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Black File  作者: 葱鮪命
182/193

『碧と女王』

 アラン・トゥック(Allan Took)は六歳で天涯孤独の身となった。農村で流行っていた流行病があり、家族も親戚も、皆その病にかかって亡くなったのである。


 アランは、幼い頃から母が話してくれた「海」というものが忘れられなかった。真っ青な海は、時に宝石のように美しく、時に化け物のように恐ろしい、魅力的な二面を持つのである。彼は海を目指すことにした。六歳の孤独な旅である。


 彼がその青い宝石を目にしたのは、七歳の誕生日だった。疲労で狭まる視界に映った、真っ青な世界。少年の心は一瞬にして奪われた。

 彼が辿り着いたのは、ある港町だった。彼はそこの造船所に住み込みで働くことになった。


 小さな体に、力仕事は過酷だった。重いものを持てば後ろに倒れ、主人には何度も怒鳴られる。アランは疲れたら海に逃げた。広い海原に疲弊した心を浮かべる気持ちで、よく港に座っていた。


 ある日_____それは彼が十四歳のことだった。仕事も覚えて、主人にも認められ始めていた彼は、朝起きると変に家の中が暗いことに気がついた。


 驚いて外を見ると、大きな壁が港に建っている。その窓からいつも海の青が見えたはずだが、一夜にして、海を見てはならないという条例が出来たのかもしれない。


 硝子に頬をつけて見上げると、それは巨大な船であると彼は気づいたのだった。


 顔を洗うことも忘れて、彼は外に飛び出した。港には、彼のように驚いた様子で巨大な船に釘付けになっている者で溢れている。

 山のような船だった。アランが造船所で作るものだって立派な船だが、これはそんな船が粗末なものに思えるほど立派だった。


 アランは主人にあの船が誰のものかを教えてもらった。最近、富豪たちの間で船旅が流行り始めたのだそうだ。世界を旅する豪華客船である。金持ちが新たな刺激を集めて乗船し、各地を回るのだ。この港は、今年からあの巨大な客船が停泊する港になったのだという。


 その日から、船は一年に数回、港に姿を表した。その度に人々は物珍しさで仕事の手を止めた。船がこの港に停泊するのは、船旅で不足する物資を補給するためらしい。


 アランは造船所で働く他に、その運び込みの仕事もするようになった。

 船の内部とまでは行かないが、船に出来る限り近づきたいと思ったのである。彼はすっかり客船の虜になっていた。いつか、この船に乗って旅をすることを夢見て、少年は精一杯働き始めたのである。


 事件は、彼が十九歳の時に起こった。順調に旅費を稼いでいたその日も、年に数回の停泊日であった。再び港には深い影が落ち、港はぽかんと口を開けて船を見上げる。


 豪華客船が停泊する港ということで、アランが居るこの港は、ここ数年間で目覚しい発展を見せていた。

 船は物資を運ぶという理由で停まるだけでなく、船内から多くの人を吐き出してきて、賑やかな港町を観光させるようになった。


 アランは船から降りてくる金持ちたちをよく観察した。皆が着ているものや、手にしているもの。あれを普段から身につけることができるようになれば、自分が乗船するに相応しい立場になったということである。残念ながら、彼は未だ襤褸の服に身を包んでいるだけなのだ。


 やがて、船が出港する時間になった。荷積みが終わり、アランは造船所に帰った。その途中で何度も船を振り返る。


 自分があれに乗れるのは、きっと五十年、いや六十年後だろう。


 少年が遠い未来、甲板で手を振っている自分を想像している時、靴に違和感を覚えた。見ると、港町特有の強い風によって運ばれてきただろう、紙切れが自分の左の靴に引っ付いている。アランは屈んでそれを手にした。


 あっ、と口から声が漏れた。


 それは、自分が一生分働いてようやく手に入れられるものだった。


 乗船チケット。


 アランは周りを見回した。誰かの落し物に違いない。だが、港でそれを探して慌てふためく人間は見当たらない。彼は暫し考えた。


 十四歳に、この船を見たあの日から_____ずっと夢見ていた景色が、今目の前に広がるとしたら、何て素敵なことだろう。


 これを素直に落とし主に届ければ、もしかしたら多額の謝礼金を貰えるかもしれない。だが、今から落とし主など見つかるだろうか。そんな回りくどい手を使うより、手っ取り早く目の前の城に忍び込める計画があるのである。それを実行しない理由などあるだろうか。


 アランは、港で船体を眺める群衆をかき分けた。昇降板が回収されようとしているところだった。少年はチケットを既のところで乗組員に渡した。乗組員はそれを怪訝な顔で受け取った。そして、アランを頭のてっぺんから爪先まで舐めるように見た。


 アランは、これ以上にドキドキしたことは無いと思った。今にも口から心臓が飛び出てしまいそうである。


 乗組員は、チケットを見た。そして、再度アランを見た。その顔には、既に怪訝な表情は浮かんでいなかった。


「ショーン・ペリング様。失礼致しました。どうぞ中へ」


 少年は声を出すこともままならなかった。自分は船に乗ったのだ。あの、夢にまで見た豪華客船に。


 *****


「はい、カット」


 昇降板を登りきり、アラン・トゥック役_____ロドニー・オールポート(Rodney Allport)は、ふう、と小さく息をついた。すぐに化粧係が近づいてきた。ロドニーは簡易的な椅子に座らせられ、髪の毛を整えられる。


「乗組員役、もう少し目を細めろ。動作も不自然だった」

「はい、監督」

「それから、昇降板。テープがはみ出てる。小道具、仕事しろ」

「はい、監督」

「申し訳ございません、監督」


 素早く動くスタッフを、ロドニーは椅子に座って眺めていた。撮影現場には常に緊張感が走っている。それは、全てあの監督_____ベン・ローパー(Ben Roper)が作り出している空気なのだ。

 ロドニーは、彼の映画の出演が決まった時、最期の撮影になるかもしれないと思ったのだった。カメラの前で自然な演技をすることでしか、あの監督を満足させることはできない。


 この四日間、天候に恵まれず監督は不機嫌だった。船内撮影ならば天気など関係ないと思ったが、窓から入る自然光は完璧でなくてはならないのだそうだ。舞台セットとして本物の船を作ってしまう監督である。


 ロドニーは船内を見回した。


 次のシーンの撮影をするため、彼らは今エントランスホールに居る。巨大な階段を正面にし、吹き抜けの天井からクラシックが降ってくる。カメラに映らない部分も緻密に作り込まれているそうだ。


 初めてこの舞台セットを見た時、ロドニーは自分が間違った役を貰ったと思った。こんな舞台に相応しい演技が、自分の身に染み付いているとは到底思えなかった。


「ハリエット・ローランズさん入ります」


 メイクが終わる頃、そんな声がした。次のシーンの撮影が始まる。皆の目は階段の上を見た。


 驚いたことに、「彼女」は数日前から現場入りしているという。この舞台は「本物」なのだ。実際に住んでリアルな表現を出すために、監督は特定の人物には数日前から現場入りするように伝えていた。


 階段をとん、とん、と降りてくる一人の人物が居る。シャンデリアの光にチラチラ光る、チュールのラメ。白い指先が別の生き物のように手すりを撫でる。カールのかかった黒の髪が、ステップを降りるごとに、楽しげに揺れる。雪のような肌に、黒い宝石が二つ。睫毛のカーテンがゆっくりと上がった。


 ハリエット・ローランズ(Harriet Rowlands)。


 ロドニーは喉が締め付けられたようだった。美の全てが、目の前に現れたのだ。噂には聞いていた。彼女を見ると、もう目を離すのも億劫になるのだと。陳腐な礼賛だと、毛ほども気にしなかった自分が如何に愚かなのか、ロドニーは知ることになった。


「はい、カット」


 ハッとした。ロドニーは驚いて監督を振り返った。いつの間にか、化粧係が消え、座っていた椅子も片付けられていた。カメラが自分の周りを一周している。


「良い演技じゃないか、ロドニー」

「......ええっと、今のは_____」

「やはり正解だったな」


 監督は満足げだった。ロドニーはもう一度彼女に目を戻す。ハリエットは階段の踊り場で足を止めている。スタッフがドレスの皺を直し終わるのを待っているようだ。


「彼女の美は、この作品でどれほど素晴らしいスパイスになるだろう。役者たちの演技が最大限引き出されるに違いない」


 監督の恍惚とした声を背に、ロドニーは再び彼女から目が離せなくなっていた。


 本当に、動けない。体が石になったようだ。

 何の冗談も抜きに、これが最期の撮影現場になるかもしれない。


 ロドニーは唯一動く自分の思考の中で、そう思うのだった。


 *****


 一目で彼女に恋に落ちた少年・アランは、乗船後彼女を密かに思い続けた。


 彼が手にした乗船チケットは、三日後に着く港まで行くものらしい。落とし主は、各地の珍しい骨董品を集めるのが好きな商人だそうだ。名前はショーン・ペリング。

 本人が何処に居るのかは知らない。チケットが無くて、船に乗れなかったかもしれない。もしくは、アランが住んでいたあの港で、珍しい品を見つけて見とれているうちに船が出港してしまったとか。


 そう、船は出港してしまった。それは、アランにとって好都合だった。気難しい金持ちを乗せた船が、無賃乗船した少年のために再び港に戻ることなどありはしないのだから。

 自分はショーン・ペリングとして船に乗るのである。


 アランはエントランスで見た彼女について情報を集めることにした。


 どうやら、この船が最初に出た国の女王らしい。国王が亡くなって悲しみに暮れていたところ、クルージングで気分を晴らすために、三ヶ月間のクルージングをしているのだとか。


 名前はグレイス・チェンバレン(Grace Chamberlain)。未亡人となった彼女が放つ異様なまでの魅力は、アランだけでなく他の乗客も夢中にさせるものらしかった。


 周りにライバルが居れば居るほど、アランは彼女を手にしたかった。幼い頃から憧れた海上で、十四歳の日に乗ることを夢見た豪華客船で、女王と結ばれる。これで、もう自分の人生に悔いはない。家族たちへの冥土の土産が出来るのだ。


 意気込んでいたアランだったが、現実はそう上手くはいかなかった。みすぼらしい服を着た自分を、そもそも彼女を囲む近衛兵が認めるわけもなく、アランはまず服を探さなくてはならなかった。

 何ヶ月もクルージングをする金持ちたちは、自分に当てられた部屋にドレスやタキシードをたっぷり置いていた。アランは彼らの部屋に入り、タキシードを盗んだ。

 似たようなものだから気づかれないと、彼は思っていたのである。


 二日目の夜は、パーティーがあった。そのパーティーの主役は当然あのグレイス・チェンバレンだ。アランはタキシードを着て、何とか客人に紛れ込んだ。遠目から見る彼女もまた美しい。周りもまた同じように見とれていた。


 彼女は時々、知らない金持ちと踊っている。何か特別な切符を配られた者たちだった。アランは、下ばかり気にした。同じ幸運が二度訪れることを強く願っていたのだ。


 呆気なくパーティーは終わった。アランは恍惚とした表情で、会場を去る客人に紛れた。部屋に戻る気にもならず、デッキで夜風に当たろうと外に出る。パーティーの疲れか、デッキには人が少なかった。


「コーストン伯爵のタキシードが盗まれたみたいで」

「泥棒が入り込んでいるの?」

「貧しい身なりをした子供が、ヘルーモポートで乗ってきたんですって。卑しい身分の人間が同じ船に乗ってるなんて、体が腐る感覚だわ」

「乗船切符を持っていたということ?」

「誰かから盗んだのよ、きっと。泥棒だもの、汚い手なんていくらでも思いつくわ」


 アランのすぐ後ろで貴婦人たちが喋っている。夫たちは少し離れた場所でチェスを楽しんでいるようで、彼女らは暇を持て余しているらしい。


「ね、あなたもそう思うでしょう」


 アランは思わず振り返った。貴婦人の目は隣でコーヒーを飲んでいた紳士に向けられている。彼は優雅に微笑んで、カップを軽く持ち上げてみせた。アランはすぐにその場を離れた。誰もいないデッキを探して。


 辿り着いたデッキには、誰も居なかった。本来、そこは特別な者しか立ち入りを許可されていない場所だったのだが、アランはそれを知らずにデッキに入ったのだった。


 遠くに月が浮かんでいる。大きな満月だ。憧れの船に揺られて見る満月は、生まれて初めて感じる美しさだった。


 彼は随分遠くまで来たな、と自分の故郷を思った。父も母も兄弟も親戚も、みんな村に置いてきてしまった。旅を終えて、金も稼ぎ終えたら、あの村に戻って生活するのも良いだろう。


 そんな想像を膨らませると、彼は常にグレイスを思った。彼女も一緒に来てくれるなら。


 甘い想像は、想像のままである。自分はこうして他人のタキシードを纏い、誰かが落とした切符を持ってこの船に乗っているのだ。此処まで、自分の力で何かを成し遂げて来ただろうか。


 彼女のような完璧な人間を傍に置くには、卑しい身なりではいけないのだ。ましてやこんな泥棒など。


 その時、アランの視界が真っ暗になった。空を見上げたわけでも、黒い海を見下ろしたわけでもない。耳元で声がした。


「このデッキに入って良いのは王族だけですよ」


 それは、歌うような声だった。鳥の囀りにしては低いが、艶めかしく、体全体を包み込まれるような不思議なトーンだった。


「どの国の王様なの?」


 アランは口をパクパクさせた。視界は真っ暗だが、頭は真っ白だった。この声を知っている。グレイス・チェンバレンだ。


「私が誰か分かる?」


 アランは何も答えなかった。


「変ね」


 グレイスの声が耳の奥で聞こえた。右から、左から、不思議なトーンが体に染みてくる。舌の動く音、歯の噛み合う音、唇の開閉音。アランは額から汗が流れるのを感じていた。


「コーストン伯爵ったら、ネクタイの結び方がいつもと違うわ。ベルトの締め方が随分キツくなったのね。ハンカチから、今日は夫人の香りがしませんが」


 そこで、視界は解かれた。アランは振り返れなかった。満月を見つめたまま、石のように固まってしまった。


「船に泥棒が入り込んだと、クルーたちが騒いでいます。私はこの船の乗客からクルーまで、全員の顔を把握しているわ。あなたみたいな人は、名簿には居なかったと思うけれど」


 手摺に添えていた手の甲を、つるりとしたものが包んだ。女王の手袋だと知って、アランは身の毛がよだった。声は続いた。


「名前は? ショーン・ペリングさん」

「......アランと申します」


 アランはそこでようやく目を落とした。自分の手の甲に、女王の手が重ねられていた。図らずも自分は女王に閉じ込められている。


「港で、見つけたんです、この船のチケット......その、ショーンさんの落し物を。悪い事だと知っていましたが、でも、ずっと憧れだったんです」


 それぞれの指の側面に這うように、肌理の細かい肉厚の布が滑り込んでくる。自分の汗の香りを、アランは感じ始めた。


「貴方を一目見た時から、お慕いしております」


 そのデッキは、月だけが照明になっている。近衛兵すら入れない領域だと知った上で、女王は誰かが此処に忍び込んで来るのを待っているのだという。何も知らずに入ってくる愚か者が、可愛くて仕方がないと、彼女は何度もそう囁いた。


 *****


 ロドニーは、ハリエットの体からゆっくりとその身を起こした。監督が「カット」と言ったのだ。スタッフがすぐに寄ってきて、自分の化粧とハリエットの化粧をそれぞれ直し始める。


 ロドニーは汗を拭かれながら、ハリエットを見た。彼女はローブに身を包み、されるがままになっていた。目を閉じた横顔が、絵画のようだ。


「少し下を向いて頂けますか」


 スタッフに言われたので、ロドニーはハッとして顔を下に向ける。ローブを着せられた自分の体は、役作りのために痩せぎすだ。この体を得るために、監督から厳しい食事制限をかけられていたのだ。みるみる痩せていく自分を見て、家族や友人からは常に心配の視線が向けられた。


 何とか、この役に相応しい体を手に入れることはできた。この映画が完成するまでの辛抱だ。もう少ししたら、作中出てくるディナーのような、豪勢な食事に有りつけるのだ。


 続いて、アランはローブで覆われた太ももの上で、することのなくなった両手のひらを見た。女王の手に包まれたのは、昨日の撮影だった。演技とは分かっていても、あのハリエットが自分の真後ろに居る。そして、彼女に手を重ねられる。本気で動けなかった。気づいた時には、撮影の一切が終了していた。


 そして、今日は次のシーンの撮影だった。デッキのシーンから、音楽に合わせて展開されるシーンの一つだ。セリフは一切ない。束の間の女王との時間を、その中で芽生える愛情を、観ている者に伝えるシーンだ。


 ハリエットの肌には、その時初めて直で触れた。


 黒いドレスの下の肌。腕すらマントで隠していたグレイスが、船の乗客に対し、遊びでその下を触らすのだ。魔性とは、まさに彼女のような者のことを言うのである。皆、彼女の波に溺れていく。夜の海によく似ている。彼女はこの船を丸ごと沈めてしまう美の怪物だ。


 スタッフが離れていく。同じシーンをもう一度撮るのである。ロドニーは、アランとして再びハリエットに寄る。


 よりリアルさを表現するために、さっきとはまた異なった演技をしようとした。些細だが、手を置く位置を変えてみることにした。


 その時、ロドニーは何かを感じた。触れた場所に、何か固い感触があった。


 すると、今まで自然体だった彼女が、突然ムクリと起き上がった。これにはロドニーも驚いて、彼女から降りざるを得ない。すぐさま監督の「カット」という激しい声が飛ぶ。


「どうした、ハリエット」


 監督の問いに、ハリエットは答えなかった。


「触る場所を変えたでしょ」


 自分にだけ聞こえる声で、ハリエットは言ってきた。その顔に、寂しげな笑みが浮かぶ。


「ダメな俳優さん」


 ロドニーは呆気に取られて彼女を見つめていた。それからの演技は、最初と全く同じようにした。手を置く場所に迷い、少しぎこちなかったが。監督はそれを褒めたたえた。女慣れしていないアランならば、それくらいのぎこちなさがちょうど良いのだと。


 次のシーンに映るため、演者とスタッフは移動を始める。移動しながら、ロドニーはハリエットの背中を眺めた。


 彼女は、自然な演技をさせるために、あのようなことを言ったのだろうか。監督が喜ぶポイントを心得ているのだ。


 ロドニーはハリエットに対し、女としての魅力と、女優としてのプロ意識を感じていた。彼女を超える女優が出てこないわけだ。演者ですら魅せる彼女を、誰も越えられるはずがない。


 *****


 翌日、その日はグレイスの誕生日だった。船全体を巻き込む盛大なパーティーは朝方まで続いた。


 アランは彼女と過ごした一夜によって、彼女への思いがより高まっていた。周りにもまた、同じような境遇の者は居るのだろう。だが、皆眼中にグレイスしか居ない。彼女がそういう者なのだと認めた上で成り立つ関係だった。誰かのものであるからこそ美しいのだ。


 グレイスはいつもの黒いドレスを着ている。彼女の国では高貴なものが身につける色は黒なのだという。確かに、白い肌と黒いドレスは彼女の美しさをより引き立てるコントラストだった。王族としての自覚がありながら、多くの男との関係を持つ彼女は、さながら一匹の女王アリである。


 パーティーが終盤に差し掛かる頃、アランはいよいよ自分の降り立つ港の存在を意識し始めた。このパーティーが終わる頃、船は港に着き、この船からは降りなければならない。ショーン・ペリングの運命だった。


 アランは、自分の心の中で抵抗心が緩やかに芽を出したと感じていた。


 此処にグレイスを置いていくことなど出来ない。


 壇上の彼女はワイングラスを片手に、他の男と談笑している。今夜の相手だろうと考えると、アランは目を向けていられなかった。自分は、彼女の目には他の男と同じくらいの価値の人間に思われているのだ。


 外の空気に当たろうと、デッキに出た。また、入ることを禁じられたデッキに行ったのだ。


 その日は、デッキに女王が来ることはなかった。アランは海を見つめていた。真っ黒な怪物は、どうしてもグレイスを想起させる。港の明かりが遠くに見える。自分の知らない港だ。彼処から、元の住んでいた港に帰るまでどれくらいかかるだろう。


 アランがぼんやりと立っていると、突然、背中に怒号が飛んだ。飛び跳ねるほど驚いて振り返ったアランの目に、女王の近衛兵の姿があった。


「どうして此処に?」


 王族の近衛兵とは言え、この船に乗る客人の方が立場は上の場合が多いのだ。丁寧な物言いだったが、明らかに好意的ではない目を向けられている。アランは黙っていた。


「此処は立ち入りが禁止されている場所と知っていますか」

「......はい」

「お名前を」


 切符を渡した。兵士が目の色を変えたので、アランはギクリとした。彼女について回っているなら、客人の顔を全て頭に入れていることは当たり前だった。アランは切符を渡したことを心から後悔した。


「お名前を、お伺いしても?」

「ショーン・ペリングです」

「いえ、そのはずはありません。彼はヘルーモポートで下船しました。夫人が体調を崩されたという理由で」


 アランは唾を飲んだ。


「どういうわけです? この船にショーンさんが乗っているはずありません」


 兵の語調が強くなった。


「本当の名前を言え!」

「アランです」


 アランは震え上がって答えた。騒ぎを聞きつけた者がデッキに入ってきた。その中に、グレイスも混ざっているらしかった。


「アラン・トゥックです」


「トゥック......」


 兵士が考え込むように黙った。彼の頭の名簿にあるはずがない名前だ。アランは、この船が港に着いても元の港に帰ることは不可能だと思った。この先の港で、自分は捕まり、牢屋で一生を過ごすことになるのだ。泥棒の一生を送るのだ。


「お前、まさか」


 デッキを囲んでいた取り巻きの中から声がした。野太い男の声である。この声も聞いたことがあった。グレイスの父親だ。パーティーでスピーチをしていたのを、アランは聞いていた。


 彼の姿はすぐに分かった。群衆を押しのけて前に出てきている。グレイスの姿は何処にも無い。彼らの中に紛れているのだろう。


「ミハール地方から来たのか」


 グレイスの父親が言った単語に、アランは懐かしい思いがした。自分の村がある場所なのだ。頷くと共に、方方から悲鳴が上がった。自分を問いつめたグレイスの近衛兵は、顔を真っ青にして口を覆っている。


「あの、伝染病の?」

「そんな穢れを船に乗せていたのかっ!!」

「信じられない、汚物め!!」


 アランは、自分の身に降り掛かる罵詈雑言の意味が分からなかった。伝染病と聞いて、そう言えばと自分の家族を思い出す。皆の命を奪った、あの伝染病だ。世界的に流行したと聞いたが、まさか、此処までだったのか。


「当然、嘘なんだろう?」

「嘘なもんか。こいつはみすぼらしい身なりで乗船してきたんだぞ!! ショーン・ペリングと偽ってだ!」

「海に捨ててしまえ!!」


 アランは棒で手摺まで追いやられた。背中に波の音を聞く。遠くの空が白んでくる。港に着くまでに夜が明ける。日の下に出たら、自分は泥棒よりも醜い存在になるような気がした。


 アランは手摺によじ登った。近衛兵が棒を振り回す。アランはそれに体を押されながら、手摺の向こうに立った。


「言い残すことはあるか、穢れた人間め」


 近衛兵が問う。アランは群衆の中にグレイスの姿を探した。最期に、彼女のことだけは見ようと思ったのだ。しかし、グレイスは何処にも居ない。群衆は、自分の夢中でそれに気づいていないのだ。


 早く飛び降りろと言わんばかりの好奇の目。今から始まる行為が、三ヶ月のクルージングでたった一瞬の_____しかし最高の娯楽だと思っているのだ。


「グレイス女王を」


 その時、人々は初めて気づいたのだ。彼女の姿が無いことに。


「彼女は何処だ?」

「さっきまで此処に居たのに」


 その時、遠くで大きな水音がした。大きな石を高い場所から下ろしたような、激しい水飛沫の音。皆がハッとした様子で顔を見合せた。今この場に居ない人物に違いなかった。


「グレイス女王!!」

「まさか、そんな」

「グレイス様!」


 皆が音の聞こえた方へ走っていく。たちまち、アランの前からは一人も居なくなってしまった。呆然と柵にしがみついていたアランは、足を向こうに戻そうか、それともこのまま背中から落ちてしまおうか考えた。


 自分の存在が人々にとってどれほど脅威的であるか、今の彼らの反応で理解してしまったのだ。あの村から出るべきではなかった。


 だが、願ったからには。

 彼女の姿を思い出したからには、もう一度彼女に会いたい。


 アランは柵に足をかけた。音がしたのは何処のデッキだろう。彼女が飛び降りるならば、理由は何なのだ。穢れた自分との関係か。それしか考えられない。自分は彼女を穢したのだ。


 アランは足を完全にデッキに付けようとした。が、その行為は途中で止まった。デッキの暗闇から、誰かが近づいてくるのだ。黒いドレスが、闇に隠れていたのだ。白い肌が、夜明けの空のようにぼんやりと目の前に現れる。


「碇を動かそうとしましたが、重かったので袋にふんだんに宝石を詰め込んでみたの。ああ、重かった」


 手摺にかけていたアランの手に、彼女はそっと手を重ねてきた。今日は手袋をしていない。


「どうして僕を助けてくださるんです?」


 グレイスは何も答えなかった。昨晩のように、指が絡んだ。


「たくさんの秘密を持っていると、自分の行為の理由なんか分からなくなるの」

「秘密とは、どんな」

「それを言ったら秘密じゃないでしょう」


 女王が柵に体を預けた。朝はもうそこだ。


「私、朝日は見たくないの。何もかもが終わる知らせなのよ」

「じゃあ、お部屋に......」


 お戻りください、と言おうとした。ある考えが思いついたのだ。その瞬間、彼女と絡めていた手に力が加わった。柵に乗せていた足を宙に振り、身を大きく後ろに傾けた。


 女王はどうするだろう。まだ彼女の手は繋がっている。


 グレイスは手をそっと離すだろう。

 それとも_____。


 次の瞬間、彼女は柵を乗り越えた。

 アランは彼女の目尻に、自分の顔が映るほど大きな潤みを見た。


 そこでアランは、自分が言うべきことに気づいた。


「行きましょう」


 水平線から眩い光の玉が現れる。


「朝日すら届かないほど深い海の底へ」


 人々がデッキに戻ってきて下を覗くと、陽の光に輝く最後の波紋が消えるところだった。


 *****


 此処は、ある大きな港。人々は壁のような豪華客船を見送り、人生の思い出話としてそれを家に持ち帰ったところだった。港を掃除していた一人の男は、集めたゴミを袋にまとめようとして、気がついた。


 見慣れないものがゴミの中に混ざっているのだ。立派な素材の紙である。持ってみるとしっとり濡れていて、海水が滴っている。港に流れ着いたものを、誰かが魚と間違えて釣り上げたのだろう。


 紙は自身の重みに耐えきれず、ある程度の高さまで持ち上げられると半分に破れてしまった。表面に書かれた文字は、インクが滲んでしまって判読はできない。


 が、それはあるカルテだと男は気づいた。医者が海で溺れたのだろうか。それとも、今さっき此処を去った豪華客船に、医者が乗っていたのだろうか。


 男は首を傾げていたが、やがて興味も尽きて、その紙をゴミの中に放って戻した。ゴミを燃やしに行くために、その男が去ると、もう港には誰も居ない。そこかしこで静寂と闇が、じっと朝が来るのを待っている。全てが闇に呑まれていく。徐々に夜が近づいていく。


 映画はそこで終わった。

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