和感を覚えたのだ。行きは絶対に無かった扉だ。何百回と通ってきたこの廊下の扉の数は、彼の頭に叩き込まれているのだろう。
扉を見て眉を顰めた。
「あれー? こんな所に扉なんてあったっけ?」
ノールズは首を傾げて、試しに扉をノックしてみる。
「どうぞー」
中から声が返ってきた。女性の声である。
「失礼しまーす......?」
ノックしたからには入らないといけないな、と思い、ノールズは扉を開けた。
扉の向こうには真っ白な部屋が広がっていた。真ん中にはテーブル一つと椅子二脚置いてあり、その一脚に若くて綺麗な女性が座っていた。
「こんにちは」
女性は上品な笑みを顔に浮かべて、ノールズに挨拶をした。
「休憩していきませんか?」
女性の綺麗な声に、ノールズの口から「ほへ」と変な声が出る。
「え......あなたは?」
明らかにここの職員には見えない。綺麗な花柄のワンピースは明らかに実験や研究を行う研究員には不向きな服である。
ノールズの問いに女性は微笑んだ。
「通りすがりですよ。お茶でもお菓子でも......何か欲しいものがあれば、何でもお出ししますよ」
「え!」
女性の言葉に、ノールズの頭にはドーナツという単語が瞬時に浮かび上がった。ドーナツはノールズの大好物なのだ。
「本当ですか!!」
「はい、嘘はつきません。一緒にお話でもしながらゆったりしましょう」
「はい!」
ノールズはこの部屋が放つ怪しさも忘れて、部屋へと入っていった。ドーナツを頼むとテーブルの上に突然、それが現れたのだ。
「えっ」
ノールズが目を見開く。
「え、え!? 凄!! どうなってるんですか!?」
本物かどうか確かめるためにノールズは皿を持ってこれでもかとぐらい目に近づける。が、皿の上から香る匂いは紛れもなく本物そのものである。
ノールズの反応が楽しいのか、女性はニコニコと笑うと、
「さあ、私にも分からないんです」
と、そう言った。
ドーナツが本物であると確信したノールズは早速ドーナツにかぶりついた。油っぽい生地を包むパリパリのチョコやカリカリのナッツが彼の顔を綻ばす。
「うっまああ......」
女性はノールズがドーナツを食べている間もニコニコと笑っている。
「それは良かったです」
一つ目のドーナツを食べ終え、ノールズは改めて女性を見る。やはり見たことが無い顔で、研究員には見えない。
「あの......此処の研究員ではないですよね?」
ノールズは二つ目のドーナツに手を伸ばす。ストロベリーチョコレートの上にフリーズドライの粉末ストロベリーが乗っかった、少し酸味あるドーナツだ。
ノールズは質問の答えを聞く気があるのかと疑うほどに、ドーナツに夢中になっている。
「そうかもしれません。そうじゃないかもしれませんが」
女性の意味ありげな微笑みには、ノールズは気が付かなかった。
*****
「美味しかったです! ありがとうございました!」
結局、ドーナツを五つも平らげた彼は満足気に扉に戻ったのだった。
「はい、またいらしてくださいね」
女性は最初と変わらない上品な笑みを浮かべて、ノールズに手を振っている。
ノールズはそのまま部屋を出た。
結局彼も、この部屋とあの女性の正体についてはよく分からなかったのだった。
*****
クローン人間のB.F.星4職員、ソニア・クーガン(Sonia Coogan)は、直感的に、その扉が放つ違和感に気づいた。頭の中に組み込まれているプログラムに異常が発生しているかのように、そこにあってはならない何かが目の前に存在している。
彼女の頭は、そう言っていた。
ソニアはゆっくりと扉に手をかけ、慎重に開いた。
「......此処は......?」
そこは真っ白な空間だった。真ん中にはテーブルが一つと椅子が二脚置いてあり、椅子の一脚には七歳前後に見える幼い女の子が足をプラプラと空中に揺らしながら座っていた。彼女のクリクリとした目がソニアを見つめている。
「こんにちは、お姉さん」
女の子は可愛らしい声と笑顔でソニアに挨拶をした。ソニアも反射的に、体に染み付いた挨拶を返す。
「こんにちは」
女の子の屈託のない笑顔を見て、ソニアは混乱した。B.F.職員にしては若すぎるのだ。あんな幼い子、ソニアの記憶にあるのは、セーフティールームに居る「少女A」くらいである。
「あなたは誰?」
ソニアは警戒して女の子に聞いた。
「わかんない」
女の子が笑いながら答える。
そして、
「お姉さんこそだあれ?」
と、反対に質問を返してきたのだ。ソニアは眉を顰めながらも答えた。
「......私は、ソニア......ソニア・クーガン」
「ソニア!」
少女の顔がパッと輝く。
そして、タンタンと手のひらでテーブルを叩き、
「ソニア、私とお話しよう! 美味しいお菓子いっぱいあるよ!」
彼女の言葉に、ソニアはテーブルの上を見る。確かにお菓子が山盛りになったカゴが置いてあった。
「......うん」
ソニアは小さく頷き、部屋の中へと吸い込まれるように前へと歩き出した。
*****
異空間にいる少女。普通に考えて超常現象なのだろう、とソニアは思っていたが、彼女との会話は案外盛り上がった。普通の「人間らしい」会話である。
少女はお菓子をつまみながら、口数の少ないソニアから沢山のことを聞き出した。時折、その見た目の年齢には見合わないような大人びた発言が飛び出てくることがあり、ソニアは何度か心の中で驚いていた。
気づけば一時間ほど経過していたようだ。ソニアは時計を見ていなかったが、自分の中にある時間の感覚には自信があった。
大抵のことは話終え、もうそろそろ話のネタも尽きてきたころである。ソニアはそろそろ戻ろうか、などとぼんやり考えながら、二杯目のティーカップを空にした。
「お姉さん!」
少女がソニアを呼ぶ。
「何?」
ソニアが問うと、少女は相変わらずキラキラした目を彼女に向けていた。
「最近、悩んでいることはある?」
「悩んでいること?」
「そう、お姉さんの悩み事、私が聞いてあげる!」
少女の屈託のない笑顔にソニアは正直戸惑った。
悩み事が無いわけではないが、こんな少女に話す話でもない。だが、さっきから話していると、彼女の時折見せる大人びた発言は、ソニアの今の悩みでさえ何とかしてくれそうな気がした。
普通はこんな幼い少女の前でなら、心の内秘めていくような悩みだろうが、話したところでどうせ忘れてしまうだろう、とソニアは思い口を開いた。
「私、外から来たクローン人間なの」
ソニアは彼女をまっすぐ前から見据えた。
少女は顔を輝かせている。
「クローン?」
「簡単に言うと、何人も自分を作れるのよ」
「凄い!! そんなことできるの!?」
まさか、こんな反応が貰えるとは。普通、気持ち悪いや、怖いなどの言葉が返ってくるものだと思っていたのだが。
「でも、私は時々怖がられてしまうことがある。表情は少ないし、人間味がない、って」
B.F.の研究員として働き始めた彼女だが、やはり自分が普通ではなく、周りと少し違うことは分かっていた。周りでヒソヒソと話されると、どうしても自分のことを言っているのではないかと思ってしまう。きっと、自分と同じ、男のクローンであるニコラス・ファラー(Nicolas Farar)も同じことで悩んでいるかもしれない。
少女はソニアの話を頷きながら聞いていた。そして、話終えるとにっこりと笑った。
「表情が少ない......それって、お姉さんのとってもとーってもいい所だよ!」
「......え?」
思いもしなかった少女の発言に、ソニアは思わず聞き返す。
「お姉さんはクールなところがあってとっても素敵だと思うよ! それに、ちゃんとこうしてお話してくれるでしょ? 人間味が無いわけじゃないし、表情だって実は、気づいていないだけで、凄く豊かだよ?」
「......」
ソニアはポカンと口を開けて彼女の話に耳を傾けていた。
「お姉さんが外から来たって怖がる人は、お姉さんの魅力に気づいていないからだよ! お姉さんはもっと堂々とするべき! 魅力の気づくのは僅かな人だとしても、お姉さんはお姉さんなんだから、気づいた人だけを大事にしていけばいいんじゃないかな! きっと、その方が疲れないでしょ?」
「............そうね......」
ソニアは小さく頷いた。
まるで、長く人生を歩んできた人間のような言葉に、ソニアは頭が追いつかなかった。
だが少女の言葉は、彼女の心の長い間巻きついていたものを少しずつ解いて行った。暖かく、じんわりと彼女の心の中に広がっていく。
「......ありがとう、気持ちが少し軽くなった」
「えへへ、どういたしまして!」
ソニアは立ち上がる。
「もう行かないと......楽しかったわ。またね」
「うん! ばいばーい!!」
少女はソニアが部屋を出るその瞬間まで、ずっと手を振り続けていた。
ソニアは扉を閉め、歩き出す。少女の笑顔が頭から離れない。そして、彼女の言葉と声が、耳の中に残っている。
自分の魅力に気づいた人だけを大事にする_____。
「あ、ソニア〜!」
ソニアは振り返った。茶髪の小柄な女性研究員が彼女に小走りで向かってきている。両手に重そうなファイルを数冊抱えており、バランスが取りづらそうで、今にも転びそうだ。
「ドロシー」
ソニアが彼女の名前を呼ぶ。
「探してたんだよー。何処に行っていたの?」
「......ちょっとね」
持つわよ、とソニアは頭一つ分小さい彼女の持つファイルに手を伸ばす。「ありがとう〜」と彼女は半分をソニアに手渡した。
二人はオフィスに向かって歩き出す。
少なくとも、この子は私が大事にするべき人間だ_____。
ソニアはファイルを持ち直して、そう心の中で呟いた。
*****
B.F.星5研究員バリー・キーツ(Barry Keats)は、助手と共にその扉の前を通りかかった。違和感に気づいたのは助手よりもバリーの方が早かった。
「扉......? 何で、こんなところに......」
昨日までは明らかになかった扉。工事をしていたら気づくはずだ。足を止めたバリーに、助手の星4研究員、モーリス・ホワイト(Morris Whyte)も、
「確かに変ですね? 昨日まではありませんでしたけど......」
と、首を傾げる。
「超常現象か?」
「さあ......」
「入ってみるか......」
超常現象なら、ブライスや上の人間に報告するべきだが......
放っておいて害を与えるとなると、自分たちが今確かめるべきだろうか_____。
バリーは扉に一歩近づく。
そんな先輩を見てモーリスは目を丸くして、
「えっ、いいんですか!!? だって.....もし、中で会議とかやってたら......俺ら怒られちゃいませんか?」
「まあ、そんときゃ、そんときだろ」
「も、もし危険な超常現象だったら......?」
「逃げればいいだろ。取り敢えず開けて中確かめてみようぜ」
バリーは何の躊躇いもなく扉に手をかけた。鍵はかかっていないようだ。簡単に扉は開いた。
中は白い空間になっていた。テーブルが一つ、椅子は三脚。その一脚に年老いた男性が腰掛けている。想像もしていなかった光景にバリーも、その後ろで恐る恐る覗いていたモーリスも言葉を失った。
「おや、こんにちは。お二人とも、お茶でもいかが?」
男性が、テーブルに乗っていたティーポットを軽く掲げて見せる。
「お茶!!」
昼食前だったこともあり、腹が減っていたのか反応したのはモーリスだった。しかし、バリーは最初の、扉を開けた勢いを無くして、怪訝そうに男性を見つめていた。
「あの......あなたは?」
服装からしたら此処の職員では無さそうである。男性は怪訝な顔をするバリーに優しく微笑んだ。
「私ですか? ただの通りすがりですよ。さ、今淹れたての紅茶をお出ししますから。そんな所で立っていないで、此方へいらっしゃい」
「通りすがり......」
一体何処を通ってきたというのだ。バリーは男性を観察するようにじっくりと眺める。
一般人のように見えるが、恐らく超常現象の一部であろう。空間を歪めてこの白い部屋を作っているのだろうが、それにしても不気味である。なんだか背筋を冷たいものが這って行くような嫌な感覚に、バリーは襲われた。
しかし、そんなバリーを置いて、助手のモーリスは此処まで香ってくる美味しそうな紅茶の香りに、わあっ、と顔を輝かせている。そして、
「バリーさん、紅茶、飲んでいきましょうよ!」
と、バリーの背中を押した。
「あ、待て。押すなよ、モーリス!」
グイグイと背中を押されて、バリーは完全に空間の中に入った。紅茶の香りが強くなった。確かに良い匂いではある。
モーリスはある程度バリーが部屋に入ったところで彼の背中を押すのを止めて、椅子に座った。そして、ティーカップの隣に並べられた美味しそうなクッキーに釘付けになっている。
「こら、モーリス」
バリーはため息をつき、改めて周りを見回す。白すぎる部屋の真ん中に置かれたテーブルと椅子。部屋の端の方は何だかモヤモヤした霧のようなものに覆われていて、壁があるようには到底思えなかった。まるで、何処までもこの空間が続いているようだ。
バリーは紅茶を淹れる男性に目をやる。バリーの視線には気づいていないようだ。モーリスはと言うと、早速クッキーに手を伸ばしていた。
「おじいさん、こんな所でお茶なんか出して......どうやって此処に入って来たんだよ?」
完全に不審者に対する視線と口調で、バリーは問う。
「さあ、どうやってだったかな」
男性は最初の紳士のような堅苦しい喋り方を止めて、ニコニコと笑ってバリーに言った。
「それより、二人ともお腹が空いているようだね。お茶菓子に何か出してあげるよ」
「スコーン!! スコーンが食べたいです!!」
クッキーが乗っていた小皿を空にしたモーリスが勢いよく挙手をして男性に言った。
「おい」
バリーがそれを止める。机上にスコーンなど見当たらない。それに、これだけ怪しさ溢れる男性に出してもらったものなど、安易に口にしていいのか、とバリーが思ったその時だった。突然、スコーンがテーブルの上に現れたのだ。勿論、誰もテーブルには触れていない。まるで魔法のようだ。
「えっ......!?」
バリーもモーリスも目の前で起きた突然の出来事に開いた口が塞がらない。
二人の反応を面白がっているらしい男性が、
「君はどうする?」
と、バリーに聞いてきた。
「えっ......と」
バリーは頭が回らない。まるでマジックだ。B.F.研究員として今までに様々な超常現象を見てきた彼だが、こんな物は初めてだった。
バリーはモーリスをチラリと見る。彼は早速スコーンに手を伸ばし、美味しそうに頬張っている。
「ジャム、クッキー......」
バリーは小さく、独り言のように言った。
ジャムクッキーが彼の大好物である。B.F.に入ってからは一度も食べていないそれを、久しぶりに食べてみたかった。
「ジャムクッキーだね。いいとも」
男性は大きく頷いた。すると、やはり机上に美味しそうなジャムクッキーが現れたのだった。
バリーは思わず、「すごい」と声を漏らす。男性はまだ誰も座っていない椅子をすっと引いた。
「さあ、君も一緒に食べよう」
その言葉に誘われるように、バリーはテーブルについた。
*****
モーリスに倣ってバリーもティータイムを満喫した。お菓子と紅茶を堪能し、満腹になる頃には扉を潜ってからかなり時間が経過していた。
腕時計は夜の七時を指している。バリーはいつの間にかこんなにも時間が進んでいたのかと、自分の目を疑った。
少し食べたらモーリスを連れてこの空間から出ようと思っていたのだが、知らぬうちに随分楽しんでいたようだ。
「モーリス」
モーリスは、男性とチェスを行っていた。お茶を飲んでいろいろ話しているうちに意気投合してしまったらしい。時折見せる笑顔は、最近の忙しい日々の中であまり見せていなかったものだったので、バリーも彼に「帰るぞ」とは言いづらかった。
しかし、此処の空間に入ってきてもう既に二時間は経過する。流石にずっと此処に居るわけにはいかないのだ。
「なんですか、バリーさん!」
チェスで盛り上がるモーリスがバリーの方を見ずに返事をする。バリーは彼に腕時計を見せた。
「え、もうそんなに経ったんですか?」
モーリスも時間がこれほど経過したことに気づいていなかったのだろう。目を丸くしている。
「ああ。悪いけどおじいさん、俺らもうオフィスに戻らないと」
バリーは男性の方を振り返って言った。男性はおやおや、と目を細めた。
「そうなんだね。モーリス君、良い相手だったよ。ありがとう。久々に楽しめた」
男性の言葉に、モーリスもはにかんで言う。
「俺もこんなに楽しんだのは久々でした! ありがとうございました!」
ぴょん、と立ち上がったモーリスを見て、バリーは出口へと向かう。扉はちゃんとあって、バリーがそれを開くと、その先はしっかり元の廊下へと繋がっていた。彼は先に出て、モーリスのために扉を抑える。
「あれ? モーリス君、忘れ物だよ」
男性が、此方へ駆けてくるモーリスに声をかけた。
「え?......ああっ!」
男性の腕の中にモーリスの白衣があった。紅茶を飲み、チェスで盛り上がっているうちに暑くて脱いだのだった。
「ったく、気をつけろよな」
バリーがため息混じりにそう言うと、モーリスは恥ずかしそうに笑った。
「ほら、ファイル持っててやるから行ってこい」
「はい、お願いします!」
モーリスがバリーに、脇に挟んでいた研究員ファイルを預けた。そして、一度出かかった扉をもう一度潜った。
バタン。
扉が閉まった。
「............?」
バリーは扉を見た。
_____こんなところに扉などあっただろうか。というか、自分は何をしていたのだ?
こんな場所で会議でもやっていただろうか_____?
バリーが立ち尽くしていると、
「おー、バリー? 何してんの? こんなとこで」
後ろからぽん、と肩を叩かれてバリーは我に返った。振り返ると、彼の同期が立っていた。
「あ? お前、何で研究員ファイル二冊持ってるんだよ」
同期の言葉にバリーは「え?」と、自分の手を見た。見覚えのない研究員のファイルが自分の物の他にもう一冊あったのだ。
「モーリス・ホワイト? 誰だよ」
同期がファイルの表紙に書いてある名前を読み上げる。バリーも首を傾げた。自分も知らない名前である。
「誰だっけ......こいつ......?」
「知らない奴のファイル持ってきたのかよ? アホだなー、お前」
同期が苦笑した。バリーはもう一度扉を見る。
果たして、自分はこんな場所で何をしようとしていたのだろうか_____。
「ほら、行くぞ。そのファイルも元の人のところに返さないと」
「あ、ああ」
二人はその場を去った。
*****
次の日、その扉は跡形もなく消えていた。