File083 〜或る魔性〜 1
色褪せたエンドロールの中でも、彼女の名前だけは異彩の輝きを放っている。きっと、誰が見てもそう見えるに違いない。
薄暗い部屋の中で、じっと壁に映るそれを見ていた男は、手の中のメモ帳に目を落とした。もう残り少ない。ほとんどのページが文字と人の構図、服のデザインで埋められていた。一回視聴するごとに一冊の半分は消えるのである。
男はそれを何度も読み返し、眉を顰める。そして納得できない様子で首を横に振り、テーブルの上に放置されたリモコンを手に取った。ボタンを押すと「最初から再生しますか?」というメッセージが画面に表示された。男は慣れた様子でボタンを押した。
部屋が真っ暗になる。スピーカーから壮大な音楽が流れ出す。波の音がする。ギイ、と何かが軋む音がする。音の嵐の中で、男はメモ帳のページを素早く新しくした。
画面がやがて白んでくる。夜が明けるように、その映画は始まった。
*****
「はいはいはいはいはーい!!!」
会議室に、マイクを通して元気な女性の声が響き渡る。声の正体は、ケルシー・クレッグ(Kelsey Clegg)。会議の司会進行を終えた夫の手からマイクをもぎ取って、彼女は撤退を始めようとする研究員たちを呼び止めた。
「皆さんに嬉しいご報告です!!」
「お、なんだなんだ」
バレットが頬をついてニヤニヤ笑う。彼女が妊娠していることは、時々通院のために休む日があることからも研究員たちは理解している。お腹もだいぶ膨らんできた。名前を夫と考える彼女の姿は、よく見られてきたのだ。名前でも決まったのだろうか、と各々頭に子供の顔を浮かべる。
「なんと、なんと、な〜んと!!」
ケルシーは皆の顔を見回す。今にも踊り出しそうな彼女の隣で、夫のビクターは驚くほど無表情である。
ケルシーは、大袈裟に思えるほど息を吸い込んだ。そして、マイクを通さずとも聞こえる声で、次のような発表をした。
「B.F.研究員で、超大型クルーズ船の貸切イベントを開催しちゃいまーす!!」
「えっ、まじで!?」
「クルーズ!?」
「クルーズだって!!」
会議室の中は一気に賑やかになった。隣に座る者と顔を合わせ、抱き合い、飛び跳ねている。その祭り騒ぎ状態に、廊下で先輩を待っていた助手たちが不思議そうな顔を見せている。扉から漏れた情報は廊下にも伝わり始めたらしい。喜びの輪は見えない場所まで広がった。
「クルーズって......豪華客船ってことだよな!!?」
「すげえ!! 何日、何日!?」
「四泊五日の長旅です!! みんなでずーっと海の上!! 数ヶ月地球を回るような超豪華客船だから、五日居たって遊び足りないよ!!」
ケルシーがマイクを通して言うと、会場は更に沸いた。
「何で急にそんなことになったんです?」
キエラが頬を紅潮させて問う。
「実は、私たちが前に担当した外部調査......フレンチレストランがあるんだけど、そこのオーナーさんが超常現象が消えたお礼をしたいんだって! 何でも、噂を聞いて前よりたっくさんお客さんが来てくれたって言うの」
「ああ、あの時の超巨大厨房の」
バレットはその外部調査に加わっていた。パントリーが巨人用の巨大な厨房になっていて、巨人に料理を提供することで空間から出られたのだ。その際、その現象が出たレストランは休業していた。三人のシェフがその異空間から出られなくなっていたのだ。
「そうそう! それでね、オーナーさんが何かお礼をしたいって考えてくれて......そこのオーナーさん、クルーズ船の所有者さんとお友達なんだって! それで、この企画を提案してくれたんだ!」
ケルシーが腰に手を当てて胸を張る。喜べ、と体全体で表現している。
「全員か?」
コナーが問う。
「全員です!! 研究員、全員!」
ケルシーが大きく頷いた。
再び会場が湧き上がった。
「クルーズ......!! 僕経験ないです!! 楽しみですね!!」
キエラが隣のラシュレイを見た。アホ毛がぴょいんぴょいん様々な方向に伸びたり縮んだりしていて、彼の心境を表していた。
「......うん」
研究員全員。ラシュレイは会議室の扉を見た。隙間からギラギラと覗く青い瞳と、目が合ったような気がした。
*****
「ぐふふふ、ラシュレイさんと五日も一緒に寝起き出来るなんて......最高のハネムーンになりそうですね!!」
「ハの字も言ってないけどな」
ラシュレイは隣のスカイラにため息をつく。やはり会議室内で感じたあの強い視線は、スカイラ本人だったようだ。
最近は会議室前で待ち伏せされるようになり、仕方なく一緒にオフィスまで戻ることが多くなった。
会議室内の大騒ぎは、扉を突き抜けて廊下まで響いていたらしい。今日のうちに職員全員が知ることになるだろう。
スカイラは当然、ラシュレイと一緒に行くことになるこの船旅を楽しみにしていた。
ラシュレイも、楽しみにはしている。問題はこの助手であった。彼から逃げられない海上で、五日も共に生活しなければならないのは、なかなかの精神力が必要だ。
「船......私乗ったことないです」
そう呟くのは、隣を歩く後輩のカーラ・コフィ(Carla Coffey)。その隣は彼女の助手のアドニス・エルガー(Adonis Elgar)が歩いている。
「船酔いしないと良いですけど......」
「豪華客船なんだからするわけねえだろ」
「そうかな......」
ラシュレイは頭にビルのような船を思い浮かべる。豪華客船と聞いても、見たことがないのでその大きさは分からない。
カーラの心配にも一理あるが、会議室で周りの話を聞いていると、アドニスの言葉は正しいようだ。そのような大きな船は揺れも少ないので、快適に過ごせると聞いている。
寧ろ問題はそっちよりも_____、
「ハネムーン......ぐふふふ」
本当に何も無ければ良いのだが。
ラシュレイは二度目のため息をつくのだった。
*****
詳細を各日曜会議で話され、クルーズを控えた最後の週になった。ケルシーが徹夜して作ったという「旅のしおり」を受け取ると、いよいよ皆のワクワクも高まってくる。
「絶対に、ぜーったいに楽しい旅になるはずだから!!」
ケルシーは寝不足の目をギラギラさせて、鼻息荒く皆の顔を見回した。
「よく作ったねえ」
今日の隣はジェイス・クレイトン(Jace Clayton)だ。苦笑を浮かべて、しおりを捲っている。
「これ、五日どころか二週間分くらいあるんじゃない?」
企画している段階でよっぽど楽しかったのだろう。しおりは辞書のような分厚さである。一人一人がこれを持って船に乗るだけで、積載量がオーバーになりそうな重さだ。
開くと、船の細かな構図から、ケルシーが予定しているイベント、船で楽しめる場所の案内など、事細かな情報が載っている。
特に一番力を入れているのは、二日目に予定されているガラパーティー所謂晩餐会だ。ドレスコードが決められていて、腕利きのシェフが作ったフルコースを堪能することになっているという。
ラシュレイはこの日のために服を用意したが、突然購入したことで母には目を丸くされた。人生では車の次に高い買い物だった。母には値段に見合う思い出話を、沢山持って帰ってあげたいところである。
「じゃあ来週!! みんないーっぱい楽しんでね!!」
彼女の言葉によって湧き上がった拍手は、会議室内だけでなく、廊下からも聞こえてきた。いつの間にか、日曜会議は全員で出席するものになってしまっていたらしい。
*****
それを見た時、ラシュレイは今まで見たどの建造物も、これには勝らないと思った。もちろん、あれは乗り物だが、建造物と称しても違和感はなさそうである。
「でっっっっか......」
バレットがため息をつくようにそう言った。エズラもその隣で絶句している。
「これが、今回乗るクルーズ船ですかっ......!?」
「船っつーか......壁だろ、これ」
スカイラとアドニスが言う。
「セレブにでもなった気分ですね」
カーラも首をほとんど縦にして船を見上げている。これだけ大きなものを前にすると、彼女の身長も自分たちの身長も差がほとんどないような錯覚である。
ラシュレイは片腕にぶら下げていた鞄から、携帯電話を取り出した。少し後ろに下がって、カメラにそれを収めようとした。が、その大きすぎる船体は、いくら下がっても全体が画面に収まることはなかった。
取り敢えず、下がったことで何とか人との大きさの比較はできそうである。驚く皆の背中を含めて写真に収めた。続いて、メールアプリを開く。「彼」は一番上に居た。
ラシュレイは彼の名前をタップして、トーク画面を開く。そこに今撮った写真を貼り付けた。すぐに返事は来た。
『わあ、大きいですね』
元気の無さが字に現れている気がするのは、気のせいだろうか。
トーク相手はキエラだ。彼は風邪をひいて、数日前にこのクルージングを泣く泣くキャンセルしたのだった。楽しみに荷造りをしていた彼を考えると、ラシュレイは気の毒だった。
『安静にしろよ。お土産買っていくから』
『コーヒー豆が良いですー』
『探してみる』
「あーっ!!」
耳元で大声がして、ラシュレイは肩を竦めた。後ろからスカイラが肩越しに画面を覗いていたのだった。船体を撮るために後ろに下がった時、彼も一緒についてきたようだった。
「なんだよ」
「僕とはこんなに仲睦まじい感じじゃないのにー! どうしていつもコソコソ浮気しちゃうんです、ラシュレイさん!!」
「聞こえが悪いから止めろ」
チラチラと視線を感じる。港には目の前の船を見るために、研究員以外の人も訪れているのだ。事情を知っている同社の人間ならばまだしも、何も知らない者に今の言葉を聞かれては、どんな目で見られるか分からない。
「僕が代わりに返信しますよ!」
「何て打つつもりだ」
「僕らは今からラブラブクルージングをします! と!!」
「そんなことしたら速攻クビ」
「じゃあ、やりません!!」
ラシュレイから素直に離れたスカイラ。周りを見回すと、着々と人が集まってきた。と同時に、
「わ、わっ!! なんか伸びてきました!!」
スカイラが背中を叩いて前方を指さしたので、ラシュレイも其方を向く。人が渡るための橋のようだ。いよいよ乗船するのである。
ラシュレイは改めて船全体を見上げた。白と青、そして美しい赤色。黒い煙突は飾りかと思ったが、きちんと黒煙を吐いている。何処かレトロさを感じさせるデザインの船である。
「はーい、それではBlack Fileの研究員の皆さん!! 乗船するので此方に集まってくださーい!!」
ケルシーが手を挙げて叫んでいる。研究員たちはその声を合図に移動を始めた。ラシュレイはスカイラが片腕に抱きついた状態で歩き始める。引き離そうとしたが、何度もくっついて来る。苦戦していると、後ろからシャッター音が聞こえた。振り返ると、ジェイスが居る。彼は手に携帯電話を持っていた。
「いいねえ、仲睦まじくて」
「わ!! 今の写真、後で僕に送ってください、ジェイスさん!!!」
「良いよー」
「今すぐ消してください」
「だめー」
ジェイスは隣を歩くバド・バンクス(Bud Bankes)に写真を見せた。超長身で異形頭の彼は、港に居るだけで注目の的だ。彼も研究員なので、このクルージングに同行することになっている。
バドはジェイスに画面を見せられてクスクスと愉快そうに笑った。ガラスの中の炎が優しく揺れる。
「俺らも後で撮ろうよバド!」
「もちろんです」
「コナーもね!!」
「いいっすよ、俺は別に」
ラシュレイは前を向いた。後ろで夥しいシャッター音が聞こえるが、ジェイスがまたしても楽しんでいるらしい。
スカイラはより腕に強く抱きついてきた。此処まで来ると引き剥がす方に労力を用いそうだ。
ラシュレイは諦めて橋に向かう。
きっとジェイスは、撮った写真を何の渋りもなくスカイラに送るだろう。そして、その写真たちはスカイラのコレクションに入れられるに違いない。いつか見せられた、あの身の毛もよだつ自分まみれのコレクションである。
今回の船旅で、果たして彼が自分から離れる瞬間は一秒でもあるのだろうか。流石に五日間べったりしていれば、彼も飽きてくれるかもしれない。
船を降りる頃には、この右腕に血が通うくらいの開放感があれば良いのだが。
「このクルージングで、僕らの仲が一気に発展すると良いですね!! いや、させますっ!!!」
「発展しないし、むしろ後退してるから。離れて」
「やです!!」
*****
「おおっ......!」
港から景色は一点。そこは高級ホテルのエントランスのようだった。
一面の真っ赤な絨毯は、踏むのも躊躇うほど美しい。神殿の屋根を支えるような真っ白な石の柱は、見事な花の彫刻がされている。円形に一段くり抜いた団欒スペースのガラスのテーブルには、ウェルカムフルーツが皿いっぱいに盛られていた。
上は吹き抜けである。金色のシャンデリアの光と、優雅なクラシック音楽が降っていた。
目も耳も忙しい。研究員たちは銘々口から感嘆の息を漏らすか、言葉を失って顔だけが動くかのどちらかだ。
「これが、船......?」
「......ホテルだろ」
「いいや、城だ......俺ら貴族になったんだ!!」
乗船した研究員たちは最初こそ、その空気に圧倒されていたが、徐々に顔を輝かせ始めた。様々な超常現象を見てきた彼らである。順応力は人一倍だ。
「あとは各自部屋に行って、荷物がきちんと届いているか確認してくださーい!! 集合は明日の18時!! 大ホールでーす!!」
ケルシーがそう言うと、研究員たちはしおりを手にして散っていく。
ラシュレイもその波に乗ろうとしおりを開くが、重いので携帯電話に切りかえた。
ケルシーのしおりの不便さを見兼ねたビクターが、彼女のしおりの内容をデジタル化して全員に配ってくれたのである。こういう気配りができるところが、B.F.を引っ張っていく者には必要な要素なのだろう。
「ラシュレイさんのお部屋は、608号室ですよ!!」
部屋の確認をするために地図を開いたラシュレイの背中に、元気な声がかかる。言わずもがな助手のスカイラだ。
「僕とお隣さんです!! 五日間いっぱいお世話になりに行きますね!!」
「自分の部屋に居ろ」
しまったな、とラシュレイは唇を噛む。スカイラと部屋を離すという要望を、ケルシーに伝えるのを忘れていた。
このクルージングでは、よっぽどの事がない限り、ペアが同じ部屋で過ごすことになっている。ラシュレイはその「よっぽど」に入るので、部屋はスカイラと別になったのだが_____隣になるとは予想外だった。
「一緒にお部屋まで行きましょうよ!」
「分かったから離れろ。歩きづらい」
腕に抱きついてくるのを振りほどいて、ラシュレイは階段を上り始める。エレベーターも付いているが、最初くらいこの豪華な内装を目に焼き付けたい。
研究員たちの中には、既に部屋での荷物の確認を終えて、遊びに行っている者が居る。噂によればカジノもあるそうだ。その他にもプールや映画館、劇場など、海に浮かぶテーマパークのような娯楽の山である。
階段の踊り場にやって来たラシュレイは、今自分が辿ってきた道順を見てみようと足を止めた。踊り場は二手に分かれていて、どちらに行っても同じ階には行けるらしい。階段は、絶えず研究員が上ってきている。皆の顔は、シャンデリアの光と同じくらい眩しい光で溢れていた。
「すごい、絶景ですね!」
スカイラが手すりから身を乗り出す勢いで下階を見下ろした。階段を半分上がっただけだが、確かに上から見てもこの豪華さには目が眩む。何処を見ても光を放っているのだ。
「アド、待って......」
「おっせえな。早くしろよ」
後ろからカーラが追いついてきた。彼女の慎重すぎる性格ゆえ、両腕が荷物で塞がっている。必要な分の荷物は既に自室に送ってあるが、彼女はその意味が無いほどの大荷物だった。
ラシュレイが助けようかと彼女に足を向けると、それよりも先に動いた人物が居た。アドニスである。
彼は上りかけていた段から足を下ろすと、彼女の両腕から荷物をかっさらっていく。早速シャッター音が聞こえた。
「おおー、アドニス! かっこいいことしてんね」
ジェイスである。
「撮んないでくださいよ」
と、アドニス。カーラを振り返って、
「お前は何でこんなに大荷物なんだよ」
「えっと......足りないもの、あるかなって」
「あるわけないだろ。豪華客船だぞ」
「だ、だよね。ありがとう、アド」
また半分上り、そのまた半分上る。噂によれば十二階建てらしい。ラシュレイやスカイラが泊まる部屋は六階だ。
三階まで登ったところで、いよいよ息が乱れてきた。皆でまた踊り場の休憩を挟む。
「ひゃー、こりゃまじでお城だ」
ジェイスが手すりにもたれた。
「五日も居られるなんて贅沢だけど、これクルーズ船だろ? 本来は何ヶ月も乗って過ごすんだから、普段乗る人はよっぽどのお金持ちだよね」
たしかにな、とラシュレイは思う。気になって家にいるうちに調べたが、この船の場合、一回のクルージングの料金は、車が数台買えるレベルだった。これを無料で楽しめるのは、バレットたちが引き受けてくれた外部調査のおかげなのだ。
そういえば、彼らは何処に行ったのだろう。
ラシュレイは階下をもう一度眺めてみる。すると、彼らの姿をエントランスに見つけた。まだ上がってくる気配は無い。身重のケルシーに合わせて、皆でエレベーターで来るのだろうかと思ったが、誰かと喋っているようだ。
「あれって、この船のオーナーかな」
ジェイスも同じ場所を見ていたらしい。
バレットたちと喋っているのは、五人の男女だった。三人はまだ若く、しきりにバレットたちにペコペコ頭を下げている。おそらく、彼らがバレットたちが助けたというレストランのシェフだろう。
その横にいる男は、恐らくレストランのオーナー。今回このツアーを企画した張本人だ。
茶髪の巻き毛が清潔な長さに整えられ、気品あるレストランのオーナーということが遠目からも分かるくらい、所作が洗練されている。食べ物を愛し、愛される見た目は、顔に浮かぶ表情も相まって可愛らしさを覚える。優しそうなオーナーだった。
そして、その隣_____スラリとした背の高い男だ。ブラウンのジャケットを羽織り、右目にモノクルという、洒落た身なりである。ジェイスが言っているのは彼だろう。
「あの人......」
高いところから声が降ってきた。
「バド知ってるの!?」
「え、ええ。たしか、有名な映画監督さんです」
「映画監督?」
すると、アドニスが思い出したように言った。
「そういや、聞いたことあります。この船って昔、ある映画の撮影場所だったって。映画の公開からちょうど五十年経過したってことで、当時の監督の孫だかが新しく造り直したものらしいです」
「へえ、何ていう映画なの?」
カーラがアドニスを振り返った。
「もう五十年以上前の古い映画だけどな。『碧と女王』っていう......」
「あ、その映画か!! 俺見た事あるよ!! ハリエット・ローランズ主演のやつね!!」
ジェイスが興奮気味に話す。『碧と海』。ラシュレイは、少し前にテレビで放送されていた映画を思い出した。一ヶ月ほど前だろうか。母とリビングで並んで観たのだ。
豪華客船で身分差の恋に落ちる男女の話である。女の方は、世界的な女優と謳われるハリエット・ローランズ(Harriet Rowlands)。映画をほとんど知らないラシュレイでも、その名前は頭の片隅にあるくらいである。
既に亡くなった女優のようだが、「美の権化」とも称される彼女の美しさは、今でも映画界では話題に上がるそうだ。その美貌と見事な演技によって、「彼女が出演した映画は必ず不朽の名作になる」と言われているくらいだった。
カーラもラシュレイと同じ放送を見たようで、何だか落ち着かない様子で辺りを見回し始めた。
息を飲むほど綺麗な映画だった。その世界に自分たちが居るとなると、何だか映画に迷い込んだような気持ちになるのである。
「そういや、今流れているクラシックも、映画のサントラですね。それを意識してるんだと思いますよ。物の配置も、それっぽいですし」
「アドニス詳しいんだね。映画好きなの?」
と、スカイラ。まあ、とアドニスが頷く。
「ケルシーさんが作ってくださったパンフレットに、映画館の案内がありましたが......今日の夜にその映画の上映があるそうですよ」
「へえ、舞台になった場所で作品を楽しめるなんて贅沢だねー! 後で行ってみようか!!」
バドとジェイスが盛り上がる中、ラシュレイはじっとエントランスを見下ろしていた。映画の世界では、あのエントランスから物語が始まっていた。
幼い頃から港町で働いていた、身寄りのない少年。時々港にやって来る巨大な客船に心を奪われ、いつかあの客船に乗って世界一周をすることを夢見て懸命に働いていたのだ。ひょんなことから乗船のチャンスを手にした少年は、豪華客船へと転がり込む。世界一周とまでは行かないが、途中の港まで三泊四日の旅が始まった。
あのエントランスで、彼はかつて感じたことの無い恋心を燃やすのだ。
バレットたちもその話で盛り上がっているようだった。モノクルをかけた男が船のオーナーだとすれば、『碧と女王』の映画監督の孫ということだ。ケルシーがサイン色紙を差し出すと、彼はそれにサラサラとペンを走らせている。
「ラシュレイさん、僕らも後でサイン貰いに行きましょうよ!」
「良いけど......俺あんまり知らないからな」
映画に関しては知っているが、その映画監督の孫までは分からない。バドの話を聞く限り有名な映画監督らしいが、俳優や女優よりも表に出てこない彼らは、ますます分からない。
乱れた息も整って、次の階に向かおうとした時だった。
「ああっ、もう!! いつまで喋ってんだか......!」
素早く近づいてくる足音があった。それは上から降ってくる。階段をリズミカルに降りてきて、子供のように最後の二段を飛ばして踊り場に着くと、またリズミカルに下っていく。
「グラントリー・ローランズだ」
アドニスがボソリと呟いた。
「え? グラン......何?」
「グラントリー・ローランズです。ハリエット・ローランズの孫ですよ。今だと色んな業界に引っ張りだこの映画俳優です」
アドニスが珍しく頬を紅潮させている。
「祖母に肩を並べる名演技をするんです。若手ながら凄い俳優なんですよ」
「アド、本当に映画好きなんだね」
カーラが微笑んでいる。アドニスはそんな彼女を振り返った。
「この荷物置いて、すぐサイン貰いに行くぞ!!」
「えっ、あ、待って」
二人が階段を先に上っていく。ラシュレイたちも後に続いた。
上りながら様子を見ると、階段を転がるようにして降りていったグラントリーは、既にケルシーたちのもとに居た。息を切らし、あの映画監督という男に身振り手振り話をしている。
「有名な俳優さんかあ。なかなか凄いクルージングになりそうだねえ」
ジェイスが言うのを聞きながら、ラシュレイはサイン色紙をどこで買うべきか考えていた。自分は知らない俳優だが、母ならばきっと彼のことは知っているだろう。お土産のひとつが決まったのだ。
その時、ラシュレイは彼と目が合った。
柔らかな茶髪がワンテンポ遅れてふわりとついてくる。例の映画監督よりは背は低いが、祖母に似たのか遠目からも分かる美しい目鼻立ちをしていた。
「わ、こっち見てますよ! 手、振りましょ!」
スカイラがブンブンと手を振り始めたので、ラシュレイはすぐに止めさせた。もう一度見ると、例の俳優はまだ此方を見ていた。
「じゃあ、俺らはこの階だから」
ジェイスとバドが離れると、ラシュレイとスカイラが残される。
「僕らはもう少し上ですね!」
「そうだな」
既にほとんどの研究員が部屋から出てきたようだ。アドニスとカーラが小走りで通り過ぎるのを見て、ラシュレイは再び階段を上った。
*****
「お久しぶりです!」
エントランスホールの中央で握手する数人の男女が居る。エズラは目の前の懐かしい彼を見た。ウェーブがかかった栗色の髪と、柔和な笑み。
「皿洗いから昇格したか?」
「今は野菜をみじん切りにしてます!」
「そうか」
エズラと握手しているのは、例の巨大パントリー事件の際、唯一あの巨大な手に連れて行かれなかったシェフのジャミソン。
エズラは時々レストランに行ってはスイーツをたらふく食べるので、彼とはすっかり顔馴染みになっていた。
「その節はお世話になりました」
「いえ、こちらこそ。こんなに素晴らしいクルージングに招待していただいて......」
その隣で恭しい挨拶を交わすのはクレッグ夫婦と、レストランのオーナーであるナイジェルという男。大きなお腹が今にもスーツのボタンを飛ばしてしまいそうだ。
「ジャミソンたちが戻ってきて本当に良かった。無事に店も元通りです。いえ、前よりももっとお客様が来てくださって......本当にあなたたちのおかげですよ」
「そんなあ、私たちは何も」
ケルシーが笑って、ナイジェルと握手を交わす。
「ご紹介しますね。此方がセドリック・ローパー(Cedric Roper)です」
ナイジェルは隣のスラリとした男を見て言う。ケルシーの目はすぐに光った。
「映画監督さんですね? あの、前公開された映画、夫と観に行きました!! ストーリーといい、キャラクターの動きといい、素晴らしかったです!!」
「おや、嬉しい。あれは最新技術もふんだんに盛り込んだので、少し映像に粗があったろうと思っていましたが......そう言っていただけると頑張って作った甲斐があります」
「あの、サインを......!!」
「ええ、よろこんで」
ケルシーは鞄から色紙を取り出し、セドリックがそれにサインをする。
「この船、本当に持ってるんです? 今だ信じられなくて......」
そう問うのはバレットだ。「ええ」とセドリックはペンをキャップに嵌めながら微笑んだ。
「元々は映画の為だけに造られたものなんです。知ってます? 『碧と女王』。その映画で、当時の映画監督_____まあ、つまり私の祖父が、セットへの拘りが強い人でして......当時、その映画のセットの完成図を全て白紙にさせたくらいに気難しい人だったみたいなんです」
セドリックが苦笑いして続ける。
「地上で撮影するにも、船の僅かな揺れを表現するために本物の船で撮るのが良いと最終的に言い出したようで......映画の企画から完成まで二十五年かかったんですよ」
「二十五年ですかっ!!」
ケルシーは目を丸くしている。
「それは思い出深い船ですね」
「はい。映画を撮り終えてからは客船として海を渡っていたそうですが、老朽化も考えると解体せざるを得なくなって......私が何とか引き取って新しくさせたんです。船の図案は祖父の部屋にあったので、全て参考にして」
セドリックは愛おしげに船内を見回す。モノクルに反射する世界は、映画の中のようであった。
「セドリックさん、ちょっと!!」
その時、怒鳴り声が聞こえてきた。驚いて振り返る一同の先には、階段がある。
「うわっ、グラントリー・ローランズだっ」
バレットがギョッとした様子で声を上げる。グラントリー・ローランズ(Grantley Rowlands)。世界的に有名なスターであり、その祖母もまた名女優だ。
彼は柔らかな茶髪をかきあげて、上がった息でセドリックに詰め寄った。
「いつまでも喋ってないで!! いつになったら例の件を進めるんですっ!? そんなお喋りばっかしてるから、いっつもアーサーさんに怒られるんですよ!!」
グラントリーの弾丸のような言葉を、セドリックは涼しい顔で受け流している。ケルシーは口をパクパクしながらその光景を見ていた。前に観た映画での主役はまさに目の前の彼だったのだ。
「まあまあ、そうかっかしない。まずは自己紹介をしないと」
セドリックはそう言って、グラントリーの肩を持って反転させた。バレットたちの方を向かせたのだ。
「こちらは、グラントリー・ローランズ。今回のクルージングに同行します」
「ええっ!! 一緒に船の上で過ごせるんですか!?」
驚くのはケルシーたちだけでない。隣のシェフたちもである。セドリックは「ええ」と微笑んでいる。一方でグラントリーは、周りに居る者を一瞥して、それからは目を一度も合わせなかった。
セドリックは、次のように言ってバレットらと別れた。
「今回のクルージングは、この船のコンセプトに沿って映画の世界を楽しんでもらいたいと企画したのです。皆さんに楽しんでいただけるよう、我々も頑張りますので。これから五日間、よろしくお願い致しますね」