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Black File  作者: 葱鮪命
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File017 〜深い、深い、闇の底〜

 B.F.星1研究員カーラ・コフィ(Carla Coffey)は自分たちのオフィスの棚を整理していた。彼女のペアであり、星5のドワイト・ジェナー(Dwight Jenner)が今まで溜めてきた書類の数は、分厚いファイルが十数冊。そろそろスチール棚も限界になってきている。


「......あれ?」


 古いファイルを移動させたときだった。ファイルからするりと抜けて床に何かが落ちた。拾い上げてみると、どうやら写真のようだ。ドワイトと水色の髪の少年が写っている。


「誰だろ......?」


 カーラは首を傾げた。


 普通に考えて彼の元助手だろうが、彼の口から自分以外の助手の名前を聞いたことがない。


 写真の中のドワイトの年齢を推測するに、そこまで前のものでは無さそうだ。


 写真は幸せを閉じ込めたような一枚だった。ドワイトが少年の肩を抱いてカメラに向かって、いつものあの優しい笑みを浮かべている。少年の方もまた、カメラに微笑んでいた。


 少年の年齢は、自分とあまり変わらないようにカーラには思えた。写真は裏返しても何も書かれていない。


 古いファイルに挟まっていたが、フォトフレームにも入れていないあたり、そこまで大事に思っていないのだろうか?


 いや、彼に限ってそんなことあるわけがない。

 ものを大事にする彼なのだから、ただ入れ忘れていただけだろう。


 そんなことを考えている時だった。


「ドワイトー、居るかいー?」


 突然オフィスの扉が開いてナッシュが入ってきた。バインダーを持っている。


 カーラは驚いて手に持っていた写真を白衣のポケットに突っ込み、次に自分が散らかしたままの棚を隠すように棚の前に立った。


「ありゃ、カーラだけかい?」

「は、はい!! ドワイトさんは外部調査で明日まで居ないんです......!」

「ああ、そういや、そうだっけ」


 ナッシュは持っていたバインダーに目を移し、うーん、と顎に手を当てた。


「じゃあ、カーラは一人なんだ?」


「は、はい!」


「ブライスも明後日まで出張でね。僕も一人なんだ。実は実験で意見を求めててさ、パートナーが欲しいところなんだよね」


 ナッシュがニイッ、と笑ってバインダーをヒラヒラと振った。


「どう? 一日僕の助手になってみないかい?」

「......!!! はいっ......!」


 *****


 まさか、ナッシュの助手になれる日が来るとは。

 未熟者の自分だが、今まで溜めてきた知識をフルに使って彼に意見を出すことが出来た。


 討論は白熱して気づけば夜の九時を回っていた。


 意見をまとめ終えたナッシュがふう、と息をつく。そして時計を見上げて、


「もうこんな時間か」


 と、書類を片付け始めた。


 するとその時、オフィスの電話が鳴った。カーラとドワイトのオフィスなので、カーラが電話を取った。


「はい、カーラ・コフィです」


『ああ、カーラ、ドワイトだよ。夜遅くにごめんね。実は大事な資料が必要になってしまってね。私の机の上にある、黄色いファイルを至急上まで持ってきてくれるかい?』


「わかりました、黄色いファイルですね」


 カーラはドワイトのデスクを振り返る。彼のデスクは今はナッシュが使っていたが、確かにデスクの端に黄色の分厚いリングファイルが置いてあった。


『うん、エレベーターの鍵はナッシュが用意してくれると思うんだ。ナッシュのオフィスに電話をかけても繋がらなくてね。夜遅くで申し訳ないけれど、よろしく頼むよ』


「いえ、大丈夫です。お疲れ様です」


 電話を切って、カーラは今の内容をナッシュに伝えた。


「そうなんだね、じゃあ一緒に行こうか」

「はい、ありがとうございます!」


 カーラは黄色いファイルを抱えてナッシュと共にオフィスを出た。


 エレベーターはナッシュ、ドワイト、ブライスが各々持っているマスターキーで動かすことが出来るようになっている。研究員の逃亡や脱走を防ぐためだ。昔は鍵は掛かっていなかったが、何人かの研究員が脱走を試みたことがあり、それからはしっかり施錠されている。

 また、エレベーターは一般人や部外者が入ってこられないよう、外からは開けられない仕組みになっている。そのため、ドワイトはカーラに電話をかけたようだ。


 *****


 地上に着くと、ドワイトが仮施設の玄関口で待っていた。ファイルをカーラから受け取ると、


「じゃあ、すぐに行かないと。カーラ、ありがとう。ナッシュもありがとうね」


 ドワイトはカーラの頭を優しく撫でた。


「ううん、これくらいなんて事ないよ。調査頑張ってね」

「ああ、もちろん。おやすみ、二人とも」


 ドワイトがカーラの頭からパッと手を離し、施設前に停まっている仲間の車へと乗り込んで行ってしまった。カーラは少しだけ寂しかった。ドワイトがいない日は何度かあったが、やはりオフィスに誰もいないのは心細い。


 そんな彼女の表情を見ていたナッシュが、さて、と踵を返した。


「中庭でゆっくりしようか。コーヒーでも飲みながらね」

「え.......!」


 *****


 B.F.の仮施設はB.F.本部が一般人に気づかれないために建っているもので、会議室があったり、自動販売機があったりする。暗い廊下でぼんやりと輝く自動販売機は、少しだけカーラには不気味に思えた。


 ナッシュは缶コーヒーを二本買うとカーラに一本を手渡してくれる。


「いいんですか......?」


「今日一日付き合ってくれたお礼さ。今日はありがとう。本当に助かったんだよ」


「い、いえ......私は何もしていません......寧ろ迷惑じゃなかったですか?」


「そんなことあるわけないだろう。ドワイトの優秀な助手なんだから。良い意見が聞けてよかった」


 ナッシュはそう言いながら、ポケットからマスターキーを取り出して、中庭の鍵を開けた。扉が開いて、カーラは初めて仮施設の中庭に出る。


「わあ......!!」


 ロの字型の建物なので、中庭が存在する仮施設。植物が植えられており、上を見上げれば空が見える。月明かりが照らすその庭は幻想的な雰囲気を醸し出していた。


 B.F.の入社試験は全員仮施設で受けるのだが、その時来たのは昼間だったこともあり、また雰囲気が違くて面白いな、とカーラは思った。


 二人は中庭に設置されているベンチに座った。隣でナッシュが既にコーヒーを開けて飲んでいるのを見て、カーラも開けた。一口飲むと、肌寒い夜で適度に冷やされた体がポカポカと中から温められていくのを感じる。


「ドワイトが居ないのは寂しいだろう」


 ナッシュが突然そんなことを言った。


 カーラは自分の心を読んだのだろうか、とびっくりしたが、事実なので「はい」と小さく頷いた。


「気づいていたんですか?」

「うん、僕もだからね」


 ナッシュは苦笑してコーヒー缶に口をつける。

 言われてみれば、彼だってブライスがいないので食事を共にする人が居ないのだった。元助手であり、今は独立している星4研究員のコナー・フォレット(Connor Follett)と食べればいいのだが、コナーがナッシュを一方的に嫌っているようで、それは出来ないのだろう。


 ドワイトが居ないというのはやはり誰もが寂しいのだ。カーラは心にぽっかり穴が空いたような気分になってしまう。もし今日、ナッシュが実験の話し合いに自分を誘ってくれなかったら、さらに寂しい思いをしていたに違いない。お礼を言うのは寧ろ自分の方だな、とカーラはコーヒー缶を膝に当てて冷たい脚を温めた。


 すると、白衣のポケットに何か硬い物を感じ、カーラはオフィスで見つけたあの写真をまだポケットに入れたままであったことを思い出した。洗濯する前に気づけて良かった、とホッとし、彼女は写真のことについてナッシュに問うことにした。


「あの.......ナッシュさん」

「んー?」

「ドワイトさんって、私の前に助手がいたんですか?」


 カーラは何気ない質問を投げたつもりだった。しかし、ナッシュの顔が引き攣ったように見えたのだ。


「どうして?」

「えっと......気になったので」

「ふむ......」


 ナッシュは眉を顰める。


「そうだね......ドワイトは自分から話したがらないだろうしな」


 独り言のように彼は呟くと、コーヒーをグッと飲み干した。そして、


「うん、居たよ。助手は居た」


 ナッシュは空になったコーヒー缶を手の中で転がしながら言う。


「優しくて、どこまでも真っ直ぐで、まさに彼の助手と言った感じの子でね」


 ナッシュはおもむろに空を見上げる。月に薄い雲がかかって、少しだけ光が弱まった。


「君を助手にする時、ドワイトはかなり心の中で葛藤していたんだ」


「葛藤......?」


 そうだよ、とナッシュが頷く。その横顔は、何だか切ない。


「もう、二度と同じことを繰り返さないようにね」


 ナッシュはぽつりぽつりと話し出した。ドワイトと、昔の彼の助手のことを。


 *****


 ドワイトとナッシュは同じ時期に助手を取った。二人は、一斉に、同じ日に志願をされたのだ。


 二人ともそれぞれ、志願を受け入れることにした。


「ノールズ君達のようにあまりからかいすぎてはダメだよ」


 ドワイトが言うが、ナッシュは、はははと冗談とも似つかない声で笑っていた。


 *****


 ドワイトの初めての助手はまだ17になったばかりの少年であった。


 水色の綺麗な髪が特徴で、高めの声をした中性的な顔立ちをした子だった。ドワイトに似て、おっとりした、優しい雰囲気の子だと、周りからはよく言われた。


 彼は施設内研修の時にドワイトを見つけたようで、その日の夜には助手志願に来てくれたらしい。


「ドワイト・ジェナーだよ。よろしくね」

「ミ、ミゲル・イーリィです! 精一杯頑張ります!」


 少年の名前はミゲル・イーリィ(Miguel Ely)。報告書の書き方を早々に覚え、実験や研究では鋭い感性を活かして成果を出していた。


「凄いな......これ、君の意見?」


 ドワイトはミゲルが出したデータを見て目を丸くした。


「はい、少し違う観点から見てみました!」


 ドワイトは凄い、と素直に感心した。難しい実験にも臆することなく着いてくる彼。ドワイトが褒めると、彼は、


「ドワイトさんの教え方が上手で、僕は言われたことをしているだけです」


 と、はにかみながら笑うのだった。よく笑う子だった。


 *****


 ナッシュはというと、コナー・フォレットという助手を取っていた。彼もまたミゲルと同時期に入社してきた子で、ミゲルとは仲が良いらしかった。ただ、コナーはとてもやんちゃな性格で、イタズラ好きだった。


「ああ!? こら、コナー!! お前、また僕の実験ファイルを持ち出しただろう!!」


「いや、俺じゃないっすよ! 昨日、誰かが持ち出したんですって!」


「いつ持ち出したかなんて聞いてないのに、何で昨日って分かるんだい!?」


「それは......ですね、あれっす! 長年の勘と言いますか......」


「君より長く生きている僕が気づかないのに長年の勘だって? 笑わせてくれるねえ??」


「ぎゃああ!! 俺っす!! 俺がしたんです!! すみませんでしたっ!!!」


 と、まあ、こんな感じで大体は最終的にコナーがナッシュの流れに乗せられているのだが。仲が良いのか悪いのか、イタズラ小僧と雷親父のような、デコボコペアが出来たのであった。


 ナッシュがあれだけ乱暴な言葉遣いになったり、声を荒らげたりすることはなかなか珍しい光景だったので、ドワイトはいつも微笑ましく、新鮮な気持ちでそれを眺めていた。ミゲルもまた、仲がいいですよね、とドワイトの隣でニコニコとしているのだった。


 そんな二人を見てコナーは、


「これの何処が仲良いんだよ!! ドワイトさんもそうですよ!!!」


 と、ナッシュから逃げながら叫ぶのが、四人の日常となっていた。


 *****


 ミゲルが慣れない社会に出てきて、最初にできた友達がコナーであった。


 ミゲルは元々体が弱く、友達の作り方すら知らなかったのだが、コナーはそんなミゲルにも優しく接してくれた。


「なあ、なあ! 俺、コナー・フォレット! お前は?」

「ミ、ミゲル......ミゲル・イーリィ」


 研修会の時に隣の席に座ったのがきっかけで、二人は話すようになり、研修会の途中に挟まれる昼食休憩でも共にご飯を食べた。

 そして、研修会が終わったその日の夜も、夕食を共にした。


「お前ってさ、誰に志願するんだ?」

「え? ま、まだ決めてないけど......」


 ミゲルが夕食のパスタを頬張っているとコナーが突然聞いてきた。少食のミゲルなので、この量は食べきれない。きっと、後でコナーが大半を消費してくれるだろう。


「じゃあ、こうしていっつも会えるようにさ、仲良しな人に助手にとってもらいに行こうぜ」


「仲良しな人......」


 そう言われてパッとミゲルの頭の中に思いついたのは、研修の時に見かけた銀髪の長髪の研究員と、ダークブラウンの髪色の、眼鏡の研究員だった。


「ナッシュさんと、ドワイトさんとかどうかな?」


「ああ、あの伝説の博士とか呼ばれてる人達?」


「うん、そう。でも......助手にとってくれるかな」


 ミゲルが不安そうにフォークを止めたので、コナーは「大丈夫だって」と笑う。


「お前なら行けるよ。つか、とってもらわないと困るんだけど」


「そ、そうだよね。頑張ってみる」


 その後、二人は志願に行った。結果、どちらも助手になることが決定した。これを機に二人は更に仲良くなった。


 約束通り、コナーは毎日のようにミゲルに会いに、ドワイトとミゲルのオフィスまでやって来てくれた。


 まあ、そのほとんどがナッシュにイタズラをして逃げて、ドワイトとミゲルのオフィスで匿ってもらうという理由だったのだが。


 寝る時と実験する時以外は、二人はほとんど一緒に居た。ご飯の時も、休み時間も、コナーの方からミゲルに寄ってきてくれるのだ。


 そんなある日、コナーは夕食の席でミゲルにある提案をしたのだった。


「なあなあ、ミゲル!」

「うん? どうしたの、コナー」

「星4になったらさ、俺とタッグを組まないか!?」

「え、星4同士で!?」


 この頃はまだ自立してすぐ、星4同士でタッグを組むというのは珍しく、周りにあまりそんなペアは居なかった。ミゲルは少しだけ不安になったが、ペアになればコナーと様々な実験ができる。そして、同じオフィスを持って毎日楽しく過ごせるのだ。コナーとなら、きっとこの先ずっとやっていけるだろう。


 ミゲルは頷いた。


「うん、いいよ、やってみよう!」

「じゃあ、約束な!」

「うん!」


 *****


 その日の夜、ミゲルは寝室にてドワイトに聞いた。


「ドワイトさん」

「んー?」


 シャワーから出てきた彼が不思議そうに此方を振り返る。


「星4でコナーとタッグを組む約束をしたんですが、どう思いますか?」


「星4でかい? それはまた面白いことを考えたね」


 ドワイトは興味深そうに顎髭を触りながら言う。


「コナーもミゲルも仲良しだもんね。気が合うし、最強のペアになると思うよ」


 ドワイトは優しくミゲルの髪を撫でてくれた。ミゲルははにかんで笑い、少しの間彼に髪を触らせていた。


 コナーとの約束は、最初は驚いたが、きっとできるはずだ。


 ミゲルは強くそう思った。


 *****


 ドワイトとナッシュは一緒に昼食をとっていた。いつもなら此処にブライスが入るが、何やら今日はまだ実験から帰ってきていないようだ。


「どうやら、君と私の子供たちがタッグを組む約束をしているようだよ」


 ドワイトは目の前でサラダを口に運んでいたナッシュに微笑んだ。


「コナーとミゲルが? そりゃあ......僕の子が迷惑をかけそうだな」


 想像したのかナッシュは苦笑する。


「ミゲルとは、上手くいっているようじゃないか」


 ナッシュの言葉に、ドワイトは何とも言えない顔をした。


「どうした、ドワイト?」


「ああ、うん、実はね。正直言って、助手をとるのは怖かったんだよ。上手い関係を築けるか分からなかったからね。でも、ミゲルにその考えは必要なかったようだ」


「そうだね、ミゲルはいい子だからなあ。それに比べて......うちのガキは」


 ナッシュが大きなため息をついたのを見て、ドワイトは笑った。


「君のところは賑やかでいいじゃないか」

「どうだかね。今日だってやられたよ」


 ナッシュは肩を竦める。


 その後もお互いの助手について一通り話したところで、ナッシュがそう言えば、と思い出したように言った。


「君、煙草は止めたのかい?」


 ドワイトは入社当時、かなりのヘビースモーカーだった。食堂で煙草を購入しているドワイトの姿をナッシュはよく見てきたが、最近ではその姿を全く見かけていないことに気づいたのだ。


「ああ、まあね」


 ドワイトが頷く。


「ミゲルが喘息持ちなんだ。寝る時に咳が酷いから、少しでも楽にしてあげたくて」


「なるほど、それは大変だね」


 しかし、ドワイトは煙草を止めたことを全く苦に思っていないようだった。


「周りへの配慮を見直す良い機会さ。ミゲルは色んなことを教えてくれる。本当に、あの子を助手にとることができて良かったよ」


 優しい笑みを浮かべるドワイトを見て、ナッシュはそうだね、と頷いた。


 ミゲルもドワイトも良い関係を築けているようだ。自分もコナーとこれくらい良いものを築いていけるだろうか。


「ドワイトさん、ナッシュさん!」


 後ろから声をかけられて、ナッシュが振り返るとミゲルとコナーが立っていた。


「やあ、どうしたんだい?」


 ドワイトが優しく問うと、ミゲルが顔を輝かせて、


「単体実験をしてみたいんですが、僕とコナーの二人だけでチャレンジしてみてもいいですか?」


 と聞いてきた。


「二人だけで? 危険じゃないかい?」


 ナッシュはコナーの方を見る。コナーは彼の視線に気づくと腕組をして堂々と言った。


「勿論、ナッシュさんとドワイトさんには見ていてもらいますし、既に実験済みの対象を使う予定っすよ!」


「へえ、面白そうだね。良いんじゃないかな?」


 ドワイトが頷いた。


「ほんとに良いのかい?」


 ナッシュは、コナーがミゲルに迷惑をかけるのでは無いかという心境でドワイトを見た。


「予行練習と言ったところだよ。私らがちゃんと見ていれば良いしね。頑張ってくれ、小さな研究員達」

「はいっ」

「はーい!」


 二人が楽しげに返事をしたので、ナッシュも「そうだね」と口元を緩めた。


 *****


 ミゲルとコナーの単体実験当日。二人は実験室に入って、実際に実験を行っていた。ドワイトとナッシュはそれを準備室から見守る。


「コナーも良い助手じゃないか」

「君らの前だけだよ」


 ナッシュはため息をついた。もう少し自分の前でもあれだけいい子になれば、可愛げがあるというのに。


 二人は試行錯誤しながら実験を進めていった。終わった時の晴れ晴れとした、「やりきった!」という子供らしい表情が、何だかとても可愛く思えたナッシュとドワイトだった。


 コナーとミゲルは星4になった時の「予行練習」を次々と考え、実行に移して言った。時には失敗することだってある。そんな時はドワイトやナッシュがアドバイスをし、それに沿って修正を繰り返した。


 こうして二人は功績を称えられ、晴れて星2へと昇格した。


「ドワイトさん、やりましたよ!」

「うん、すごいよミゲル、よくやったね!」


 昇格したことを証明する紙を嬉しそうに見せてくるミゲルの頭をドワイトはいつものように優しく撫でた。


「やればできるじゃないか、コナー」

「まあ、これくらいなんて事ないですよ」

「嘘をつけ。ミゲルが居なかったらどうなっていたか分からなかったよ」


 ナッシュがコナーの頭を軽くこつん、と叩いた。いつもはあんなことを言うナッシュだが、そこにはきちんとコナーへの愛が感じられた。


「これで星4タッグの目標にまた一歩近づいたな!」


 コナーが言うと、ミゲルも大きく頷いた。


「うん、星3も頑張ろうね、コナー!」


 *****


 それから、ナッシュとコナーのペアは、とある大きな実験が入ったようでドワイト、ミゲルペアと会う機会がぐんと減った。今まで必ず一緒にご飯を食べていたというのに、一日一度、食堂で会うか会わないかくらいだ。


 そんな日が三日も続くと、ミゲルはやはり寂しがるようになった。


「今日も二人は忙しいんですか......?」


 ミゲルにそう聞かれるとドワイトも心が痛い。


「うん、でも、またすぐ会えるよ。ほら、今日は報告書を纏めないと。頑張ろうね」


 ナッシュとコナーに会えない寂しさは、ドワイトも感じていた。こういう時こそ仕事に没頭してしまおう、とそう思いながら彼はミゲルの背中を押した。


 *****


 ミゲルはコナーに会えないためだろうか、夜な夜なストレスからの喘息が酷くなっていった。咳をしている気配がすると、ドワイトはすぐに起きて彼の背中を落ち着くまでさすってあげた。


「大丈夫かい? ミゲル」


 ミゲルは苦しいのだろう、泣きながら何とか声を絞り出していた。だが、それは全て謝罪の言葉であった。


「ごめんなさい、僕......ドワイトさんに、迷惑しか、かけて、いなくてっ......」


「迷惑だなんて。寧ろ私は君に助けられているんだから」


「僕が......? どうやって......」


 不思議そうに自分を見上げるミゲルの髪を、ドワイトは優しく撫でた。


「ミゲルは数え切れないくらい大事なことを私に教えてくれているよ。私の先生みたいなものだ。だから、迷惑なわけないじゃないか」


 すると、ミゲルは更に泣き出した。何かまずいことを言っただろうか、とドワイトが慌てていると、


「僕、何だか......自分に自信が無くなってきました.......コナーが最近居なくなってから、仕事もダメで、こうして喘息の症状も出てしまって......本当は社会に出て仕事をすることも、喘息があるからって両親に猛反対されてきたんです......」


 ミゲルは苦しそうな呼吸を繰り返しながら、言葉を紡いだ。


「でも、自分で何とかしてみたくて......だから、星2になったとき、すっごく嬉しかったんです......」


 でも、と彼は顔を覆った。


「でも、それは、結局はコナーが居たからこそ成し遂げられたことで、僕の力なんてひとつも関わっていなかったんです......あの試験も、コナーが_____」


「それは違うよ、ミゲル」


 ドワイトは微笑んだ。


「ミゲル、星2の実験は筆記がメインなんだ。君はテストを受けている時、コナーと話しながら受けていたのかい?」


「いいえ......」


「なら、君の合格は努力の賜物なんじゃないのかな」


「......そう、なんですかね......」


 ミゲルは目を伏せていた。


「うん、そうだよ。ミゲルはね、誰にも合わせず、自分のペースで歩いていけばいいんだよ。君は優しいから、常に相手と同じ土俵に立とうとして、大変な思いをしていることがあるんだね」


 ドワイトはミゲルの髪を撫でるのを止めずに、言葉を丁寧に選びながら続けた。


「コナーも分かってくれるよ。二人とも、少し先を意識しすぎているのかもしれないね。パートナーを意識するのは星3くらいからが丁度いいんだよ」


「それくらいからでいいんですか......?」


「ああ、昇格審査に実技が入るのは、その辺からだからね。まだそこまで執着しなくても、成功はちゃんと君についてくるさ」


 いつの間にか、ミゲルの呼吸は落ち着いていて、安心した様子で眠たげだった。


「さ、寝ようか。明日はオフィスでゆっくり過ごそう」

「はい、ありがとうございました......ドワイトさん」


 そう言ってミゲルは、最近見せていなかった笑顔を久しぶりに見せたのだった。


 *****


 コナーとナッシュがなかなか顔を見せなくなって一週間ほどして、二人は実験が終わったのか、久しぶりに廊下で見かけた。一週間の実験というのはなかなか聞かない。案の定二人は疲れ切っている様子だった。


「ナッシュ......平気かい?」


 ナッシュは目をしょぼしょぼさせて、何とか笑顔を作っていた。


「うーん、まあ、かなり堪えたな。コナーも疲れたようだし、部屋に戻って仮眠でもとる事にするよ」


 コナーを見ると、ナッシュの横でぼんやりしている。ミゲルはそれを不安げに見つめていた。


「ああ、是非そうしてくれ」


 またね、とナッシュとコナーがそれぞれ自分たちの部屋に戻っていく様子を見送ると、ミゲルが心配そうに口を開いた。


「コナーとナッシュさん、大丈夫ですかね......」

「うん、かなり大きい実験だったようだからね。今はゆっくり休ませてあげよう」


 *****


 その日の午後、ドワイトはブライスに呼び出されていた。


 久しぶりに見る彼はどこか疲れているように見えて、彼にしてはいつものきびきびした感じが足りないような気がする、とドワイトは思った。


「お前のところの助手はどんな様子だ?」


 第一会議室の中で、ブライスは書類の山に囲まれて作業をしているようだった。ドワイトが「手伝うかい?」と聞いても、「平気だ」と短く答えるだけだった。


「落ち着いてきたよ。最近は体調も良くなってきたみたいだし」


「そうか......」


「ところで、どうかしたのかい?」


「実はな......」


 ブライスの表情が曇った。


「お前らに超常現象の調査を頼みたいんだ」

「調査?」


 ブライスの話によると、此処最近B.F.内に現れるようになった洞窟の形をした超常現象らしい。その中で迷ってしまうと最後、抜け出すことは不可能なのだそうだ。


「何回か班を分けて送り込んだが、今のところ五人が戻ってきていない」


 ブライスが難しい顔を作って言った。


「もしかして、ナッシュ達にもその実験を託したのかい」


「ああ。俺と共に行ったんだが、行方不明者は見つからなかった。粘ったが、それらしい証拠も見つからなくてな」


「そうか......」


 道理でブライスもナッシュもコナーも疲れているわけだ。行方不明者を探すために洞窟に行っていたようだ。


 恐らく、ブライスはドワイトに喘息持ちの助手がいることを考慮して敢えて誘わなかったのだろう。ミゲルの性格から考えるに、すぐ、自分も着いていく、と言ってきそうだ。


 そこにコナーも居るのならば尚更。


 ブライスとドワイトの間に沈黙が降りる。


 そこに行って欲しいと言うことで彼は今日、自分を此処に呼び出したようだ。勿論、ドワイトは困っている人間を見過ごすようなことはしない。それはブライスもよく理解しているだろう。


 ただ、問題は喘息持ちのミゲルだった。洞窟なんて埃っぽい場所に行ったらどうなるかなんて容易に想像できるのだった。


 ミゲルをコナーとナッシュの元に預けるとしても彼らの今の状態ではそれは厳しいだろうし、ミゲルは自分に着いていくと聞かないだろう。


「強制はしない。ただ_____」

「急いで欲しいんだね? 分かっているよ」

「すまないな」

「いいんだ」


 *****


 翌日、ドワイトは早速ミゲルにブライスから聞いた洞窟型の超常現象について話をした。コナーとナッシュがそこに行ったことは内緒に。言えば尚更行きたい、と言うだろう。


 ドワイトは何とか彼が洞窟に行かなくてもいいという選択肢を広げてあげようとした。

 ミゲルは深刻な顔で説明を聞き入っていた。


「それでね......ブライスに_____」

「僕らもその洞窟に行くんですよね?」


 ミゲルは口を開いた。


「でも......」

 ドワイトが驚いていると、ミゲルは微笑んだ。


「喘息なのを気にしてくださっているんですよね。大丈夫です! 絶対に迷惑はかけません! それに、仲間が困っているのを黙って見ていられませんし!」


「......そうか......君は、いい子だね」


 ドワイトは何とも言えない気持ちで彼に微笑んだ。


 *****


 ミゲルは報告書を提出するためにオフィスを出ていた。すると、途中で誰かに呼び止められた。


「ミゲル!!」


 それは懐かしい声だった。


「コナー!? 体は平気なの!?」


 ミゲルはコナーに会えたことが嬉しかったが、コナーはそんなことお構い無しと言った感じで、突然ミゲルの肩を掴んだ。


「ミゲル!! お前、お前......あの洞窟には行っちゃだめだ!!」


「へ......?」


 コナーの言葉にミゲルはキョトンとした顔で彼を見た。


 洞窟......もしや、ドワイトが言っていたあの超常現象のことだろうか、とミゲルは首を傾げた。


 確かに自分は明日あの洞窟に行くことになっている。だが、コナーがそんな言い方をするということは_____。


「コナー、洞窟に行ってきたの......?」

「ああ、そうだよ!」


 コナーはミゲルの肩を掴む手にグッと力を入れた。


「なあ、ミゲル! 今すぐドワイトさんに頼んで行くのを止めさせてもらえ!!」

「ちょ、ちょっと落ち着いてよ、コナー......」


 コナーの気迫に押されて、ミゲルはオロオロと彼を宥めた。

 ミゲルには、何故コナーがこんなに必死になっているかが分からなかった。


 しかし何となく、ドワイトに聞いている限りでは危険な超常現象だから、コナーはその心配をしてくれているのだろう、と思った。


「コナー? どうかしたのかい?」


 その時、上から声が降ってきた。ドワイトがいつの間にか二人の近くに立っている。


「ドワイトさん、ミゲルを洞窟に連れて行かないでください!!」


 コナーは必死にドワイトに言った。ドワイトは「え......?」困惑した声を漏らす。


 しかしそれも一瞬で、すぐ優しく、


「十分気をつけるよ。心配してくれているんだね」


 と、微笑んだ。ミゲルも頷く。


「そうだよ、コナー。ドワイトさんがついているし、僕は大丈夫!」

「でも_____」


 コナーはまだ何か言いたげだった。

 すると、ドワイトが「そうだ!」と楽しげに提案をした。


「私たちが戻ってきたら、久々に四人でご飯を食べようか。最近は四人揃って食べるという機会も無かったからね」


 ドワイトの提案に対して顔を輝かせたのはミゲルだった。


「わあ、それはいいですね! 楽しみです!」


 コナーだけは何だか浮かない顔をしている。


「ね? 大丈夫。ミゲルは私に任せて」


 ドワイトがコナーに優しく言う。コナーはミゲルを見つめた。


「ミゲル......」


 ミゲルは彼に安心してもらいたくて、にこりと笑って見せた。


「はい......じゃあ、お願いします......」


 コナーはドワイトに向かって小さく頭を下げた。


 *****


 次の日、ドワイト達は洞窟型の超常現象へと向かった。


 人数は四人。ドワイト、ミゲルの他に、星5になったばかりの研究員、ロベルト・ギブソン(Robert Gibson)、そしてその助手である星1研究員エドウィン・ボイル(Edwin Boyle)である。

 エドウィンはミゲルの一つ年下、16歳の若い少年研究員であった。


 研究室の扉を開けると、そこはゴツゴツとした岩肌が迎える洞窟になっていた。明かりは全く無く、ライトで照らしても奥へと光が吸い込まれていくようだった。


「何だか不気味な雰囲気ですね......」


 ミゲルが顔を引き攣らせて、闇が永遠と続く奥の方を見つめている。


「雰囲気に呑まれてはいけないよ。行こう」


 ドワイトが先頭になって、一番後ろのロベルトが帰りの道しるべとなるよう、白い石をコツリコツリと地面に一定間隔を空けて落としていく。ミゲルとエドウィンは二人に挟まれるようにして洞窟の奥へ奥へと歩を進めて行った。


 洞窟の中は不気味な程に静まり返っていた。生き物の声も何も聞こえない。


 生存者は居るのだろうか。

 何故、行方不明者が五人も出ているのだろう。


 ブライスは行方不明者が出た班の班員に話を聞いたらしいが、誰も何も知らないようだった。


 気づいたら居なくなっていた、だとか突然何かに怯えたように縮こまり、発狂して洞窟の奥へと走っていったなど、色んな話が出ている。


 あれだけ多くの研究員が時間をかけて調べているというのに、なかなか前に進めていない、かなり厄介な超常現象だった。


 ドワイトらが洞窟に入って五分程経過したときだった。


「......ドワイトさん」


 ミゲルが後ろからドワイトを呼んだ。


「何か聞こえませんか?」

「え?」


 ドワイトは振り返って彼を見る。彼は少しだけ警戒するように周りを見回していた。


 ドワイトは耳を澄ましてみるが、特に何も聞こえては来ない。聞こえるとしても、自分たちが歩く音と、空気が洞窟の奥へと吸い込まれていく音くらいだ。


「どんな音?」

「......カリカリ、何かを引っ掻いている音です」


 ミゲルが眉を顰めて言うと、ミゲルの後ろを歩いていたエドウィンも同じく聞こえる、と言った。


 カリカリ何かを引っ掻くような音_____。

 ドワイトはロベルトを見た。


「ロベルトはどうだい?」

「いいえ、僕には全く......」


 ロベルトは首を横に振る。ドワイトにもそれらしき音は聞こえなかった。


「ふむ、もう少し進んでみようか......」


 ドワイトはライトを握り直し、再び洞窟の奥へと進んで行った。


 *****


 また少しして、ドワイトはあるものを発見した。壁に何か、チョークのような物で落書きをしたような跡があったのだ。落書きと言うべきなのか、ミミズが這ったような線が、洞窟の壁のかなり低い位置に引いてあった。


 不思議な模様にも見える。誰かが意図的に描いたのだろうか。


 ドワイトがそれを眺めていた時だった。


「あ......あ............やだっ......!」


 エドウィンの苦しそうな声が聞こえてきた。見ると、苦しそうに息をしながら真っ青な顔をして耳を抑えている。


「エドウィン......?」


 ロベルトが心配そうに苦しむエドウィンに手を伸ばす。しかし、エドウィンはその手を振り払った。


「嫌だ!!嫌だ嫌だ嫌だ!!! 俺、俺帰るっ!!!」


 彼はそのまま踵を返し、来た道を走って暗闇の中にその姿を眩ませてしまう。


「エドウィン!!」

「待つんだロベルト!」


 追いかけようとするロベルトをドワイトは呼び止めた。


「しかし、ドワイトさん......!」

「此処が何処だか分かっているね」

「......」


 ドワイトの言葉にロベルトは悔しそうに洞窟の地面を睨んだ。


「大丈夫、石を置いてきたんだ。来た道を戻っているはずだよ。私達はこのまま探索を続けよう」


 ドワイトが歩き出そうとした時だった。


「ドワ、イトさんっ......」


 ミゲルがドワイトの白衣の裾を掴んだ。彼を見ると、苦しそうだ。息が荒い。目も虚ろだ。


「ミゲル......!? どうしたんだい、大丈夫か!」


 ドワイトは彼の肩を掴んで洞窟の壁に背中をつけて座らせた。ミゲルは苦しそうに呼吸を繰り返している。


 もしかして、喘息だろうか?

 やはり、彼を此処に連れてきたのは間違っていたのか。


 ドワイトが彼が付けている腰のポーチから喘息の薬を取り出そうとしていると、


「ドワイトさん......聞こえ、ませんか......」


 ミゲルは泣きそうになりながら声を絞り出した。


「聞こえる.....?」

「こどもの......悲鳴、です......さっきから、頭の中を、ずっと、ずっと......うああっ......」


 耳を強く抑えてミゲルは泣き出した。ドワイトはロベルトを振り返る。彼は困ったように首を横に振った。やはり二人には聞こえない。


 引っ掻く音、仲間の悲鳴......。


 もしかして、エドウィンもミゲルと同じものを_____。


 ドワイトは混乱する頭で、とにかく此処からミゲルを連れ出すことが最優先であるべきだと考え、彼の腕を肩に回した。


「ミゲル、一旦外に出よう。エドウィンとも途中で合流するかもしれない。ロベルト、ライトを頼むよ」

「は、はい」


 ロベルトに懐中電灯を渡し、三人は来た道を戻り始めた。ミゲルが苦しそうに息をしている。


 喘息の症状もあるが、それ以外にも何か違う症状が出ているようだ。ドワイトはミゲルを此処に連れてきてしまったことを酷く後悔していた。


「ミゲル......苦しいだろうが、もう少しの辛抱だ......大丈夫、大丈夫だからね」


 ドワイトは、ミゲルではなく自分に言い聞かせるように何度も言う。


 どうか、耐えてくれ_____。


 *****


 ドワイト達はかなり歩いた。だが、


「......ドワイトさん......」

「ああ......ロベルトも思ったかい......?」


 ロベルトもドワイトもさっきから嫌な予感がしていた。洞窟が、いつまで経っても終わらないのだ。


「どうして......確かに石を辿ってきているのに......!」


 ドワイトらは確かに道しるべに置いてきた白い石を辿ってきていた。しかし、一向に洞窟の入口に辿り着かない。


「どうなっているんだ......?」


 そのとき、ぐらり、とミゲルが倒れた。


「ミゲル......!!」


 ドワイトは彼を抱えようとして、気づいた。ピシピシと音がする。

 石がまるで割れているような音だ。それに続いて、コツ、コツと上から細かい石が振ってくる。


「......まさか......」

「ド、ドワイトさん!!! 洞窟が!! 洞窟が崩れますっ!!!」

「ロベルト、走ろう! ミゲル、少し揺れるけど、我慢してくれ!」


 ドワイトはミゲルを背中に背負った。二人は走り出した。足元にあった石が蹴られて壁にカツン、と当たって音を立てた。


 後ろから迫る不穏な音。出口の無い洞窟。ミゲルの苦しそうな呼吸。


 ドワイトは自分に言い聞かせた。


 ああ、焦るな、焦るな。大丈夫、外に出られる。


 だって、約束したじゃないか。コナーに言ったじゃないか。四人でご飯を食べようって。


 コナーはミゲルと約束しているじゃないか。星4になったらタッグを組もうって。


 だから、こんな所で死ぬわけには_____。


 バキ!!


 突然、ふっ、と足元の感覚が消えた。

 ドワイトは下を向く。


 地面が、無い。


「ドワイトさんっ!!!!」


 気づいたロベルトが手を伸ばす。


 しかし、ドワイトは彼に手を伸ばすことはしなかった。


 今、あの手を掴めば、ミゲルは、ミゲルはどうなる......?


 そこで、ドワイトの意識はぷつん、と切れた。


 *****


 コナーはその日、自室に篭っていた。ベッドに寝転がり、体を丸め、震えていた。


 今日はミゲルとドワイトがあの洞窟に行く日だ。


 コナーは、数日前にあの洞窟へナッシュと共に行ってきた。そこで聞いたものが、この数日間、コナーを苦しめていた。


 あの洞窟には、何かがいる。誰かが、叫んでいた。死の恐怖を、間際の叫びを、コナーは洞窟から出るその瞬間まではっきりと聞いていた。


 ナッシュにも打ち明けられなかった。誰にも言えなかった。馬鹿にされるかもしれない。そんなもの、聞こえるわけないだろ、と笑われるかもしれない。


 ドワイトが、ミゲルを守ってくれるなら、あのペアはきっと、きっと戻ってきてくれるはずだ。

 戻ってこなければ......戻って、こなければ_____。


「ミゲル......」


 コナーは気づいたらベッドから出ていた。


 彼には本当のことを言うべきだった。自分が体験したことを話して、怯えさせれば、彼は行くのを拒んだかもしれない。


 いいや、それでも彼は正義感だけは強かった。


 あんなに行方不明者が出ている怖い超常現象に果敢に立ち向かっていく彼なのだから、言ったところで聞かなかったかもしれない。


 だが、やっぱり_____。


「ドワイトさん......ミゲル......」


 コナーはヨロヨロと覚束無い足取りで扉まで走り、そのまま部屋から出ていった。


 手遅れになる前に、二人を連れ戻さなければ_____。


 *****


「はっ......!? 何だよ、これっ......!?」


 実験室に着いて、コナーは絶句した。


 洞窟があったはずの実験室に、コナーはやって来ていた。扉の向こうは、空間が歪んで洞窟になっていたはずだ。なのに、そこには、


「何で、何で洞窟がないんだよ!!」


 洞窟は何処にも無かった。代わりに、いつもの白い実験室があるだけだ。


「ミゲルは? ドワイトさんは......!?」


 コナーは実験室に入ろうとして、いや、と足を止める。冷静になれ、と自分に言い聞かせる。


 この超常現象が、一人の人間に対して一度しか現れないものだとしたら?


「そう、だよな、そうだ.......きっと、そうだ」


 コナーは自分に言い聞かせるようにして、廊下へと出た。


 外で待っていれば、帰ってくる......はずだ。


 廊下まで出てきたコナーは力が抜けて、その場にへたれこんだ。


「絶対......絶対帰ってこいよ......」


 *****


「......コナー?」


 オフィスで仕事を一通り終えたナッシュは、コナーの様子を見に、寝室へとやって来ていた。しかし、彼のベッドは空だ。


 今日は体調が優れないと言って、最近そればかりでオフィスにも顔を出さない彼を、ナッシュは安静にするよう言ってベッドに寝かせていたのだ。


 だが、その彼が、何処にも居ない。


「食堂か......?」


 それとも、オフィスから此処に来る途中で入れ違いになったのだろうか。


 ナッシュは食堂内を探したが、コナーの姿はどこにも無かった。オフィスも見に行ったが、やはりそこにも居ない。


 ほかの研究員らに聞くと、彼らは、


「急いで走っていく様子でしたけれど......」


 と、不思議そうな顔で言った。


 ナッシュはそれを聞いて、もしや、と嫌な予感を覚えた。そして、とある場所へ走った。


 *****


 ドワイトは体に走る痛みで気がついた。目を開くと、どうやら自分は地面に倒れているようだった。暗闇に少しずつ目が慣れていく。ライトがなくてもうっすらと周りの様子が伺えた。


 これもこの超常現象の性質なのだろうか、とドワイト少しの間、ぼんやりと考えていた。


 果て、そういえば、自分は何をしていただろう。此処は何処だっただろう。確か、自分はブライスに、とある超常現象の調査を頼まれたのだ。


 そして、その超常現象である洞窟に入り_____、


 そう、背中にミゲルを背負っていた。


「ミゲル......」


 ドワイトは腹這いになったまま、目だけを動かして彼を探した。落ちてきた時、自分はミゲルを背負っていたはずだった。しかし、その彼は背中に居ない。


 ドワイトはふと、気がついた。血の臭いがする。しかも、かなり強い。


「............ミゲル......?」


 視界に何かが映った。水色の髪。片腕と片足の無い胴体が、ごろりと床に転がっている。根元から骨ごと無くなり、その周辺の地面を、飛び散った肉片と血液が汚していた。


 ミゲルだった。


 片腕をドワイトに伸ばすような状態で倒れている。うつ伏せで顔は見えないが、背中が微かに上下しているのを見ると、息はしているようだ。


「ミゲル......?」


 呼びかけても返事はない。


 ドワイトは酷い耳鳴りがした。

 呼吸が荒くなっていく。目の前がぼやけていく。


 夢だ、これは、悪い夢だ。

 そうであってくれ。


「ミゲルっ!!!」


 体を急に動かすと、身体中に電気が走ったような激しい痛みにドワイトは声をあげ、動けなくなった。骨がどこか折れているようだ。


 しかし、そんなこと気にしている場合じゃない。


 目の前に倒れている助手を、彼は力を振り絞って抱き起こす。


「ミゲル!! 目を開けるんだ!! ミゲルっ」


 胸の辺りまで血で染った白衣。浅い呼吸を繰り返して、片腕と片足の無い助手は、ゆっくり、静かに目を開いた。


 ただ、その視界にドワイトは映っているのか、いないのか、ぼんやりと空中を眺めているだけだった。焦点が定まっていない。


 そんな彼の口が薄く開く。


「......ドワ、イト......さ、ん......」


 聞き取れないくらい、掠れた小さな声だった。呼吸が浅くなっていく。


「どうして......どうしてこんなことに......」


 打ちどころが悪かったでは済まされる話ではない。何かに「食べられた」ように見える。


「ド、ワイ、トさん......ご、めんなさい......僕......僕、迷惑かけないって......言ったのに......」


 彼は目を細めた。笑っているようだ。しかし、そんなことも分からないほど、ドワイトの視界は滲んでいた。


「一体......何が......?」


「ごめん、なさい......僕の腕が......もがれ、ちゃって......足も......食べられ、ちゃって......こんなんじゃ......あなたの元で、助手、なんて、出来ません、よね......ごめんなさい、ごめん、なさい......」


「何で、何で謝るんだっ!! もう、もうどうか.......喋らないでくれっ......」


 ドワイトは彼の髪を撫でた。何度触れたか分からない、綺麗な水色の髪を。


 ドワイトの言葉も虚しく、彼は喋ることを止めようとしなかった。


「......約束、守れなくて......ごめんねって............コナーに......」


 ミゲルの目から暖かい雫がじわりと溢れ出した。


「四人で......揃って......ご飯、食べられなくて......ごめん、なさいっ......」


「何、言ってるんだい? 食べよう、大丈夫、四人jで食べよう......頼むから、頼むからっ......約束を......最後まで守って、くれ......」


 ポタポタとミゲルの頬に雫が落ちて跳ねた。ドワイトの涙だった。


 ミゲルはそれを感じて、再び口を開いた。もう、声はほとんど聞き取れない。


「......ドワイトさん、僕......僕幸せ者、なんです......あなたの、元で、助手を出来て......あなたの、腕の中で.......死ぬ事が、できて......」


 ミゲルが、ゆっくりと片腕を伸ばした。その指先は、ドワイトの頬を優しく撫でる。


「だから......泣かないで」


 彼の最期の笑みだった。涙に濡れて視界が悪くて、ドワイトには、ほとんどそれが見えなかった。彼の手の温もりだけが頬に残る。


「嫌だっ......嫌だっ、ミゲルっ」


 腕がだらん、と下がって、洞窟の地面にぼたりと落ちた。もう、その腕が動くことは無かった。


 ドワイトは少しだけ軽くなった彼を胸に抱いて大声で泣いた。不気味な程静かな洞窟に、彼の泣き声だけが、いつまでもいつまでも反響していた。


 *****


「......どう思う」


 ブライスは資料から顔を上げて、目の前の二人に問う。B.F.星5研究員のジェイス・クレイトン(Jace Clayton)とハンフリー・プレスコット(Humphrey Prescott)だ。


 ブライスはたった今自分が上げた仮説について意見を聞こうとしているのだ。


「......洞窟で行方不明になった五人が、全員18歳未満の子供の研究員だ、ということですよね」


 ハンフリーが確認をしたので、そうだ、とブライスは頷く。


「行方を眩ました五人のうち、そのほとんどが『謎の声を聞いた』、と言っていた、と他の研究員は話しているんですか......」


「ああ、今朝はドワイトとロベルトの助手のミゲルとエドウィンを含む班を洞窟に向かわせた。......もう少し早く、この仮説に気づくべきだった」


 悔しそうに顔を歪ませるブライスを見て、ジェイスは慌てて、


「そ、そんな、ミゲルとエドウィンが行方不明になると決まったわけではありませんよ......」


 と言い、ハンフリーもそれに続いて頷いた。


「そうですよ、ブライスさん。現にコナーは戻ってこられたわけですし......」


 そう言うと、ブライスは目を伏せた。


「恐らく、コナーは一人だったからだ」

「......へ?」

「一人、ですか......?」


 キョトンとする二人を見て、ブライスはふう、と溜息をつき、資料を指差して淡々と説明を始めた。


「一度目の調査に参加していた研究員の中に、二人、18歳未満の研究員がいた。エレノア・コネリー、そしてアレック・ラドクリフ。二人とも失踪した。


 続いて、二度目の調査兼、行方不明者捜索では18歳未満の研究員、ケレン・ドレイクが加わったチームを派遣。幻聴の症状がケレンに現れていた事が、今朝聞き込みで発覚した。だが彼は無事に戻ってきている。


 そして三度目の派遣には18歳未満の研究員を三人、それ以外は18歳以上の大人で構成された計八人のチームを派遣させた。三人の子供研究員は全員戻ってこなかった。


 四度目の派遣には、一人、18歳未満の研究員が混じっていた。そいつは確かに戻ってきた。二度目の時の研究員同様、幻聴の症状は現れていたがな。


 そして、五度目に、コナー・フォレットを含めたチームを派遣した。チームには18歳未満の研究員は彼以外居なかった。彼は戻ってきた」


「......」


 ハンフリーが目を伏せた隣で、ジェイスは、


「で、でも、まだそう考えるには証拠が足りません。コナーからは幻聴の症状の話はあったんですか?」


 慌てて話を前向きにしようとする彼に、ブライスは、


「もうそれに関しては二人が経験済みなんだ。それにナッシュから聞いているが、コナーはここ最近妙に何かに怯えていて、オフィスに顔を出さないらしい。それを聞けばもう話は見えてくるだろう」


「......」


 ジェイスは黙り込んだ。


 ブライスの話をまとめると、洞窟の超常現象の調査に派遣した五つのチームのうち、三つのチームだけが何事もなく、誰も失踪することがなく帰ってきた。


 まず、派遣した全てのチームに共通することは「チーム内に18歳未満の研究員がいる」ということだ。


 そして、何事も無かった三つのチームだけに共通している点は「チーム内の18歳未満の研究員の人数が二人未満、つまり一人だけである」ということだった。


 更に、戻ってきた18歳未満の研究員、三人のうち二人が調査中、幻聴の症状に悩まされていたという。


 残りの一人はコナーだが、彼はナッシュの話によるとここ数日、何かに怯えるようにして自室に篭っているらしい。

 恐らく、彼にも同じ症状が調査中に現れていたのだろう。


 黙り込んだ二人を見て、ブライスは小さく口を開く。


「此処は超常現象を研究する会社だ。突飛な意見も視野に入れなければ、何も仕事は片付かん」


 ブライスは資料を静かに片付け始めた。


「ミゲルも、エドウィンも、もう戻って来ないだろう」


 *****


 コナーは扉の前でずっと待っていた。泣き出しそうなのを堪えて、ただただ、ドアノブが回るのを待っていた。


 彼の頭の中に、さっきからずっとミゲルのあの笑い声が響いていた。


 思えば、彼とは此処に来てからほとんど毎日一緒にいた。親友とも言えるかけがえの無い存在になっていた。いつもいつも優しくて、前向きで、ナッシュから逃げてくるコナーを毎度匿ってくれる。


 出会った瞬間から、彼には他の人とは違う何かを感じていた。

 最後まで仲間として此処でやっていけると確信していたのに。


 約束だってしたのに。


「なあ......戻ってこいよ......頼むよお......」


 コナーはしゃがみこんで、膝に顔を埋めていた。

 待っていることしか出来ないのが、彼にとって一番の苦痛であった。


 その時、ガチャ、と音がした。顔を上げると扉がゆっくりと開くのが見えた。


 コナーはハッとして立ち上がった。


 現れたのは、一人の研究員を背中に背負ったドワイトだった。後ろの研究員はぐったりとしていて、ドワイトは彼を床に優しく下ろしてから、コナーを振り返った。


「......ミゲルは............?」


 そう、ミゲルの姿が見当たらない。このチームは四人で派遣に行ったはずだ。なのに、二人の研究員の姿が見当たらない。


 ドワイトは俯いた。


 コナーはその時、彼の白衣にべっとりと血がついていることに気がついた。時間が経っているのか血は黒くなっている。


 ドワイトのものでは無さそうだ。


 後ろの研究員も、怪我をしているようだったが、あれだけの血の量の怪我をしているようには見えない。


「......ミゲルは............」


 彼の唇が震えた。


「......ミゲルは、洞窟で......息を......引き取った」


 聞いた瞬間、コナーは血の気が引いた。目の前の景色がぐるぐると回って見えてきた。


 ミゲルが、死んだ_____?


 目の前に居るのは、本当にドワイトなのか。


 嘘だろ。嘘だと言え。


 コナーは次の瞬間、


「............っざけんなっ!!!!」


 ドワイトの胸ぐらに掴みかかっていた。


「お前、お前っ!!!! ミゲルを洞窟に置いてきたのか!!? 見殺しにしたっていうのかっ!!! 自分が何したかわかってんのか!!?」


 ドワイトは何も言わず、コナーを見ていた。泣き出しそうな表情で、口を真一文字に結んで。


「俺がミゲルをあの時止めたのは、彼奴の喘息を気にしていたからじゃないっ!!! あの洞窟にはっ......」

「コナー......ごめん............ごめん......」


 ドワイトが耐えられなくなったのか、彼の目から涙が溢れる。そのまま、子供のように泣き出した。


「.......ミゲルを......ミゲルを今すぐ連れてこい!!!! 探せっ!!!」


 コナーには分かっていた。ドワイトらがもうあの洞窟に戻ることができないのを。彼だって分かっているだろう。


 分かっていなければ、背負っていた研究員を置いてすぐに洞窟に戻ったはずだ。


 なのに、行き場のない怒りと悲しみがコナーの心を蝕んでいく。どうにかなりそうで、叫んでないと、やっていられなかった。


「何でっ、何でミゲルが死なないとならないんだよっ!!!」


 コナーが拳を振りあげようとした時だった。


「何をしてるんだっ!!」


 次の瞬間、コナーはドワイトから突き飛ばされるようにして離された。バランスを崩し、二人とも床に転がる。二人の間に、ナッシュが立っていた。


 彼はドワイトの胸にある誰かの血痕と、泣きじゃくる彼を見て、何があったのかを察したようだった。


「......ドワイト...........」


「ナッシュ、ごめん、コナー......ごめん......私は、私は何も......約束を、守れなかった......」


「謝ってばっか......謝ってる暇があるんなら、今すぐ洞窟に戻れよ!!! ミゲルを、連れて帰ってこいよっ!!!」


「コナーッ!」


 ナッシュの鋭い怒号が飛んだ。コナーはびっくりしたように肩を竦め、そして次の瞬間、抑えていたものが一気に溢れた。


「だって......だってミゲルが......ミゲルがっ」


 小さな子供のように、吠えるように、コナーは泣き出した。


 後ろから誰かが走ってくる音がしたが、その時のコナーには、もう誰でも、何でもよかった。


 ドワイトとコナーの泣き声だけが、廊下に長い間ずっと響いていた。


 *****


「それから数日後に、第七の調査隊を派遣したんだ。実験用に18歳未満の研究員を一人入れてね」


 ナッシュはコーヒー缶を見つめて、言った。


「ブライスの仮説は間違っていなかった。その子は帰ってきたよ。帰ってきて、こう言ったんだ」


 ナッシュは目を瞑る。


「『叫び声を聞きました。ミゲルさんの声も、混ざっていました』って」


「......」


 カーラは黙っていた。


「それから数日後に、例の超常現象は跡形もなく消えてしまったようでね。何も無くなった研究室の真ん中に、行方不明になった子達の衣服だけが残されていた。皆、腕や足がどこかしら無くなっていてね。食われていた、と言ったらいいのかな」


 ナッシュは目を瞑ったまま続ける。


「此処から先は、僕とブライスで立てた仮説なんだけれど。おそらくね、あの洞窟には子供を食う何かが存在していた。そして、行方不明になった子達は皆それに食われてしまった。そいつの能力は、食っている時の子供の悲鳴を記録して、次に洞窟に入ってきた子供に聞かせることなんだ」


 ナッシュはゆっくりと目を開く。


「ドワイトが目覚めた時、ミゲルは彼の近くで、ドワイトに、残された片腕を伸ばすようにして倒れていた。ミゲルは......食われている間、ずっと、ドワイトに助けを求めていたんだろう」


「......」


 ナッシュが、カーラを見た。


「......これが、ドワイトの過去だよ。君の前の、彼の助手の話さ」


 カーラは何も言えなくなっていた。

 今聞いた壮絶な話が現実で起こったものとは、到底思えなかった。


「......ドワイトさんは、だから、ミゲルさんのことを一切話さないんですね」


「うん、彼にとっては辛すぎる、思い出したくもない過去なんだ。僕だって同じさ。コナーとはその件以来、ほとんど話さなくなってしまってね。ドワイトなんか、彼に一方的に避けられている。彼は星4になって、すぐ僕の元から独立したよ。彼は誰ともペア組まない、独立した研究員になった」


「......」


「誰も悪くはないんだ。僕らは此処にいる以上、仲間の死とは表裏一体だ。逃げられない。目を背けることも許されない」


 ナッシュはふう、とため息をついた。


「こんな話をしてしまって申し訳ないね。彼には黙っていてくれ」


「はい......お話、ありがとうございました......」


 カーラは小さく頭を下げた。ナッシュはその頭を優しく撫でる。


「君の雰囲気はミゲルそっくりだ。どこまでも真っ直ぐで、一生懸命なところが、特にね」


 ナッシュは柔らかく微笑む。


「何かあったら、いつでもいいなよ。皆で君を守るからね」


「......はい」


 さあ、とナッシュは立ち上がった。


「戻るか」


 中庭から仮施設へと続く扉にナッシュは歩き始めた。カーラもそれに続く。


 施設に入る前に、カーラはふと、空を見た。


 明日死んだら、見られない空。


 蒼い月が、冷たく彼女を空から見下ろしただけだった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] み、ミゲル……ッ! 体が弱い以外は優秀で良い子だったのに… コナーがナッシュさんとドワイトさんを避ける理由も頷ける どうしても当時を思い出してしまうもんね 若いカーラに聞かせるには辛い話…
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