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Black File  作者: 葱鮪命
177/193

File081 〜遠くまで〜

「へー!! ベティ先生って結婚してるんですかっ!」

「悪かったわね。文句でもあんの?」

「いや、無いですけど......どんな人なんです? ご主人は」

「話してどうすんの」

「気になるんですよー」


 バーのテーブル席には四人の男女がついていた。金髪の美女を取り囲むようにして、彼らは出された酒を次々と飲んでいる。ツマミとして大量に注文したナッツの皿の底が、もう見え始めていた。


「良い男ってことだけ言っておくわ」

「きゃー! 素敵! やっぱり尻に敷いたんですか!?」

「はあ? 何その質問」

「だってベティ先生の旦那になるくらいの人は、ベティさん以上に気が強すぎるか、気が弱くても愛だけがすべてと思っている人くらいじゃないとできないですよ!」

「馬鹿にしてんの!? ねえ、先生!! 馬鹿にしてるわ、こいつ!」

「もう皆、お店で大きい声出さないの」


 ベティの隣は、シャーロット・ホワイトリー(Charlotte Whiteley)。穏やかに三人の会話に耳を傾けているだけで、積極的に会話に入ってくることはない。少し酒が入って眠たげだ。


 一方で、ベティを挟んで反対側に居る男女。ベティの診療所に務める看護師で、名前はそれぞれジャック・チャットウィン(Jack Chatwin)と、ニキータ・ワイマン(Nikita Wyman)。


 ベティは恩師であるシャーロットと、年に数回ゆっくり飲む時間を作っていた。といっても、シャーロットはあまり飲まず、ベティは彼女の隣でグビグビ飲むことで、看護師二人がベティをこのバーに迎えに来るということが常であった。

 シャーロットが、ベティを迎えに来る二人に「たまには一緒に飲みましょう」と誘ったのがきっかけだ。


 彼女が名医だったことを、ベティから再三聞いていた二人の看護師。この機会を逃すまいと、仕事のあれやこれを聞くためにこの飲み会に参加したのだが_____、


「アンタら! 先生に教えを乞おうだなんて厚かましいこと考えてんじゃないわよ!!」


 というベティの言葉によって、シャーロットとの間には壁が作られてしまった。


「先生はね、アタシに全てを注ぎ込んできたの! それをアタシが、時間をかけてアンタらに注ぎ込んであげるんだから良いじゃない!」


「でも、教え方はどうにかならないんですか? いつも怒鳴られたんじゃ、こっちもたまったもんじゃないです」


「そうそう。ジャックの言う通りですよ、ベティ先生。シャーロット大先生の方が、教え方は百倍上手。ベティ先生は大先生から全て教わったって今言いましたけれど、教わっていないこともあるみたいですよ。人を思いやる心です」


「それから優しい言葉遣い」


「表情もね。それと煙草を抑制する我慢強さ」


「自分の失態を人のせいにしない心の正直さ」


「あと......」


「そんなにあるわけないでしょ!」


 ベティはグラスを煽った。だん、とテーブルに置いて、看護師二人を睨みつける。


「ほんっと、アンタらと一緒に居たら堪忍袋の緒がいくつあっても足んないわっ! ねえ、先生っ!?」

「ベティはちょっとお酒を控えないと。肝臓を休めるのもお医者さんの大事な仕事のうちよ」

「......はい」


「うわあ! 猫被ってる!」

「シャーロット大先生!! ベティさんに猫を被らせるにはどうしたら良いんです!?」

「何てこと聞くのよ、アンタら!!」


 シャーロットはギャーギャー騒ぎ始めた三人を、柔らかな笑みで見つめる。そして時々視線を落として、ベティの指に光る銀色に、切ないものを見た。


 *****


「ふーん、亡くなってるんですか」


 ベティがトイレに立つと、二人の看護師はベティが座っていた位置に詰めて、シャーロットを二人占めにした。話はベティの夫についてだった。


「診察の時以外、指輪を外さないから凄くラブラブなんだろうなって思ってました」

 ニキータが言う。


「実際、仲は良かったわよ。大学生からずっと、長い恋人期間だったのよね」

「ええー! ベティさんとそんなに長く付き合える彼氏って......」

「忍耐力凄まじいですね。堅物だったとか?」

「あら、ジャック良い勘しているじゃない。そうなのよ、難攻不落な人だったの。ベティも当時苦労したのよ」


 ふーん、と二人はそれぞれの頭に、ベティの隣を歩く者の姿を思い浮かべた。男の方の気が強いか、弱すぎて反発できないかということではなく、ベティが気を引きたいがために必死になっていたらしい。


「何だか可愛い」

「思った、俺も。悔しいけど」


 二人が言うと、シャーロットが笑った。とろんとした目が、瞼に埋まっている。


「そうなの。彼もそういうところが大好きだったんでしょうね」


 シャーロットがそう言った時、


「ああー!!」


 ベティが戻ってきた。ドシンドシンという足音が近づいてきて、二人の看護師はシャーロットから引き離される。


「トイレに行ってる間に先生に近づいてんじゃないわよ! 医者の言うことが聞けない看護師なんて、アタシはいらないんだから!!」

「はいはい、分かってますよ鬼先生」

「今なんて言った!?」


 カウンターの向こうから、バーテンダーが酒のおかわりを勧めるが、シャーロットは首を横に振って断った。最後のナッツは、彼女の口に消えた。


 *****


「じゃあ、先生。また」


 外に出ると、看護師二人はタクシーを呼び、ベティもそうした。ジャックとニキータのタクシーが先に来て、ベティのタクシーはまだ来ない。


 シャーロットもまた、迎えの車を呼んでいた。近くに待機していたようで、それは看護師たちが消えるとすぐに姿を現した。


 シャーロットはそれに乗り込むと、窓を開いてベティと握手を交わす。


「今日はありがとうございました。ちゃんと休んでくださいね」

「ええ、ベティもね。ちゃんと休むのよ。たまには息抜きだって必要なんだから」

「先生だってそうですよ。アタシは大丈夫。あの子たちが居るし」


 ふふ、とシャーロットは笑った。何だかんだ、彼女が彼らを信頼しているのが言葉の端々から読み取れる。彼らが気がついていなくても、シャーロットは嬉しく思うのだった。


 ベティはシャーロットの手を握りながら、運転席に声をかけた。


「先生は大事なんだから。安全に連れて帰んなさいよ」

「ええ、もちろんです」


 あの悪戯っぽい親友に似た笑みが帰ってくる。溶けるような笑みが向けられても、ベティは彼を信用しきれていない。


「じゃあね、ベティ」

「はい、先生」


 手が離れる。車はゆっくりと動き出した。シャーロットが姿勢を直し、運転手に喋りかけるのが見えた。あの車の目的地は、エスペラントだ。


 ベティは車が見えなくなるまでその場で立っていたが、すぐに近くのベンチにゆっくりと腰を下ろした。携帯を開く気力もない。頭がぼんやりして、体が上手く動かない。ベンチにもたれると、次に襲ってくるのは眠気である。冷たい夜風は、今の体に全てちょうど良い心地良さをもたらしてくれるのだ。


 遠くの酒場から団体客が出て来た。此方に向かってくるが、足を止めて誰かが声をかけてきた。呂律が回っていないので、相手も相当の量のアルコールを体に入れてきたようだ。


 ベティは無視をかましていた。目を閉じていれば、大抵のことは過ぎていく。

 しかし、そうもいかないらしい。隣に誰かが座った気配を覚えて、嫌でも目を開けざるを得なくなった。顔が真っ赤になった男がニヤニヤと笑みを浮かべて腰を下ろしている。

 ベンチを囲んでいたのは、五、六人の男だ。皆同じくらい酔っていて、正常な判断ができるような人間は全く居ないようである。


 ベティは背中を起こし、周りの人間たちを見回した。


「何よ、酔った美女に何かしようってんの? お生憎様。アタシは既婚者よ」


 ベティはそう言って、顔の横に左手を持ってくる。男たちは目の色を変えた。ベティが望む方とは反対に。


「なるほど、そうよね。そういう変態も居るわね」


 ベティが呆れていると、すぐ後ろに車が停る音がした。男の中で誰かがタクシーを呼んでいたらしい。ベティは立ち上がったが、男の一人が手を掴んでくる。


「触るんじゃないわよ」


 もう一人の手は彼女の肩に伸びた。酔った女一人に対して、男が複数人。男たちは当然ながらベティを連れて行こうと考えているらしい。誰一人として止める者は居らず、ベティは小さくため息をついた。そして、腰を捻り、空いている方の手で目の前の男の右頬を思い切り引っぱたいた。見事な音が通りに響き、目の前の男が驚いて尻もちをつく。


「ばーか」


 ベティは男に言って、足早にタクシーに乗り込んだ。扉を閉めながら、運転手に早口で言う。


「ソークストリートまで行ってちょうだい。そこからナビはするから」


 運転手が頷くや否や、車は発進した。男たちを乗せる予定だったろうに、客は誰でも良いようだ。男たちは呆気に取られて、ベンチの前に立ち尽くしている。ベティはガラス越しにべーっと舌を出し、彼らが見えなくなってからクスクス可笑しそうに笑うのだった。


「あいつら、ナンパしてきたのよ」


 ベティは窓枠に頬杖をついた。バーの多い通りは、ネオンの海だ。何処もかしこも酔っ払い。今日連れてきた助手たちは、最初怯えていた。自分たちからついて行くと言ったくせに。彼らは楽しめたのだろうか。


 ベティは運転手が一言も返してこないことに気づいて、自分も酔っ払いだったと気づく。呂律が回っていないので、何を言っているのか聞き取れなかったようだ。もしくは、違う客が勝手に乗ってきたことに怒っているか。あの団体客を乗せた方が金にはなる。

 後でチップを沢山やろう。彼らが追いかけてくるより先に車を出してくれたのは、ありがたかった。


 男は面倒な生き物だ。特にあのような酒が入った状態だと。外に出てから、そう感じることが強くなった。

 ベティの頭には三人の男の顔が浮かんでいた。彼らは酒など飲まなかった。飲んでいる間もないくらいに忙しくしていたのだ。

 思えば、自分も彼処に居た時は一切アルコールを口にしなかった。怪我人で溢れていた日常だった。戻りたくて戻りたくない、幻の日常だった。


 *****


 ベティはハッと目を覚ました。眠っていたらしい。頬に窓枠の痕がくっきりとついている。ベティは指でそれをなぞりながら、周りの景色を見た。まだ指定の通りまでは来ていない。


 カーラは待っているだろうか。そう言えば、メールが来ていたような。心配性なので、帰りが遅くなるとメールで確認してくる。更には電話まで。


 携帯電話をポシェットから取り出した時、ベティの口から「えっ」と声が漏れた。メールボックスは空だ。電話も一本も来ていない。


 画面の上部に「圏外」の字がある。


 此処は都会のど真ん中に近いのだ。郊外に行ったって圏外はありえない。よっぽどの山奥ならば分からない話でもないが。


 ベティはもう一度外を見た。しかし、知らない通りだ。薬品を買い足しに街には頻繁に出るが、こんな通りを通ったような記憶は全く無い。家には、もっと簡単なルートで帰れるはずである。


 まさか、運転手の無駄な稼ぎに協力させられているのか。いくら乗せる客が減ったからと言って、そんな汚い手段を使うのか。


「ねえちょっと、勝手に乗ったのは悪かったけど、いくらなんでもこれは酷いんじゃない? チップならやるから、ソーク通りに行ってちょうだい」


 実際は、後半のセリフは頭の中だけで言ったことだ。言葉が風船のように萎んでいって、一言も口に出来なくなってしまったのである。


 運転手は真っ直ぐ前を向いていた。彼を知っている。鋭い目付き、軽く整えられた黒髪、皺。全て知っている。


「ブライス......」


 それはブライス・カドガン(Brice Cadogan)だった。或いは、彼に酷似した他人か。


 ベティは、自分の手をめいっぱい抓った。痛みを感じると、今度が目を擦った。夢なのか、酒の飲み過ぎか。目の前の男はまさしく自分の元恋人で、消えた旦那である。


「ブライスなの?」


 そんなこと有り得るのか。あの日、彼は生きていたのか。あの施設が大爆発したのは、彼がボタンを押したからだ。爆発の最も酷い所にいたはずなのに、生きてなんか居られるのか?


「ブライス」

「何だ」


 ああ、これは夢だ。酷く酔っている。こんな酔い方あるのか。こんな、残酷な酔い方。


「幽霊? アンタの大好きな超常現象になっちゃったの?」

「何を言ってるんだ」


 本当に何を言っているんだろう。よく似た他人ならば、可笑しいのは自分の方になってしまう。


 しかし、今彼は返事をしたのだ。名前を呼ばれたら返事をした。同姓同名なんてそんな奇跡を信じられるほど、ベティは彼らの研究に傾倒していなかった。ベティがB.F.で主に触れてきたのは、怪我人の方なのだ。


「ごめんなさい、酔ってるみたい」

「窓、開けるか」

「ううん、いいの」


 声が震えて、ベティは顔を覆った。嫌な夢だ。


「何処行ってたの、ずっと」

「何処にも行ってない」


 無愛想で感情のない喋り方。冷酷だと恐れられていた表情。何もかもが彼だった。だからこそ、残酷な夢なのだ。


「みんな元気?」


 質問が頭に思い浮かばない。超常現象に関する性質を、ベティはほとんど知らない。このブライスに「みんな」と言って伝わるのかどうか、全く分からない。


「ああ」


 まるでそう言うようにプログラミングされているロボットのようだった。もともとこういう無愛想さを持つ人間だから、尚更判断に困る。ベティは質問を変えた。


「私が帰らないとならない場所は分かってるのよね」

「ソーク通りの六番地だろ」

「......そう」


 事件から住所は変えたのだ。彼が今の家の住所を知るはずない。ならば、やはり、彼は彼では無いのだ。


 状況を整理しようと、ベティは外に目をやった。もし、これが本当に超常現象だとして、自分は生きて帰ることが出来るのだろうか。このまま知らない場所に連れて行かれたら、やっぱり死んでしまうのだろうか。


 家でカーラが待っているだろう。早く寝るように言って家を出ても、心配なのだろう、いつもソファーでうつらうつらしているのである。母親代わりの自分が死んだら、あの子は行く先が無いのだ。


 助手たちだって困るはずだ。診療所の患者たちだって。


 あっ、と声が出た。それは、街灯で寒々照らされた小さなカフェだった。大学時代の淡い思い出が蘇ってくる。


「覚えてる? 彼処。初めてのデートは彼処だったわよね」


 運転手は一言も喋らない。ムッとして、ベティは彼を睨みつける。運転に集中しているのだろうか。返事のひとつでもしたら良いのに。照れ隠しだとしても嫌な態度である。そういう人なのだ。


「じゃあ、質問ね。アタシが彼処で初めて頼んだやつを答えてみて」

「ブラックコーヒーだ」

「砂糖は何個入れたでしょう」


 ブライスの眉が寄った。少しの沈黙の後、彼は答えた。


「入れてない」


 ベティは笑った。正解である。砂糖無しのコーヒーはあの時初めて飲んだのだ。あまりに酷い顔をしていたらしく、ブライスが無言で砂糖の瓶を差し出してきたのが悔しくて、一気に飲み干したのは良い思い出だ。シャーロットに憧れて紅茶ばかり口にしていたのが裏目に出てしまった。


「あなたって、コーヒー好きだったわよね」

「まあ、そうだな」

「よく飲めるわね、あれ」

「集中力が上がる」

「そうかしら」


 あんな不味いもの、嫌でも気が散って仕方がない。今でもベティの相棒は紅茶だ。シャーロットが定期的に美味しい紅茶を送ってくれるのである。

 あっちでも好き勝手やっていると、彼女はよく笑っている。その笑顔を見ると、ベティも安心だった。敵地に居ようが、シャーロットはシャーロットなのだ。


「仕事は順調なのか」


 珍しく彼の方から問いが飛んできた。ベティは「ええ」と頷く。


「あなたが送り込んできた看護師、良い仕事するのよ。軽口叩くから、気に入らないけど。それを除けば良い助手だと思う」

「そうか」

「先生もたまに様子を見に来てくれるの。アタシの事、いつまで子供だと思ってるんだか」


 彼女の中で、自分はいつまでも少女らしい。初めてシャーロットに会ったのは、まだ何も知らない少女時代である。将来へ続く光の道を敷いてくれた、たった一人の大切な恩師だ。


 彼女に憧れて大学に入った。そこで死にものぐるいで勉強している時に、邪魔が入ったのだ。その邪魔が、目の前の彼らだった。


 研究室の匂いを思い出す。皆の話し声が蘇る。沢山喧嘩をして、沢山ものを考えて、唸って、笑って、泣いた場所。


「みんなに会いたい」


 ぽつりと口から出てきた彼女の言葉に、ブライスは鏡越しに此方を見た。ベティは外を見ていたのでそれには気づかない。街灯の光は、彼女の頬に反射した。


 *****


 少し長いドライブの後、ブライスはきちんと家の前にベティを運んできてくれた。扉が開いても、ベティはシートから腰を浮かせることが出来ない。


 通りは静かだ。車は一台も走っていない。


 ブライスは此方を振り向いていた。金を請求してくる気配もない。超常現象が金を強請る図は面白いが、そんなことで笑っていられるような心の静けさを、今は持ち合わせていない。


「着いたぞ」


 痺れを切らしたのか、彼がそう言ってきた。ベティは彼を見た。


「お金は?」

「いらん」

「タクシーなんでしょ」


 ブライスは首を横に振った。


「降りたくない」


 子供のように言って、ベティはシートに座り直した。


 降りたら二度と会えないのだ。幽霊でも、目の前の彼は生きていた頃の彼そのままだ。超常現象の、こういうところが残酷だ。


「降りないと、大変なことになる」

「どうなるの?」

「聞かん方が良い。早く降りろ」


 ブライスが急かしたので、ベティは腰を浮かした。


「また会えるんでしょうね」

「近いうちに」

「あなたも冗談言えるのね」


 ベティは苦笑して、タクシーから降りた。降りながら、今日はあれを聞いていなかったと思い出す。


「ねえ、ブライス」


 ベティが振り返ると、そこには何も無かった。ひび割れたコンクリートが、唖然とする彼女の涙をひとつ飲み込んだだけである。


 *****


 カーラは物音がして、目を覚ました。玄関の方からである。ベティが帰ってきたようだ。


 ソファーから降りて、早足で玄関へ向かう。すると、玄関の椅子にベティが座っているのが見えた。椅子の背もたれに腕を乗せて、すやすやと眠っている。


「ベティさん、おかえりなさい」


 軽く肩を揺すると、頭が軽く持ち上がった。


「子猫ちゃん......起きてたの」

「此処だと風邪を引いてしまいますよ」

「もう少ししたら動くわね......」


 彼女はそう言って、また腕に顔を隠してしまう。鼻をすする音がしたところで、カーラは気がついた。彼女は泣いているのだ。


「何かありましたか?」


 カーラは彼女の背中を撫でる。


「大丈夫......」


 元気の無い大丈夫である。こんなに落ち込んでいるベティを、カーラは見た事がない。飲み会で何か嫌なことがあったのだろうか。今日は助手である看護師の二人も連れて行くという話をしていたが。


「子猫ちゃん」

「はい」


 小さな声である。聞き逃さないように、カーラはベティの頭に顔を近づける。


「ママとパパに会えなくて寂しい?」


 カーラは驚いて彼女を見た。ベティの口から出るには、ストレートすぎる問いである。酔っているのだろう。酒を飲まないカーラには、酔った時の感覚が分からない。


「寂しいけれど、ベティさんが居るから大丈夫です」


 カーラはベティの背中を撫で続けた。


 酒というのは、人間の本性を露わにすると聞いたことがある。投げられた問いは、ベティが普段は心の底に隠しているものなのかもしれない。そう思うと、カーラは適当に流すことはできなかった。


「私たち、本当に血が繋がっていたら良かったのにね。私は子猫ちゃんのお母さんの代わりになれているのかしら」


 ベティの声が震えている。ぽたぽた、腕の隙間から彼女のズボンに雫が垂れている。


「子猫ちゃんが娘で、お父さんもきちんと居て」


 カーラは背中に撫でていた手を、彼女の体にきちんと回した。


「みんな幸せな家族になれたら良かったのにね」


 ぴたりと、頭に頬をつけた。柔らかな髪から、ほんの少しだけ煙草の香りがする。そして、香水の香り。カーラはこの数年で、この匂いが大好きになった。


「パジャマに着替えて、もう寝ましょう」


 まるで少女のようだと思った。酒が本性を表すものならば、それはベティを少女に戻してしまうものである。沢山の感情を知った、あの時の少女の姿に。


 *****


 次の日、ジェイスが欠伸をしながらB.F.に向かうと、エントランスの前に既に客の姿があった。B.F.で客と言えば、それは大抵の場合、依頼者を指す。


「ごめんなさい、受付は九時半からなんですよー」


 ジェイスがその背中に声をかけた時、彼女は振り返った。


「あれっ」


 ジェイスの目が丸くなる。そこに立っていたのはベティだったのである。


「何してんですか」

「タクシーの超常現象ってある?」


 問いに問いで返されたが、ジェイスはすぐにピンと来た。


「ありますよ、この前の日曜会議で話題になりましたからね。実験も数回済んでるはずですけど......遭遇したんですね?」

「そうよ。何て名前の超常現象になったの?」


 ジェイスは、素直に驚いていた。此処までベティが超常現象に興味を持つことが珍しいのだ。B.F.の創設者の一人でありながら、彼女はいつだって超常現象にほとんど見向きもしなかった。


「死神タクシーですかね」

「変な名前」


 ベティが顔を顰めたので、ジェイスは笑った。


「運転手が既に亡くなった人という特徴があるんですよ。死者が愛おしいのでタクシーから降りたくなくて、そのまま連れて行かれる人がほとんどなんです。大抵、その運転手として現れる人は、乗り手が未練のある人物の姿をしているらしくて......」


「ふーん」


 自分で聞いておいて、あまり興味は無さそうである。ジェイスは首を軽く傾げながら、彼女の運転手は誰だったのだろう、と考えるのだった。下手をすれば彼女も連れていかれた可能性があるのに、驚く素振りも見せない。


「もし気になるなら、もう少しお話しますけれど......」


 むしろ自分が話を聞きたいくらいだ。遭遇したほとんどの人間が戻ってこない超常現象は、こうして無事に戻ってきた人間の話が非常に貴重なものとなる。


 ジェイスがポケットからマスターキーを取り出すと、ベティは首を横に振った。


「良いの。ちょっと寄っただけだし。診療所も開けないと」

「そうですか......」


 ジェイスは鍵をそのまま扉にさす。今日は彼が鍵当番らしい。中で大きな影が動く気配がした。彼の助手であるバド・バンクス(Bud Bankes)だ。


「じゃあ、私は行くから」


 ベティは路上に停めてある自分の車に向かう。ジェイスは「お気をつけて」と彼女に手を振った。


「あ、そうだ」


 車の扉に手をかけた彼女が、思い出した様子で振り返る。


「死神タクシーなんて名前はダメだと思うわよ。センスが無い」


 ジェイスのきょとんとした顔に、ベティは続けて言葉を投げた。


「名付けるなら......そうね、幸福な悪酔いなんてどうかしら」


 扉が閉まって、エンジンがかかる。そのまま彼女は走り去っていった。


「幸福な悪酔い」


 ぽつりと呟くと、


「不思議な言葉の組み合わせですね」


 バドが扉の奥から言った。話を聞いていたらしい。


「うん......何だか切ない名前だね」

「ええ、そうですね」


 二人の研究員はエントランスに入っていく。今日も一日が始まるのだ。

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