File083 〜或る魔性〜 9
キエラ・クレイン(Kiera Crane)はリビングのソファーに寝転がっていた。キッチンから母親がひょっこりと顔を覗かせる。
「キエラ、暇なら散歩でもしてきたら? 少しずつ体力を戻していかないと、仕事が始まった時に大変なんじゃないかしら」
「うん」
キエラは生返事して携帯電話を眺めていた。熱は昨日で下がり、咳も少しずつ治まってきた。ベッドに居るのも飽きたので、今日は自室から出てリビングに降りてきていたのだ。
「そんなに熱心に何を見ているのよ」
母親が近くにやって来る。キエラが食べ終えたフルーツの皿を下げに来たようだ。
キエラは母親に携帯電話の画面を見せる。そこには、真っ青な海が映っていた。
息子は無言だったが、何を言いたいかは分かったらしい。皿を手にして苦笑いを浮かべる。
「仕方ないでしょう。今からでも乗れたら良いのにねえ」
キエラは「無理だよー」とため息をついた。
風邪をひいて、ずっと楽しみにしていた豪華客船でのクルージングをキャンセルしたキエラ。熱が下がったので暇で仕方がないのだが、会社に行っても鍵が開いていない。研究員たちは留守なのだから当然だ。自然と連休になるわけだが、こんなに楽しくない連休初めてだ。
「うわーん!! 本当なら僕だって今頃海の上なのにいー!!」
「まあまあ、ほら、暗くなる前に散歩に行ってきなさいな。今日はお父さんが美味しいケーキを買ってきてくれるって言ってたから」
「ケーキ!?」
キエラが体を起こした時、携帯電話が震えた。
パッパッと写真が画面の上に押し上げられていく。トークが更新されたのである。開いていたのはラシュレイとのトーク画面だ。最後に電話をしたきり、船が出たのか電波が届かなかったようで、メールは此方が一方的に送った形のまま未読の状態だった。
キエラから送ったトークは未読のまま、次の文章が送られてくる。
『ハリエット・ローランズについて調べてくれ』
『黒いドレスの超常現象なんて存在するのか』
『変な夢を見たんだが』
『電波が通じない』
『ハリエットの死因は分かるか?』
全てラシュレイからのメッセージだった。送った時間を見るに、今日の昼頃だろうか。メッセージが今届くということは、船が何処かの港に近づいて、そこの電波を拾ったからなのだろう。
「ハリエット・ローランズ......」
今回のクルージングに参加したかった理由は、船が豪華客船だからというものだけではない。
映画界に動かぬ地位を築いた大女優ハリエット・ローランズ(Harriet Rowlands)のその孫グラントリー・ローランズ(Grantley Rowlands)が同行しているからだ。三日目にもなれば、ほとんどの研究員は交流しただろう。
幸運なことに_____キエラにとっては非常に不幸なのだが_____今回のクルージングの期間に、グラントリーの誕生日が重なっていた。大規模な誕生日パーティーが催されたに違いないのだ。
そんなグラントリーの祖母であるハリエットを、ラシュレイが今更知りたいとは何かあったのか。
自分の知らないところで繰り広げられる楽しげな光景を次々と思い出しながら、キエラは更に落ち込むのだった。
「ハリエット・ローランズって、お母さんも知ってる?」
キエラは検索サイトを立ち上げながら、今下げた皿を洗っている母親に尋ねる。
「ハリエット? もちろん」
彼女は怪訝な様子だったが、「名女優よね」と、次に恍惚の表情を浮かべる。
「あの美しさは何にも例え難いわ。同じ時代に生きていなくて、逆に正解だったかもしれない」
美しさを比較されるのは同じ時代を生きる者にとっては苦痛に違いない。いや、あれほどの美人を引き合いに出されるならば寧ろ光栄とも言うべきなのだろうか。
キエラは検索欄にハリエットの名前を打ち込み、一番上に出てきた記事をタップした。名前や出身国、出演している映画などはよく知っているが、彼女の最期はよく知らない。
「そう言えば、亡くなってるものね。今はお孫さんが活躍しているんだったわね」
ほとんど独り言の母親の言葉を聞き流しながら、キエラは画面に指を滑らせる。
「人気絶頂の最中、映画界から姿を消したって書いてあるよ」
「うん、そうね。途中で重い病気になったのよ。たしか、『碧と女王』って映画の撮影中に発覚したんだったかしら。名作よね」
鼻歌を歌いながら次の作業に移る母親。キエラは指を止めた。
『死に際に彼女は言葉を遺した____』
ゆっくりと下にスワイプする。
『美しいまま死なせて。』
*****
「彼処です」
セリーヌが指を差したのは、まだ遥か上である。展望デッキは特別な時にしか解放されない場所なのである。そこに立っている、黒いドレスの女_____。
「ハリエット」
皆の口が同じ形を作った。彼女の姿には、そうさせる魔力があるのだ。
ハリエットは展望デッキに一人で立っていた。近くに居たセリーヌが、スタッフに展望デッキに入れる鍵を持ってくるように伝えたので、もうすぐ彼女の元へ行く道が開かれるはずである。
「あんな場所で何をしているんだ」
「分からない。飛び降りる気じゃないだろうな」
「船で一番高いところから?」
「どうやってあんな場所に上ったんだ」
研究員たちは鍵が到着するのを待つしかない。美しいドレスが風にはためく度に、今にもバランスを崩して海に落ちるのではないかと誰しも顔を覆った。
そんな彼らの後ろから複数の足音が近づいてくる。話を聞き付けたセドリックたちがやって来たのである。
「ラシュレイだっ」
「あいつ、何してんだよ!?」
デッキが更に騒がしくなる。
「下の階で布を広げて来い」
ビクターがすぐに指示を出し始めた。
「救命ボートも! 急いで!!」
ケルシーも続けて指示を出す。デッキの研究員たちが散り散りになる中、セドリックもグラントリーも口をぽかんと開けて、ラシュレイを見上げていた。
「やっぱり彼が相応しい人間だ。そうだろ、グラントリー」
夢でも見ているかのような、虚ろな目でセドリックは言った。
「こんな時にまで何言ってんだ!」
コナーが今度こそセドリックに掴みかかった。
「お前は善悪の判断すらつかないクズなのか!? 自分が良けりゃそれで良いのかよ!」
「落ち着いてください、コナーさん!」
「動いたぞ!」
一人の研究員の叫びで、皆の目はラシュレイに戻された。彼は此方に気がついたようで、群衆を静かに見下ろしている。いや、風の音で聞こえないが、何かを言っていた。
「喋ってる!」
「何て言ってる!?」
「分からん!」
「朝日は見たくないの」
彼女の口を真似たのはグラントリーだった。彼はじっとラシュレイの口元に目を向けている。皆が彼の言葉に耳を傾けた。
「何もかもが終わる知らせなのよ」
セドリックが目を見開いた。
「そのセリフ」
「グレイス女王の最期のセリフです」
「朝日_____」
研究員たちの中にも気づいた者が居るらしい。この船は、ある港に向かっている。
映画の最後で船は、アラン・トゥック(Allan Took)が降りる予定になっていた港に向かっていた。朝が来る直前、彼は女王と共に海に飛び降りたのだが。
「彼女はアランを待っている。一人じゃ海に沈めないから」
グラントリーが独り言のように呟いた。
「そして飛び降りる気なんだ」
「そんなの許されるわけない」
セドリックが首を横に振る。
「どうなるんだ、あの役者は。あのドレスは!」
「貴方はいつもそうだ」
グラントリーの声が震えた。
「貴方が望んでいたのは本当に復活じゃない。もう貴方の言いなりは沢山です。この景色を見られただけで、僕は満足です」
グラントリーの目から涙が溢れる。
その後ろで、スタッフが鍵を手にして駆けて来る。誰かが受け取る前に、グラントリーは彼から鍵を受け取った。
「僕が行きます」
「何を言ってるんだ、お前」
「僕が行く。僕にやらせてください」
「自殺なんて許さないぞ、グラントリー!」
「死ぬわけないじゃないですか。あの人を助けに行くんだ。ラシュレイさんを」
グラントリーの手の鍵を狙って、セドリックが手を伸ばす。グラントリーは鍵を守ろうと必死に逃げるが、その鍵を掠めとった人物が居た。
「スカイラッ」
「僕が行きます!!」
「ダメだ、僕がっ......」
セドリックの抑えを振り切ったグラントリーだったが、スカイラは首を横に振った。
その鍵は、彼女に近づける手段のひとつだ。
グラントリーはそう言おうとして、言葉を飲み込んだ。当然、目の前の彼がそれを見逃すはずがなかった。
「グラントリーさんは、ラシュレイさんを助けたいんですか? それとも、ハリエットさんを助けたいんですかっ!」
「それは......」
言葉が上手く出てこない。早く答えなければならない。それなのに、自分を納得させる答えが出てこない。
「僕はラシュレイさんを助けたいんです!」
それを言い残すと、彼は振り返って走り出した。今までほとんど交流の無かった一人の研究員が、必死の形相で鍵を手に扉へと向かっている。
そして追いかける気も起きないほど、風のような早さで展望デッキに入っていった。
グラントリーは、自分が無意識にメモ帳を取り出したのに気がついた。傍観者となった今、自分に映画の世界に入ることが許されないと知った今、やらねばならないことはただ一つ。
過去の世界の人間と、現在の世界の人間。前者はハリエットだ。映画にも描かれなかった彼女の一面が、きっと見えてくる。
ペン先が動き始めた。
*****
展望デッキは、船で最も見晴らしの良い場所だった。エレベーターでガラス張りの部屋まで上がれるようになっているが、そのエレベーターが壊れていることで、今回のクルージングでは使用禁止のエリアとなっていたらしい。
エレベーターが使えないならば、階段を使う他ない。スカイラは上を目指して走り続けた。
彼の中には大きな自責の念が生まれていた。数ヶ月前、自分のもとにかかってきた一本の電話。ある女優のファンだという男からだった。
ラシュレイの追っかけをしていて、本人すら知りえない情報を得ているスカイラが、どうやって情報を集めているのか。
今まで集めてきた愛の結晶を漏らすことなく全て男に話した。真剣な顔でメモを取っていた男は、最後、満足気にB.F.を出て行った。
彼がきっと、セドリックたちに情報を渡したのだ。ラシュレイが身にまとっていた全てが、彼ピッタリのサイズだったのである。スカイラは彼の何のかもを喋った。間違いなくその情報が駆使されて作られた衣装だった。
本物のドレスを仕立て直す程に、彼らはラシュレイを求めている。それは、歪んだハリエットへの愛が導いた、想像もしない未来へ繋がっていたのだ。
「ラシュレイさん!」
ガラス張りの展望デッキからは、屋上へ上がれない。本来なら此処が最上階のはずなのだ。しかし、ラシュレイは更にこの上_____屋根の上に立っている。
ラシュレイが上がったのは、何処からだろう。
スカイラはエレベーターの裏に回り込んだ。潮風が吹き込んでくる場所がある。見上げると、天井が四角くくり抜かれている。よく見ると、それは工事に使われるだろう、工事員用の壁掛けの非常階段だった。
スカイラは飛び付いてよじ登る。パッと屋上に顔を出した時、頬を掠める布の感触を覚えた。驚いて見上げると、ラシュレイがじっと自分を見下ろしている。
「ラシュレイさん! 迎えに来ました!! 一緒に下まで降りましょう!」
スカイラが更に体を登らせようとすると、ラシュレイは数歩後ろに下がった。スカイラは慌てて動きを止める。
「......ラシュレイさん」
それは、ラシュレイではない。ドレスに長く魂を縛り付けられた、あの世界的女優だった。表情も動作も全て艶めかしく、そして何処か悲しげである。
「ハリエット・ローランズさん、ですか?」
スカイラが慎重に問うと、彼女は頷いた。
「ラシュレイさんを返してくれませんか。僕の大事な人なんです」
「美しいまま_____」
彼女の口が動いたのを、スカイラは見逃さない。彼女は泣いていた。
「美しいまま死なせて」
そのまま、ゆっくり後ろに下がっていく。スカイラは構わず飛び出した。ドレスの端を掴んだが、既に彼女の片足が宙にはみ出そうとしている。遥か下から研究員たちの悲鳴が上がった。
「貴方はもう亡くなっているはずです! その体の人は、まだ生きているんです! 僕の大事な先輩なんです!」
体制を立て直したスカイラは、ハリエットの腕を掴んだ。続いて腰を。引き寄せて戻そうとするが、彼女は頑固だった。凄い力だ。
「美しく死ぬの、美しいままっ! 美しいままっ!! お願い、死なせてっ」
それは心からの叫びだった。幼い子供のような、胸の中から伸びる真っ直ぐな光だった。
風に煽られて大きく体が傾く。それを狙っていたかのように、ハリエットは全体重を外側へかけた。スカイラは踏ん張ることも出来ない。足が浮いて、全ての視界に穏やかな夜明け前の海を見た。
あの映画のようだと思った。あの二人の最期は、アランがグレイスと固く手を結んで落ちていく。もうこの体制になれば、助かる手段などあるはずない。
ならば、覚悟を決めるしかない。
腕を掴んでいた手を、彼女の指に絡める。視界は既にひっくり返っている。展望デッキのガラス窓に、反対になった自分たちの姿が映り込む。それも一瞬で、船体の窓が道路の白線のように途切れ途切れに流れていく。
腰に回していた腕で彼女の背中と頭を守るようにして、スカイラは頭を丸め込んだ。
「美しいまま死にましょう。僕が連れて行きます」
二つの巨大な水飛沫が、まだ火の玉の出ない白んだ空に上がった。
*****
この世界で初めて自分のことを心から愛してくれたのは、残念ながら母親では無い。と、思う。
「泣きすぎ」
笑いに混ざった声がしている。彼の背中に灯っている炎。焦げた絆創膏。
「泣いてません」
自分の声が酷いので、おかしかった。まだもう少し、彼の後輩で居たい。いや、もうずっと、永遠に彼の後輩で居たい。
母とは違う温かさ。無理して作られない自分の居場所。かっちりと、そこにあることを許されたパズルのピース。
「ノールズさん」
頬が暖かい。彼から貰った何もかもが、湿布の下に隠してある。花束は黄色で満ちて、ネクタイピンには彼の熱が残っている。それだけで、自分は陽だまりの中を歩ける。時たま雨が降る。そういう時は、彼の色が消えてしまう。
徐々に彼が薄くなっていく。黄色がカスタードよりも薄い色になる。もっと薄くなる。黄ばみ始めた古い紙のように。
寂しくなる。雨が止まない。そう思ったら、雲が晴れる。突然、眩しすぎる世界が目の前に展開された。
目に煩いほどの虹がかかり始める。静かだった周りで小鳥が姦しく鳴き始める。
足元には、青い小さな花が芽吹いて、それがみるみるうちに成長する。黄色一色だった世界が、青色に塗り替えられる。
不思議と嫌な気持ちにならないのは、あの事件から長い時間が経ったからか。記憶が風化しているから?
違う。まだ彼らを思えるから、それは違う。
では、何だ。背中を包み込む瑞々しい青色。
陽だまりは此処にもあった。
雨も降らない。
彼が来た。
******
スカイラは目を開いた。激しい泡の渦が自分たちを取り巻いている。すぐに気がついた。一瞬意識を失ったのだ。
生きている。
スカイラは腕の中のハリエットを見た。二人は入水した時と体の向きが逆になっていた。何故かは分からない。だが、水面に頭が近いのは好都合だ。
スカイラは水を掻く。水面がキラキラと光り始めた。朝日が昇っているのだ。
しかし、水面は近づくことがない。寧ろ離れていく。不思議に思って見ると、ハリエットが徐々に沈んでいこうとしているところだった。
ドレスの裾が捲りあがっている。そこに、徐々に強まる朝日を受けて輝く黄金を見た。金だ。彼女はスカートの裾に金を縫い付けているのだ。それが重りとなって、彼女を海の底に連れて行こうとしている。いや、これは彼女の意思なのだから_____、
彼女は、ラシュレイを海に沈めるつもりなのだ。
呼吸が苦しい。スカイラは一度彼を手放して、水面に顔を出した。遠くにオレンジ色のボートが見える。救命ボートが降ろされたらしい。
スカイラはそれを確認するや否や、再び水中に戻った。ゆらゆらと、綿毛のように落ちていく美しい姿が見えた。
「ラシュレイさん」
水を掻いてラシュレイの腕を掴む。背中に腕を回して、何とか引き上げようと藻掻くが、金の重みは想像以上だった。
彼を死なせるわけには行かない。連れて行くのを許すほど、半端な愛は無い。
スカイラはドレスの背を間探った。彼が着るのを見ていたわけではないが、大抵のドレスは、チャックなど見えないところにあるだろう。脱ぎ着しやすいように、背中か、横。
それらしい摘みがあった。スカイラはそれを一気に下まで引き下げた。その間にも水面は遠ざかっていく。呼吸をすることもままならない。頭が霞がかかったようにぼんやりとしてくるが、苦しいのは自分じゃない。
彼だ。そして、彼女だ。
ドレスから開放された途端、彼の口から僅かなあぶくが漏れ出た。
呪いが解けていく。頭で彼の姿が鮮明になった。不透明だった彼の姿が、やっと思い出せた。
「ラシュレイさん」
ああ、こんな姿だった。
「僕が来ましたよ」