File083 〜或る魔性〜 5
その部屋は、まさに「ドレスルーム」と言うべき場所だった。壁沿いにラックが並んでおり、そこに無数のドレスがかけられている。
「奥へ」
セドリックはケルシーとラシュレイを、ドレスの森の奥まで案内した。奥は開けた空間になっていて、カーテンが円状に降りた仕切り部屋と、ドレッサー、そして一番目を引くところには、
「これ......本物の映画のドレスですか?」
ケルシーはセドリックを振り返る。
それは、一つ段を上がったところに飾られていた。昨晩、デッキから船内に戻る際に、皆が感動のため息を漏らしながら見ていたものだ。いや、あれはレプリカだ。あれですら、息を飲む美しさを持っていた。
「ええ、実物です。私が大事に保管しているものですよ」
「やっぱり輝きが違うよ。それに......」
ケルシーは言葉を探しているようだったが、その言葉が上手く見つからなかったらしい。ラシュレイも同じだった。何故だろう、このドレスを前にすると、口すら利けなくなる。美しさに圧倒されているから、という理由で片付けられる問題ではないような気がした。
セドリックは腕時計を見た。もう時間が無い。パーティーがグラントリーの誕生日会に移行したタイミングで、ハリエットに見立てたラシュレイを登場させたいと、彼は考えていたのだ。
「早速着替えましょう。ケルシーさん、手伝っていただいても?」
「もちろん。ラシュレイ、大丈夫?」
ケルシーが此方を振り返ったので、ラシュレイはハッとした。何だか夢の中に居るかのように思ったのだ。ぼんやりとしていた。
「今夜だけですからね」
ラシュレイが小さくため息をついて言うと、セドリックは微笑んだ。
「ありがとうございます」
*****
何人ものスタッフが慌ただしく用意をしている気配が、カーテンの向こうから感じ取れる。ラシュレイはドレスに着替えていた。ケルシーが傍らで手伝いをし、女性スタッフがもう一人、カーテンの内側に入ってきた。
「苦しくない?」
「大丈夫です」
目の前にある鏡に映るのは、紛れもなくドレスを着た自分だ。あの美しい骨格をどうこうできるはずがない。やはり辞めたいと言いたかったが、映画館でのグラントリーの様子が脳裏に浮かぶと、その気持ちはふっと消えてしまうのだ。
初め、ラシュレイはこの計画に参加するのを断る気で居た。それどころか、セドリックの話を聞いて、「やりたくない」とはっきり断ったのだ。
しかし、気が変わるかもしれないと言って、セドリックは細かな当日の説明をした。もし気が変わったら、パーティーが終わりに差し掛かってきたところで部屋を出て来てくれないか、と。自分はいつでも待っている。
真剣な表情で迫られ、答えに困ったところで助手が間に割り込んできたのだ。タイミングが良かったと言うべきか、悪かったというべきか。少なくとも、助手には聞かれていなかったらしい。聞かれていたら、セドリックのこの計画に賛成していたに違いないのだ。
逆に、彼の乱入によって、セドリックの計画に対する自分の返答が曖昧になったのは不味かった。キッパリと断った上でまだ執着する彼には、もう一度「ノー」と言うべきだったのである。
何かを言う隙も与えず、セドリックは離れて行ってしまった。
その後、ラシュレイは映画館で『碧と女王』を観た。暗い部屋の中で、時折隣のグラントリーに目をやった。彼は必死にメモ帳にペンを走らせていたのだ。暗くて見えづらいだろうに、その文字は正確に欄の中に収められている。
館内が明るくなって、再度彼のメモ帳を見てみると、最後のページになっていた。
「暗いのによく書けますね」
ラシュレイが言うと、彼は恥ずかしそうに笑って答えた。
「慣れですよ。家ではこれより部屋を暗くしますから。映画館は、まだ明るい方です」
グラントリーはパタンとメモ帳を閉じた。エンドロールを終えたスクリーンを、愛おしそうに眺めながら続ける。
「もっと近くで_____許されるならば日の中で彼女を見たいんですけれど......。スクリーンの中に入ってでも、ハリエットの美しさに触れたかった。僕の、永遠の憧れです」
彼のその横顔に浮かぶ表情に、ラシュレイは少しの覚悟を決めた。
「よく受け入れたね」
ケルシーはラシュレイの腕や背中にクリームを塗っているところだった。色白のラシュレイだが、ハリエットの肌色により近づけるためのクリームなのだという。母がよく使っている化粧品の香りがする。ラシュレイはされるがままになっていた。
「俺が適任だったみたいなので。今回だけですけれど」
ラシュレイが釘を刺すと、ケルシーは笑った。
「ケルシーさんは、知っていたんですね」
「うん。ナイジェルさんが教えてくれたんだ」
ナイジェルさんとは、このクルージングを企画した張本人、あのレストランのオーナーである。セドリックとは仲良しだというし、この計画についてはこっそり話していたのだろう。B.F.側にも、何人か賛同者を作っておくために、ケルシーに声をかけたらしい。
「研究員の勘なのか分からないけどさ」
ケルシーはクリームの蓋を閉じながら、ムラがないか遠目に確かめている。
「このドレスに、何か不思議なものを感じるんだ」
ラシュレイは目の前に下ろされたドレスを見下ろす。足から入れられるように、スタッフがしゃがんでドレスの首を広げていてくれる。ゆっくりと足を入れる。さわさわと足にまとわりついてくる感覚に、全身が粟立った。
「大丈夫?」
「......はい」
ドレスなど、生まれてから一回も着たことがない。これから着ることもないのだろうが。まさか、人生で最初で最後のドレスが、あの映画のヒロインが身につけていたものになろうとは。自分は、案外すごい体験をしているのかもしれない。母は、息子のこの姿を見てどう感じるだろう。
そういえば、とラシュレイは、風邪で寝込んでいる後輩のことを思い出した。昨晩、出港パーティー前にルームツアーをして以来、彼とは連絡をとっていない。
というのも、この船は大海原を進んでいるのだ。通信環境がプツリと途絶えたことは、携帯電話の画面に表示されるエラーで分かった。
本来、このクルージングは船にあるアクティビティを思う存分楽しむことが目的なので、電子機器に頼らずとも十分な娯楽は得られるが_____。
ハリエットについて、ラシュレイはもう少し知っておくべきだと思ったのだ。自分が彼女の代替をするというのに、その本人の情報をほとんど知らないというのは、どうなのだろう。
セドリックはあの映画を完成させた、完璧主義の監督の孫だ。脳みそですらハリエットに近づけないと、完璧な演技はできないだろうか。
昨晩の映画館で、スクリーン上の彼女の動きを注視してみたのだが、指の動きや眉の顰め方、笑顔の深さ、ピアスが揺れる首の角度まで、何もかもが洗練されていた。総合的に美しいと言えばそうなのだが、細かい場所を見ていくと、その所作のひとつひとつが持つ妖艶さに驚かされる。
あれを再現するとなれば、どれほどの能力が必要なのか。
ラシュレイは鏡に映った自分の顔にハッとした。驚くほど真面目な顔をしている。そして、自分の体のほとんどは、もう既に、あの美しいドレスに覆い隠されてしまっていた。後ろのチャックを、ケルシーが上げたらしい。
「苦しくない?」
彼女は再度同じことを聞いてきた。ラシュレイは頷いたが、声が出ない。驚いていた。ドレスが自分の体を、あまりに心地よく包み込んでいることに。ハリエットとは何もかも違うはずだ。女性の体の作りが合うようになっているはずだが、何故か苦しいところも、余るところもひとつとしてない。寧ろ腰が締まる感覚が、背筋を美しく伸ばしてくれる。ラシュレイは改めて、「大丈夫です」と答え直した。
「ピッタリだね」
ケルシーも驚いたらしい。すると、もう一人居た女性スタッフがすぐに答えてくれた。
「実は、セドリックさん......少し前からラシュレイさんには目をつけていたんです。あなたの体の特徴をきちんと捉えて、ハリエット用のドレスを、あなたの体にフィットするように手を加えたんですよ」
ラシュレイは嫌な予感を覚えた。ラシュレイはセドリックと、このクルージングまで面識がない。しかし、彼がラシュレイの体についてあれこれ知り尽くしているのは変な話だ。
自分のことを知り尽くしている者なら、一人知っているが_____まさか、あの時。あの、先輩の自分に初めて隠し事をして、こそこそと外部と話をしていたときだ。自分を女優のファンだとか言って、ラシュレイの熱烈な追っかけであるスカイラに、人間観察のコツを聞きに来た者がたしかに居た。
それが、セドリックだったのだ。彼は、スカイラを通して、ラシュレイのことについて詳しくなろうとしていたのである。
「熱心な監督ですが、祖父譲りの熱心すぎるところがありまして......こういう形で一般の方を巻き込んでしまうのは、スタッフ一同、本当に申し訳なく思っているんです」
女性スタッフは、声を極限まで小さく留めた。カーテンの向こうの存在を憚ってのことだ。
「そうまでして、グラントリーさんを喜ばせたいのかな」
ケルシーも今の話は、少し不信感が募ったそうだ。カーテンに手をかけ、開ける用意をしながらスタッフを振り返る。
「そうだと思いますよ。スタッフは皆、彼女の復活を待っているから......ハリエットに魅了されてしまったら最後、死ぬまで私たちは彼女の美に取り憑かれてしまうのかもしれません」
カーテンが開いた。どよめきと、一人の拍手がある。セドリックが「素晴らしい」と、ラシュレイの頭からつま先まで見て言った。
「私の目は間違っていなかったようです。ラシュレイさん、今のあなたは、間違いなくハリエットです」
ラシュレイはどういう顔をしたら良いのか分からなかった。黙っていると、ケルシーが背中を軽く叩いた。
「お化粧をしないと。このままだと、まだハリエット風のラシュレイ・フェバリットだからね。熱狂的なファンの目は誤魔化せないよ」
ラシュレイはドレッサーに連れて行かれた。もう一度鏡を見る機会が出来たが、ラシュレイは何だか夢見心地だった。
*****
「44番!! お次は44でーす!! ビンゴ、居ますかー!?」
ジェイスが力強く叫んで、周りを見回す。
「ビンゴ!!」
「私もビンゴです!!」
「ああっ、くっそお!!」
前の方に並べられた景品を受け取りに行く研究員たちが居る一方で、まだリーチひとつ来ないで席に縛り付けられている研究員たちも居る。
「ダメだ、俺、もうリーチ来ない気がする......」
バレットがテーブルに顔を伏せた。狙っていた景品が今さっき取られたことで、彼の顔からは笑みが消えた。今は一羽の鳩すら出せなさそうな、無気力のマジシャンになり下がっている。
「私はリーチ七つです......なかなか来ません」
「俺も。『6』さえ空けばなあ」
シェフのセリーヌとメルビンは、穴だらけのビンゴカードにお互い苦笑を浮かべている。そんな二人の間の席は、空席だ。
やがて、激しい息遣いと共に、慌ただしい足音がテーブルに近づいてきた。
「お、ジャミソンおかえり。何を貰ってきたんだ?」
「お花のブーケです!!」
「ブーケ? そんなのどうするんだよ」
ジャミソンはメルビンの言葉を無視して、自分の席に着かず、テーブルをぐるりと回った。そして、空いているもう一つの席に腰を下ろした。それはケルシーの席だった。
「あ、あの!!!!」
彼が声をかけたのは、腹がいっぱいだと相棒に料理を預けられたエズラ。美味しい料理によって、自分の身に起こったことはすっかり頭から抜けているようだ。
そして、少し前にビンゴになった彼は、バレットの家で朝食を作るのに最適な、新品のフライパンを手に入れたことで上機嫌だった。
「ぼ、僕はジャミソンと言います!!」
エズラはそこで眉を顰めた。
「知ってるけど」
「ご存知でしたか!! あ、あの、僕と今度、一緒にご飯でもどうですか!?」
エズラはぽかんとしている。同じテーブルに付く者は、ビンゴカードに真剣に向き合うスカイラ以外、全員呆然としていた。
「......は?」
「え、えっと......お食事を......!!」
ジャミソンはエズラに、ビンゴの景品になっていたブーケを差し出した。バレットが「ぶふっ」と吹き出す声がした。他のシェフは顔を真っ青にしている。
「こら、ジャミソン......!!」
「お前また!! その人は......」
「僕、本気です!!」
エズラは何も言えない。嘘だろ、とは言える。
「お前、俺が誰だか分かってんのか?」
「あ、そ、そうですよね! お名前を聞いていませんでした!!」
「エ_____」
ガッ!!
バレットが肩を掴んできた。今の今まで落胆していたというのに、その瞬間に彼の顔はとんでもなく楽しそうな色を孕み始めている。
「この子、最近入社した子なんだよ!! なあ、エリー!!」
「お前っ......」
「エリー......エリーさんと言うんですね!! エリーさん、今度食事でも......!!」
「いや、お前、勘違いしてんだ。......笑ってんじゃねえよビクター」
ジャミソンの進撃は止まらない。彼はエズラにとうとうブーケを押し付けたのだ。
「僕の気持ちです!!」
「違う、俺はエズ_____」
「あぁぁぁあっ!!!」
その時、そのテーブルどころか会場全体に、大声が響いた。いつの間にか、スカイラが立ち上がっている。その手にはビンゴカードが二枚。
「ビンゴ!! ビンゴでーすっ!!!」
彼はぴょんぴょんと跳ねて、前方に走って行った。
「じゃあ、今度の土曜日! ぼ、僕のレストランに連れて行ってあげますからっ!!」
ジャミソンはエズラにそう言って、顔を真っ赤にして部屋から出て行った。
「やったなエリー」
「おめでとうエリー」
「祝うな」
エズラはブーケを乱暴にテーブルの上に置くと、皿の上を片付けることだけに集中した。
*****
ケルシーはラシュレイの顔に化粧を乗せていた。前々から思ってはいたが、セドリックがラシュレイをスカウトした理由は何となく分かる_____彼は美しいのだ。
色白の肌は、化粧で色を整えずともハリエットの透明感ある肌に近いし、艶のある黒髪は、純黒という言葉が似合う、人工的なものを一切排除した自然的な美しさがある。
「ピアス、持ってきました」
さっきの女性スタッフが戻ってくる。ラシュレイの周りには物が散乱していた。今から被る予定のウィッグは、ラシュレイの髪質と全く同じものだという。セドリックは一体、スカイラを通して何処まで知ったのか。そしてスカイラは、ラシュレイの情報がこのように使われることを知っていたのだろうか。
ラシュレイは人形のように動かない。ケルシーは時々心配になって、ラシュレイの肩を軽く叩く。閉じていた瞼がゆっくりと持ち上がり、鏡の中の自分を見ると、目を伏せる。
「お化粧初めて?」
「そうですね」
「もう一度聞くけれど、ドレスは苦しくない?」
「大丈夫です」
ラシュレイは目を閉じた。ウィッグを被るのだ。女性スタッフが二人がかりで、彼の髪を作り上げていく。いや、この場合「彼女」というべきなのだろう。唯一ラシュレイの情報を残した部分は、寄生痕を隠した湿布だけだ。片側から見れば、もうそこにラシュレイは居ない。
ケルシーは、後輩が徐々にあのスクリーンの中の女優そっくりになっていくことに感動していた。此処までそっくりに作り上げてしまうのは、やはりセドリックの腕の良さがあるからなのだろう。
長い黒髪をアイロンやくしで整えていき、やがて、小さな冠が乗せられる。ハリエットが演じるのは、ある国の女王なのだ。権威の証が、その頭に輝いた。
続いて、ピアス。ケルシーは小さな箱の中身を見せてもらった。割れたガラスの破片の残りのような、小さく尖った深い赤色の宝石が銀色のパーツでぶら下がっている。
こんなのをしていたな、とケルシーは女王の姿を思い出す。赤色が揺れる度に、スクリーンの前の観客はもちろん、カメラの向こうにいたキャストたちも、皆心を奪われたのだろう。
ラシュレイ用に作られたそれは、マグネットになっていた。ラシュレイはピアスを開けていないのだ。ぱちん、ぱちん、と二回、微かな音が鳴った。もはや、この部屋で誰も喋っている者など居なかった。他のスタッフ、そしてセドリック、皆じっと、ハリエットになってしまった一人の研究員を見つめている。
「これで、完成です」
女性スタッフが静謐な雰囲気の中でそう言った。
ラシュレイがゆっくりと目を開く。ケルシーはハッと息を飲んだ。横顔すらそっくりだという次元の話は、もうしていない。外見は全てハリエットになったのだ。
今この場に居る全員が、あることを認識した。ラシュレイがどれほど表情の少ない研究員なのか、この短時間でも此処に居る全員は分かったろう。
だからこそ、外見だけでもハリエットに似せるつもりだった。それだけのはずだった。それ以上の何かを、このハリエットに求めようとは思っていなかった。
「......ラシュレイ?」
ケルシーが呼んだ時、「彼女」は現れた。口角が持ち上がり、目が細まって、空気がガラリと変わった。頭が揺れる。ピアスが揺れる。冠の光が揺れる。彼女はケルシーを見て、言った。
「行きましょうか」
*****
「さあ、豪華賞品を腕いっぱいに抱えていただいたところで!」
ジェイスはバインダーに挟まれた紙を素早く捲り上げた。キエラの代役を務める彼には、まだもう少し仕事があった。
「ガラパーティーはこれにて終了! と言いたいところですが、今日はある方の誕生日! ガラパーティーは、誕生日パーティーに移行致しまーす!!」
研究員たちは、口笛や拍手で会場の隅々まで盛り上がる。程よく酔いも回って、会場の賑やかさは初めに比べると何倍にも膨れている。
バツン!
突然、会場の照明が全て落ちた。スポットライトがパッと一箇所に集まる。
カーラは思わず目を細めた。近くに座っていてこれだけの熱と眩しさだと言うのに、当の本人は涼しい顔をしている。慣れているようだ。
柔らかな笑みを浮かべて、周りの席に座る者に手を振っていた。
グラントリーはジェイスに呼ばれて、壇上へ向かった。何段にも積み重ねられた巨大なケーキが用意され、その上のロウソクに火が灯されていく。
「監修は全部ナイジェルさんがやったんだと」
「知り合いのパティシエと何ヶ月も相談したらしいよ」
「どんだけ美味いんだろうな」
各テーブルでデザート皿の用意がされ始めると、皆の囁きはケーキ一色になった。
「エズラさん、大丈夫かな」
カーラは横のテーブルを見やる。エズラは研究員の中でも生粋の甘党だ。旧B.F.では外のスイーツを食べるということに制限がかかっていたが、今は外でたらふく好きなものを食べることが出来る。彼の甘いもの好きにも拍車がかかっていた。
「ステイ、ステイ! グラントリーさんが最初だから! お前はまだケーキは食べられないの!」
「グラントリーさん、早くケーキを!! ケーキを切って食べてあげてください!! 拷問みたいになってます!!」
叫び声が聞こえてくる。
「大丈夫ではなさそうだな」
アドニスがそう言って、運ばれてきた紅茶に砂糖を落とす。やがて、ロウソクに火が灯ったらしい。ジェイスからマイクを受け取ったグラントリーが会場を見回した。
「皆さん、盛大なパーティーを開いて下さりありがとうございます。今回のクルージングは、映画の関係者を始め、私のお仕事を影から支えてくれる沢山のスタッフと、そして不思議な会社Black Fileの皆さんのおかげで、とても楽しむことができています。私にとって思い入れのある船で、こんなに幸せな思い出ができるなんて、自分が沢山の人に愛されているなって感じます」
柔らかな声、表情、そして仕草で会場を恍惚とさせた。祖母が持っていた魅力は、血に色濃く反映されているらしい。
「私は、俳優人生の中で叶えたい夢があります。それは、あの映画の世界に行くこと。紺碧の海の上で、これ以上無い演技を見たいんです。その夢が叶うまで、私の俳優人生は終わりません。でもきっと、永遠に叶うことはありません」
グラントリーの顔に影がさした。ロウソクのおかげで、それはより濃いものに見えた。皆、息を呑んだ。彼の美しさは、手前にあるケーキですら見劣りしそうな程である。
「いつか、叶えてくれる人が現れることを祈って。そして、皆さんの未来が美しく輝いていることを祈って」
グラントリーは、ロウソクを吹き消した。会場が割れんばかりの拍手があり、ゆっくりと照明がついた。グラントリーは恥ずかしそうに笑って、ジェイスにマイクを返した。
「グラントリーさんは、ハリエットさんに憧れているんだね」
カーラは隣の助手に囁く。同じテーブルで少し話をしたが、祖母の話をする時のグラントリーは、いつもとまた違う輝きを持っていた。本当に祖母を尊敬しているのだろう。ハリエット・ローランズの居た場所に行くことが、グラントリーの俳優人生の到達点なのだ。
「叶わない夢を願ってもな。もう何十年も前に亡くなってるんだ」
「でも、きっといつか、願いが叶うよ。私はそう思う」
後ろから給仕がやって来て、皿が取り上げられた。ケーキが乗って戻ってくるのだろう。グラントリーは階段を数段上った状態で、一口目を頬張ったところだった。幸せそうな彼の顔の裏に、カーラは切ない色を見た。
*****
「うっめえー!!」
「全部美味しいな。クリームもスポンジも......苺だって上等なもんだ」
此方はバレット達が座っている席である。そんな、ケーキに夢中な研究員やシェフの中で、一人一度もフォークを動かしていない人物が居た。
「あれ、スカイラ、食べないの?」
バレットはスカイラの皿のケーキが、全く手が付けられていないことに気がついたのだ。全員の目が彼に向く。
「食べないとエズラに食われるぞ」
ビクターの隣には、目をギラギラとスカイラの皿に向けているエズラが座っている。バレットが「落ち着け」と彼を阻んでいた。
スカイラは「でも」と自分の隣の席を見た。一人分空いている。このテーブルには現在二人分の空きがあるのだ。ケルシーと、ラシュレイである。
「そういや、戻ってこないな」
「お腹、痛くなっちゃったんですかね」
シェフたちも顔を見合わせる。
ケルシーはビンゴ大会の半ばで姿を消した。ラシュレイも、彼女が席を外してから少しして居なくなったのだ。トイレとは聞いていたが、あれからもう三十分は経つ。
「二人して何処行ったんだろ?」
「ビクター、ケルシーから何か聞いてないのか」
「そうそう。メールとか」
ビクターは眉を顰めて携帯を取り出している。その時点で彼は何も知らないようだ。
その時、パッと会場の照明が降りた。ビクターの開いていた携帯の画面が、彼の顔を瞬時に照らす。
「うわあっ! 何、停電!?」
何の前触れも無く照明が落ちるなど有り得ない。まだサプライズがあるのだろうか、と研究員たちは期待の目でステージの方を見た。しかし、司会のジェイスはとっくにマイクを手放してケーキを頬張っているし、壇上には誰の姿も無い。
「えっ、何、何!? 暗いのヤダ、エズラ、そこに居るよな?」
「何が起こってるんだ? 手元が見えないと何も出来ないぞ」
その時、カチッとマイクがオンになった音が微かに聞こえた。声の主はしどろもどろだった。
「あ、えと......え? はあ、わ、分かりました」
裏で話し合われるはずの音声は、マイクを通して会場全体に響いている。慌ててマイクが切られたが、声はジェイスのものだった。何か想定外のことが起きているらしい。
「停電じゃないってさ」
会場の前方から声がした。ジェイスと共にテーブルを囲んでいた研究員である。
「なーんだ。良かった......でもやっぱ暗いの怖い!」
「お前、引っ付くな! 暑苦しいんだよっ!」
「でも、じゃあ何で照明が落ちたんですかね」
「さあ」
期待と不安の声が入り交じる中、再びマイクのスイッチが入った。
『皆さん、大変お待たせ致しました! なんと、今夜はある方がサプライズを企画していたようです!!』
ジェイスがさっきの動揺を全く見せない喋りで、会場を盛り上げ始める。
「まだサプライズがあったんだ!」
「次はなんでしょうね!」
スポットライトはジェイスを照らしている。手にはマイクだけを持っていて、カンニングペーパーは無かった。さっきの動揺具合から、本当に急に入ったサプライズなのだろう。不安の目は消え、期待の目が彼に集まった。
『ところで、グラントリーさん!』
「は、はい」
グラントリーが、暗闇の中で戸惑いがちに返事をしたのが聞こえてきた。
『先程ご自分で願ったことを覚えていますね?』
「願ったこと......?」
『そう! 今夜は何と、その夢が叶ってしまうようですよ!』
暗闇の中は静まり返っている。美味しいケーキで塗り替えられてしまった記憶を、何とか掘り起こそうと、皆集中し始めたのである。そして、グラントリー本人が答えを言い出すのを待っているのである。
グラントリーは、自分がケーキのロウソクを吹き消す際に言ったことを、再度頭に思い描いていた。
もともとこのパーティーに参加する予定は無かったので、全てアドリブのセリフだった。だが、あの願い事だけは、絶対に、死んでも叶えたいと思っていたものである。
_____私は、俳優人生の中で叶えたい夢があります。それは、あの映画の世界に行くこと。紺碧の海の上で、これ以上無い演技を見たいんです。
『今宵、その夢が叶いますよ!! 皆さん、あちらにご注目!! 美の権化、海に沈んだ悲しみの女王、グレイス・チェンバレン_____もとい、ハリエット・ローランズです!!』
階段の頂上に、スポットライトが集まった。赤いカーテンが降りている。全てのスポットライトが集まった瞬間、それは両方に勢いよく開かれた。
「......嘘」
誰もが口を半開きにして、その人物に目を奪われる。引き合う磁石の如く、磁力すら感じる美の魔力。簡単には逸らせなくなった視線の先に、一人の女が居る。
真っ黒なドレスは、スポットライトの檻の中で異彩の輝きを放っていた。雪のような二の腕が透けたローブに覆われ、肩にかかる豊かな黒髪は、此処でも香るほどに魅力的だった。
頭に乗せた冠が、遠目でも分かる。耳に垂れる赤色が、会場の何人もの目の奥に、感じたことの無い刺激を残す。
化粧の乗った顔に浮かぶ不敵な笑みが、まさに「女王」だ。
スカイラはこんな気持ちになったことがなかった。頭の中に多くの言葉が渦巻いている。ひとつの名前をどうにか口にしようとしたのに、脳が上手く作動しない。彼処に居る者が、一人であるのに、二人なのだ。誰かはわかるのに、名前がどうしても「彼女」に塗り替えられるのだ。
頭がズキズキした。記憶にこびり付いている姿が、色褪せていく気がした。慌てて口を動かす。その行為が億劫に思えたのが、自分で恐ろしかった。無理やり口を動かしている気がするのが、気持ち悪かった。
頬に、湿布が無ければ、誰もそれとは分からない。頬に湿布があるから、「彼女」が誰なのか分かった。
スカイラは頭の中で名前を手繰り寄せた。皆が出来ないことを、彼は何とかやり遂げた。口に錠がかかったかのように、重い。無理やり口の形を作り出す。
脳が徐々に名前を書き換えていく。
貧しい少年と、夜明け前にその身を冷たい海に捧げた女王_____グレイス・チェンバレン。それを演じた大女優ハリエット・ローランズ。
もとい、
「ラシュレイさん......?」
ラシュレイ・フェバリット。