File083 〜或る魔性〜 3
「三番デッキ、三番デッキ......」
B.F.星5研究員のコナー・フォレット(Connor Follett)は自分の部屋から出て廊下を歩いていた。部屋は大体見終わったので、他に適当な場所を見て回ろうということになったのだ。
出港パーティーがあるというので、デッキに向かおうと考えたコナー。しかし、あまりの広さに、取り敢えず何処かのデッキに出られれば良いという考えに至った。
一番近いのは三番デッキ。そこから上がっていけば本会場になっている十階のデッキに辿り着けそうだ。
廊下はくねくね蛇のように曲がり、真っ直ぐ歩きたいがために鬱陶しくなる。潮風の臭いに鼻を敏感にさせている時だった、
「ふえーん」
分かりやすい泣き声が曲がり角から聞こえてくる。十秒もしないうちに、青髪の少年が角から姿を現した。
「何だよ、迷子か?」
「あ、コナーさん......」
犬なみの嗅覚なら、ラシュレイが居る場所に辿り着くのも容易だろうに。彼について行けば、デッキに出られるだろうか。
「サイン色紙持っていませんか? グラントリーさんにサインを頂きたくて......」
「ああ、そういや有名人が船に乗ってるって言ってたな」
さっき廊下ですれ違ったバレットとエズラが、興奮気味に話していたのだ。
「さあ、売ってないのか? 船の売店に」
「無かったです......」
「まあ、そんなこと想定されてるわけないよな。もしくは売り切れたか......とにかく、紙なら何でも良いんだろ。お前、メモ用紙とか無いの?」
言っておきながら、メモ用紙に書かれるサインは、いくら世界的大スターのものとは言え安っぽいものになりそうだな、とコナーは思うのだった。
しかし、スカイラは「あっ」と閃いた様子でポケットに手を突っ込む。
「ラシュレイさんの写真の裏に書いてもらえば良いんですね!!」
「一応本人に許可取れよ。多分却下されるだろうから」
「え? グラントリーさんにですか?」
「ラシュレイにだよ」
何とか代替品を見つけたスカイラは、満足したらしい。デッキに向かうというので、コナーはそれについていった。
「コナーさんは、クルージング楽しみにしてましたか? 僕はとっっても楽しみにしていましたよ! 楽しみで夜も眠れなかったんですから!!」
「そうか」
コナーは腕時計をチラリと見た。出港時間まで残り僅かである。
「ラシュレイさんと五日間もお隣さんになれるなんて......うふふ、何だか一緒に住んでるみたいでドキドキします!!」
「そうか」
デッキに出た二人は階段を上り始めた。ブオーッと腹の震えるような音がした。
「あ、そうだ!! あの映画監督さんにもサインを貰っておきましょう......!! どのラシュレイさんの写真にしようかなあ......」
「そのポケットから何枚出てくるんだよ」
スカイラはポケットから次々と写真を取り出して、真剣に吟味している。階段なので一点だけ見ていると足元が危なっかしいが、特に問題なく階段を上り終えた。本会場のデッキに出られたらしい。
「よし、決めました!! この寝顔ラシュレイさんにします!」
「はいはい」
階段の先は人混みだった。シャンパンを配られ、摘みのクラッカーが渡される。スカイラはサイダーを手に、ラシュレイの元に向かった。コナーも暇なのでついて行ってみる。
すると、
「んなあああ!!」
ラシュレイは誰かと居るようだった。それは、今回グラントリーと共に船に乗っているという、映画監督の男である。コナーは名前を知らないが、何だか随分距離が近いのが気になる。
「ちょっと、僕のラシュレイさんですよ!!!」
そんな二人の間にグイグイ入り込んで、スカイラは監督を睨んだ。
「仲睦まじく、何を話していたんですかラシュレイさん!!」
「いや、別に......普通の話だけど」
「いいえ、あの距離は何か秘密の話をしていたに違いないです!! 僕の勘は誤魔化せませんよ!! セドリックさん、僕のラシュレイさんと喋るには、僕の許可が必要なんですよ!!」
「すみません、そうとは知らずに......」
と、セドリック。突然現れた嵐のような男に、彼は興味深そうな目を向けている。
流石は映画監督、とコナーは彼の落ち着きぶりに頷く。スカイラの狂人的な部分を見て引かないところは、様々なキャラクターを生み出し、操る彼の職業柄を想起させる。
「それでは、私はこれで。船も出ましたから、次は映画でも観ます」
セドリックはそう言って、奥に居るグラントリーの方へ向かっていく。
「むう......あれっ、いつの間に船出ちゃったんですか!?」
スカイラがハッとして見た時には、船体が港から離れていた。
「今さっき」
「汽笛が鳴っただろ」
「ラ、ラシュレイさんと一緒に港の人に手を振って、ハネムーンを演出するつもりだったのに......」
ガックリとその場に崩れるスカイラ。ラシュレイはそれを呆れて見下ろしていたが、それと同時に、その手に握られた己の写真に戦慄しているようにコナーには思えた。
*****
「ハリエット・ローランズに恋を?」
ラシュレイは、視線をセドリックから外して、グラントリーを見た。潮風に吹かれる栗色の髪は、赤い夕日にキラキラと輝いている。
遠目から彼を見ていた研究員たちは、頬を赤らめて、彼に何とか近づく口実を考えているようだ。
「ええ。そこから、彼の演劇の道は決まりましたから。私が彼を映画に出す度に、彼は祖母似の凄まじい演技力を見せてきましてね。どの演技にもハリエットの面影があるんです。彼が意識しているんでしょうねえ」
セドリックは愛おしいものでも見るような目で、グラントリーを見つめていた。
「彼は最近まで、ハリエットが自分の祖母だという事実を知らなかったんですよ」
「苗字が同じなのに、ですか」
「彼が恋したのは『碧と女王』の女王様ですからね。名前分かりますか? グレイス・チェンバレンです。グラントリーは、グレイスに恋をしたのですよ。祖母であり、架空の女王であるグレイスに」
グレイス・チェンバレン(Grace Chamberlain)。確かに、そんな名前だった。劇中で何度も主人公が名前を呼ぶのだ。
「あの映画は彼女が一人で作り上げたと言っても過言ではありません。キャスティングを担当したのも私の祖父でしたが、彼は女優界にグレイスに相応しい人間が出てくるのを、何年も待ち続けていたと言っていました」
「ハリエットさんの何処が、映画監督の心を掴んだんです?」
「全てですよ。所作も美しさも、その声だって。生き様にすら惚れ惚れしたと言います。ハリエットは過酷な幼少期を過ごしていましてね。父からの虐待、母との夜逃げ、散々だったそうです」
まるで自分みたいだ、とラシュレイは話を聞きながら思った。
「特に幼い頃は、父からの暴力のせいで体に傷が絶えなかったようで。頬に常に大きな痣があったと言っていました」
ラシュレイは目を丸くして、自分の頬を撫でた。セドリックが顔を覗き込んでいる。
「何だか、貴方みたいですよね。もちろん、そこに居るのは超常現象だと分かっていますが......」
「そうですね......」
幼い頃、何度も頬を殴られた経験はある。驚くべきことに、当時その湿布の下は超常現象ではなく、本物の痣だった。まるで、ハリエットと同じ人生を歩んでいるようである。
「ラシュレイさんは、ハリエットの生まれ変わりかもしれませんね」
セドリックはフェンスに頭をもたげて、此方を見てくる。ラシュレイは「はあ」と曖昧な返事をしたが、何となく変な気持ちになった。
生まれ変わってからも虐待を受ける人生が宿命のように感じる。自分が誰に生まれ変わっても、同じような人生をぐるぐると回る。
ハリエットの生まれ変わりという言葉は、ラシュレイの中でじっと消えずに浮かんでいた。
泡立つ水面を見ていると、グラントリーの方から黄色い歓声が聞こえた。気づけば、研究員たちに囲まれている。いつどこに行っても、あれでは休まれないだろうな、とラシュレイは目を細めた。
「明日、彼の誕生日なんですよ」
セドリックの声が後ろから聞こえた。
「船の人達が誕生日パーティーを計画してくださっているそうで。明日の晩餐会は、彼の誕生日パーティーも並行して行って頂きたいと考えているんです」
グラントリーは研究員たちに笑みを投げている。疲れているように見えない。いや、見せていない。彼は俳優なのだ。いくらでも自分を作り出せる。
「会場が今回のクルージングで良かったんですか」
ラシュレイはセドリックに目を戻した。彼はシャンパンを飲み干したところだった。
「研究員はグラントリーさんのことを知っていても、グラントリーさんからしたら知り合いではないですし......誕生日を祝われるなら、見知った顔の方々の方が良いんじゃないんですか」
「知っている人間が居る方が疲れると言っていましたからねえ」
セドリックが笑い、海を眺める。空が燃えるように赤い。
「それに、今回はある計画があるんですよ」
「計画?」
「はい。デッキ付近のガラスケースはご覧になりましたか?」
「いえ......」
「おや、じゃあ是非帰り際に見てくださいね。女王のドレスを飾っているんです」
彼の口から出てくる「女王」とは、きっとハリエットが演じた『碧と女王』の女王・グレイスのことだろう。
「グラントリーが、あのドレスを使って映画を作ってくれと言っていましてね」
「映画?」
ええ、とセドリックは頷く。ウエイトレスが通ったので、シャンパンをおかわりした。ラシュレイも何か飲むかと尋ねられたが、首を横に振った。
「最近、新しい技術がどんどん入ってきて......最新技術を詰め込めば、ハリエットが蘇るんじゃないかと思って、試みているところなんです。ドレスをCGで動かして、そこにハリエットの映像をはめて......まあ、なかなか上手くいかないので困っているんですけれどね。グラントリーも、中途半端なものでは喜んでくれませんので」
身内のために映画を作る試みをしているようだが、上手くいかないようである。映像とは言え、亡くなった人間を蘇らすことは難しいようだ。
「今回のクルージングだって、強制休暇のはずなのに、その件で全く休んでくれなくて。今夜はドレスの皺についての会議が開かれる予定なんです。全く。私も暇じゃないんですがね」
グラントリーは苦笑して、今度はシャンパンを一気に喉に流し込んだ。よく飲むな、とラシュレイはその飲みっぷりを見守る。
「俳優さんの貴重な休みを、映画製作に費やすとなると、休暇を取らせた意味がないですね」
そう言えば、初めてグラントリーとエントランスの階段ですれ違った時も、彼は急いでいた。きっとバレットたちとずっと喋っているセドリックに痺れを切らしたのだ。早く映画製作に取り組みたいと考えていたのだろう。
貴重な休みを、彼は祖母復活の儀式に使っているのである。
「ええ、本当に。何か他の方法で諦めてくれるんじゃないかなと思って、我々は彼のために色々と用意したわけですよ」
セドリックの目はデッキの奥に再度向けられた。そこには、女性研究員が差し出してくる無数のサイン帳に次々とサインをし、握手をしている俳優の姿があった。列は長く、徐々に太くなっている。
「誕生日ですからね。取っておきのサプライズを計画しているんですよ」
*****
「えへへえ、ラシュレイさんと映画を観られるなんて......今日は映画デート記念日ですねっ」
デッキでのパーティーが終わり、船内に戻ると皆散り散りになった。時間を潰せるような施設はたっぷりある。パーティーで腹が膨れなかった者は、船内にある各レストランやバーに吸い込まれるように消えていった。
そのような場所が苦手な研究員は、部屋でも食べ物を注文出来るシステムがあるので、自室に戻って行く。コナーは後者だった。恐らく、例の論文の解読作業を進めるつもりなのだろう。
ラシュレイはと言うと、これから始まるという映画の上映会のために、映画館に向かっていた。右腕にはコアラの如く引っ付いてくる助手のスカイラが居る。
「ラシュレイさん、お腹は空いてませんか!? 僕と一緒に後でレストランでお食事でも......」
「いや、自分の部屋でとるから」
「じゃあ、僕も一緒にお部屋で......!!」
「一人で食べたいから」
「遠慮せず!!」
それにしても良く喋る。デッキでセドリックと話していたのが、よほど気に入らなかったらしい。確かに、自分にしては長く喋った方だろう。ほとんど口を開いていたのはセドリックの方なのだが。
母に話す土産話としては良い思い出になったな、と思っていると、廊下の終わりが見えてきた。映画館の看板が見える。
「あっ、あれですかね!?」
「みたいだな」
ケルシーが作ってくれたパンフレットを読まずとも、船内には等間隔に案内版があるので深刻な迷子にはならないだろう。だが、それでも広い。デッキから歩いて十五分近くかかった。
「映画、観る人どれくらい居るんでしょうね?」
「さあ」
扉を開くと、受付になっていた。愛想の良い女性のスタッフが、飲み物と食べ物を勧めてくる。二人で飲み物を買い、スカイラは追加でホットドッグを注文した。すると、写真の倍ありそうな大きいものが用意され始めた。横を見ると、受付に両手をかけてホットドッグを見つめている助手が居る。あの量に驚いたのは自分だけらしかった。
「食えるのか?」
「はいっ! 半分いります?」
「いや、いらない」
映画を終えたあとで、自室で何かを注文しようと考えていたのだ。
さて、とラシュレイはカウンターに置かれた座席表に目を下ろす。青と白の箱が並んでおり、青が予約済み、白が空席のようだ。ほとんどが青く塗りつぶされているのを見ると、もう残りも少ないらしい。後方の端に数席空きがあるくらいである。
「うわあ、ほとんど埋まっているんですね。ギリギリセーフでしたね!」
空いている席に座ることを決め、商品を受け取って会場に入った。まだ僅かに明かりが保たれており、ものを食べる音や、囁く声が聞こえてくる。薄暗いのもあってよく分からなかったが、ラシュレイは席に座るほとんどが見慣れない顔に思えた。
もしかしたら、これはセドリックの映画製作チームの人間のための上映会なのかもしれない。さっきの話を聞いていると、皆グラントリーのためにハリエットを復活させた映画を作ろうとしているのである。
ラシュレイは、果たして自分たちが此処に居ても良いのか不安になった。が、後ろに行くと何人か知っている顔がある。
「あ、アドニス」
スカイラも気づいたようだ。後方の真ん中という、一番見やすい席を陣取っているのは、カーラの助手であるアドニス・エルガー(Adonis Elgar)。その隣にはカーラの姿もあり、彼女の方はラシュレイに気がついたようだ。小さく手を振っている。
ラシュレイたちの席の近くには、バドとジェイスも座っていた。バドは背の高さと灯りを考慮して、後ろの目立たない位置に腰を下ろしている。
「おっ、ラシュレイとスカイラ。席この辺?」
ジェイスが前屈みになって、ラシュレイたちが座る席の背もたれに身体をのし上げる。
「はい。この辺りしか空いていなくて」
「俺らもだよ。前方は映画製作の関係者っぽいな。でもまあ、バドの身長もあるし、後ろが空いてるのは好都合だったね」
ラシュレイは席に腰を下ろした。比較的通路に近い場所だ。スカイラを内側にし、ラシュレイは通路側に座った。ラシュレイの隣にひとつ席が空いているが、此処は既に埋まっていたはずだ。予約席だろうか。
「いやー、パーティーの後に映画とか贅沢だな。しかも、撮影場所で見るなんてさ」
「お孫さんも一緒に乗っているんですもんね。何だか未だに信じられません」
後ろから降ってくる会話を聞きながら、ラシュレイは飲み物のストローに口をつける。スカイラも隣でホットドッグを頬張っている。
「ん!! これ、マスタードが効いてて最高です!! ラシュレイさんも、一口いかがです?」
「いらない」
「ええっ! この、ソーセージの部分だけでも! はい、あーん」
「いらない」
ラシュレイがスカイラから顔を背けた時だった。
「お隣、よろしいですか?」
周りがどよめいたのは無理もない。ラシュレイの隣にやって来たのは、グラントリーだったのだ。
「......どうぞ」
まさか、座るなとは言えない。ラシュレイは頷くしかなかった。グラントリーは「ありがとうございます」と微笑んで、ラシュレイの隣に腰を下ろした。
ふわりと上品な香りが漂ってくる。世界的スターから放たれる香りである。ラシュレイはこれから二時間、この香りの中で映画に集中できるだろうか、と不安になった。
「わあ、ラシュレイさん、羨ましいです!」
スカイラが口周りをマスタードで汚している。ラシュレイがナプキンを差し出すと、当たり前のように拭いてもらおうとしたので、その口にナプキンを押し付けた。
「自分で拭け」
「ええー! せっかくの映画館デートなんですよ!」
突然、照明が落とされた。いよいよ映画が始まるらしい。ラシュレイは黙って前に向き直る。スカイラもまたそうした。
それにしても、とラシュレイはチラリと隣を見た。
グラントリーは、本来ならば映画製作チームが居る前方に座るものではないだろうか。予約してあったということは、意図的にこの席に座る予定だったのだろう。通路の端という、真正面では無い席である。本来ならばアドニスやカーラが座るような席が最も見やすいはずだが。
グラントリーは、暗闇の中で自分の胸ポケットから何かを取り出した。メモ帳らしい。ペンもついている。それを開いて、彼はメモ帳にペンを走らせ始めた。既にページは残り少なく、開いたページも図で埋まっていた。
そう言えば、彼は休みを蹴ってまで祖母の研究に勤しんでいるのだ。まさか、映画館でメモまでする程とは。
真っ暗だった部屋が、やがてゆっくりと白んでくる。波の音がすぐそこで聞こえる。家で見るのとはまた違う。そして、隣に主演の孫が居る映画鑑賞は、ラシュレイの中で忘れられない思い出になった。