File083 〜或る魔性〜 7
「ノールズさん」
食堂で注文が出来上がるのを待っている間は、何か話をするべきだ。助手となったならば、先輩を退屈させるようなことはあってはならない。と思ったが、目の前の彼は他のメニュー表を真剣な顔で眺めていて、忙しそうだ。
そんな彼の顔を斜め後ろから眺めていると、やはり気になって仕方がない。
「何?」
ノールズがパッと目を此方に向けてきた。
「あ、いえ......」
黄色の瞳に負けて視線を下げると、まだ着慣れない白衣が目に入る。用意されていたサイズは少し大きかったので、ノールズが後で一回り小さなサイズを用意すると言っていた。
「なんだよー。言いたいことがあるなら言っちゃいな!」
「でも」
「言っちゃいなって!! え? なになに? 俺が頼れる素敵な先輩です?」
「いえ、そんなことは一言も」
ノールズの笑顔が固まったので、ちょうど良い。ラシュレイは彼の頬を指さした。
「その湿布......どうされたんですか」
「あ、これ?」
笑顔が崩れて、いつもの顔に戻る。
ラシュレイはずっと気になっていたのだ。彼の助手になって二日目。昨日は助手志願と、それから自室となる部屋の準備などで一日中バタバタしていた。ノールズもノールズで、助手を迎え入れる申請書の用意などに忙しかったようだ。
ノールズの頬には白い湿布が一枚貼ってある。顔を殴られて痣が出来たとか、実験で超常現象に襲われたとか、もしくは生まれた時からある体の特徴を隠そうとして貼っているのか。最後のは人によって話したくないものだろうし、もしそうならば聞くべきではない。
だが、ノールズは特に嫌がる素振りも見せず淡々と答えてみせた。
「これは、寄生痕っていう超常現象だよ」
「キセイコン......」
超常現象と聞いて、ぎょっとする。シミや痣と言われた方がまだ良かった。湿布の下に居る存在が禍々しいものに思えて来て仕方がない。
ラシュレイがまじまじとそれを見ていると、ノールズがにんまり笑って、
「見たい?」
と湿布の端を指で摘んだ。ラシュレイは言葉に詰まる。
「襲ってきますか」
「ううん、大人しい子だよ」
自分の体の一部に対して「子」なんて単語を使っている。ラシュレイが頷くと、ノールズは湿布を捲りあげた。
「はいっおしまい」
その下に黒い皮膚の存在を確認した時、ノールズは目にも止まらぬ速さで湿布を元に戻してしまったのだった。
「あまり長い間見ちゃうと、伝染っちゃうんだ」
「伝染る?」
ラシュレイは眉を顰めた。どういうことだろう。自分の体にも同じようなものが出てきてしまうのだろうか。
「俺の体から、ラシュレイの体に瞬間移動しちゃうの」
「ではノールズさんは、誰かにそれを貰ったんですか」
「いやあ、まあ、ねえ」
はにかんで誤魔化された。間もなくして彼の背中に店員の声がかかり、彼は行ってしまった。ラシュレイは改めて彼の頬に居る超常現象の存在を考える。
黒々とした皮膚。禍々しい形をしていた。何だか悪魔のような、恐ろしいものだった。痛くないのだろうか。悪さはしないのだろうか。あれを誰から伝染されたのか。半分だけ貰うことは、出来るのだろうか。
*****
ラシュレイはハッと我に返る。肌に当たる風が氷のように冷たい。磯の香りを強く感じる。真っ黒な景色が目の前に広がり、遥か下の方からは船体に当たって砕ける波の音がした。
驚いて横を見ると、何かが鼻先を掠めた。グラントリーが、此方に片腕を伸ばした状態で、石像のように固まっている。キョトンと間抜けな顔は、映画俳優の威厳など一ミリも感じさせない。
「あ、すみません」
ばつ悪そうに手を引っ込めて、彼は体ごと外を向いた。
「寒いですよね」
その言葉を聞いて、ラシュレイは初めて自分の格好に気がついた。まだドレスを着ていたのである。パーティー会場を出て、裏で椅子に座ったところで記憶が途絶えている。あの時と同じだ。グラントリーの誕生日パーティーに現れた時と。
見回すと、此処はデッキだった。出港パーティーをしたところと同じデッキだろうか。それすら分からない。だが、波の音から考えるに、相当な高さである。
一体、いつこんな所にまで上ってきたのか。エレベーターか階段を使ってだろうが、そのどっちにも乗った記憶が無い。
ラシュレイは額を抑えた。自分の中で何かが起こっている。一刻も早く、このドレスを脱いでしまいたい。また次にいつ、この変な状態になるのか分からない。
「グラントリーさん、すみません。俺」
「あの、ラシュレイさん」
グラントリーに部屋に戻ることを伝えようとすると、言葉を被せてきた。振り返ったその顔は、何か役が入ったかのように真剣である。ラシュレイは言葉を呑んだ。
「俳優の世界に来ませんか」
「えっ」
「貴方なら、何の役にもなれるでしょう。見たことないんです、此処まで完璧な彼女を演じる人間は」
ラシュレイは言葉を失った。彼の言っていることが全く理解できない。
「今まで何百人と声をかけて、彼女のように振舞ってもらいました。でも、一人として成功した方は居ません。みんな、何処かしらボロが出る。当然です、彼女じゃないんですから。演技が上手くたって、骨格は似せられません。声だって」
グラントリーは止まらなかった。彼も自分で何を言っているのか分からないのだ。言葉を手繰り寄せて、必死になっている。
「僕は貴方のような人初めてだ。セドリックが本物を着せる理由が良く分かります」
「今までの方は、レプリカを?」
「ええ。船内に飾ってあるものを着せていました。本物は、本物のハリエットが現れた時に着せることにしていましたから。あの頑固者の監督であるセドリックが、中途半端な人間に本物を着せるわけがない」
手に暖かいものを感じる。見ると、グラントリーが手を取っていた。その手を彼は自分の胸に当てる。
「やっと見つけたんです。ハリエットを」
「......」
目から溢れるその幾粒もが、ラシュレイの手に落ちた。手袋が色を変えていく。
きっと、この涙は演技ではない。彼のことを見ていたらよく分かる。ずっと追い続けていた祖母の気配を感じ、今までの努力が実を結んだのだ。俳優の世界に飛び込むきっかけとなり、研究員の如く彼女の世界を見続けてきた。
彼だけでなく、彼の周りの人間もそうだ。セドリックも、周りの映画監督も。何百、下手をすれば何千という人間が、同じ目標を胸に作り上げてきた計画がある。
その全てを今、自分は水の泡にしようとしている。
「残念ですが」
グラントリーの目から、ゆっくりと大粒の涙が一粒、デッキの床にぼたりと落ちる。
「俺は、研究員です」
ゆっくりと、諭すようにラシュレイは言った。
「ハリエットさんをこの先演じ続けることはできません。セドリックさんにも、今夜限りと伝えています」
「......」
ラシュレイは言葉を選んだ。彼らの努力が結ばれるために、良い言葉はないだろうか。
「俺はハリエットさんにはなれません。ドレスも気持ちも、全てお返しします。きっと、俺以上に彼女に近づける人が居るはずです」
そんな人、本当に居るのかは分からない。だが、ラシュレイは研究員として生きている方が自分の身には合っていると思った。これ以上の天職を彼は知らない。知りたくもないのだ。
両手の外側を包んでいたものがするりと解けた。ゆっくりと膝が落ちていく。目の前の彼が力なくデッキに崩れるのを、ラシュレイは静かに見つめていることしかできなかった。
*****
「良かったんですか?」
スカイラが隣で問う。何がと聞かずとも、何のことを言っているのかは分かる。
「俺が俳優の世界に行ったら、スカイラはどうするんだ」
「ええっ!! 毎日テレビの前から離れません!! 新しい写真集も作らないとですねっ」
きゃあきゃあと一人盛り上がる助手を見て、ラシュレイは呆れて声も出ない。
グラントリーの誘いに答えていれば、永遠にハリエットとして生きることになるだろう。演技の僅かな隙間にすら、ラシュレイ・フェバリットを覗かせることは許されない。外見も中身もガラリと変わった自分の姿を、変わらず愛そうとする者など居るのだろうか。
「でもっ」
スカイラがぎゅっと腕に抱きついてきた。ドレスのせいで体が疲れて、引き離す気力すら起こらない。
「ラシュレイさんなら、きっと断ると思っていました! 研究員として、ずーっと僕と一緒に居てくれますもんねっ」
その通り、と答えるのは気恥ずかしくてできない。小さく頷いて、誰も居ない真夜中の廊下を歩くのだった。
*****
此処には何も無い。
台本通りにならない演者に苛立つ監督の足の音も、機材が慌ただしく移動する音も、化粧係の重そうな鞄が開く音も、釘付けになる現場の人間の瞳も。
白い天井と、無数の針。アルコールの匂い。黒いドレスは、清潔なシーツに変わった。
ゆっくりと腕を持ち上げる。上手く動かない。やっと視界に入ったのは、枯れ枝だった。握り締めていたのだろうか。此処に来る前に、森になんて行ったかしら。
そう思って、瞬きをすると、それは枝でも何でもない。薄い皮膚に骨が浮かんだ、自分の腕だった。
*****
ハッと気がついた。鏡の中に自分が映っている。豊かな黒髪がたっぷりと肩にかかっている。重い布が体にまとわりついている。耳の傍でシャラシャラと音がする。
「......?」
ラシュレイは、自分の体を見下ろした。ドレスだ。ドレスをまとっている。時計を探したが、何処にも見当たらない。此処は何処かのトイレだ。
小窓が僅かに開いて、そこから涼しい風が吹き込んできている。東の空だろうか。下の方が白んでいる。朝。
ラシュレイはぼんやりとそれを見ながら、「えっ」と己の口から言葉を零した。
おかしい。パーティーが終わって、グラントリーとデッキに行って、ドレスからいつもの服に着替えて、スカイラと共に部屋に戻った。
その後、自分は眠ったはずだ。たしか、夜中の十二時だった。なのに今、自分は何処かのトイレに居る。返したはずのドレスをまとって。
再度鏡を見てみる。化粧も、イヤリングだって完璧にしてある。ドレスも完璧な姿でまとっている。これを一人で着られるわけがない。おかしい。
ラシュレイは肩にかかっている黒髪を掴んだ。ゆっくりと引っ張ろうとした時、頭も一緒に持ってかれる感覚があった。
「......?」
思い切って引っ張ってみると、数本の髪の毛が自分の手に残った。生まれてから一度も肩より下へは伸ばしたことがない。それなのに、ぷつん、と地肌から抜けた感覚があった。手の中に残っている髪の毛は、見たこともない長さをしている。
「......」
ラシュレイは続いて、手袋を取った。蛇口を捻って水を出し、手ですくって顔にかける。化粧は落ちない。ゴシゴシと擦っても、全く落ちる気配がない。
何が起きている。
ラシュレイはイヤリングを外した。これも、どうして此処にあるのか。着付けをしてくれたスタッフが全て元の場所に戻したはずだ。皆が寝静まった後、自分はまたあの更衣室に入ったというのか。一人で。夢遊病のように?
ラシュレイは背中に変な虫が這っているような気味の悪さを覚えた。ゆっくりと鏡から数歩離れて、全身を映してみる。何度見てもハリエットだ。自分は、彼女になろうとしている。
「......」
本当に、自分はあの世界に飛び込もうとしているのか?
手が動いた。取り外したイヤリングが耳に元通りにぶら下がる。外されていた手袋が再度取り付けられる。そして、漆黒に染まった指先が、自分の頬にある湿布をつまみ上げようとし出す。
これは邪魔だ。美しい顔にあるべきものではない_____。
にんまりと笑う鏡の中の自分と目が合った時、ラシュレイの意識はふっと途絶えた。
*****
「ラーシューレーイーさーん」
どんどんと扉を叩く少年が居る。もしかしなくてもスカイラ・ブレッシン(Skylar Blethyn)だ。
「朝食バイキングの時間が迫っていますよおー! 僕と一緒に全部半分こしましょー!」
ややあって、扉がうっすらと開いた。ラシュレイが迷惑そうな顔で此方を見ている。スカイラが目をハートにして飛び跳ねた。
「おはようございます! 今日も素敵です!!」
「おはよう......朝から煩い」
「えへへ、嬉しくて大きな声出しちゃいました!」
ラシュレイは着替えるからと奥の方へ引っ込んでいき、スカイラは当たり前について行こうとする。が、すぐに扉が閉められ、ガチャンとロックのかかる音がした。
「あーん、ラシュレイさんの生着替えを見られるまたとないチャンスだって言うのに!!」
スカイラは悔しげに、首からぶら下げていたカメラを肩掛けの鞄にしまう。クルージング三日目。順調に写真は集まっている。『ラシュレイwithクルージング』の特大アルバムの制作は順調に進んでいるのだ。
「はあー、眠い眠い」
「昨日、あれだけどんちゃん騒ぎすりゃあ眠いよな。それに、若干の二日酔い......今日は控えめにしよう」
「って言って、ステーキ山盛りにするつもりだろ」
後ろを歩いていくのは、同じバイキング会場に向かう研究員たち。皆、昨日のパーティーで胃が疲れているようだ。
「おまたせ」
ラシュレイが扉の向こうから現れる。彼もまた眠たげだ。昨日はデッキでグラントリーに捕まり、その後はドレスを脱ぐまで起きていたのだ。目の下にはうっすらと隈ができている。
「ラシュレイさん、お疲れですね」
「まあ、大丈夫だけど」
小さく欠伸をして、ラシュレイが答える。僅かなシャッター音すら気が付かないらしい。
「僕がいつでも膝枕を承りますから! 遠慮せずに言ってくださいね!」
「遠慮しとく」
階段を降り始めると、見知った顔が見え始める。だいたいが同じ時間帯に部屋を出たらしい。それでも少なく感じるのは、まだ眠っているからなのだろう。いつ起きても、この船では常に食べ物を提供している場所があるのだ。
「わー、美味しそうな香りがしてきましたよ!」
スカイラが鼻をくんくん鳴らしている。確かに、この匂いはパンだ。
「スカイラは腹減っているのか」
「はい!! 腹ぺこです!!」
それを聞いて、ラシュレイは彼がまだ飲酒ができないのだと気づいた。周りは主に酒に酔って不調らしい。未成年の研究員はぴんぴんしている。ラシュレイは少しだけ二日酔いが入っていた。そこに寝不足による吐き気もプラスされている。
「お、プリンセスおはよう」
バイキング会場に入ると、バレットに会った。既にプレートには料理が盛り付けられていて、これからテーブルに向かうところなのだろう。
ラシュレイが言葉を詰まらせるのを見て、スカイラがすかさず前に出てくる。
「バレットさん! 僕のラシュレイさんをいじめちゃダメですよ! 僕のプリンセスという意味では決して間違っていませんけれどね!!」
「黙って」
スカイラを黙らせると、今度はクレッグ夫婦がやって来る。ケルシーも、昨日の騒動で眠たげだ。彼女はドレスを脱がすところも手伝ってくれたのである。
「ラシュレイ、おはよう。風邪引いてない?」
あのドレス姿で、夜風の吹くデッキに連れ出されるとは思ってもいなかったようだ。後ろめたそうに聞いてくるので、ラシュレイは「大丈夫です」と答える。
「ケルシーさんこそ、よく眠れましたか」
「うん、バッチリ! 何だか夢みたいな夜だったね」
彼女はそう言って離れていく。夢みたいな。たしかに、そうかもしれない。記憶がところどころ抜けているのも、本当に夢を見ていたからなのかもしれない。
「ラシュレイさん、僕らも早く取りに行きましょうよ!」
「うん」
片腕を強く引っ張られてサラダバーの前まで連れて行かれる時、ラシュレイは奥の席にグラントリーの姿を見た。周りには明らかに彼目当てだろう研究員たちが群がっていたが、それに囲まれる彼の背中は縮んでいるように見えた。
その光景がなんだか気の毒で、ラシュレイは皿を手にするや否や色とりどりの野菜たちに目を落とした。
*****
「そう言えば聞いた?」
隣の席に座ったのはジェイスだった。バドは、この会場の天井の高さでは低すぎるようで、部屋で待機しているそうだ。
「何がです?」
スカイラがトマトを口に放り込んで首を傾げる。
「昨晩、誰かがドレスルームに入ったんだってさ。泥棒が居るんじゃないかって、クルーの間では騒ぎになってたよ」
「ドレスルームって」
スカイラの目がラシュレイを見る。きっと、昨晩ラシュレイがドレスを脱ぎ着したあの部屋のことだろう。
「ハリエットの本物のドレスがあるところだし、鍵はセドリックさんしか開けられないっていう話だったらしいんだけど......」
「ほえー。鍵を閉め忘れたとかでしょうか?」
「ううん、見回りの人が確認した時はきちんと閉まってたんだってー。貴重なものだし、泥棒なんかに入られたらたまったもんじゃないよなあ」
ジェイスがバゲットにバターを塗ってかぶりついた。
「何か盗まれちゃったんですかね」
「特にそういうのは聞いてないけど......」
ラシュレイもロールパンにジャムを塗る。そうしながら、昨晩、変な夢を見たことに気がついた。
「あれ」
突然、視界が揺れた。頬を軽く押されたらしい。見るとジェイスが此方に手を伸ばしている。
「湿布、剥がれかけてたよ。気をつけろよ」
手が離れ、ラシュレイは改めて自分で触れる。たしかに、下の角が乾いている。昨日、疲れて部屋に戻ってきて、今朝も付け替えるのを忘れていたのだ。粘着機能が落ちてきているらしい。
手を離してパンを齧った時、目の前でわなわなと震えている助手を見た。彼はバッと立ち上がる。
「うわー!!! なんですか今の!! なんですか、今の!!! 僕だって気づいていましたし!! 紳士だから触らなかっただけですもん!! 僕だって、僕だって!!!」
「良いから座れ、スカイラ」
「僕だってラシュレイさんの湿布に触りますもん!! 時には付け替え作業だってしますもん!!」
「させたことなんてない」
周りの視線が煩い。スカイラには座らせ、ラシュレイは早く食べ終えてしまおうと咀嚼の速度を早めた。
「たしかに、本当に邪魔だもんね。あの湿布」
誰かの声がして、ラシュレイはハッと顔を上げる。しかし、周りの雑音と人の多さで、誰の声までかは判断がつかなかった。
「どうしたの?」
ジェイスが顔を覗き込んでくるので、ラシュレイは首を横に振った。変な夢の延長だろう。疲れているのだ。
パンを飲み込みながら、ラシュレイは二度寝の計画を立てるのだった。
*****
波の音。船の軋む音。水に飛び込む音。水中の音。
暗闇の中で一心不乱に手を動かし続ける。新しく開けたメモ帳は、既に半分が使われてしまった。家にはメモ帳のためだけの本棚がある。ひとつの映画から生まれた、無数のアイデア。時に読み返し、そして納得できずに元の位置に押し戻す。
本物なんて居やしない。彼女はとっくのとうに死んだのだ。
「グラントリー」
肩を叩かれて我に返る。照明がついて、映画は終わっていた。セドリックが隣に立っている。
「まだ閉じこもっていたのか。今日何回目だ? 予定では他の映画を上映することになっていたのに、全部キャンセルして、『碧と女王』だけ上映させるなんて」
「しかも、僕以外は誰も入れずにね」
嫌味たっぷりに言うと、セドリックは眉を顰めた。
「悪かったと思っている。もっと他の方法なら、あの子を引き入れることができたよ」
「あの人は最初から此方に来る気なんてないですよ。そう言われたんだ、はっきりとね」
グラントリーは鼻で笑って、手元の機械をいじる。再生ボタンを押すと、映画は冒頭のシーンに戻された。
「グラントリー、まだ諦めるのは早い。あれだけの人材が存在すると分かったんだ。まだ希望はあるということだ」
「また何百人という人間を探すんです?」
グラントリーがセドリックを睨みあげる。
「何十年とかかって見つけた人なんですよ。彼と同等の演技ができる人間がこの世に残っているとは思えない。あの人じゃなきゃダメなんです。もしそうじゃなきゃ、僕はこの世界を降りるしかない」
いや、とグラントリーは少し考えた。
「この船を、降ります」
ラシュレイ・フェバリットに断られた。彼こそが第二のハリエットだ。ドレスを着た彼が魅せた、あの美しい演技。表情の少ない研究員だと知っていたが、彼はまるで昔からハリエットを傍で見てきたかのように完璧な演技をしてくれた。生き別れの弟でも居たのではないかと思うほどだ。
彼を俳優界に連れてこられたら、あの映画の番外編だろうがなんだろうが作ることが出来る。真の演技を間近で見ることが出来る。そう思って声をかけたが、彼は呆気なく断った。研究員として生きることを固く決めているのだ。
「もう彼以上の人間に会うことは無いでしょうね。セドリックさんも見たでしょう、あの演技。映画そのままだった」
「そうだな。台本も渡していないのに、まるでハリエット本人だ」
「本物のドレスを着せる価値のある人間だった」
グラントリーが言った時、セドリックが神妙な顔つきになった。何かを思い出したのだ。
「ドレスルームの鍵が勝手に開けられた」
「え?」
「犯人は特定中だ。あのBlack Fileの中の誰かとは思うが......」
ドレスルームとは、ハリエットのドレスがある場所だ。グラントリーにとっても、セドリックにとっても、そして映画関係者にとっても神聖な部屋である。そこに勝手に誰かが入るなど、決してあってはならないことである。
あの美しいドレスに汚れた手が触れて良いはずがない。
「どうやって? セドリックさん、鍵を誰かに託したんですか」
「そんなことするはずないだろう。常に私が持ち歩いている。誰かに見せる理由もない」
「じゃあ、どうやって」
グラントリーは始まってしまった映画を見つめる。港に少年が着いたのだ。自分は一瞬だけ、昨晩の一瞬だけ、彼になることを許された。
「何よりも大事な宝なんだ。絶対に守りきってもらわないと」
「分かってる。今犯人特定を急いでいるから、事を荒立てないように。私も彼らを疑いたいわけじゃないんだけどな」
セドリックはそう言って、スクリーンをチラリと見た。「程々にしないとダメだぞ」と小さく言って、映画館を後にした。
椅子に座り直したグラントリーは、じっと考える。泥棒が居るとするならば、目的はドレスを奪うことだ。世界中のセレブがかつて喉から手が出るほど欲しがったものである。イヤリングや指輪、手袋だって精巧に作られている。当然、ラシュレイに合うようにではあるが。
名前を思い出して、グラントリーは再び恍惚とした。夢のような時間だった。きっと祖母は、あんな風に現場の人間と話をしていたのだろう。優美で、艶やかで、夜の女王のような人間。
そして、それを演じた彼_____。
グラントリーはふと、メモ帳に目を落とした。
あの研究員は、ハリエットを演じていただけである。そう、演じていたのだ。もとは仕事熱心な国家研究員。『碧と女王』を観た経験は数回しかない。それなのに、自分以上にハリエットを知っていた。何百回と見ている自分より、ハリエットへの知識があった。
いや、あれはハリエットそのものだった。本当に、研究員の演技だったのか。
自分は昨日、誰と喋っていたのだろう。
*****
夕焼けに染まったデッキ。アドニスは黄金に輝く海を見つめながら、隣の存在に意識を集中させていた。横には先輩のカーラが居る。昨日のパーティーが疲れたのか、今日はデッキやホールでゆっくり過ごしていた。彼女がいる所には、当然彼が居る。
「ごめんね、アド。行きたいところいっぱいあったでしょ」
「別に」
「スカイラさんたちと船内回ってきても良かったのに。こんな貴重な経験二度とないかもしれないんだよ」
彼女の頭のリボンがパタパタと風ではためく。少し長い髪を下ろしていると、風で暴れて片手で抑え始めた。夕日を見ながらチラチラと横を見ていると、
「はわー! 綺麗!!」
視界に邪魔な者が映り込んできた。
「スカイラさん」
「邪魔だボケ」
「何の邪魔にもなってないでしょうが!」
同期のスカイラ・ブレッシン。数少ないアドニスの知り合いだ。
「ラシュレイさんはどうしたんですか?」
「そうだ、いっつも金魚のフンみたいに引っ付いてるだろ」
「アド」
カーラに軽く睨まれても気にしない。こんな良い雰囲気を邪魔する者があるか。
「疲れてお部屋で寝ちゃったんだよね。声をかけても反応が無くて......外のバルコニーから伝って中に入れるかと思ったけど、壁があってダメだったんだあ」
「聞かなかったことにする」
外を伝って彼が部屋に入ってきたら、気絶をする自信がある。こんな人間と隣の部屋になってしまった彼の先輩が気の毒だ。
「ところで、昨日のラシュレイさんは綺麗でしたね」
カーラが話題を変えた。「そうなんです!」と鼻息を荒くするスカイラ。
「ハリエットそのものでしたよね! ラシュレイさんってば、グラントリーさんにスカウトまでされていたんですよ!」
「スカウトですか」
「そうなんです! でも、研究員として仕事をしたいと伝えていて......もうあの時の真剣な表情と言ったら......ああー、かっこいいー!!」
頬を染めてくねくねと踊り始めた。何とも気持ちの悪い動きである。
「ラシュレイさんが、映画の世界に連れて行かれなくて良かったです......」
カーラはホッとした表情を見せている。
「でも、どうしてあんな上手く演じられたんだよ」
「それは本人も分からないって言ってた。まあ、ラシュレイさんくらいになれば、外面を整えただけでピシッと中まで染まっちゃうんだろうね!!」
「それで本当に説明がつくのかよ」
アドニスが呆れていると、二人の真ん中のカーラが静かだ。彼女は黄金の海をじっと見つめて動かなくなってしまった。
「おい」
軽く足で押すと、ハッと此方を向く。
「ごめん。ラシュレイさん、もう起きたかな」
「はあ? 知るかよ」
「だよね......スカイラさん、ラシュレイさん変わったところはありませんでしたか?」
「えっ? ちょっと疲れてたけど、寝たら治るって言ってましたよ」
「そうですか......」
神妙な顔つきになった先輩に、アドニスもスカイラも眉を顰める。
「何だよ」
「何か引っかかるんです?」
「ラシュレイさんって、ああいう笑い方しないなって思って」
カーラの言葉に、二人とも更に眉を顰めた。カーラは手すりを掴んで、船体にぶつかる波を見下ろす。
「昨晩、パーティーが終わって皆が寝静まった後......」
白い泡が生まれて消えてを繰り返す。落ちたら一溜りもない高さだ。
「一人でフラフラとデッキに出て、ずっと楽しそうに笑っていたんです」