忍び寄る紅い華
人で溢れる昼の街。交通量も多く、行き交う人々は溢れる食べ物の匂いの中、話に花を咲かせている。人々は喋ることに夢中で、綺麗なポスターにも、道端にある煉瓦に囲まれた花壇に咲く花々にも目をとめない。
ただ、
「かっこいいー......」
「モデル?」
「綺麗な人ー.......」
すれ違った一人女性に対しては、誰もが喋るのを止めて振り返り、足を止める。
その女性は視線に気づいているのか、いないのか、何事も無いように歩いて行く。カツン、カツンと彼女の足を彩る赤いハイヒールが音を立てる。そして、道行く人の鼻に香しい香水の香りを残す。
彼女はふと、小さなカフェの外のベンチに腰を下ろした。そして、黒い皮のカバンから新聞を掴み、顔が隠れてしまうくらいに広げた。
露出の多い黒のワンピース、女優が被るようなつばの広い帽子、そして、大きなサングラス。
足を組んで新聞を読むその姿はまるで映画のワンシーンのようだ。
そんな彼女の前を通る二人の人物がいた。
二人は女性など目に入らないくらいに話に夢中なようだ。
「そんでですねー、あの時めちゃくちゃ怒られたんですよー」
「だろうなあー。まずお前はちゃんと報告書を書けるようになれってば」
「うーん、そうなんですよねえ。ナッシュさんにも言われたんですよ。お前は早く人が読める字を書けるようになれって」
「ブライスさんに怒られるよりはいいんじゃないの? まあ、ドワイトさんにやんわり注意されるのが理想だけどさあ」
「あはは、ですよねー」
二人の会話だった。
女性はというと、少し新聞を下にずらし、二人の姿をサングラスの奥から目で追いかけていた。そして誰にも気づかれないように、真っ赤に塗られた唇の端を持ち上げてニヤッと笑ったのだった。
彼女はおもむろに立ち上がると、新聞を畳んで鞄にしまい、二人に気づかれないように距離を置いて追いかけ始めた。
*****
「............おっせえな、あいつら」
B.F.星4研究員エズラ・マクギニス(Ezra McGinnis)は腕時計に目をやり、イライラした様子で足を鳴らす。
此処はB.F.仮施設の入口前。エズラは今日、彼にとっては初めての外部調査に出ていた。派遣者はエズラの他に三人の計四人。エズラ、そして彼と同期のバレット・ルーカス(Barrett Lucas)、もう二人は星3と星5の彼の後輩と先輩であった。
今回の調査は、既に調査済みの対象の経過観察だったので、そこまで時間はかからない、日帰りの外部調査だ。
「.......はあ」
エズラは大きくため息をついた。
「ほんとにおっせえな、あいつら。もうとっくに先輩行っちまったぞ」
そう、予定なら15分前に此処に集合してエレベーターで下に降りて帰っているはずなのに、バレットともう一人の後輩が一向に戻ってこないのだ。
痺れを切らした先輩が「よっし!! エズラは此処で待機な!!」と、自分だけ先に帰ってしまった。
団体行動をしなければならないというのに、電光石火のごとく帰ってしまった彼を見てエズラは、何て先輩だ、と呆れて声も出なかった。恐らく下でナッシュかブライスにでも大目玉を食らっているに違いない。
エズラはもう一度時計に目をやる。永遠のように感じる。そろそろ立っているのも疲れてきたので、エズラは座り込んでしまおうか、と考え始めた。昼食もまだだから、腹が減って仕方がない。
_____大体、約束の時間に15分も遅れるやつがあるか?
仮にも自分達は国家公認の研究員なのだ。そんな怠けた態度で仕事に臨んではクビになるに決まっている。
エズラのイライラが頂点へと達しようとしていたときだった。やっと、角を曲がってくるバレットと後輩の姿が見えた。楽しげに談笑している様子で、急ごうとする気配が微塵も感じられない。
「おいっ、おっせえよ、お前らっ!!」
これは、しっかり注意しなければ。バレットはともかく、後輩がこんなではいずれ苦労することになる。先輩として、しっかり言わなければ。
「エズラ? あれ、マーティーさんは?」
マーティーさん、というのは今日エズラ達と外に出ていた星5研究員、マーティー・ラッピン(Marty Lappin)のことである。此処をエズラに任せて、自分だけは速攻エレベーターに乗ってB.F.に戻って行ったあの先輩である。
「お前らが遅すぎるからとっくに行ったんだよ、ボケ」
声を低くしてそう言うエズラに頭を下げたのは星3の後輩である、ケーシー・キャンプス(Kasey Camps)であった。
「す、すみません、エズラさん。なんかバレットさんとお話していたら盛り上がっちゃって」
えへへ、と何処か軽い雰囲気を感じる謝罪にエズラは更にイライラを募らせる。
「取り敢えず反省してないだろお前」
「反省してるって〜」
と、ケーシーの肩を持つのはエズラの同期であり、ペアのバレットだ。
こいつらにどうこう言ったところで、自分が無駄な体力を消耗するだけだな、とエズラはため息をついた。
「もういい、行くぞ」
ブライスに頼んで、彼らを外部調査以外の別の仕事に当ててもらうよう頼んでみようか。もっとマシなやつを外に出した方が身のためですよ、と言葉でも添えて。
エズラがエレベーターを電話して開けてもらい、乗り込む。バレットとケーシーもエズラに続いた。
エズラが階を指定するためにボタンに近づいた時であった。
「あー、ちょっと待ってー」
「!?」
ボタンを押そうとしたらエズラの手が止まる。突然、エレベーターの中に響く女性の声。エズラが外を見ようと、顔を出した時だった。
「え!」
エレベーターに女性が乗り込んできたのだ。女優帽とサングラスで顔はよく見えないが、随分綺麗な人だ、とエズラは思った。金髪の、ウェーブがかかった髪から良い匂いもする。
しかし勿論、
「いや、ちょ、困ります!!! 降りてください!!」
このエレベーターは国家が守る情報を扱う会社へと続くものだ。そんなものに一般人なんかを乗せられるわけがない。
エズラは慌てて彼女に言う。
しかし、女性はそんなエズラに上品な笑みを浮かべた。
「ふふ、ごめんね? 私も乗せてくださるかしら」
「いや......ほんと、困るんですけど......」
エズラは助けを求めようとバレットとケーシーの方を見る。二人は露出度の高い女性の服から覗くスタイル抜群なその体に鼻の下を伸ばしていた。
_____ダメだ、話にならん。
「あの、ほんと、怒られるんで......」
「えー? いいでしょう?」
女性がグイグイと自分に近づいてくるのでエズラは慌てて後ずさる。女性の抜群なスタイルにエズラも興味がないわけではない。
しかし、彼の場合、B.F.の誇り高き研究員であるという自覚の方が幾分か勝っていた。
だが、彼は近づいてくる女性に完全に逃げ場を失い、背中がエレベーターの壁へとついてしまった。
しまった、と思った次の瞬間。
「うわっぷ!!!?」
圧迫感に襲われる。女性がエズラに抱きついたのだ。鼻腔をくすぐる良い匂いにエズラの顔がカッと赤くなっていく。
「おわあ"あ"ぁぁエズラァァァ!? お、おま、羨ましいぞ!!!! ズルいんだけど!!!!」
バレットが大声で喚くが、エズラはそれどころではない。
「ちょ、ちょ、何......やめっ......」
頭が大混乱だ。目がぐるぐる回ってくる。
「ふふ、そこのボク、ボタンを押してくださる?」
女性が、さっきから棒立ちになっているケーシーにウインクをした。ケーシーはシュバッ!! と擬音がつきそうなほどピン、と背筋を伸ばした。
「は、はいっ!!! もちろんです!!」
「あ、こらっ、てめえ!!」
女性に完全に魅了されたらしいケーシーがボタンに向かうのを見てエズラが止めようとするが、女性の力がなかなかに強く、腕から逃げられない。
このままでは窒息する、と、エズラは命の危機さえ感じた。
「あらあら、お顔を真っ赤にしちゃって可愛いこと。こういうのは初めてなのかしら?」
女性は顔を真っ赤にしているエズラを見て楽しそうにしていた。女性に抱きつかれるなど、母親以来である。エズラの同期にケルシーという女性がいるが、彼女に抱きつかれたとしても此処まではならないだろう。
エズラが苦戦している間にも、ケーシーはボタンを押してしまった。そのままエレベーターは動き出す。
「エズラァァア......そこ代わってよ〜......」
「言ってる場合か!!」
「あら、代わる?」
バレットの発言により、女性の腕の力が少しだけ緩んだのを感じて、エズラはやっと腕から開放される。そして、反対側にいるケーシーとバレットの前に立って二人を守るようにして腕を広げた。
この馬鹿共を守れるのは、多分自分だけである。
彼は精一杯に女性を睨んだ。
「あらあら、そんなに睨まなくたって......別に怪しいものではないのよ?」
「い、いきなり抱きついてきて窒息させようとしてくる人の何処が怪しくないんですか!!! ほんと、降りてください!!」
「エレベーターは動いているのに?」
「.......」
ごもっともである。エレベーターのボタンをケーシーが押したことにより、エレベーターは動いてしまった。つまり、この女性の侵入を許してしまったのだ。本当に、冗談抜きでまずい状況だ。
「なあ、エズラ? 良い匂いしたあ?」
「エズラさん、羨ましいです......」
「お前ら一回黙れ!!!」
そんな三人を見て女性は口を開く。
「あら、いいのよ。三人ともまとめて窒息させてあげても」
妖艶な笑みを浮かべる女性に、エズラは、グッと体を引く。
「是非!!!」
そんな彼の後ろで腕を広げるのはバレットだった。
「馬鹿野郎!」
こいつは、本当に......ペアとして恥ずかしくなってくる。
前を見ると、女性もまた腕を広げて近づいて来ていた。
「ふふ、いらっしゃい可愛い子猫たち」
「うわああああっ!!!?」
エレベーターの中に悲鳴と歓声が響き渡った。
*****
「何? エレベーターに女性が乗り込んできただと?」
会議中に鳴った電話を取ったB.F.最高責任者であり、星5研究員のブライス・カドガン(Brice Cadogan)が眉を顰めた。
「女......スパイかな」
全員の視線がブライスに集まる中、会議に参加していたナッシュ・フェネリー(Nash Fennelly)は、隣のドワイト・ジェナー(Dwight Jenner)にコソコソと耳打ちをする。
「だとしたらまずいよ。エレベーターは動いているのかい?」
ドワイトが首を傾げる。
「今日はマーティー、バレットらのチームが外部調査に出ていたな。ああ......そうか、わかった。切るぞ」
ブライスが、がちゃん、と電話を置いて戻ってくる。そして、マイクを持って、会議に参加していた研究員らに向かって、
「謎の人物がB.F.内に忍び込んできたようだ。会議は中断する。全員自分のオフィスにすぐ戻れ」
と、相変わらずの厳しい顔でそう告げた。
*****
「何かしら、物騒ね」
B.F.星5研究員イザベル・ブランカ(Isabelle Blanca)はせかせかと歩きながら隣の同期、ノールズ・ミラー(Knolles Miller)に言った。
「まあでも、退屈してたしなあ」
「欠伸噛み殺せてなかったわよ、あなた」
「あ、バレてた?」
「全く......仕事が多くて睡眠が足りないのは分かるけれど、体調管理も仕事の内よ」
イザベルがため息をつく。ノールズがパッと顔を輝かせてイザベルを見た。
「あ、心配してくれてるんだね!? 俺との将来のために!! そうなんでしょ!!!」
「いい加減にして」
「はい」
ノールズは肩を落とす。
それにしても、女性がエレベーターに乗ってきたそうだが、バレットらは平気だろうか、とノールズは内心そちらも心配だった。普通に考えたら、かなり危険な状況である。
何事もないといいのだが......。
*****
会議が中止になって、ナッシュとドワイトは共にオフィスに向かいながら、廊下や食堂の職員の誘導をすることになった。女性の正体が分かるまでは皆一旦オフィスに避難させなければならない。これで死人でも出たら、大変だ。
「普通に考えて、怖いよね.....」
ドワイトが食堂にて、皆を誘導しながら言う。その隣でナッシュも頷く。
「そうだねえ......興味本位で乗ってきたにしてもまずそれ事態変だし、この施設のことを一般人に知られでもしたら、世界中を取り巻く大事件になること間違いなしだよ」
ナッシュの言葉を聞いてドワイトは「うん」と小さく相槌を打ちながら難しい顔をしていた。
「やっぱり大人数を一気に動かすのは難しいね......」
そう、食堂にはかなりの職員が居た。この人数をオフィスに戻すとなると、かなり時間を必要とする。更にはさっきの騒動でエレベーターは使用禁止にしており、皆階段からオフィスのある階へと行かなければならない。
「まあ、やれるだけのことはやらないと。此処に職員らを留めるわけにもいかないだろう?」
ナッシュはそれに、と続ける。
「館内放送を使えばそれこそ他の場所に居る研究員もいっぺんに避難させられるから楽だけれど、相手の気を立てるから使うなって、ブライスに言われたしねえ。僕らで取り敢えず食堂を動かすので精一杯ってところかな」
食堂に残っていた研究員に状況を説明している暇はない。とにかく、一秒でも早くオフィスに戻るように伝えると、皆怪訝な顔をして食堂から出ていく。
「犯人が早く見つかるといいけど.......お、あれは」
ナッシュが人混みの最後尾をやってくる、赤いリボンをゆらゆらと揺らしながら此方に向かってくる少女に気づいた。ドワイトの助手、カーラ・コフィ(Carla Coffey)だ。
「ドワイトさん、ナッシュさん!」
「カーラ、買い物かい?」
彼女は、大きすぎる白衣に埋もれるように必死に重いコーヒー豆の袋を抱えていた。可愛らしいその姿にナッシュは口元を綻ばせて問う。
「は、はい......オフィスの豆が無くなってしまったので、買いに来たんです......えっと、あの、これは一体......?」
カーラはうごめく人混みを見て目を丸くしている。
「色々あってね。至急オフィスに戻ることになったんだ。カーラも私たちとオフィスに戻るよ」
ドワイトが彼女が抱えていた袋を受け取り、言う。
「は、はい......分かりました」
彼女は状況を全く理解していなかったが、頷く。
ドワイトらは食堂に他に人が残っていないことを確認して、最後に食堂に鍵をかける。
「よし、じゃあ、行こうか」
会議室なども一つ一つチェックし、人が居たら誘導する。そのままバレット達の様子を見ることも含めてエレベーターに向かうことにした。
「バレットやエズラが心配だよ。何も無いといいけど......」
「そうだね、見に行こうか」
二人の後ろ姿を見ながら、カーラは一体何が起きているんだろう、とぼんやり考えていた。
*****
エレベーターに着くと、三人は目を疑った。そこには、顔を真っ赤にして、重なるようにして倒れている三人の研究員の姿があったのだ。バレットらだ。
エズラ以外は幸せそうな顔をしている。
「さ、三人とも、大丈夫かい!?」
ドワイトに抱き起こされたバレットが、半分夢心地と言った感じで、とろんとした顔で宙を見つめる。
「ああ......ドワイトさん......俺、今日死んでも悔いなんて残りません......えへへへ............」
「え!?」
目を丸くするドワイトの後ろでナッシュも眉を顰めて、
「これは......どういうことなんだい、エズラ......?」
「............すみません、ほんと、すみませんでした............俺は......B.F.研究員なのに......あんな......あんな事に......」
エズラは耳まで真っ赤にして寝言のようにそうボヤいている。
「ま、ますます分からない......」
ドワイトは顔を横に振って、取り敢えず三人には階段を使ってオフィスに戻るよう伝え、そのままドワイト達はエレベーターへと乗り込んだ。
「大丈夫かな、三人とも......」
ドワイトは、扉が閉まるその瞬間まで心配そうに外に目を向けている。
「さあねえ、やけに嬉しそうだったけど......女スパイにハニートラップでも仕掛けられたかな?」
「何か情報を吐いていたらどうするんだい、それは......」
ドワイトが頭に手を当ててやれやれ、と首を振った。
やはりカーラは意味がわからなかった。
二人の会話にでてきた女スパイという単語と、ハニートラップという単語に更に混乱しているようだ。
黙って話を聞いていれば状況が分かると思っていたが、やはり見えてこない。
彼女は二人の会話が途切れたタイミングを見計らって声をかけた。
「あの......ドワイトさん、これは、何が起きているんでしょうか......?」
「ああ、ごめんね。すっかり置いてけぼりにしてしまったよ」
ドワイトが申し訳なさそうにカーラの小さな頭にポンポン、と手を置く。
「実はね、知らない女性が、急にエズラ達が乗っていたエレベーターに乗り込んできたようなんだ」
「女性?」
「うん、詳しいことは分かっていないんだけれどね」
へえ、と曖昧に言葉を漏らすカーラ。ナッシュはさっきから黙ってエレベーターの扉を見つめている。ドワイトは静かなナッシュに違和感を覚えたのか、
「ナッシュ?」
と、彼を呼ぶ。
ナッシュがハッとしたようにドワイトの方を向いた。
「ああ、いや、ドワイト......僕は今、とても嫌な予感がするんだ」
「嫌な予感だって?」
ドワイトはカーラの頭から手を浮かす。
「ああ」
ナッシュが首肯した時だった。エレベーターが指定していた階に着き、扉が開いた途端、ナッシュが何を思ったかカーラの華奢な手首を掴み、そのまま自分の方へと引き寄せたのだ。
と、同時に。
「ひっさしぶり〜!!」
「!!? ベ_____」
ドワイトがギョッとした様子でエレベーターに乗り込んできた女性の名前を呼ぼうとしたが、言い終わらないうちに壁まで追い詰められ、そのまま、
「なっ!!!!!!!」
ドワイトの唇が女性の唇によって塞がれた。それを見てカーラは勿論声を上げる。
「んん!!!? ちょ、待って、どうして、君が............」
混乱するドワイトから目を離して、続いて女性が向かったのはナッシュの元だった。
「はーい、ナッシュ」
「やあ、ベティ、久しぶりだね」
ナッシュは慣れた様子で彼女に頬を出す。女性はその頬にキスをし、満足した様子でエレベーターから出て行った。
「............ベティ、じゃないか」
ドワイトが呆れたような、驚いたような曖昧な顔でエレベーターの外を見ている。
「ベティ、みたいだね」
ナッシュはホッとしたような、諦めたような顔で言った。
「ドワイトさん!!!!!」
完全に置いてけぼりにされた上にとんでもないものを見せられたカーラは、顔を真っ赤にしてドワイトに近づく。
「だだだ、誰ですか、あの女性は!!!!!」
大好きな先輩がまさか自分の知らない女性にキスをされる場所を見せられるとは、思ってすら居なかった。上手く言葉がまとまらない。
「え? ああ、ごめん、ごめん」
ドワイトがカーラの背中をポンポンと叩く。
それを見たナッシュは苦笑した。
「小さい研究員さんには少し刺激が強かったみたいだよ、ドワイト」
*****
ドワイトらは会議室に向かった。まだそこには、ブライス居るはずだ。
「大変だよ、ブライス! ベティが_____」
ドワイトらが会議室に飛び込むと、彼は涼しい顔をして資料の整理をしていた。彼の顔には複数のキスマーク付けられていた。それ見てドワイトもナッシュも苦笑する。
「その様子じゃあ、もう会ったみたいだね」
ナッシュが彼に近づいた。
「ああ、他の奴らにも挨拶に行ってくると言って出て行った」
「やれやれ、君も大変だな」
そう言うナッシュをブライスはちらりと見上げる。
「代わるか?」
「いいや、遠慮させてもらうよ」
*****
ノールズとイザベルはオフィスに戻る途中で、
「げ!!」
「ベティさん......」
捕まっていた。
「あら!! イザベルとノールズ!? 二人とも良い感じに育ったわねー!!」
腕を広げて近づいてくるベティをサッと慣れた様子で交わすノールズとイザベル。
「食べるつもりですか」
イザベルが言うと、
「あら、相変わらずイザベルはおませさんなのね」
と、くすくすと笑われた。
「何しに来たんですか?」
「ベティさん、B.F.職員辞めたんじゃ......」
そんな二人にベティはヒラヒラと手を振って、
「まあ、大人の事情ってやつよ。子供は知らなくていいの」
「もう子供じゃないです」
イザベルがムッとした顔で返す。
「ふふ、可愛いわよ、イザベル。じゃあ、またね」
嵐のように過ぎ去っていく女性に後ろ姿を見て、二人ともポカンとしていた。
「.......マジで何でいるの?」
「さあ、知らないわよ」
*****
「......此処に居たのか」
ブライスはB.F.のアジトの最も奥、最も埃っぽい部屋へとやってきた。そこには、床に無数の石が埋め込まれるようにして設置されている。
ベティはその石のひとつを見下ろして立っていた。
「随分増えたじゃない」
「............」
ブライスは何も言わずに彼女の後ろ姿を見つめる。
土の臭いの中に彼女の髪から香る大人な香りがブライスの鼻腔をくすぐった。
「......何しに来たんだ」
「何って、決まっているでしょう?」
ベティは振り返り、ブライスへと近づいてくる。
「貴方の気持ちを聞きにきたのよ」
そのまま彼の首の後ろで両手を組み、ハグはせず、そのままの状態で話を続ける。
普通の男性なら、いや、女性でもきっと恥ずかしくてこの状態では話せないだろう。しかし、ブライスは顔色ひとつ変えない。
ただ、目の前の女性を冷たい目で見下ろすだけだった。
「よりもどしか」
「あら、もっとオシャレな言い方してよ」
「随分大胆なやり方で来たものだな」
「貴方みたいな堅物にはこれくらい必要でしょう?」
ベティはブライスの頬へと手を持ってくる。なぞるように彼の顔に指を滑らせた。
「部下を困らすのは止めろ」
ブライスは何をされても動じない。ベティは目を細め、パッと彼から離れた。
「困らせていたかしら」
「ああ、困らせていた」
「......」
ベティはそう、と少し間を空けて呟き、彼の横を通り過ぎてそのまま部屋から出ていこうと歩き出した。
「想像はしていたけど......驚く程に変わらないわよね。恋人よりも、仕事.....ほんと、変わらないわ」
「......」
ベティの寂しげな声色を聞いてもブライスは無表情だった。彼女を振り返りもせず、自分の目の前に広がる石を見ている。
「それどころか、前よりも仕事に執着している気がしてならないわ。職員も易々と外に出して......一体何を考えているの?」
「......」
「ま、貴方のことだものね。どうせ答える気なんてないでしょうけど」
ベティは部屋をいよいよ出ていくようだった。それを感じたらしいブライスが彼女を振り返らず、口を開く。
「......戻る気は、無いのか」
ベティは立ち止まった。
「......気分、と言ったところかしら」
「......そうか」
ベティの足音が離れていく。ブライスはその場に取り残されたまま、目の前に広がる小さな墓石たちを見つめた。
「確かに......増えたな」
ブライスは小さく呟いた。その顔は、相変わらず無表情だった。
*****
「えええ!!! ベティさんはブライスさんの彼女さんなんですか!!!」
カーラは今聞いた事が信じられず、声を裏返して繰り返す。
「まあ、元......ってところかな」
ナッシュが付け加える。
会議室にはカーラ、ドワイト、ナッシュが居た。二人は顔についたキスマークを取るために蒸しタオルを顔に当てている。
「ブライスみたいな堅物にも彼女ができると分かったときには衝撃だったね」
「こら、ナッシュ」
失礼なことを口にするナッシュにドワイトが言った。
しかし、カーラもナッシュの言葉には一理ある。ブライスのような人間はあまり女性と関係を持つように見えない。完全に仕事一色だと思っていたので、人間らしい一面もあるんだな、と思ってしまった。
「ベティは元々此処の職員でね。医者として働いていたんだけどブライスと上手くいかなくて辞めてしまったんだよ」
「な、なるほど......」
B.F.に医者というものが居たこと自体、カーラは知らなかった。
「ブライスはベティのことなんか眼中にもなかったからなあ」
ナッシュが苦笑した。ドワイトもそれは共感なのか頷いている。
「仕事にしか目が行かなかった、ということですか?」
「うん、元々は大学で私たちは一緒に研究していた仲間だったんだよ。文書001の解読だって彼女が関わっていたんだ。ブライスとベティはその時には付き合っていたんだけど、B.F.を設立してからは、ブライスは仕事一筋になってしまってね」
「へえ......」
カーラが曖昧な相槌を打ったところで、
「あー、もうっ、やってらんないわっ」
ベティが部屋に入ってきた。
彼女の初めて会った時のようなあの妖艶な雰囲気は無くなっていた。
「ああ、お帰り。ブライスとは話してきたのかい?」
ナッシュが問うと、ベティはすぐには答えずにどかっと空いている椅子に乱暴に腰を下ろし、足を組んだ。
「ええ、そりゃあ話したわよ! でも彼、ぜんっぜん私を振り返ろうとはしなかったのよ!!!」
「ううん......」
ナッシュが言葉に困って顔に苦笑いを浮かべていると、ベティは気にもせず続ける。
「渾身のハニートラップにも動じないなんて、どういう神経しているのよ!! 堅物中の堅物よ!!!!」
「君も一途だなあ」
ドワイトが苦笑する。
「あら」
ベティが頬杖をつき、ドワイトに熱い視線を向ける。
「ドワイトがブライスの代わりに私の相手になってくれてもいいのよ?」
「それはダメです!!!」
ガタッと椅子が倒れそうになるほどの勢いで立ち上がったのは、カーラだった。
「あら!!」
ベティの目がドワイトからカーラへと向かう。
「あらあらあら!! だあれ、この子猫ちゃんは!」
「私の助手だよ」
「ドワイトの? へえ、随分可愛い子をとったのねえ」
ベティはカーラを舐めるように頭からつま先まで眺めた。カーラはそれに負けないように彼女の顔を睨む。
「ド、ドワイトさんは、その......ベティさんとは......合わない、かと......」
「へえ、そうかしら! 理由は?」
ワクワクした顔を向けたベティにカーラは顔を真っ赤にして俯く。
完全に遊ばれている。確かに今の自分の理論は全くもって意味不明だ。だがドワイトはきっとこんな子供より、ああいう大人がタイプである。というか、年の差的に自分との恋愛は難しいのだ。ドワイトだって、自分のことは相棒と言うよりかは娘に近い感覚で見ているに違いない。
「......それは......」
カーラが完全に言葉に困って、そこから一言も返せなくなると、流石に可哀想だ、と思ったらしいナッシュが止めに入った。
「可愛い助手さんをあまりいじめてやるなよ、ベティ」
「はいはい」
ベティはやはり楽しんでいたようだ。くすくすと笑うと、それじゃ、と立ち上がった。
「もう帰るのかい?」
「ええ、ブライスも来る気配が無いんだもの。はあ、折角会いに来たんだからハグのひとつくらいくれたっていいんじゃないのかしら」
ベティはため息をついて、部屋を出る。
「じゃあ、またね。久しぶりに話せて楽しかった。また来るわね」
特に、と彼女の視線がカーラへと向けられる。
「そこの子猫ちゃんとはまだもう少しお話がしたいもの」
パチン、とウインクをされて、カーラは背筋を伸ばす。どういう反応をすればいいのか迷っているうちに、彼女は行ってしまった。
「カーラ、騒がしくしてしまってごめんよ」
ドワイトがカーラに謝った。カーラはベティのウインクを受けてしばらく動けなくなっていたが、ドワイトの一言で、思い出したかのように、
「ド、ドワイトさんは、ああいう大人っぽい女性がタイプなんですか!!!?」
「えっ!?」
困惑するドワイトの後ろでナッシュが声を出さずに腹を抱えている。
「別に......そんなこともないけれど、どうかしたのかい?」
ドワイトの問いに、カーラは顔を真っ赤にしてそっぽを向いた。
「なんでもありません!!!」
*****
「そう言えば、エレベーターは鍵が無いと開かない仕組みだったわ......」
元B.F.職員のベティ・エヴァレット(Betty Everette)はエレベーターに乗ってふと、思い出した。
B.F.では、職員の脱走防止として、エレベーターは伝説の博士が持つマスターキーを使用しなければ地上まで上がれない仕組みとなっていたのだ。
扉は閉まったが、鍵がないので結局自力では地上へと上がることができない。
「何年も経つと、忘れるものね......」
小さく呟き、ベティは閉じた扉をもう一度開いた。
「ちょっと......心臓に悪いわよ」
エレベーターの扉が開くと、そこには、さっきまで居なかったブライスが立っていた。手にはマスターキーを持っている。
「お前のことだ、どうせ忘れているんだろうと思ってな」
ブライスがそのままエレベーターに乗り込んでくる。
「あら、一緒に地上に行く? 愛の逃避行ってやつかしら」
「ふざけるな」
イタズラっぽい笑みを浮かべるベティに対してブライスは相変わらず冷たく言い放った。ボタンの近くにある機械に鍵をさして操作をしていると、止まっていたエレベーターが動き始めた。地上へと向かうようだ。
「急に現れたかと思えば......何も言わずに立ち去ろうとするのか」
「そうね、誰かさんが私が話している時に全く振り向いてくれなかったからよ」
ベティがつん、と横を向く。ブライスはチラリとそれを見たが、すぐに目線を上へと上げた。数字が地上へと近づいていく。
「......本当は何をしに来た」
「......」
「お前がすることはいつも突飛だが、裏に何かきちんと意図がある。ドワイトもナッシュも気づいていただろうが、結局何も言わずにお前を見送った」
ブライスが小さく息を吐く。
「吐け。嘘をつくな」
「......さあ、何かしらね」
ベティは顔を逸らしたまま薄く笑った。
「どうせ、戻ってきてくれれば何でもいいんでしょうに。医者が足りないから困っているんじゃない? 此処は怪我人が毎日出る会社だものね」
ベティの言葉にブライスは何も言わなかった。少しの間、二人の間に沈黙が降りる。
ブライスの本音を言えば、ベティには戻ってきて欲しかった。恋人としてではなく、医者として、という理由の方が大きいのだが。
ベティはそれが一番気に入らないのだろう。
彼の気を引こうにも、結局彼が目を向けるのはいつだって自分の部下や仕事仲間だ。自分を恋人として見てくれないことが、ベティはとても寂しく、とても悔しかった。
「......最近、世の中変よ」
ベティが突然言った。ブライスが分からない程度に眉を上げた。
「変って言っても、どう変だなんて分からないけれど。でも、国が何か裏で動かされている気がするわ。気をつけておいた方が身のためよ」
「......忠告をするために、来たのか」
「......そうよ。ま、一番はあなたに会いに、だけれど」
ベティがそこで今日初めての優しい笑みを浮かべた。
エレベーターの動きがゆっくりになる。そろそろ地上に着くらしい。
「信頼されているのね、相変わらず。そういうところは、流石よね」
ベティは扉の前に立つ。
「皆も変わっていなかった。寧ろ、イザベル達なんて立派になったじゃない。......先生の助手の子も」
エレベーターの扉が開いた。
その先は、仮施設。そして更にその先に広がるのは、日が傾く外の世界だ。
ベティはエレベーターから出る。かつ、かつ、とハイヒールが仮施設の中に音を響かせた。
「今日は来られて良かったわ」
ベティは振り返る。エレベーターの中では相変わらずブライスが無表情で立っていた。
ベティはそんな彼に近づく。
「またね」
静かに二人の唇重なる。
ふと、彼女の髪から爽やかさとほんのりと苦味が混ざった柑橘系の香りがした。
離れたブライスが小さく口を開く。
「ベルガモットか」
「ふふ、正解。次は当てられるかしら」
ベティは楽しそうに笑い、エレベーターから数歩離れた。
二人の間の扉がゆっくりと閉まっていく。
完全に扉が閉まると、ブライスはエレベーターの壁に背を付ける。
「......世の中変、か」
エレベーターはゆっくりと地下奥深くへと再び動き出したのだった。