File013 〜化け物〜
これは、ノールズ・ミラー(Knolles Miller)がまだまだ未熟で、星3として、先輩であるジェイス・クレイトン(Jace Clayton)の後ろをついて歩き回っていた頃のお話である。
とある実験室から戻ってくる途中、ノールズとジェイスは使用禁止の札がついた扉の前を通り掛かった。扉には「第五実験室」と書かれている。
周りの実験室は問題なく使えるというのに何故此処は使えないのか、ノールズは疑問に思った。
「ジェイスさん、此処はどうして使えないんですか?」
ノールズは前を歩いていたジェイスに問う。ジェイスは振り返った。
「うん? ああ、此処?」
ジェイスがノールズの隣に並んで、扉を見た。その横顔は少しだけ寂しそうだった。
「俺の仲間が眠る部屋なんだよ。ブライスさんがね、わざわざ彼奴の専用部屋にしてくれたんだ」
「へえ......?」
ピンと来ず、ノールズは扉を周りの扉と見比べてみた。専用と言う割には特に何か変わった造りでもない。
「......入ってみるか?」
ジェイスの言葉にノールズはこくん、と頷いた。
*****
部屋の中は薄暗かったが、ジェイスが電気をつけてくれた。扉は他の部屋と何も変わらなかったというのに、部屋の内装は全く違っていた。
というのも、この部屋は円形上だった。二階構造になっており、ノールズ達が入ってきたのは二階部分だった。階段で下に降りられるようになっているらしい。
「あれは......?」
一階部分の部屋の真ん中に石の台座のようなものが見えた。二人は階段を降りてそれに近づく。台座はポツンと、何も無い部屋の床の中央に半分埋め込まれるようにして置いてあった。
よく見ると名前が彫られている。
「......お墓?」
「うん、そう」
ジェイスが微笑んで石を撫でる。その小さな墓の前には、花が添えてあった。造花だが、掃除は行き届いた綺麗な部屋だ。
誰かが定期的に来ているのだろう。
「......ちょっと話そうか、こいつの話」
ジェイスがノールズの頭に優しく手を置いて、ゆっくりと語り始めた。
*****
ジェイスには、仲が良い三人の研究員が居た。
ハンフリー・プレスコット(Humphrey Prescott)、ヴィム・フランツ(Vim Franz)、パーカー・アダムズ(Parker Adams)だ。
最年長はパーカーで、彼とペアのヴィムは彼の六歳年下であり、四人の中で最年少だ。
最年長のパーカーと最年少のヴィムはまるで兄弟のようだった。
ヴィムは最年少だからか、とにかくやんちゃで、子供のような一面があり、暴れだしたらパーカーが止めるというのがお決まりの流れだった。
パーカーはジェイスとも仲が良い。また、真面目なハンフリーとしっかり者のパーカーが合わさると、だいたい面倒事は片付いた。
実験以外ではいつも一緒で、食事の際は必ず四人集合していた。
本当に仲良しだった。
いつもくだらないことを言っては笑い、ハンフリーに苦笑される。
チームで行き詰まると先陣切って三人を引っ張っていくのはパーカーの役目だった。
そんなパーカーに、ひとつだけ悩みがあったことを三人知っている。
それは、彼の母親が重い病気を患っているということだった。
パーカーには病気を持つ母親が居た。病気が分かったのはパーカーがB.F.の入社試験に合格したという通知を貰った当日の事だった。
パーカーには父親はいない。よって自分がB.F.に行ってしまうと母親を看病できる人間が居なくなってしまう。
ただ、やはり受かったからには働きたい。
パーカーは母親に定期的に帰ることを伝えて、B.F.の新入社員研修へと参加した。
彼はそこで自分が大きな過ちを犯していることに気付いた。
それは、この会社は入社したら外に出ることが出来ない、ということだった。母親の看病が出来ない。
母親の命に危険が迫ったら_____。
パーカーは何度かブライスに外に出るために申請をしたが、何しろ一定期間が過ぎなければ出して貰えないという決まりがあるこの会社ではまず話すら聞いて貰えない。
契約書にも外に出られないと書いてはあった。パーカーはそれを見逃していたのだ。
申請をしても出してもらえないと気付いた彼は、ある日、施設からの脱出を試みた。それは、ジェイスにだけ教えてくれた。作戦の内容は、地上に上がれるエレベーターを誰にも見られないように使うというものだった。
今は絶対に成功しない作戦だが、当時はエレベーターに鍵が掛かっておらず、隙を見れば上に上がることが出来たのだ。勿論、誰もやろうとはしない。
見つかればどうなるかは分かりきっているからだ。
パーカーもやはり失敗した。エレベーターに乗り込もうとしたところを他の研究員に見つかったのだ。ブライスには相当怒られたらしいことを、ジェイスは後々パーカー本人から聞いていた。
B.F.は国家機密を握る会社であり、そこから研究員が脱走して資料のひとつでも持ち出されたら大変だ。外に出ようとする人間にそんな意図が無くとも、同じことになってしまう。
ブライスは罰として、彼に、手が着いていないとある実験対象の世話係を任せた。
それは当時、社員全員に恐れられていた化け物だった。乱暴な性格で、扉の向こうから帰ってきたものは誰一人として居なかった程だ。
ジェイスもハンフリーもヴィムも、三人ともパーカーに同じことを言った。
「まだ間に合う。ブライスさんに謝ってこい」
ハンフリーがパーカーに真剣な顔で言った。
隣でヴィムも彼に叫ぶように言った。
「そうだ! 危険すぎるってば!!」
しかし、
「冗談よせよ、お前ら。母さんの看病のために外に出ようとした事の何がいけないんだ? 俺は悪くない。寧ろ、化け物の世話をして、認められて外に出た方が男としてかっこいいだろ。母さんも喜んでくれるだろ」
パーカーはそう言って聞かなかった。
三人からしたら、ただ死にに行くようなものだと思っていた。誰も戻ってこないと言われているのだ。そんな易々と行ってこいなど言えるわけが無い。
しかし、三人の懸命な説得も聞かずに、彼は化け物の世話係を引き受けてしまったのだった。
*****
パーカーは母親に会いたいという一心で、化け物の世話係になった。ブライスに認められたら此処から出られるかもしれない。そう思えば、化け物だろうが何だろうがやってやる、そう思って挑んだのだった。
化け物というと、思い浮かべるのはドラゴンみたいな大きなトカゲであったり、狼のような獣だったりというイメージしていた彼だったが、「そいつ」は違かった。
黒い鱗、赤い目、舌をチョロチョロと出し、長く太い胴体はとぐろを巻いている。
蛇だったのだ。
大きさと迫力からして大蛇とでも言うべきだろう。
パーカーは、流石、扉の向こうから人が帰ってこないと言われているだけあるな、と感心してしまった。
普通なら腰を抜かして食われるところだ。彼だって一概ではなかったはず。
だが、その時は何かに背中を押されていた。此処から出るんだという強い意志かもしれないし、母親に会ってやるという意思かもしれない。
とにかく、彼の心に恐怖というものは存在しなかった。
彼はまず、話しかけてみた。話し方は、至って普通だ。ジェイスやヴィム、ハンフリーに話しかける時のように、砕けた口調で。友達のように。
話の内容だって、「今日の調子はどうだ?」とか、「何処か変なところはないか?」とか、特別でもなんでもないものだ。
ただ、やはり意思疎通は上手くいかないものだ。人の心が通じない上に気性も荒いのでパーカーは何度か死にかけた。
間一髪で避けることはできたが、怪我を負うことも珍しくなかった。
だが、取り敢えず自分は、「扉の向こうから帰ってこられた人間第一号」となったのである。
これがブライスに届く情報なのかはわからない。だが、やるしかない。認めてもらうまで、絶対に諦めない。
パーカーは毎日心でそう呟きながら、大蛇の待つ部屋へと足を踏み入れて行った。
*****
数日後、何とか世話係も様になってきて、パーカーは心に少しの余裕が生まれてくるようになった。
「そういや、自己紹介がまだだったな」
その日は化け物の餌である肉片を彼の周りばら撒きながら、パーカーは話しかけていた。
「俺はパーカー。パーカー・アダムズってんだ。お前は名前があるのか?」
続いて、パーカーは汚れた壁の掃除を行う。化け物が餌を食べている時間は比較的大人しいので、この間に観察や掃除などは済ましておく。
蛇は餌を全て食べ終えるとパーカーをじっと見つめていた。
「お前、全然喋らないよな」
パーカーは掃除用具を一箇所に集め、続いて観察用のバインダーを持ってくる。
「名前は_____ないよなあ。そんじゃあ、俺が名付け親になってやろう。そうだな、かっこいいのがいいよな」
パーカーが蛇を見上げて首を捻っていると、突然、蛇が彼に近づいた。巨大な胴体が壁のように迫ってくるのでパーカーは思わずドキリとしたが、顔には出さないよう澄まし顔で耐えた。
「俺は不味いと思うぜ。何てったって太陽に全く当たってないんだからな」
パーカーは苦笑し、再度蛇の顔を見上げる。
「んー......出来りゃかっこいい名前を付けてやりたいな」
蛇はじっ、と彼を見下ろしていた。
「......ハガード......うん、結構かっこいいんじゃないか?」
すぐ決めたにしては響きもよく、パーカーは何度も口の中でその名前を唱えた。すると、蛇が彼から少しだけ離れていった。
「もしかして、気に入らなかったか?」
蛇は何も言わない。離れても尚、パーカーから目をそらさなかった。
「何とか言ってくれよ」
まるで気難しい上司を相手にしているかのようだ。
だが、その日は襲ってくる素振りを見せてくることはもう無かった。
パーカーはハガードについて更に知ろうと、彼についての資料や蛇の図鑑を持ってきては彼の前で開いた。
「ふーん、お前、草原にひとりぼっちだったのか」
資料には、草原にてとぐろを巻いて獲物を待つハガードの姿が写真で載っていた。
「こんな草原、食うもんあるのかよ?」
パーカーはハガードに何度も何度も話しかけた。返事をしてくれることは無かったが、最初のように近づいてきて食べようとする真似も見せなくなっていた。
「お前ってさ、家族ってもんは居ないのか?」
不意に彼はハガードに聞いた。蛇は答えなかった。
「俺は母親が一人居てな。今は病気で寝たっきりだが、昔は俺のためにビシバシ働いてたんだぜ。かっこいいだろ」
蛇の赤い目に、歪んだ彼の顔が映り込んだ。
「でも、迷惑かけっぱで、B.F.に入社してからは会えてないけど......きっと母さんなら、俺が此処を出るまで耐えてくれるよな」
パーカーはパタン、と図鑑や資料を閉じる。
「よし、じゃあ、また明日な」
ハガードに笑いかけ、彼は部屋を出た。
*****
パーカーは、食事の時間は以前と変わらずにジェイスらと共にしていた。彼らは今日も生きているパーカーを見てホッとしていた。
「お前って昔から無茶ばかりするよな」
ヴィムは怒ったような口調でパーカーに言った。
「まあ、その精神が今も昔も変わらないってことだよな。やりすぎて怖いけど」
ハンフリーが苦笑する。
皆は自分を本気で心配してくれているようだった。
母親だけでなく、三人がいるから自分はあれだけの大仕事を毎日しようと思えるのだ。
そう言うには少しだけ照れくささがあった。気持ちを隠して、パーカーは口を開く。
「死ぬ気なんて更々ねえよ。地上に出る許可が降りるまで死んでられるかっつの」
*****
それから毎日、パーカーはハガードの元へ通った。その度に毎回違う話題を持っていった。
食堂のパスタの量が少なかった、だとか、ペアのヴィムが報告書を無くして上司に叱られた、だとか。
とにかく小さな話題でも毎日彼に伝えてあげた。
勿論、ハガードについての勉強も怠らなかった。
「へえ、蛇って声が出せない造りになってるんだな」
図鑑を見ていたパーカーが目を丸くしてハガードを見上げた。
「じゃあお前喋れないのか?」
確かに、彼の声を一度も聞いたことがない。シャーという音を出すイメージだったが、その音はどうやら尻尾で出すものらしかった。
「面白いなあ、生物研究員にでもなればよかったかな?」
冗談交じりに笑う彼を、ハガードは今日も静かに瞳に写していた。
*****
パーカーとハガードのスキンシップは日に日に増していった。
頭を撫でたり、体を撫でたりすると、ハガードは少しだけ気持ちよさそうにしていた。蛇の体はひんやりとしていて、パーカーは彼の背中の上で眠ったりもした。
「こいつが皮か。にっしても、脱皮ってのも大変だな。手さえありゃ少しでも楽になりそうなのにな」
ハガードの脱皮を手伝うこともあった。最初に比べたら、彼にはかなり接しやすくなっていた。
「なあ、お前ってさ、ただの巨大な蛇なのか? 何かこう......B.F.職員をぎゃふんと言わせる能力とか、持ってないのか?」
餌をやりながらパーカーは聞いた。しかし彼は答えず、ただ忙しなく口を動かしていた。
*****
「......飲み込んだだと?」
ブライスはたった今入った情報を繰り返した。
ついさっき、例の化け物が暴れだしたという報告があり、研究員が二人飲み込まれたというのだ。
「パーカーが世話していたあの子じゃないか?」
ブライスと共に作業をしていたナッシュが眉を顰める。
パーカーは今日、体調を崩して他の研究員に蛇の世話を任せると言っていた。
ブライスらは足早に蛇の元へと向かった。
蛇は部屋に入ってくる人間らを物色するような目で見た後、満足のいかない様子で尾を何度も床に打ち付けていた。
「職員を一旦離れさせよう、ブライス!」
「ああ、職員を部屋から出せ! すぐに扉を閉めろ!」
慌ただしく動き出す職員ら。
円形の部屋の上から、ブライスは蛇を見つめていた。蛇もまた、ブライスを静かに見つめ返していた。
*****
熱く、苦しく、永遠に途切れることの無い闇。誰かが泣いている。小さなすすり泣く声。
......幼い頃の、自分だ。
パーカーは暗闇の中に一人立っていた。
自分のために家庭を支えようとボロボロになるまで働いてくれた母親が、ボロボロの手が作ってくれた、甘いパンケーキ。大好物のその匂いが、暗闇の向こうから香ってきた。
二人で冷たい雪に体を投げて雪まみれになりながら作った雪だるま。
テストで目標点に届かず、泣きながら帰ってきた時に母親がくれた優しい言葉と眼差し。
そして、それが底なしの暗闇へと引きずり込まれていく。何もかもが吸い込まれていく。
自分はそれを見ていることしか出来ない。
体は金縛りにあったかのように動かず、声も上手く出ず、ただただ、思い出が消えていく様を見ていた。手を伸ばしたい、声を荒らげたい。なのに、届かない。もどかしいことこの上ない。
「!!!」
突然、パーカー視界に大量の光が降り注いできた。光は落ち着いても頭がガンガンと痛い。視界にヴィムが入ってきたが、驚いた顔をしていた。
「起きたかっ!!」
パーカーは上手く状況が掴めなかった。オフィスでも食堂でもない。此処は自室だ。
「平気か? うなされていたし、酷い汗だったから起こそうと思ってたところだったんだよ」
酷い頭痛とぼんやりした視界で、パーカーは自分が風邪を引いたのだと気付いた。確かに、昨日はハガードの世話から戻ってきて少し喉に痛みがあった気がする。
ヴィムが看病してくれていたのか、ベッドサイドに置いてあるテーブルには、冷やしたタオルや薬などが置いてあった。
「薬、飲めるうちに飲んでおいた方がいいと思うぞ」
ヴィムが錠剤を取り出して差し出してくる。しかし、パーカーはそれを受け取らなかった。
さっきからずっと、心がざわついている。何か暗いものが自分に迫っているような気がした。
風邪の仕業かと思ったが、どこか違う。
言葉に言い表すことは出来ないが、明らかに違う。
「......パーカー?」
ヴィムが怪訝な顔で彼を覗き込む。
「無理なら寝てても_____」
「なあ......家に......電話、かけたい......」
パーカーは声を絞り出した。ヴィムが目を見開いて、「え?」と聞き返す。
「家? 家って......お前の母親に、か?」
「ああ......」
ヴィムはそれを聞いていい顔をしなかった。
本来、外部との接触を固く禁じられているB.F.では電話でさえ上へ申請せねばならない。それがたとえ家族へのものだとしても、上は本当に大事なことでは無い限り、許可は出してくれないのだ。それを分かった上での頼みだった。
パーカーは祈るような気持ちでヴィムを見たが、ヴィムは動こうとはしなかった。
「手紙にしとけ」
「嫌だ......」
子供のようにそう言い返すパーカーにヴィムは少しだけ目を見開いた。今度はもっと声を低くした。子供に言い聞かせるように。
「パーカー」
「今......今、状況を知りたいんだよ!」
それを聞いてヴィムは眉を顰めた。
「状況......? お前の母親、何かあったのか?」
その時、寝室の扉が開いてジェイスとハンフリーが入ってきた。
「パーカー! 起きてて平気なの!?」
ジェイスが体を起こしているパーカーを見て驚いた顔をしている。
「家に電話したいんだとさ」
ヴィムがほとんど諦めた声色でそう言った。
「はあ? 電話って......いきなり何を......」
ハンフリーとジェイスが怪訝な顔をしているうちに、パーカーはとあることを思い出していた。
「そういや、ハガードは......!?」
パーカーがそう言ったとき、三人の表情が明らかに変わったのをパーカーは見逃さなかった。
嫌な予感がしてすぐさま、
「何かあったんだな?」
と問う。
「いや......」
「それは......」
三人ともしどろもどろになっていた。
「くそ......」
パーカーが苛立った様子で、バサッと、自分にかけてある毛布を退ける。そして体をベッドの外に出した。それに気づいたヴィムが慌ててベッドに戻そうとパーカーの肩を掴む。
「おいっ! ダメだ、起きちゃ!」
ハンフリーも、
「馬鹿、安静にしてろよ! お前病人なんだぞ!」
と強い口調で言った。
しかし、パーカーは扉に向かおうと体にぐっと力を入れる。
「病人だろうが何だろうが、あいつには俺しかいない! あいつの世話係は俺なんだよ!!!」
「だからって_____」
ハンフリーはパーカーの気迫に圧倒されて言葉が続かなかった。
「行かせてやれよ、ヴィム」
そう言ったのはジェイスだった。
「今こいつが行かないと被害は拡大する一方だ」
「でもっ......!!!」
ヴィムは今にも泣きそうな顔でジェイスを見た。彼にとって無理をしている相棒を見るほど辛いことは無いのだろう。子供のようにいやいや首を横に振っていた。
「......頼むよ」
ジェイスが真剣な顔でヴィムに言う。
「......はあ」
ため息をついたのはハンフリーだった。ヴィムに歩み寄ると彼の手をパーカーの肩から避ける。パーカーは自由に動けるようになり、部屋の外に向かう。
彼の頭の中をぐるぐると不安が巡る。
被害? 被害って、何だ?
パーカーは急ぎ足でハガードが居る第五実験室へと向かった。
*****
実験室に近付くにつれて、むせかえるような血の臭いが廊下まで漂ってくる。
パーカーは第五実験室に向かいながら、それがどうか気のせいであってくれ、と何度も強く願った。
しかし、実験室に辿り着いてパーカーの目に飛び込んできたのは、絶望そのものだった。
あれほど毎日綺麗にしていた白い壁も床も真っ赤に染っている。事態は思っていたより深刻だった。複数の研究員が暴れるハガードを止めようとして犠牲になったという状況が、嫌でも頭の中に刷り込まれていく。
「パーカー!」
ハガードの部屋を上から見下ろすことが出来る二階部分にブライスとナッシュが立っていた。
ガンガンと痛む頭と、走ってきた苦しさが重なって、パーカーは覚束無い足取りで二人の元へと向かった。
一階部分では武力でハガードを鎮めようとしているのか、銃器の音や鈍器を床に叩きつけるような音が聞こえてくる。
ハガードが死んでしまう。俺の友達が_____。
パーカーは熱でぼんやりする頭で考えた言葉をブライスにぶつけた。
「今すぐ攻撃を止めてください......! 刺激すればするほど、ハガードの性格が前のように戻ってしまいます!!」
「じゃあどうする」
ブライスの声は冷たかった。
「俺が何とかします!!」
「無理だ。病人と対象を接触させるわけにはいかない」
パーカーは目を見開いて彼を見た。
じゃあ、どうするつもりなんだ、この男は。ただ此処で傍観しているだけなのか。仲間が死んでいる様を上からただ眺めているだけだというのか。
パーカーの中でふつふつと怒りが込み上げてきた。
「死人が出てるって一大事に......あなたは何を言うんですか」
「お前が死んだら終わりだ」
「俺が......? 俺が生きてりゃ他の職員がどうなってもいいのか!?」
掴みかかる勢いでパーカーはブライスに近づいた。ナッシュは何も言わずに二人を見つめている。
「俺はお前の命令で母親の元に満足に通えず、一つだけ与えられた仕事をただひたすらにこなそうと必死になってきたんだぞ!! 今、今この瞬間にも母さんがっ......」
声が震え、言葉の先が続かない。
頭がさっきから酷い頭痛だ。ヴィムが差し出してくれた薬を飲んできたなら、もっといい状況になっていたのだろうか。目の前がぼやけて、パーカーはその場にへたれこんだ。
もう、声を荒らげる気力も体力もなかった。
「母さんに......母さんに会わせてください......」
ぽた、ぽた、と実験室の床に落ちる暖かい雫。熱のせいで感情が可笑しくなっているんだな、とパーカーは目を閉じた。
瞼の裏にもう何年と見ていない母の笑顔が現れる。
母親のために死ぬ気で仕事に全力を注いだというのに、結局何もかも無駄だったのか。こんな上司に着いていこうと考えていた自分が愚かだったのだろうか。
意識が遠くなっていく。もう、自分は死ぬのだろうか。
その時だった。
「.......ならば、仕事を全うすればいい」
「.......?」
パーカーはゆっくりと彼を見上げた。天井の蛍光灯が眩しくて逆光になっているため、彼の顔が見えない。
「風邪を引いていようが関係ないということなんだな? いつも通りに仕事が出来るということなんだな? いいだろう。この仕事が終わったら、お前に外出の許可を出そう」
「!! 本当ですか......?」
パーカーが弱々しく問うと、ブライスはああ、と頷いた。パーカーはありがとうございます、と彼に頭を下げた。そして、すぐに階段を降り、ハガードの元へと向かった。
*****
「......ねえ、ブライス」
ナッシュが蛇を見下ろして彼を呼んだ。
「......何だ」
ナッシュが少しだけ言葉に迷っていた。
「彼の母親は_____」
その先は続かなかったが、ブライスはその先に続く言葉を理解しているようだった。頷き、
「ああ、承知の上だ。あいつがそれを望むなら、俺は仕事をした後で褒美をやると言ったんだ」
ナッシュは階段を降りきったパーカーから目を逸らした。そして、そのままくるりと体の向きを変えた。実験室から出ていこうとしているようだ。
「......それが正解ってことかい」
ブライスはナッシュの方を向かなかった。蛇の巨体を見つめ、短く、
「さあな」
と言った。
*****
ハガードは階段を駆け下りてくるパーカーを見て、攻撃的な目を止めていつもの穏やかさを取り戻していた。パーカーはそれを見てホッとし、彼に走り寄っていく。
熱で足取りが覚束無いせいか、ぐらりと体が傾いてパーカーは転びそうになってしまった。ハガードが頭部を下ろして、パーカーを額で支える。ひんやりとした蛇の体温にパーカーは気持ちよくて目を閉じた。
「ごめんな、寂しかったよな。もう平気だ、俺が来たんだから」
優しく首を撫でてやりながらパーカーはそう言った。
「遅くなってごめんな。怪我はないか?」
パーカーは目を開き、ハガードの頭から顔を上げた。部屋の凄惨な状態がどうしても目の端に映ってしまう。パーカーはなるべくハガードだけを見ようと彼の目を見つめていた。
「あとで掃除しような」
今日中に落ちる汚れかは分からないが、パーカーは言った。
一頻り撫でた後、パーカーはハガードの体に傷がないかを念入りにチェックした。傷は見当たらなかった。
だとすると、やはり壁の血痕は研究員のものであろう。それか、ハガードは傷の治りが早いから傷が見つからないのか。
パーカーは後者であってほしいと心から願った。自分の友達が大暴れをして死人を出すなんて、そんなことして欲しくなかった。
「飯にしような」
傷はやはり見当たらず、パーカーは諦めて彼にいつもあげている肉片を持ってきて、いつも通りに彼の周りにばら蒔いた。少し上に視線をやれば、ブライスが自分らを見下ろしているのが見える。試されているんだ、とパーカーは彼の方を見ないよういつも通りを心がけた。
しかし、
「どうした? いつものやつだぞ」
ハガードは肉片に有り付こうとはしなかった。それを一切見向きもせず、ただじっとパーカーを見下ろしている。
パーカーは不審に思った。
「お前、やっぱりどこか悪いんじゃ_____」
その時だった。ハガードの口がパーカーに向かって開かれた。巨大な鋭い牙、爛々と光る赤い目。
パーカーは動けなかった。
「ハガード_____」
彼の脳裏に、母親との思い出が走馬灯のように鮮明に走り抜けた。
赤い飛沫が、不気味なほど静まり返った部屋の床に模様を映し出した。
*****
目を開くと、そこには懐かしい天井が広がっていた。B.F.にある自室の天井ではない。オフィスでもない。此処は、自分の家だ。
「あれ_____」
パーカーは少しの間天井を眺めていた。
何だか、長い夢を見ていたような感覚に陥る。
いや、まだ夢の中か?
「おはよう、パーカー」
その時、優しい声が何処からか聞こえてきた。パーカーはそれを聞いた瞬間飛び起きた。
間違いない、間違えるはずがない。今の声は_____
「母さんっ......?」
視界の中に懐かしい顔があった。自分に優しい眼差しを向けるその人は、紛れもなく自分の母親だった。
「母さん......母さんっ......? っ、ほんとに!? か、体は!? 起きてて平気なのか!? つか......何でっ......?」
母親は何も言わずに、ただ微笑んでパーカーを見つめていた。パーカーは目の前が少しずつぼやけていくのを感じていた。
ああ、母さんだ。
彼の中でずっと堪えていたもの全てが溢れ出した。
「俺......俺、手紙も電話も......何も出来なくてごめん......ごめんなさいっ......母さんっ......」
子供のように泣きじゃくるパーカーの頭を彼の母親は優しく撫でた。
「いいんだよ、いいのさ、こうして会えたんだ。もう何処にも行かないよ。ずっと一緒に居られるよ」
「うん、うんっ......」
何となく、パーカーには事の現状が理解出来ていた。しかし、母親と再会できたことが何よりも嬉しくて、涙とともに何もかも洗い流していった。
「そうだ、パンケーキを焼こうか。君も食べる?」
母親の視線がパーカーの眠っていたベッドの枕元へと向けられている。パーカーは不思議に思って其方を見た。
「ハガード......!?」
普通の蛇サイズになっていたハガードが枕元でチロチロと舌を出していた。
「おま、何で......!?」
「アンタが起きるのをずっと待っていたみたいでね。そこにずっと居たよ」
「そ、そうなのか......ごめん、気づかなかった」
パーカーはおいで、と蛇に腕を出した。ハガードは腕を伝って彼の肩まで登ってくる。
「母さん、ハガードだよ。俺の友達なんだ」
「そうかい、ハガード。蛇はパンケーキを食べるのかねえ」
「はは、さあな」
少しずつ辺りが明るくなっていく。あたたかい光にパーカーは身を任せることにした。此処には母もハガードも居る。暖かくて心地がいい。このまま、ずっとここに居よう。
「な、ハガード」
*****
ブライスは大蛇を見下ろしていた。
蛇はパーカーを飲み込んだ後、床に体を横たえ、そのまま動くことはなかった。
パーカーの母親は長年の病により亡くなったそうだ。彼が熱を出したその日の朝に。その事実を知ったら、彼はどうしただろう。どっちにしろ、自分で命を絶つだろう。
ブライスはパーカーとハガードの墓を第五実験室に作った。
彼にどんな思いがあったのか、それは一部の研究員にしか分からない。どっちにしろ、パーカーは死んだ。
一人の研究員を自分の命令により殺したとしか思われなかったこの事件で、ブライスの存在が少しだけ怒りを買ったことは言うまでもない。
*****
「......まあ、賛否両論あるだろうけれどね。でも俺はブライスさんがしたことに対して怒っていないよ。パーカーの死は避けられなかったことなんだと思うもん」
ジェイスは墓石を撫でた。
「あいつお母さん子だったしさ、寂しい思いさせたくなかったってのもあるんだよ、きっと」
「......」
ノールズは何も言えずにジェイスの指先を見つめていた。
「勿論、ブライスさんが人をああいう殺し方をしたのは最初で最後、あれだけだよ。勇気あるよね。俺にはほんと、出来っこない」
ジェイスは優しく言って、墓石から指先を離した。
「さて」
彼は立ち上がり、グッと腰を伸ばす。
「報告書書くかあ。次はぺけまみれにならないようにな?」
「わ、分かってますよ!」
二人は実験室を出る。
ぱちん、と電気が消え、実験室には再び暗闇が訪れた。




