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Black File  作者: 葱鮪命
189/193

File083 〜或る魔性〜 10

 瞼を上げると、すぐに飛び込んできたのはアドニスの顔だった。


「起きたぞ」


 誰かにそう言っているのが聞こえる。パタパタと足音が近づいてきて、視界にカーラが現れた。


「スカイラさん、大丈夫ですか?」


 スカイラはベッドで眠っていた。まだ僅かに揺れを感じるので、船の上である。自分の体にバスローブが巻かれているのを見て、風呂にでも入ったのだろうかとぼんやり考える。


 それにしても、何故部屋に二人が居るのだろう。


「まだ寝てた方が良さそうだぞ」


 アドニスがカーラを振り返る。カーラは「そうだね」と頷いて、


「お水は要りませんか?」


 と、ピッチャーを持って再び視界に入ってくる。


「水......」


 ガラスの中で揺れている水を見て、スカイラは思い出した。


「ラシュレイさんはっ!?」

「わあっ!」


 突然ガバッと起き上がった事で、カーラが驚いて後ろに下がり、ピッチャーの陰に隠れていたアドニスと顔をぶつけてしまった。ごつん、と痛々しい音がする。


「あっだああ?!」

「お前っ、何しやがんだ!!」

「アド!」


 立ち上がって殴り掛かる姿勢を見せるアドニスをカーラが宥め、すぐにスカイラに向き直る。スカイラは額を抑えて悶絶していた。


「大丈夫ですか、スカイラさん」

「ラシュレイさんは!?」


 痛みは二の次らしい。彼にとっては何よりも大事なことだ。


 あるドレスを着てからおかしくなった自分の先輩。展望デッキの屋上に居た彼を説得しようと試みたが、スカイラは彼と共に海へ転落したのだ。その時に彼は助けられたのだろうか。記憶がほとんど無い。


「一命は取り留めました。お医者さんの話だと、命に別状は無いと」

 カーラが落ち着いた声で話す。


「今はまだ眠っています」

「そうなんですか......」


 生きてはいるのだ。スカイラはほっと胸を撫で下ろした。


「あんな高さから落ちても死なないなんてな。医者も目ぇ丸くしてたぞ」


 アドニスがベッドに頬杖をついてスカイラを見る。スカイラはキョトンとしていた。必死で、水に飛び込む危険性について考えていなかったのだ。しかし、咄嗟にラシュレイの頭を庇ったのは覚えている。


 たしかに、あの高さからの入水は危険すぎた。あの高さだからこそ、ラシュレイ_____ハリエットは自殺を試みたのだ。当の本人は死んでいるのに。美しいまま死にたいという彼女の欲望が、ラシュレイを連れて行こうとしていた。


 そっと頭に触れると、包帯が巻かれている。


「スカイラさん、ラシュレイさんを助けた後に気を失ってしまって。救命ボートが手配されていましたから、すぐに助けることができたんですけれど......」

「あの高さから落ちたら普通死ぬけど、気絶すらしなかったお前に全員驚いてたんだよ」


 落下後のことはほとんど記憶にない。ただ、初めて綺麗だと思った。不謹慎だが、呪いが解け、水の流れに身を任せるラシュレイが、とても綺麗だと思ったのだ。

 あの美しさを求め続ける人間が居てもおかしくはない。セドリックたちの狂気じみた願望は、そんな些細な気持ちの動きから来ているのだろう。


「今、何時ですか?」

「えっと」


 カーラが腕時計を見せてくれた。カーテンが閉まっているが、隙間から明るい空が見えた。午後の日差しである。カーラが見せてくれた時計で、午後の三時だと分かった。


「僕、ラシュレイさんのところに行きたいです」

「まだ起きてねえぞ。良いから寝とけ」

「そうですよ。安静にしていた方が良いです」


 カーラもアドニスに同意のようだ。起きようとするとベッドに戻される。大人しく寝ているしか無さそうだ。スカイラは枕に頭を戻しながら、隣の部屋で眠っているだろう自分の先輩の姿を頭に描いていた。


 *****


 美しいまま死なせて。


 ベッドの上の彼女は、そう言ったらしい。ロドニー・オールポート(Rodney Allport)は、ハリエットが危篤状態になったと聞き付けて、病院にやって来た。集中治療室に入っていた彼女は、知っていた頃の妖艶さは無く、萎れた果実のように、ただただ力なくベッドで横たわる屍と化していた。


 先に着いていた監督のベン・ローパー(Ben Roper)は、彼女の髪に触れていた。


「美しい色だろ」


 それは、聞いたこともないほど優しい声だった。


「こんな黒色、他に誰が持っている」


 たしかに、綺麗な色だ。彼女の肌に映えるのは、いつだってあの色だ。


「君は美しいよ」


 我が子のように語りかける彼の心を、ロドニーは予想も出来ない。ただ、二人の間にはきっと何かがあったのだ。監督にとって、彼女は自分の世界を完璧に作り上げる役者だった。彼女ほどグレイス女王の役に相応しい人間は居ない。後世に現れたとしても、それは彼女の霊くらいだ。


 *****


 ラシュレイは目を開いた。部屋の中は薄暗かった。仄かな明かりは、遠くの壁の間接照明である。誰かの気配がして目だけ動かすと、サイドテーブルにつっ伏すようにして、誰かが眠っているのが見えた。


「ジェイスさん」


 声をかけようとしたのだが、ラシュレイは自分の声に驚く。空気だけが出ていくのだ。声が枯れている。何故だ、と記憶を探るが、それらしい記憶は無い。というか、何故ジェイスが此処に居るのだろう。今は何時だ。


 ラシュレイは体を起こそうとしたが、できなかった。体が熱い。頭が重い。風邪の症状だと、瞬間的に理解した。


 そして、驚くべきことに左腕に点滴が打たれているのである。そこまで酷い風邪なのか、と怪訝に思っていると、「起きた?」と声が降ってきた。ジェイスと目が合った。


 返事をしようとしたが、やはり声は空砲ばかりだ。すかすかと空気の音を聞いて、ジェイスは苦笑した。


「えーっと、ちょっと待ってな......」


 彼は足元に置いていた箱をがさごそと探っている。ラシュレイはそれを眺めながら、何が起きたのだろうと思考を巡らせる。全く思い出せない。唯一思い出せるのは、暗い海の底に沈む夢を見たことだ。それから、美しい植物の夢。


「飲めるか? 薬」


 ジェイスがストローをさしたペットボトルを差し出してきた。枕の位置を直して、少しだけ体を起こす。錠剤を口に入れてもらい、ストローを咥えて喉に流し込む。途中で噎せて、再び水を飲む。


「覚えてる?」


 ジェイスが口元をタオルで拭って、聞いてくる。何があったか、ということだろう。


 ラシュレイは首を横に振った。残念ながら、全く記憶が無いのだ。やはり、何かあったらしい。酷い風邪を引くくらいには。


「お前、良い助手持ったよ」


 ジェイスは答えを教えてくれなかった。布団がかけ直される。助手と聞いて、スカイラの顔が頭をよぎる。隣の部屋で寝ているはずだが、まさか、彼も風邪を引いているのか。あれだけ毎日引っ付いていれば、風邪が移ると分かるだろうに。


 ラシュレイは再び深い眠りに戻った。


 *****


「ラシュレイ、目を覚ましたって」


 夜のバンキング会場で、プレート山盛りに料理を盛ってきたバレットが席につきながら言った。


「本当!? よ、良かったああ......」


 ケルシーが大きく息を吐いて、椅子の背もたれに寄りかかる。ドレスを着せたこともあって、中心メンバーの中で最も責任を感じていたようだ。


「まだ熱は下がらないって。今、ジェイスさんがコナーさんと看病交代したってさ」


 バレットはサラダにたっぷりのドレッシングをかけていた。各テーブルに備え付けてあるドレッシングですら、近くのスーパーでは出会えない高級品である。この船を下りる前に、なるべく多くのものに触れておきたい。


「報告書を書いてるのか?」


 エズラがババロアを掬いながらビクターを見た。ビクターは片脚の腿にノートパソコンを乗せている。食事はジェイスが来るまで待つつもりのようだ。


「簡単なものを一応な。ラシュレイから聞き取らないと分からない話もあるし。それに、海に沈んだドレスを回収しないとならない」

「そうだな。原因はあっちだもんな」


 水に飛び込んだスカイラとラシュレイ。二人が落下した時は全員死を覚悟したが、奇跡的にスカイラが水上へ顔を出した。そしてもう一度潜ると、今度はその腕にラシュレイを抱えていたのだ。


 ラシュレイはドレスを脱がされていた。水を吸って重くなっていたのだろう。あれだけ大きなドレスなのだから、水の中で脱がせるのも大変だっただろうに。


「あ、みんな居る」


 ジェイスがテーブルにやって来た。昼から夜までの看病だったので、疲れた顔をしている。しかし、何とかそれを隠そうとするのが彼の癖だ。


「一回起きて、薬飲んでまた寝ちゃった。何か食べられそうなものでも持っていこうと思ったんだけど......」

「コナーさんが持っていきました。ゼリーとか」


 バイキングコーナーを振り返るジェイスに、バレットが伝える。


「そっか。良かった。いやー、一時はどうなるかと思ったね」


 ジェイスが椅子にようやく腰を下ろす。安堵の表情を見せ、大きく息を吐く。


「超常現象って、突発的に発生するからおっかないよ。しかも身内にね」

「一般人だけ相手にしていたから、完全に油断してましたよね」


 旧B.F.では、新たな超常現象に会える機会が少なかった。外に出られなかったというのが最も大きな理由だ。

 しかし、仕事仲間から発覚する超常現象が居たり、狭い施設内で突然現れるものが居たりと、今より身近な存在ではあった。

 そして、超常現象と物理的な距離が近いので、被害者も当然自分たちとなる。


 外に出てからは、一般人を通して触れる超常現象が多く、少しだけ現象たちとは距離があったのだ。身内に起こる超常現象など、ほとんど無くなっていた。


「まあ、ラシュレイが無事で良かったよ。スカイラも。あいつのラシュレイ愛はいつも想像を超えてくるなあ」


 ジェイスは独り言のようにぽつりと言った。


 *****


 グラントリーは、608号室の前をずっとウロウロしていた。時々通りかかる研究員が不思議そうな顔をして来るが、彼は特に何も無い風を装った。


 しかし、名俳優も同じ部屋の前をずっとウロウロしている違和感は隠しきれない。

 そろそろ本格的に声をかけられてしまいそうだ。


 グラントリーは深呼吸して、扉をノックした。


「はーい」


 中から声がする。やがて、扉が開いた。顔を覗かせたのは青髪の研究員。目元にほくろがある童顔の研究員だ。ラシュレイを助けるために、船から飛び降りた人物である。


「あ......」


 グラントリーは咄嗟に声が出なかった。話では彼もまた気を失ったとのことだったが_____目の前の彼はケロリとした顔をしている。

 しかし、その頭に巻かれた包帯が痛々しい。やはり、着水時に怪我はしたのだ。


 _____ラシュレイは大丈夫なのか。


「なんでしょうか」


 研究員はじっと自分の目を見つめてきた。綺麗な青色の目には、狼狽える自分の姿が鏡のように映っていた。

 グラントリーは言葉を絞り出す。


「ラシュレイさんは......」

「熱は下がりました。今は眠ってます」


 淡々と言って、彼は引っ込んでいこうとする。


「あ、あの、待ってください」


 閉じかかっている扉の隙間に足を差し込み、グラントリーは付け足す。青い瞳をしっかり見て、言った。


「ごめんなさい」


 足をゆっくり抜く。扉は静かに閉まった。少しの間、グラントリーは扉の前に突っ立っていた。


 もっと言うことがあったはずだ。


 ラシュレイの情報を、助手を使って盗んだこと。ドレスを着せたこと。違和感に気づくのが遅れたこと。危険な目に遭わせたこと。


 そして、


 最後まで彼を自分の祖母と重ねてしまったこと_____。


 その長いセリフの最後はどれも、「ごめんなさい」に繋がるのだった。


 彼はゆっくりと部屋の前から離れた。その後、扉の向こうでも足音が遠のいた。


 *****


 船は港に向かっていた。クルージング五日目。最終日である。予定では今日の昼に、港に着くことになっていた。


 ラシュレイはパッキングをしていた。朝食は部屋でとることにしていたので、時間に余裕を持って帰り支度を進められる。


 と言っても、片付けるものなどほとんど無い。もともと持ってきた荷物が少なかったので、スーツケースの中は半分が空だ。


 本来なら、昨日から今日にかけて船の土産屋を回る予定だったのだが......残りの時間で回れるのはせいぜい二、三軒か。


 時計に向けていた目をキャリーケースに戻すと、部屋のチャイムが鳴った。朝食サービスが来たらしい。給仕らしい女性の声がする。そして、


「ラシュレイさん、ラシュレイさん! 僕です!! 愛しのスカイラ・ブレッシンです!! 一緒にご飯を食べましょー!!」


 ラシュレイは小さくため息をついて、扉に向かうのだった。


 *****


「えへへっ、一緒にご飯を食べたいと給仕さんに言ったら、用意してくださったんです!」


 ベランダ席にテーブルが用意され、その上に給仕の手によって食事が並べられていく。ラシュレイはスカイラと相対するように座っていた。


「今日はクルージング最終日ですからね!! ハネムーンは最後まで楽しまないと!」

「おめでとうございます」

「違います」


 給仕にあらぬ誤解を生んでいる。ラシュレイはテーブルの下で軽くスカイラの足を踏んだ。妙に嬉しそうな声を上げるスカイラを無視して、ラシュレイは並べられる料理に目を落とした。ポトフだ。


「体調が優れないとお聞きしまして」

「ありがとうございます......」


 大事になったそうだから、きっと彼女らも知っているのだろう。恥ずかしくなって、ラシュレイは目を伏せながら礼を言う。


 その反対で、さっきから嬉々として喋り続ける助手。


「見てください、ラシュレイさん!! 僕もお揃いです!! 僕もポトフなんですよー!!」

「分かった分かった」


 子供のように椅子をギシギシ鳴らして報告してくる助手に、別の意味で恥ずかしくなってくる。


 給仕が下がると、二人は早速スプーンを手にした。スカイラは一口食べると、パッと顔をラシュレイに向けて、


「わあ、美味しいです!! 優しい味です!! え? 俺も食べたい、できれば食べさせて欲しい? もちろんです、ラシュレイさん!! はい、あーん!!」


 ラシュレイはじゃがいもを細かく切りながら、一人で盛り上がっているスカイラを見た。


「スカイラ」

「はい!」


 スプーンを差し出したまま、彼は応じた。


「何ですか?」

「ありがとう」

「へ」


 スカイラが手にしたスプーンを落とす。カランカラン、とそれはテーブルクロスにシミを作った。


「わ、わ、拭かないと」


 スカイラは急いで布巾を手にして、同じ場所を拭き始める。クロスのシワが寄ったり戻ったりするのを、ラシュレイは見つめていた。


「コナーさんが何があったのかを教えてくれて。スカイラも一緒に海に飛び込んだって」


 ジェイスと話したあと、自分はどうやら寝てしまったらしい。次に目を覚ました時には、ベッドサイドにコナーが居た。


 スカイラは頭に包帯を巻いている。あの体丈夫なスカイラだ。助手にしてから、大きい怪我など一度もしていない。


 自分の知らないうちにとんでもないことが起こっていたのだと、ラシュレイはコナーの口からそれを聞かされたのだ。


 聞いた時の心境を、自分は一生覚えているだろう。大切な助手を死の淵に立たせたことは、先輩の恥だ。


「え、えへへ、えへへえ」


 スカイラが笑い出す。それが、いつもよりぎこちないのはラシュレイの聞き間違いではないはずだ。


「あんなの朝飯前ですよお、ラシュレイさんのピンチは僕のピンチ!! 僕らは運命共同体!! ラシュレイさんを助けることは、助手として当然の勤めなんです!!」


 ラシュレイは、スカイラが無駄に拭き続けている箇所を見つめ続けていた。

 黙り込んでしまった先輩に、スカイラも布巾から手を離す。落ちたスプーンを拾って、ポトフの中に戻す。


 不自然な沈黙を、波の音がかき消した。


「あの......」


 ラシュレイは目を上げた。スカイラが下を向いている。ポトフを啜ろうとしているわけではなさそうだ。スプーンがカタカタと震えて、皿にコツコツと当たっている。クロスに新しいシミができている。それはどんどん大きくなっていく。


「本当に、本当にすみませんでした」


 泣いている。


 ラシュレイは目を丸くして、スプーンを置いた。


「僕が何もかも喋ったから、ラシュレイさんをあんな目に合わせてしまったんです」


 あんな目とは、どんな目か。この船に乗ってから起きたこと全てに違いない。


 何もかも喋ったとは、ラシュレイのドレスがぴったりに採寸されていたことに関係しているのだろう。


 B.F.のオフィスにかかってきた不自然な電話の向こうの人間が、スカイラからラシュレイに関する情報を全て抜き取っていったのだ。


 たしかに、全て喋ったのはスカイラだ。ラシュレイはあの二人の間に、入っていく隙すら見つけられなかった。


 しかし言ってしまえば、スカイラだって被害者なのだ。


 こんな未来が待っていると知っていれば、彼だって黙っていたに違いない。あの男の本当の狙いがラシュレイだと、誰が予想することができようか。例え、「女優のおっかけ」だと名乗っていても、それがハリエット・ローランズのことだと、分かるはずもない。


「謝るのはこっちの方」


 スカイラの頭がぴくりと動く。


「助手を危険な目に遭わせる人間に、頭なんか下げなくて良い」


「いえ、僕は......」


「スカイラが、海に沈まなくて良かった。超常現象に気づけない俺が、まだまだ未熟なんだ」


 スカイラは俯いたまま首を横に振った。ラシュレイは口を緩める。


 また、少しの沈黙があった。ラシュレイはスカイラから目を逸らして、遠くを見る。港の影が見えてきた。母親が港まで迎えに来る予定だった。最初に何の話をしよう。彼女はまだこの大事件を知らない。


 目を戻すと、まだ助手は下を向いたままだった。


 ラシュレイは彼の心の苦しさを知っている。自分も、よく感じていた。大切な先輩を辛い目に合わせた時に感じる、自分の非力さ。どうしようもならない悔しさが、心に泥を溜める。


 崩れ落ちる施設から自分だけ逃げてきたことや、危険な超常現象を前にして助手である自分は前にすら立たせてくれなかったこと。


 ノールズに対して、自分もよく思ったものだ。今なら目の前の彼の気持ちも、そしてノールズの気持ちもよく分かる。


 助手には、苦しんで欲しくない。嫌な思いは、極力して欲しくない。


「本当のことを言っても良いか」


 スカイラがゆっくりと顔を上げる気配がする。ラシュレイはまた、海を向いていた。言葉が波に浮かぶのを待つように、彼はゆったりと言葉を選んだ。


「助けに来てくれたのがスカイラだって聞いた時、」


 コナーが言っていた。グラントリーから鍵を奪い取って、一目散に展望デッキに走っていったのはスカイラだったと。その後、正気を失ったラシュレイと共に、頭から海に落ちたと。


「普通なら怒るところなんだろうけど。命を蔑ろにしやがってって」


 水の中のことは、ほとんど覚えていない。視界が全く見えない中で、誰かの感触だけがあった。重いドレスの外側に、誰かが居た。


「でも」


 許されないことかもしれないが、思ったことがある。先輩失格と分かっていても。


「嬉しかった」


 ラシュレイはスカイラに目を戻す。


「スカイラで良かった。助けに来てくれたのが、スカイラで良かったよ」


 彼は目を見開いていた。地球のように青い目だ。海のように青い目だ。溜まりに溜まった大粒の涙が、一気に溢れた。


「反則です、反則ですよお」


 ポトフにボタボタ雫が落ちていく。


「僕はラシュレイさんを殺しそうになったのにい......なんでそんなに優しいんですかああ......」


 手でゴシゴシと擦って、それでも涙は溢れて止まない。


「僕、僕ぅ、ラシュレイさんの助手で良かったです......助けられて良かったですうう......」


 わんわん泣き出したスカイラに、ラシュレイは笑った。


 ハリエット演じるグレイス女王と共に、海に沈んだあの男。女王が死を望んだ理由は作中で一切明らかにならない。映画の最後のシーンで、港を掃除していた男が拾い上げた紙は誰かの診断書だった。それが誰のものなのかも、明らかにならない。


 彼女が恐れたのは何だったのか。男に穢された自分の罪か、それとも、愛した男が死ぬことか。共に海に沈むことで、二人の愛は確かめられたのだ。人々の目にしかと焼き付けられた。


 本当のことを言っても良いか。


 あの時、助けに来てくれたのが違う誰かならば_____あの映画は完成しなかった。


 あの映画は青と黒が織り成す世界だからこそ、自分たちは最高の俳優になれた。


 そう伝えるつもりが、言葉が曲がってしまった。遠回しなので、きっと二割くらいしか伝わっていないだろう。


 ラシュレイはポトフを啜った。頬に手をやると、今日はしっかりと湿布が張り付いていた。


 自分はなんて幸せ者なんだろう。


 泣きじゃくる目の前の助手が震える手でスプーンを持ち直すのを見て、ラシュレイは静かにそう思った。


 *****


 港にはたくさんの人の姿があった。この船は研究員たちを下ろした後、すぐに世界一周クルージングの船に変わってしまうらしい。今度の人々はそれに参加するらしく、初日よりも遥かに大勢の人間が港で待っていた。


 研究員たちが降りてくると、B.F.を追う何人かの記者と、それから迎えに来た家族や友人が周りを取り囲んだ。人々の目を一際引いたのは、当然グラントリーとセドリックだ。


「流石は大スター」

「俺ら、あの人たちとクルージングしたなんて未だに信じ難いよな」


 自分たちより遥かに分厚い人垣に囲まれてしまった彼らを見ながら、バレットとエズラは口々に言った。


「お前らこんなところに居たのか」


 記者から解放されたビクターがやって来る。ケルシーはカーラと共にベティの車に乗り込んだらしい。ビクターはバドを乗せる車が必要なので、ジェイス、そしてバレットとエズラと共にB.F.に向かうことになっていた。


「俺らも混ざってきちゃダメ?」

 バレットが人垣を指さすと、ビクターは眉を顰める。


「三十分だけな」

「よっしゃー!! 人気女優の連絡先持ってるかもしれない! エズラ、行くぞ!!」

「それかよ、目的」


 エズラが半ば引っ張られるようにしてバレットと共に消えていくと、今度やって来たのはラシュレイだった。右腕にはがっちりと助手が居る。


「ビクターさん。母が迎えに来たので、一足先に失礼します」

「ああ、お前も一緒に帰るのか?」


 ビクターはスカイラに顔を向ける。二の腕にすりすりと頬を擦りつけているところを見ると、すっかり体調は戻ったらしい。ラシュレイはベッドに居た時の方がまだ顔色が良かったが。


「......母にはまだ合わせられないです」

「日を改めてきちんと挨拶に行きますね!」

「来なくていい」


 ラシュレイはそう言って、ある場所に目を向けた。人垣の向こう側。グラントリーの居る辺りだ。


「挨拶して来なくて良いのか」


 ラシュレイは小さく頷いた。無表情の中には様々な感情がある。あのハリエットを演じたのが、夢みたいだ。彼はやはり、これくらいの表情の少なさの方が身に合っている。


 その時、歓声が近づいてきた。ビクターは背中を押されそうになって振り返る。グラントリーが近くまで来ていた。彼はラシュレイに向かって歩いてきたのである。


「騒がしいですが、挨拶はしておきたくて」


 グラントリーがラシュレイに微笑んでいる。スカイラが警戒した目を彼に向けるが、ただラシュレイの傍に立っているだけだった。


「夢のような時間でした」


 グラントリーは静かに言った。観衆の何百台というカメラに写っているだろうに、彼の顔はどの角度から切り取ろうが俳優の色を残している。


「また貴方にお会い出来たら嬉しいです。今度は、白衣をまとった貴方が見てみたい」


 片手を出されると、ラシュレイはおずおずと手を差し出す。


 グラントリーの美しい手は、ほっそりとしているが、力だけはしっかりとしていた。真っ白な雪とは言えずとも、張りのある透き通った手。皮膚の下には、本物のハリエットの血が流れている。

 顔を上げれば、太陽の光を受けて輝く美しい茶色の髪がふわふわと揺れている。


 間近で見れば見るほど、彼がどれほど完成された人間か分かる。美しいとは、ハリエットの血が流れる彼の一族のために作られた言葉なのかもしれない。


「ちょ、ちょっと、いつまで握ってるんですか!!」


 痺れを切らしたスカイラが真ん中に入って来た。ラシュレイとグラントリーの手を互いに離させると、ラシュレイを守るようにして立つ。


「素敵な関係ですね」


 スカイラの後ろに隠れたラシュレイに、グラントリーは微笑む。


「もし何か分かったら、僕にも伝えてください。また違う方法で、彼女に近づけたら嬉しいです」


 彼はそう言い残して、離れて行った。車に向かうのだろう。群衆もそれに伴って動くと、その場にはポツンとラシュレイたちだけが残った。


「帰るか」


 ビクターがラシュレイを振り返る。ラシュレイは頷いて、スカイラを見やった。


「いつまでも臍曲げるな」

「だって、だって......僕のラシュレイさんとあんなに長い間見つめあってるんですよ!! 僕の方がずっと一緒に居るのに!! 僕の方がラシュレイさんのこと知ってるのに!!」


 地団駄を踏む助手に、ラシュレイは呆れ顔を向ける。すっかり彼をライバル認定してしまったようだ。彼と連絡先を交換したことは言わない方が身のためだろう。明日にはバレていそうだが。


 歩き出した二人の後ろを、ビクターはついていく。


 カシャ。


 気がつくと、横にコナーが居た。人混みから離れた場所に居たのだろう。手には携帯電話を持っている。


「報告書に載せる写真、撮っとくな」


 コナーが画面を見せてきた。仲睦まじく港を歩く二人の背中には、それぞれリュックサックが背負われている。


 そこからはみ出るバラの花束。スカイラがビンゴの景品で当てたそれらは、どちらもラシュレイに送られたらしい。


 ひとつは黄色、もうひとつは青色。


 それは彼を守るべき色として、彼の守護神として、今日も傍を離れない。


 *****


 それは巨大な港を望む、誰も知らないような小さな浜での事だ。ぺたぺたと、素足のスタンプが砂に押されていく。遠くに停まった巨大なクルーズ船に、彼は羨望のため息を漏らす。


「生きてるって言ってたら、俺らもあれに乗れたかなあ」


 ねえ、と振り返る彼の後ろで、足裏に吸い付く砂の感触に夢中になっている少女の姿がある。彼女は、彼の言葉などまるで聞いていないらしい。


「はあー、羨ましい」


 彼は空を仰ぐ。かっと眩しい太陽の光が、じりじりと砂の温度を上げていく。一羽のカモメが優雅に飛んで行った。

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